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川柳的逍遥 人の世の一家言
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この鼻がいけなかったと思います  河村啓子


  噴煙の大坂城

「講和への流れ」

真田丸は大阪城の本丸から凡そ1km以上離れ、谷を隔てた崖の上にある。

そこに幸村は長宗我部盛親の兵とあわせ5千の兵を置き敵軍を待ち受けた。

慶長19年12月2日、布陣を終えた徳川軍も驚いたことだろう。

そして厄介に感じたかもしれない。

大阪城からずいぶん離れた場所にポツンとある巨大な砦。

そのまま大阪城へ攻め寄せれば、そこから不意をつかれる恐れがある。

無視して攻めるには真田丸は、存在感がありすぎる不思議な出城だった。

家康には最初から難攻不落である大阪城を力攻めする気はなく、

包囲して心理的圧力を加えるつもりだった。

クレームに居直るペテン師の笑い  中川隆充

そのため、攻撃命令を下さずにいたのだが、

功を焦った加賀の前田利常の軍勢が崖上の真田丸に近づいた。

利常はかの前田利家の4男であるが、まだ20歳でこれが初陣だった。

しかも2万人の兵を引き連れての参戦である。

「焦るな」、というほうが無理な話ともいえよう。

幸村は引き付けるだけ引きつけ、一斉射撃を命じた。

前田隊は銃撃を浴び、立ち往生する中で引くことも進むこともできぬ

状態に
陥り退却は命じたが、うまくいかず損害は数千人に達したという。

利常とて無闇な攻撃をしてはならないことは百も承知だったが、

兵を自在に動かすには実戦経験が不足していた。

「考える人」考えていないかも  鈴木岳文

先陣をきった前田隊の報につられ、

井伊直孝松平忠直の軍勢も八丁目口・谷町口に攻撃を仕掛ける。

この時、城内で火薬庫が爆発を起こす。

徳川軍の諸将はこれは内応によるものと思い込み、好機とばかりに接近した。

そして真田隊以外の豊臣軍も迫り来る徳川軍をつるべ撃ちした。

前線部隊が敗退したと知るや、徳川秀忠は焦り、苛立ち、総攻撃を考える。

セロテープごときに爪を立てている  森田律子

しかし、百戦錬磨の家康は「敵を侮るな、戦わずに勝つことを考えよ」

と秀忠を叱り押さえた。

時節は真冬でもあり、一旦は戦いを終わらせる必要がある。

それならば少しでも有利な条件で和睦に持ち込むほうがいい。

家康はそう考えた。

そして取った戦法は、四方八方からの「砲撃」である。

オランダなどから買い付けた徳川自慢の大砲17門が火を噴き、

大阪城を襲ったのである。

返信用封筒に貼る鬼薊  笠嶋恵美子

毎晩3度にわたって鬨の声を挙げながら、大阪城へ向け鉄砲を撃ちかけた。

20万近い兵の鬨の声はすさまじかった。

大阪城内の将兵は、いつ敵が攻めて来るか分からないプレッシャーに加え

雑音のため夜の睡眠を妨げられた。

水堀の際まで来ての砲撃は城内まで届き、豊臣軍将兵を焦らせたいった。

そして本丸へ放たれた一発の砲弾が御殿に命中して壁が崩れ、

淀君の侍女8名が死亡するという被害を出した。

怯えきった淀君は、たまらず和議に応じる態度をみせる。

そして16日になって、豊臣方は和議の申し入れをおこなった。

それを待っていた家康は、砲撃は続けつつ、城外での交渉に移る。

冬の陣開戦から14日目のことであった。

右肩はもうなびいてるいくじなし  三村一子

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板ガラスの中の気泡が見た歴史  竹内いそこ


大阪城の塀の際まで大砲を運び、砲撃を加える徳川軍

家康は当時の最新兵器である大砲約300門を用意。
当時の大砲の弾丸は、炸裂弾ではなく、鉄球を飛ばすだけであったが、
壁に命中して響き渡る轟音は城に籠る豊臣方を精神的に揺さぶる
威嚇効果を十分に発揮した。

「オランダ人が見た大阪の陣」

徳川方が豊臣家を滅ぼし、日本史の転換点となった大阪の陣前後の様子を

オランダ人が書き残した文書がオランダ(ハーグ国立文書館)で確認された。

書き残したのはオランダ商務員・ワウテレスで大坂城落城直後、大坂など

で大名の家臣や商人などから聞き取った情報を基にまとめたとみられる。

大阪夏の陣後の9月24日付けでワウテレスが記した会議録では、

オランダ東インド会社の総督が決戦前、家康に武器を贈呈したことを記述。

<現インドネシアで自分の船から二台の大砲を降ろし、日本に送るように

命じて<陛下(家康)が喜んでくれることを望んでいた>という。

戦争のあと味がするとろろ飯  真鍋心平太


 ファルコネット砲

15年10月28日付けの平戸商館の会議録でも家康や側近との関係を

話題にし、<良好な状況をより改善し、維持するために…中略…

贈り物の献上を次の通りに行なうことが決定され、承認された>と書く。

家康に大砲や火薬、散弾、側近の本多正純「金属製ファルコネット砲」

を贈るとしている。

豊臣方は家康軍以外に、オランダをも敵にまわしてしていたことになる。

リスクとは弾にあたって死ぬことだ  千葉昌秋

冬の陣後の15年1月29日付けの書簡で、ワウテレスは、

<豊臣秀頼の命の下に1万5千軒の家(東横堀川の西側)が全焼させられ、

 四方に大砲の射程よりも広い空き地ができた>

と豊臣方が敵の侵攻を防ぐために焦土作戦を展開した経緯を記している。

さらに秀頼が堺を焼き打ちするとの根強い噂があり、…中略…

堺の人々がそれをとても恐れていた>と堺の民衆に広がる不安を報告。 

実際に4ヶ月後、堺の町は焼けている。

あっぱれな負けとみっともない勝ちと  丸山芳夫


   ワウテレスの書簡

夏の陣が近づくとワウテレスは、平戸の商館長宛ての書簡(15年5月1日)

間もなく戦争が起きることを報告。

<真田左衛門(幸村)殿」「後藤又兵衛殿」「長宗我部クニエノスケ殿(盛親)

など
豊臣方の勇将の名を挙げ、<彼らを大阪城から退去させるよう求める>

家康と秀頼の対立を伝え、<火事や損害の心配>があるため、

京へ自らも早目に避難すると記している。

生き抜く温度 死なない温度大切に  墨作二郎

大阪の陣終結後の15年6月11日付け書簡では、

<皇帝(家康)、その息子および全軍は秀頼の城を攻囲するために

6月2日に大阪へ出発し、同月3日に到着した。

秀頼の数人の大名が赦免を得られると考え、皇帝に寝返るために城に火を

つけたが、逃げる前に秀頼によってその場で(石垣から)落とされて死んだ>

と書き、

<秀頼と他の大名たちは切腹し…兵士やその他の者約1万人が死んだ>

とも綴っている。


当時、城内で裏切り者が出たことは徳川家の正史「徳川実紀」にも

記されて
いるが、制裁で石垣から突き落とされた経緯を示す文献はない。

ゆっくりと記憶の錆をかき落とす  嶋沢喜八郎

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腹の中へ太鼓は海鳴りを誘う  立蔵信子


  真田丸の決戦

慶長19年11月、秀頼率いる豊臣方と家康を総大将とする徳川方が
ついに
全面対決の時を迎えた。大坂冬の陣である。九度山を脱出し大
阪城入りを
した幸村は、対徳川の最前線ともいえる大阪城南東の惣構
外側に、出城を
築いて敵と対峙した。



「真田丸の戦い」 

「真田丸」は大阪城の本丸から距離にしてい1km程離れた崖の上にある。

大阪城からずいぶん離れた場所にポツンとある巨大な砦。

まっしぐらに大阪城へ攻め寄せれば、

そこから出てきて背後を突いてくるやもしれない。

無視して攻め寄せるには「真田丸」は、存在感がある不思議な出城だった。

家康には最初から、難攻不落である大阪城を力攻めする気はなく、

包囲して心理的圧力を加えるつもりだった。

そのため、攻撃命令を下さずにいたのだが、丑刻(午前2時頃)

功を焦った加賀藩主・前田利常の軍勢が崖上の真田丸に近づいた。

奥の手は勝負所を読んでいる  北川ヤギエ

利常はかの前田利家の4男であるが、まだ20歳でこれが初陣。

しかも2万人を連れてきている。

焦るな という方が無理な話ともいえよう。

幸村は引き付けるだけ引き付け、一斉射撃を命じた。

かっての「上田合戦」と、まったく同じ戦法である。

前田隊は銃撃を浴び、立ち往生する中で退くことも進むこともできぬ

状態に
陥り多くの死傷者を出した。

利常とて無闇な攻撃をしてはならないことは、百も承知だったが、

兵を自在に動かすには実戦経験が不足していた。

先鋒の将らが命令もなしに攻撃したことに驚き、

怒るとともに退却を命じたがうまくいかず、損害は数千人に達した。

空気にも四角三角丸もあり  沢越建

(拡大してご覧ください)

真田丸は東西数百m、北の大阪城とは大きな谷で隔てられ、14・5mの
堀を隔てて2つのく曲輪に分かれていた。高低差を生かし防御性を保って
おり、幸村は築城家としても優れた才能を持っていた。

前田隊につられ井伊直孝、松平忠直の軍勢も八丁目口、

谷町口に攻撃を仕掛ける。

この時、城内で火薬庫が爆発を起こす。

徳川軍諸将はこれを内応によるものと思い込み、好機とばかりに接近した。

すると柵と柵の間に火花が走り、次々轟音が鳴り響いて砂埃が巻き上がる。

近くに来ていた敵兵が爆風で吹き飛ばされた。
                ほうろくだま
埋設してあった火薬詰めの焙烙玉が連続して爆発していたのである。
れんせいしんてんらい
「連星震天雷」、幸村がそう名付け地中に仕込んだ秘策のひとつだった。

この好機に幸村は自ら愛駒を駆り、馬出から敵の追撃を開始する。

これこそが父の真田昌幸が2度にわたって上田城で徳川勢を打ち破った

時と同じく、籠城に見せかけた出戦の真骨頂であった。

体で覚えたことだけは身についた  小林すみえ

真田の騎馬隊は進路で立ち往生する敵を倒し、

それに続く足軽隊が止めをさして首級を奪う。

一方的に敵を追撃し、真田丸の周囲はすでに草刈場の様相を呈した。

幸村の秘計が全て当り、勝鬨が瞬く間に南の惣構え一帯へ伝播していく。

不利に陥った徳川勢は退却にかかるが、後続に道を阻まれ難航し、

その日の午後になってようやく退却を終えた。

しかし緒戦が圧勝で終わったにも関わらず、戦の流れはすぐに変わった。

脳天を打ちのめされた実力差  長坂眞行


冬の陣で指揮をとる秀忠

前線部隊が敗退したと知るや、秀忠は焦り苛立ち、総攻撃を検討し始める。

しかし、百戦錬磨の家康はそれを止め、

「敵を侮るな、戦わずに勝つことを考えよ」と叱りつけた。

時節は真冬であり、一旦は戦いを終わらせる必要がある。

それならば少しでも有利な条件で和睦に持ち込むほうがいい。

家康はそう考えた。

そして取った戦法は、四方八方からの砲撃である。

英国製のカルバリン砲4門、セーカー砲1門、オランダ製の大砲12門

含む徳川軍自慢の新兵器が火を噴き、大阪城を襲ったのである。


ぼうふらのくの字浮いたり沈んだり  大内朝子

毎晩3度にわたって鬨の声を挙げながら大阪城へ向け鉄砲を撃ちかけた。

20万人近い兵の鬨の声はすさまじかった。

大阪城内の将兵は、いつ敵が攻めて来るか分からないプレッシャーに加え、

雑音のため夜の睡眠を妨げられた。

水塀の際まで来ての砲撃は、城内まで届き豊臣軍将兵を焦らせていった。

そして本丸へ放たれた一発の砲弾が御殿に命中して壁が崩れ、

淀君の侍女8名が死亡するという被害を出した。

怯えきった淀君は、たまらず和議に応じる態度を見せる。

家康は砲撃を加えながらも幾度となく和議を持ちかけており、

豊臣方も16日になって和議の申し入れを行なった。

丘ですか谷ですかがんぐりおん  酒井かがり



「地雷をふんだんに使った幸村」

講談『難波戦記』には、「平野の地雷火」という逸話が載る。

幸村が前日に、家康を平野におびき出して「地雷火」で爆殺しようと計画。

そして平野郷の出入り口にあった地蔵堂に地雷を仕掛けておいた。

まもなく、家康一行が通りかかったが、その時に家康が尿意を催して、

その場を離れた刹那に爆発が起こる。

家康は難を逃れ、幸村の策は惜しくも不発に終わるという筋書き。

一言も喋らないのが効いている  岡内知香

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約束を破ったままの蛇の目傘  奥山晴生 



「苦労の人・お初」

は浅井三姉妹の次女。姉は秀吉の側室・茶々と、妹は徳川秀忠正室の

浅井長政と信長の妹・お市という美男・美女の間に生まれた三人は、

親の血を素直に引き継ぐ絶世の美女姉妹といわれる。

初が歴史の表舞台の登場するのは夫・京極高次の死後、

出家して
常高院となってからである。

三姉妹が十数年ぶりに再会を果たすのは、三人の最後の対面となる

江の娘・千姫豊臣秀頼に嫁ぐ時で、これを取り持ったのが常高院だった。

わたくしを女優にさせる枯れ葉です  立蔵信子

冬の陣直前、豊臣と徳川との溝が深まる中で、常高院は懊悩していた。

淀と江の絆をつなぐのは、「自分しかいない・・・」 

常高院は、その一心で女の身でありながら、

徳川・豊臣両家の和睦の使者となるべく、両家の間を懸命に奔走した。

その努力も報われず、慶長19年(1614)大坂冬の陣が勃発すると、

常高院は豊臣方の使者となり、織田有楽斎と共に和睦交渉に臨んだ。
                     あちゃのつぼね
徳川方からの使者は、家康の側室、阿茶局本田正純である。

これにより、日本史上まれな女性同士の使者による和議となり、

講和条件も合意し、ひとときの和平が成立した。

八起き目の朝こそえくぼたしかめる  桑原すゞ代

こうして和睦がなり、大阪城の堀は埋められることとなった。

ところが、和平から4ヶ月後、いまだ大阪城内にいた浪人たちの一部が、

堀や塀の復旧にかかり、乱暴や狼藉を働きはじめたのである。

それどころか城内では再び戦争するか否か、議論が湧き起こっていた。

こうした問題に腹をたてた家康に追いつめられて進退窮まったは、

ふたたび常高院を使者として、家康に詫びを入れるが、家康は聞かず、

次は常高院を家康の使者として、許すための条件を申し渡したのである。

徳川、豊臣と使い走りを一手に受けていた常高院をわき目に見ながら、

生き残りと逃げ足の早さに定評のある有楽斎は出奔してしまい、

一人で常高院は、両家の再戦を最後まで回避させようと努めた。

しかしそれも徒労に終わり、夏の陣が始まってしまうのである。

まだ修羅を踏ませるつもりですか 神  安土里恵

戦が始ると大坂城にいた常高院は、大坂方の侍女たちを引き連れて脱出。

そんな常高院を心配して、家康は迎えの者をつかわし、

常高院に付き従っていた者たちはみな、咎められることもなかった。

家康がいかに常高院のことを気遣い、認めていたかが分かる。

この後、常高院は京極家の江戸屋敷に住み、三姉妹の中で最も長生きしたが、

晩年は継子の京極忠高とその正室で江の四女・初姫の不仲に

悩まされるなど、苦悩が絶えない人生を送りつづけ、

寛永10年(1633)没、63年の生涯を閉じた。

描きおえて画家は昇天するつもり  筒井祥文



「逃げの織田有楽斎(如庵)」 

本名は織田長益。通称・源五郎。

43歳の時、剃髪して有楽斎と号しクリスチャンであった彼はポルトガル人に

多い名からジョアン(如庵)と称した。

武人であり、利休に学んだ茶人としても有名。

信長とは13歳年の離れた弟で、浅井三姉妹の茶々・初・江の叔父にあたる。

信長が本能寺で倒れるまでは、信長の長男・織田信忠の旗下にあり、

各地の戦線に帯同してきたが本能寺の変では、二条御所で自害して

果てた甥の信忠を見捨て、逃亡したことで、次のように歌で叩かれ、

一躍、
世間に知られる人になる。

"織田の源吾 (有楽斎)は 人ではないよ お腹召せ召せ召させておいて

 我は安土へ飛び帰る ♪

向き合っているのにこころ分らない  早泉早人

関ヶ原の戦いでは、東軍について石田三成軍の猛将を討ち取る活躍をし

大和3万石を与えられる徳川方大名であったが、織田兄弟の4番目の

織田信包が大阪城で病死すると、兄弟の中で一番冴えなかった有楽斎が

唯一の織田の生き残りとして、大阪城に入り、淀、秀頼の後見人を務め、

又、一家言を持つ存在として、城内を
取り仕切りはじめるのである。

冬の陣の最中は、姪の淀を補佐しながら穏健派の立場をとり、

徳川方との講和交渉に尽力した。

が、徳川との絆は解けておらず、
内実は徳川家に通じ

豊臣家の情報を関東に流していたという噂がある。


嘘の味少し甘味がついてます  星井五郎


 有楽斎の木像(このおどけた表情をとくとくとごらんください)

まもなく再戦(大坂夏の陣)の機運が高まり出すと、有楽斎は家康秀忠

「誰も自分の下知を聞かず、もはや大坂城内にいても無意味」 と訴え、

夏の陣が勃発する直前、逃げるように大坂を離れ徳川家の許可を得て

京都正伝永源院を隠居所にして過ごした。

以後、茶道に専念し独自の茶風を確立すると有楽流を創始。

有楽斎は76歳で死去するが、織田・豊臣・徳川の時代を生き抜いた

世渡り
上手の血は子子孫孫に受け継がれ、小藩ながら明治維新まで続いた。

【余談】東京の有楽町の名は、この地に有楽斎の屋敷があったことに由来する。


ころあいは耳たぶほどのやわらかさ  山田紀代美

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控えめに生きておりますしつけ糸  新川弘子



「淀の方」 永禄12年(1569)~慶長20年(1615)

本名は茶々。妹に(常高院)(崇源院)がいる

織田信長の妹・お市浅井長政の三姉妹の長女である。
             ひろい
文禄2年(1593)(秀頼)を産んだ。

秀吉に正室・ねねや他の側室は豊臣秀吉の子を生んでいないため、

秀吉政権で「お世継ぎの母」となり、力を持つ。

秀吉から淀城を与えられたため茶々は「淀の方」と呼ばれるようになる。

慶長3年(1598)に秀吉が没すると、秀頼が天下人の地位を受け継ぐが、

秀頼はまだ6歳。

当初は秀吉の正室ねねとともに秀頼の後見に当たったが、

翌年ねねが身を退いて大阪城を退去して京へ移住したことで、

淀が豊臣政権のトップとなった。

答出たのね靴ひもを結ぶふり  森田律子

しかし、この女性主導ともいうべき豊臣政権は政治・軍事面で遅れをとり、

次第に豊臣家臣団の筆頭に過ぎなかったはずの徳川家康の台頭を許す。

豊臣家臣団の内部分裂で「関が原の戦い」が起きるが、

淀は秀頼の出馬を許さず、中立の立場をとった。

慶長19年(1614)「大阪の陣」が勃発する。

その頃には、大名で豊臣家に味方する者はなく、

大阪城へ馳せ参じたのは「関が原の戦い」で家を失った浪人衆のみだった。

嗄れた耳は明日を培養中  河村啓子

淀は自ら甲冑を着込み城内を歩いて閲兵、督戦を行なう。

「秀頼は乳飲み子なり、お袋専制なり」

と評されたように、秀頼には意見を言わせなかったとされる。

幸村たち浪人衆の意見を退けて籠城を決する、

秀頼を出陣させないなど、
淀の判断は消極策に終始した。

一方で秀頼への愛情を何より優先した。

大阪城のトップとして采配を振るうには、いかにも力不足といえた。

ガラパゴスへ帰りたがっている背中  新家完司

後世の人は「大阪の陣」の結果をよく知っている。

大阪方が和議に応じたから負けた、

秀頼が出なかったから負けた、

とその敗因をいくらでも分析することができる。

だがそれは過ぎたことだから言える事で一分先のことも読めないのが現実。

幸村が「さだめなき浮世、明日のことはどうなるかわからない」

手紙でも述べているように、豊臣軍の武将たちは、

「まだまだ勝機はある」
と信じて戦っていた者が多かったはずだ。

豊臣軍の諸将は諦めず、家康を倒すための一手を考えていた。

徳川軍は総大将の家康と息子の秀忠が最前線近くまで出てきている。

「もう」言うな水はしばらく止められん きゅういち


 秀頼出馬を願う幸村

しかし豊臣軍の大将・秀頼はといえば開戦から一度も城内から出ていない。

幸村は秀頼の出馬を何度も願ったが、

その度に淀や首脳陣に渋られ、
実現せずにいた。


秀頼本人も血気盛んな23歳、

前線へ出て采配を振るいたいとの思いは
あったようだ。

だが側近が、淀の気持ちを慮って、それを留めた。

もし秀頼がそれを振り切るほどの気概を持っていたら、

まだ勝敗の行方は分からなかっただろう。

カラフルな画鋲握り潰してる  岩根彰子

敢えて擁護するならば、淀は大阪の陣が始まって以降、

城内では、家康の調略による「秀頼暗殺」の報が飛い謀反の噂が絶えず、

常に疑心暗鬼に陥っていた。

そのために淀は「秀頼を一歩も外へ出さない」という選択をせざるを得ず、

側に置いて離さなかったという。

その状況を打開できるような、頼りになる譜代の家臣が少なかったことが、

豊臣家と淀にとっては、不幸であった。

「定め無き浮世にて候へ者、一日先は不知事候。
 我々事など浮世にあるは おぼしめし候まじく候」

木霊響く振り向かないと決めたのに  加納美津子

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