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生きてますとんがらし煮ています 河村啓子
江戸城
「時の流れは徳川に」
関が原の戦いの3年後、慶長8年(1603)家康は征夷大将軍に任命された。
これによって、名実ともに徳川氏による江戸幕府を開かれることになった。
秀吉が「関白」であったのに対して、家康は「征夷大将軍」の道を選んだ。
家康が選択したこの位は、武家にしてみれば伝統的な官職である。
しかも絶対的権威の象徴である。
家康の将軍職就任によって、豊臣秀頼との関係が微妙に変化した。
それまでは正月元旦の年賀のため、豊臣の家臣たちは,
大坂城の秀頼に年賀拝礼に登っていた。
それが新将軍誕生によって、大坂城に年賀の為に登城する大名の数が減り、
江戸城に登城する大名たちは以前よりも増えた。
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それでも大坂城には秀頼がおり、
大坂方では家康が将軍になったことにショックを覚えたが、
それでもまだ「天下の家老」という受け止め方をしていた。
「秀頼が成人した暁には、政権を返すはず」という思いがあった。
そうした思惑を完全に打ち砕いたのは、その2年後である。
家康が突然、将軍職を辞し子の秀忠が二代将軍になった。
これは「江戸幕府は徳川氏が世襲する。政権はもう秀頼には返さない」
という意思表示である。
「秀頼が成人すれば」あるいは「家康が死ねば」と考えていた大坂方は、
たとえようもないショックを受けた。
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武家の棟梁になる方向へと楫をきった家康は、上洛を繰り返した。
2年後に息子秀忠が将軍になると、その頻度はさらに高まる。
慶長4年3月から家康は、約半年間を伏見城に滞在し、
そして慶長5年から慶長11年までの6年間、大半を伏見で過ごした。
理由は、豊臣方への牽制以外の何物でもない。
将軍が家康から秀忠に替っても、豊臣方との緊迫関係は依然として続き、
また朝廷の動きも、家康としては気になるところがあった。
関ヶ原の戦い後の大名の編成変えを行っても、
裏で豊臣に気脈を通じた有力な諸大名が西国を固めていた。
これら外様の諸大名たちの静けさが家康には気になる。
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そうした静けさを潰すため、家康は城造りに手をかける。
西国の大名たちに余分な時間を与えないためである。
手始めに江戸城を天下普請とし、西国の大名たちに工事や作業を命じた。
東西七十余りの大名たちは、家康の命令で神田山の開削や入江の埋立て、
更に江戸城域拡張のための敷地確保などを行った。
埋立地には江戸の町の元となる町屋を集め、そこに商工業者が移された。
西国の29の大名たちは、石船で遠くから石材を江戸まで運搬した。
慶長3年に始った工事は、本丸や二の丸や三の丸を造り終え、
江戸城天守が完成したのは、慶長12年であった。
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これで全てが終わったわけではない。
将軍職を引退し駿府に居を移していた家康は、江戸城増築と同時進行で
駿府城やその城下町の建設も外様大名に命じて造らせた。
さらに拡張工事は、二代将軍・秀忠や三代将軍・家光へと引き継がれ、
こうして江戸城や江戸の町は大きく拡張された。
将軍職引退後に大御所となった家康は、
今度は駿府城やその城下町の建設もこれら外様大名に命じて造らせた。
こうなると、西国の大名たちにとっては、家康に反撃を挑む余裕などない。
家康は強かに、大名たちの爪を削いでいったのである。
天麩羅のコロモに書いた長恨歌 井上一筒[2回]
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