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川柳的逍遥 人の世の一家言
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後ろからいつも鳴ってる非常ベル  河村啓子


  幸村と後藤又兵衛

実戦経験が豊富な後藤又兵衛は、大阪城へ入った浪人衆のリーダー格で
あった。
大野治長が後藤又兵衛に幸村が敵に内通している恐れがあること
相談すると、又兵衛は一笑に付し、疑われる幸村に同情したという。


「大坂城で」

真田信繁は、九度山脱出の際、家康に反抗した父親の諱「幸」を名乗る

ことを
憚り兄が「信之」と改めたように40年馴染んだ「信」の字を捨て、

名を「幸村」と改め
「ここには戻らない」という覚悟を決め大坂に入った。

大坂へ行く以上は、勝つつもりでいたであろう。

豊臣家には、まだその可能性をわずかに残す財力と求心力があった。

豊臣はその財力を使い各地に散らば武士たちを集めた。

結果、大坂城には10万もの兵が集結した。

しかし集まった者は、浪人ばかりで大名の参陣は一家もなかった。

カサブタの下から覗く秋の色  藤井孝作

だが、万石を得ていた元大名はいた。
              あかしたけのり      ちょうそかべもりちか
毛利勝永、後藤基次、明石全登、中でも 長宗我部盛親は一国一城の主で、

土佐の旧臣は1千も集まり一番の主力と期待された。

浪人のなかで3人衆といわれたのが、

長宗我部盛親、毛利勝永、
それに幸村だった。

幸村は大名ではないが、
徳川軍を二度敗走させた昌幸の後継者と

目されたからである。


集まった浪人たちの有様を見て、幸村は愕然とした。

さらに評議に出てみると、豊臣家の重臣たちはろくに戦場に出たことのない

者たちばかりがもっともらしい意見を述べている。

持ち場さえも決定できず、浪人たちは勝手に布陣している始末。

鎖骨から錆びたナイフがヌッと出る  くんじろう

開戦にあたって軍議が開かれ、幸村は出撃策を進言する。

「東軍を近江の瀬田川あたりで迎え撃ち、冬の川を渡る敵に銃撃を浴びせて、

   足止めをする。その間に諸大名の中には寝返るものも出てくるだろう」

それは九度山において、晩年を迎えた父の昌幸が幸村に授けたとされる

戦略だった。


しかし大野治長を中心とする豊臣家の首脳陣は幸村の意見を不採用とし、

大阪城に籠城して敵を待ち受けるという消極策がとられることになった。

時系列に追う迷路の出口  山本早苗


大坂城と真田丸の位置

出撃策は退けられたが籠城と決まったからには、

そこで全力を尽くすほかない。


幸村は、「独自の戦いをするしかない」と割り切り、

総構えの外の南東に
真田丸」を構築した。

これだけ目立てば敵も主力を投入し、家康の本陣も近づく可能性が出てくる。

家康の首さえ取れば、大坂城の全兵が戦死しても勝利となる。

この時、大阪方には幸村に疑いの目を向けるものが多かった。

なぜなら徳川方に兄・信之がいるからである。

幸村がいつ徳川方に寝返るか、危惧する声も少なくなかった。

一方、幸村は「真田丸」見つめながら、開戦を心待ちにした。

丹田へ華厳の滝をお取り寄せ  岩根彰子

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簡単に指の匂いは消せませぬ  岡谷 樹


真田信繁をはじめとする浪人衆が集まった大坂城。
その城内には総大将・豊臣秀頼を支える人々がいた。

「豊臣を支えた人々」




「片桐且元」

浅井長政の家臣の家に生まれ、淀君大野治長とは旧知の仲だった。

若くして秀吉に仕えたが、前半生は際立った功績を立てていない。

所領も摂津茨木1万石に過ぎなかった。
                                   よしみ
秀吉の死後、自邸に家康を宿泊させたことを契機として誼を通じる。

「関が原の戦い」では、西軍につくが本戦には参加していないため、

家康の元へ娘を人質に出すだけで許され大和竜田2万4千石を与えられる。

彼は豊臣方の諸大名や官僚と親しく、大坂城内の事情にも通じているため、

家康の計らいで豊臣家の家老に任命された。以降、

大坂城内と家康との間を取り持つパイプ役として活躍、東奔西走した。


たくさんの把手がついている私  川田由紀子

しかし徳川と豊臣の関係が悪化すると、

双方それぞれに恩義のある且元の
立場は、微妙なものに追いやられていく。

方広寺の再建工事を総奉行として指揮していたために、

家康から抗議を受け、
その報告を大坂城に届ければ、

彼ら豊臣首脳陣に非難の声を浴びるという
板挟みの状況に陥った。
結果、

大坂城内で且元の暗殺計画が持ち上がるに及び、退去を余儀なくされる。


この一件は家康が契機「大坂の陣」を起こす口実となった。

以後、且元は徳川家の武将として大坂城を攻める側に回る。

陽のあたる方にやっぱり豆のつる  山本昌乃

大阪城の本丸が落城した時、

且元は秀頼らが蔵の中に潜んだであろうと悟り、
徳川家に報告している。

結果的に豊臣家滅亡に手を貸す側となった且元だが、

その心中は後悔に満ちていたようだ。

「夏の陣」の終戦から20日後の慶長20年(1615)5月28日、

京の屋敷で突然の死を遂げるのである。60歳であった。

なんとまあ刹那に生きてきたのだろう  清水すみれ



「大野治長」

丹後(京)の地侍の子として生まれる。

淀君の乳母を務めた大蔵卿局の実子で、淀とは同い年にして乳兄弟の間柄。

その関係で秀吉に重用され、1万石の大名となる。

「関が原の戦い」では家康暗殺計画に加わった疑いを持たれ、

止む無く東軍に味方し罪を許された。

その後、大坂城内の政務を主導する立場となり、

片桐且元の追放後はさらに権力を増大させた。

大坂の陣では戦いを避けて講和への道を模索したため、

弟の大野治房真田信繁ら抗議派と対立した。

大坂城落城に際し、千姫を城外へ出して徳川に秀頼助命を嘆願するが、

聞き入れられず秀頼と運命をともにする。

B面の舌がときどき 縺れだす  桑原伸吉



「大野治房」

生年不詳。大野治長の弟で母は同じく大蔵卿局

兄弟で秀吉・秀頼に仕えた。

兄と異なり、豊臣家の威信を重んじて徳川家には断じて屈せず、

決戦を主張する「主戦派」の代表格。

真田信繁毛利勝永らと連携し、「冬の陣」では船場方面に陣取り、

治長から撤退命令が出されるも無視して戦う。

「夏の陣」でも紀州攻略や樫井の戦い、岡山口など多くの戦いに参加。

豊臣譜代の将として意地を見せ、秀忠の本陣に奇襲して窮地に陥れた。

撤退後、本丸から秀頼の遺児・国松を連れて脱出したが、

徳川方に捕らわれて斬首された。

糸くずを取った背中が行ったきり  伊藤玲子

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その宴船着場まで連れてゆく  酒井かがり


信繁らが暮らした九度山の庵(イメージ)

「九度山脱出」

九度山で真田昌幸が死ぬ三ヶ月前の慶長16年(1611)3月28日、

家康は二条城で豊臣秀頼との会見に臨んだが、これは母親の淀や

大坂城首脳陣に拒否されており、ようやく実現にこぎつけた格好となった。

形式はどうあれ、この会見は家康の呼び出しに秀頼が応じたものであり、

豊臣が徳川に臣従したと視る者は多かっただろう。

そして、二条城会見から3年後、天下を揺るがす大事件が起きた。

世に名高い「方広寺鍾銘事件」である。

そのことに触れると手鏡が割れる  笠嶋恵美子

戦の口実を探していた家康は、「秀頼は駿府と江戸へ参勤させる」

「淀を江戸詰め(人質)とする」「秀頼は大坂城を出て他国に移る」

という3つの厳しい条件を提示した。

案の定、豊臣首脳陣は拒絶反応を示し、

そのうえ片桐且元を「徳川に内通している」として追放する。
         
家康は豊臣家による挑発と受け止め、宣戦布告を行なった。

こうして徳川と豊臣は手切れとなり、ついに「大坂の陣」が開幕する。

地球儀を反転 風は六角形  佐藤正昭


   浅野長晟

浅野長政の二男。幼少のころから豊臣秀吉に仕えたが、関が原後
徳川の家臣に。兄・幸長が嗣子なく死去したため、家督を継いで
紀州藩主となる。

大坂城内は俄かに慌ただしくなった。

慶長19年10月2日、豊臣家は秀吉が残した豊富な財力を活かして兵糧や

武器を買い入れ、つながりが深い大名や全国に潜む浪人たちに使者を送り、

兵を集め始める。

浪人衆はたちまち10万人近くまで膨れ上がった。

そして九度山の信繁のもとにも使者がきた。

支度金として黄金200枚、銀30貫(現在の価値で約9億円)で大坂城内へ

入ってくるよう頼まれたのである。

山中に果てる覚悟もしていた信繁には、願ってもない話だった。

早速、上田にいる父昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、兵を雇うと、

自らは大助らを引き連れ浅野長晟の監視下にある九度山脱出を試みた。

今日こそはと今日あたりとが逢うたので 雨森茂樹


九度山から大阪城へのルート

あらかじめ高野山中に目印をつけておき、これを目当てに脱出した。

先に家臣を出発させた後、高野山で談笑中に厠に立つふりをして脱出した。

周辺の庄屋を宴に誘い、酔いつぶして脱出した。

昌幸の法要と油断させ、その隙に乗じたなどの、逸話が残るが、

実際ところは不明である。


騙しや強行突破というのは、逸話の域を出ない。

おそらくは夜陰に乗じてといったところであろう。

信繁にとって幸いしたのは九度山が紀伊という国にあったことである。

天下が統一される前の紀伊には大きな大名はおらず、国人衆が割拠。
     ねごおろ さいか
なかでも根来、雑賀衆は権力者に従わず、

信長秀吉をさんざん苦しめた存在であった。

目を閉じてピリオドを打つ長い日々  三村一子

浅野氏が拠点を築いた和歌山は雑賀衆の本拠であった地で、

浅野氏は新たな秩序の下に年貢の強制収集などを行い、

国人衆たちからは反発を招いていた。

ということから監視を任されていた庄屋や豪農たちは、

信繁の脱出に目をつぶったという考え方が、正解ではないだろうか。

またそのあたりの経緯を信繁は読んでいたことだろう。

まさか浅野氏も黙認したとは思えないが、後を追っても険しい山中から

信繁一行を探すのは困難だったはずである。

鬼さんこちら誰も本気で探さない  下谷憲子

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倉庫から出す頑丈な雨の束  井上一筒



「九度山町の遠望」
九度山西方に位置する雨引き山の山道から九度山の市街を一望する。
写真中央、密集地の中ほどに真田庵がある。写真左は紀ノ川。

そらみみになるまで風を聴いている  清水すみれ



「真田庵」
昌幸屋敷跡に建てられた真言宗の寺院。寛保元年(1741)に大安上人が
堂宇に地蔵菩薩を安置したのが創建とされる。
本堂は八棟造りと呼ばれる城郭風の形状をしている。

あの時のあの三叉路に戻りたい  美馬りゅうこ



「真田昌幸の墓」
左の碑が昌幸の墓。周囲には信繁や家臣たちの供養碑も残る。

涙粒昇華せぬまま綴じる章  上田 仁



「真田古墳」
柵で囲まれた石組みの穴。遠く大坂城まで通じていて、
信繁はここを通って大坂城に馳せ参じたとの伝承が残る。
実際は、古墳時代に作られた横穴式石室。

糸が揺れて鳥になる魚になる  酒井かがり



「真田の井戸」
信繁の屋敷跡とされる場所に残る真田家ゆかりの井戸。

墓標など建てず穴だけ掘ってくれ  くんじろう



「慈尊院」
空海を訪ねてきた母が女人禁制の高野山に入れずここに滞在。
その死後、空海が建立したのが慈尊院。
信繁が将棋をさしにここを訪れたとの伝承も残る。

引き出しにあなたを開ける鍵がある  桑原伸吉



「丹生都比売神社本殿(にうつひめじんじゃ)
九度山から高野山の参詣の道にあり、参詣客の多くはここに立ち寄った。
蓮華定院の和尚に、この神社の祭礼に誘われた信繁が、
体調が悪くて断った手紙が残っている。



紀伊国一ノ宮で高野山との関係も深い丹生都比売神社には、
国宝の神宝や重要文化財指定の建造物が残っている。
写真の右から二番め丹生都比売神社本殿の軒下にある「象」の意匠。

アルファ波のカプセル貰う秋の夜  河村啓子



「善名称院」
真田昌幸・信繁が関が原の戦い後蟄居した屋敷跡に建てられた寺。
境内には昌幸の墓や真田宝物資料館がある。

不都合な過去などきいて下さるな  瀬川瑞紀



「蓮華定院」
昌幸・信繁が最初に蟄居した高野山の寺院。

六文銭が至るところに見られ、真田家墓所がある。

女郎花むかしの事は口にせず  新川弘子



「奥の院」
壇上伽藍とともに高野山の二大聖地。約2kmの参道には、織田信長や
武田信玄、豊臣家などの名だたる戦国武将の墓碑、供養碑が立ち並ぶ。

足して引くそして苦味を残さない  嶋沢喜八郎



「真田淵」
丹生川(にうがわ)との合流点近くに位置する紀ノ川の淵。
信繁が息子・大助とここで水練や馬の調練をしたと伝わる。

残念ながら今日はこんな日おろし金  森田律子



「真田紐」
太い木綿糸で平たく厚く編んだ組紐。
 チベットの山岳民族が家畜の獣毛を染め腰機を用い織った細幅織物が
仏教伝来と共に海路日本に入ってきたものが、停泊地の沖縄地方では、
ミンサー織りになり、本州では綿を草木で染め織った細幅織物となり
後の「真田紐」になったと言われている。
真田紐は真田打ともいい、ひらたく組み、または織った木綿の紐のこと。
九度山に蟄居していた昌幸・信繁父子とその家族が作製し、
生計を立ていたという俗説がある。

貫いた道とくるぶし自負してる  三村一子

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そこにいるあなたの声が聞こえない  河村啓子

(拡大してご覧下さい)
信繁が義兄・小山田茂誠とその息子の之知に宛てた手紙 (真田宝物館)

「信繁の家族への手紙」

「第二次上田合戦」で徳川軍相手に勝利を収めたものの、

父・昌幸とともに
高野山・九度山に蟄居の身となった信繁

以降、関が原合戦の際に徳川方についた兄・信之や姉の村松殿など、

信州上田の地の家族とは別の道を歩むことになるのだが、

それでも真田一族は心を通わせ続けていた。

関が原後、信之が家康に対して、父と弟の赦免を嘆願したのは有名な話。

一方の信繁も家族への想いを抱き続け、故郷に幾度も手紙を出している。

その中でも、信繁が認めた「人生最後の書状」が、

信之が江戸時代に治めた松代町の小山田家に伝来する。

ふるさとの波の話が尽きません  安井茂樹

慶長20年(1615)3月19日付けで「真田丸の戦い」で活躍した

「大坂冬の陣」「夏の陣」の間に書かれたものだ。
                    しげまさ        ゆきとも
宛先は信之の家臣である小山田茂誠とその息子の之知

茂誠は姉・村松殿の夫で、信繁にとっては義兄にあたる。

「遠路、御使者から手紙を預かりました。

   そちらは変わったことがないこと、
詳しく承りました。満足しています」


信繁は手紙の中で、このように上田の家族のことを気にかけつつ、

自身の近況も報告している。

「こちらも無事でおりますのでご安心ください。

   私たちの身の上は殿様(豊臣秀頼)の信頼も並大抵ではありませんが、

   色々気遣いが多く、一日一日と暮らしております。

   お目にかかっていないので詳しくお話しすることができませんが、

   なかなか書面でも詳しくは書けません。

   様子を使者からもお伝えいたします」


寂しさを味わい尽くすまで生きる  阪本こみち



書状が記された時期は、冬の陣終結から3ヶ月余りが経ち、

豊臣方の主戦派が再び戦闘準備を整え始めた頃だ。

そうした緊迫する情勢とともに、

秀頼から、ひとかたならぬ寵愛を受けていたことも窺える。 

背景には、
やはり冬の陣での真田丸における戦いぶりもあったことだろう。

この後、信繁は書状で

「当年中も静かであるならば、

   何とかしてお会いしてお話ししたいと存じます」


と家族への想いを吐露するとともに、

義兄に胸に秘めた悲壮な覚悟を伝えている。

うすくれないの詩です晩夏です  山口ろっぱ

「心ひかれることがたくさんありますが、定めなき浮世ですので

   一日先のことはわかりません。

   我々のことなどはこの世にあるとは思いなされますな」

恐らくは叶わないであろう再会を願いつつも、

自分のことは必要以上に気にかけないで欲しい。

そんな信繁の複雑な心境と家族への心配りが見てとれる。

同じく冬の陣後に信繁が村松殿に宛てたものでは、

「お会いしてお話ししたいものです」と記している。

筋書きは斜めで階段の途中  山本早苗

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