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川柳的逍遥 人の世の一家言
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雲を掴んで通天閣は冬の景  桑原伸吉


大坂城落城の様子を描いた「真田武功の記」の付録
松代藩士が書いた真田家の合戦をまとめた古文書で、
最後に大坂の陣も記される。

「その後の真田の血流」


 初代藩主・真田信之(1566~1658)

明暦3年(1657)真田信之は91歳になってやっと隠居を許された。

これまで再三の隠居願いに対して4代将軍・徳川家綱は、

「真田は天下の飾り物(武士の鑑)としてその願いを許さなかった。

幕府の許可を得た信之は、真田領13万石のうち、

2男の信政に松代10万石を信利(長子・信吉の2男)に沼田3万石を与えた。

ところが6ヶ月後、信政が急逝する。

残ったのは2歳である信政の5男・幸道(右衛門佐)だけであった。

信号がずっと黄色のままである  杉山ひさゆき


 二代藩主・真田信政
(1597~1658)

真田家に相続争いが起きる。

信利が松平城主の座を狙ったのである。

信利の母は、下馬将軍といわれた幕府の実力者・酒井忠清の叔母に当る。

背後に実力者を持つ信利は、強く松代藩主の座を要求した。

こうした事態に信之は「歴戦の強者」ぶりを発揮した。

「真田の魂、武門の意地にかけても松代は右衛門佐に譲る」

とする信之に圧力をかける忠清であったが、

信之の覇気と真田魂が家臣団をも動かした。

信之が後見となることで、幕府も幸道の家督相続を許した。

そして、信之は死ぬ間際まで後見であり続けた。

春が来る迄は無口で通す種  小林満寿夫


 三代藩主・真田幸道(1657~1727)

信之の生涯には派手さはないものの、隠忍自重した行動と、

徳川家の忠臣の立場で真田本家を守った。

いわば信之は「守成の人」である。

信之が基礎を築いた松代藩10万石はその後、跡目争い、

火災、厳しい財政などを抱えながらも、一応は安定した統治を保ち続けた。

なお松代領主の座を望んで信之とぶつかった沼田城主で孫の信利は、

その後不行跡のゆえに改易処分とされている。

信之の慧眼が見事に当たったことになる。

シーザーの気持が分かる冷や奴  瀬渡良子


八代藩主・真田幸貫
(1791~1852)

信之が松代藩に遺した財産は、30万両に及んだという。
                                  のぶなり
3代・幸道の跡を継いだ信弘は、2代・信政の庶子・信就の7男である。

以後、信安・幸弘と信弘の血筋が続き、ここで男児が絶えたため、
                    ゆきたか
井伊家から迎えた養子が7代・幸専だあったがやはり男児に恵まれず、
                           ゆきつら
養子になったのが8代将軍・吉宗の曾孫・幸貫である。

幸貫は、「寛政の改革」で知られる老中・松平定信の2男でもある。

幸貫は、天保12年(1841)に真田家としては初の老中に就任する。

幸貫は幕末に「世界のなかの日本」を意識し「日本の国防」を見据えて

人材登用と殖産興業、幕政改革、軍制改革を果たした。

渋皮を不知火型に剥いて煮る  くんじろう


 十代藩主・真田幸民(1850-1903)

この幸貫に感化され、世界を見据えるようになったのが佐久間象山である。

幸貫35歳、象山15歳。

この出会いが、君臣を超えた信頼と互いを認めることに繋がった。

象山の「海防八策」は幸貫の思想からでたといっても過言ではないだろう。

幸貫の孫・幸教が9代藩主になり、「藩校文武学校」をつくる。

しかしまたしても男児がなく、
         むねなり      ゆきもと
宇和島藩・伊達宗城の長男・幸民を10代藩主として迎えた。

幸民は戊辰戦争には新政府軍として2千3百の藩兵を飯山・会津などに

派遣して幕府方と戦った、最後の真田家藩主でもあった。

その後、松代藩知事となり廃藩置県で辞し、明治24年に伯爵となった。

困るではないか酒もメシも美味い  雨森茂樹

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海のほう海のほうへと傾ぐ首  八上桐子


  燃え落ちる大坂城 (モンタヌス日本誌)


「大坂城終焉」

数で劣り、疲労を極めた西軍はほぼ壊滅状態となり、

前線で采配を振るった西軍将のうち、大坂城本丸に帰還できたのは、

毛利勝永大野治房ぐらいであった。

大阪城へ一番乗りを果たしたのは松平忠直の部隊である。

幸村隊を撃破し、本丸への一番槍は大いに満足したことだろう。

続いて東軍の将兵が次々と城内へなだれ込んだ。

気持から引き算ばかり12月  河村啓子

内通者が出て城内の台所から火の手が上がり、城内にいた秀頼、淀君、

大野治長らは「山里丸」と呼ばれる北側の曲輪に移動し食料蔵へ身を潜める。

日付は代わり、5月8日正午、秀頼や淀君が籠る蔵の中にはまだ大勢の

近習や武将たちがいた。

城外戦から帰還していた毛利勝永、真田大助たちである。

その間にも東軍の追手は山里丸に迫り、蔵は包囲された。

藁一本つかんだままでうかばれず  皆本 雅


  家康74歳

最後の時と悟った一行は刃を手に取った。


淀君は蔵に火をつけるよう指示する。

銃弾の音が響くなか、点火と同時に彼らは己の身に刃を突きたてた。

若き大助も殉じている。

蔵は業火に包まれ、家康は大坂城を陥落させ念願の天下統一を実現した。

以後、日本を250年に及ぶ泰平の世へと導く偉業を果たした家康は、

この翌年4月17日、安堵したかのように世を去っている。

自画像はナスビのへたに彫っている  森田律子

九度山にいた幸村の妻子は、どうなったのだろうか。

家康に命じられ紀伊藩主・浅野長晟は領地を捜索。

5月19日に紀伊伊都郡にいた幸村の妻、竹林院と娘・あぐりを発見した。

3人の武士が警護していたという。

真田大八、阿梅は伊達政宗の家臣・片倉重綱に保護されて東北で生き残り、

阿梅は重綱が妻とし、大八は「8歳の時に京都で死んだ」という情報を流し、

実際に白石で暮す大八のことは家系図を書き替え、

「幸村の叔父・信伊のの孫」ということにして巧妙にその存在を隠した。

そこから大八は「片倉守信」として生き、息子の辰信の代に、

「すでに将軍家を憚るに及ばず」と内命を受けて姓を真田に復すまで、

凡そ100年の時を要した。


家康が築いた250年の平和江戸


明けぬ夜は無いって本当なんですか  高橋謡々

「幸村生存説」

 薩摩に降りたつ幸村

夏の陣の最後の戦いでは、幸村の影武者が何人かいたため、

家康には複数の幸村の首が届けられ、どれが本人のものか分からなかった。

故に幸村は生存し、息子・大助とともに豊臣秀頼を守って薩摩へ落ち延びた

という伝説が生まれた。

「花のようなる秀頼様を、鬼のような真田が連れて退きも退いたり加護島へ」

という俗謡が、戦後まもなく流行ったほどである。

鍵束のどれもが謎を孕んでる  徳山泰子

では身代わりとなった首は一体、誰のものなのか。

首実検に並べられた幸村とされるホンモノの首はどれなのか。

家康は本当の幸村の顔は知らない、そこへ幸村に恩がある御宿勘兵衛が、

「せめて首を葬ってやりたい」と家康に申し出てきた。、

「勘兵衛の選んだ首が本物であれば、首を葬った後腹を切るはず」

と考え、家康はその申し出を許した。

勘兵衛は幸村の首を躊躇なく選び、首を抱きしめて涙を流した。

そして丁重に首を葬った後、勘兵衛は腹を切って果てた。

家康は疑うことなく勘兵衛の選んだ首こそが、「本物の首である」とした。

さよならは濃霧のあとでやってくる  堀川正博


 幸村が作った抜け穴

実際には、勘兵衛が選んだ首は、体形や顔立ちが幸村とよく似た家臣の

穴山小助ではないかとされる。

勘兵衛は小助とも涙を流し合える親しい間柄で、自然と泣くことができた。

一方、幸村は大坂城の抜け穴を使って脱出、

秀頼を守りながら薩摩に落ち延びたというのである。

『真田三代記』にも薩摩に下ったが、翌年10月に吐血して死去したと記す。

別の説では、しばらく薩摩で暮らした幸村、大助親子は、

巡礼姿で諸国を巡り、
奥州大館に落ち着いたと言われている。

大館では真田紐を編んで生計を立て、後に酒造に転じて信濃屋を号したとも。

信濃屋は寛永18年(1641年)に75歳で没し、その墓石には、

「信濃屋長左衛門事真田左衛門佐幸村之墓」と刻まれている。

みみずくに宵眼薬差してやれ  井上一筒

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きっぱりと明日を捨てるレモン水  清水すみれ


家康をあと一歩のところまで追いつめる幸村を描いた浮世絵
家康本陣の馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来42年ぶり(2度目)


赤備の具足を身に纏った真田勢

「狙うは、家康の首級のみ」

運命の慶長20年5月7日、大坂の空は早朝から蒼く澄み渡っていた。
    ひおどし    かづの             はぐま
幸村は緋縅の鎧に鹿角の脇立てをつけた白熊の兜を被り、
            きんぷくりん
六連銭の紋を打った金覆輪の鞍を置いた愛駒に跨っている。
        むながい しりがき                                       あつふさ
馬の胸懸と鞦も眼に鮮やかな緋色の厚総だった。

1万の兵を采配し、茶臼山に布陣していた。

赤備の具足を身に纏った真田勢は、小高い山一面に咲く蓮華躑躅の様だ。

この茶臼山は、昨年、冬の戦いで家康が本陣とした場所である。

幸村はあえてその場所を陣に選び、

「いつでも攻めて来い」と言わんばかりに、赤備の姿を見せつけていた。

武者ぶるい男を決める枝である  前中知栄


   幸村所用馬具

眼下には徳川の先鋒、松平忠直の率いる1万5千がいる。

さらに本多忠朝の1万6千余が見え、その後方に家康の本陣と1万5千ほど

の旗本衆が置かれていた。

「狙うは、家康の首級のみ」

幸村は三白眼で徳川本陣を見据える。

本気で家康の喉笛に食らいつくつもりでいた。

いや家康の首級を挙げるしか、この一戦に勝つ可能性は残っていなかった。

惣構えと堀を失った大坂城は裸同然であり、籠城することも叶わなかった。

豊臣勢は城下の野戦に賭けるしかなく、

幸村は毛利勝永に家康を討ち取ることを約し、その先陣に立っていた。

散っていく最後の力ふり絞り  河村啓子


幸村隊と交戦する、松平忠直の将兵
松平隊は幸村や毛利勝永のすさまじい勢いに押され、
混乱の極みに陥って
家康本陣の防備を手薄にしてしまう。
しかし徐々に体勢を立て直すと、数の利を生かして反撃に転じた。

陽が中天に上った正午、いきり立った毛利勝永の寄騎が、

物見に出ていた本多忠朝の一隊に鉄砲を撃ちかける。

この小競り合いを契機に戦いは瞬く間に広がっていき、

双方の全軍が入り乱れて戦う状況となった。

寡兵の豊臣勢は、わざと乱戦を創り出したのである。

乾坤一擲の勝負を仕掛け、混乱に乗じ家康と秀忠の首だけを狙うためだ。

勝永と幸村の軍勢が本多忠朝の軍勢を打ち破り、徳川方の先陣を突破する。

エスカレーターのない天国は断固拒否  佐藤美はる


「大坂夏の陣図屏風」から
本多忠朝(馬上)の奮戦。毛利勝永との激闘の中で命を落とした。
酒で不覚をとったため「戒むべきは酒なり」と反省の言葉を残したという。

一進一退の攻防を続ける中、幸村が狙って謀計を仕掛ける。

「紀州が寝返ったぞ!」
              ながあきら
方々から徳川方の浅野長晟が裏切ったという怒声が響く。

単純な流言飛語の計だったが、乱戦の中では意外に効力を発揮する。

真田の忍びたちが発したこの虚報に、松平勢が動揺した怯む。

「今だ! 行け! 一気に突っ切るぞ!」 幸村の雄叫びに呼応し、

真田の赤備衆は火焔となって松平忠直の軍勢を打ち破った。

毛利勝永も混乱する第二陣の榊原康勝、仙石忠政、諏訪忠澄らを撃破し、

逃げようとする敗兵が雪崩れ込んだ第三陣は大混乱をきたし、

ついに家康の本陣に繋がる道筋が見えた。

力ではかなわないから心理戦  中村幸彦


長刀を両手に持ち、白馬を駆る幸村
「真田、その日の装束は緋縅の鎧に抱角打つたる冑に白熊つけて猪首に、
   着なし」という『難波戦記』の記述通りに描かれている。

いける!これこそ待ち望んでいた勝機!

幸村は愛駒の腹を蹴り、恐るべき疾さで駆け出す。

「われに続け!家康の首は、すぐそこぞ!」

十文字槍で敵兵を薙ぎ倒しながら猛然と幔幕内へ乗り込む。

「真田が来た!」 家康の本陣に悲鳴にも似た叫びが響き、

恐怖にかられた足軽が総崩れになった。

旗奉行が「三方が原の戦い」以降は倒れたことのない家康の馬印を倒し、

旗本衆が取り乱して逃げ始め、主君の姿まで見失う始末だった。

当の家康は誰のものとも分からぬ馬に乗り、ほうほうの躰で逃げ出す。

付き添う家臣も小栗久次とわずか数名の者しかいない。

つんつんがほどよく効いてきたらしい  雨森茂喜


   幸村の勇姿

圧倒的な劣勢の中で、幸村の執念がそれに匹敵する戦況を作り出す。

家康の首を求め、三度に渡り徳川本陣へ突撃し、

その間に無数の傷を
負っていたが、それをものともせず十文字槍を振るった。

しかし、獅子奮迅の戦いも、ここまでだった。徐々に態勢を立て直した

徳川勢が相手を押し返し始める。

幸村は雲霞の如く群がる敵に囲まれそうになるが、間一髪その危機を脱し、

満身創痍の身体を引きずり、茶臼山の北にある安居神社まで後退する。

付き添う兵も、高梨内記、青柳清庵、真田勘解由の3人だけだった。

納豆の糸もスタミナ切れて 冬  山本昌乃


これが采配を振るうの「采配」です

誰もが半死半生である。

愛駒を下りた幸村は、槍を杖代わりにして蹲の処までいき、

動けなくなった家臣たちのために水を汲み、それを柄杓で飲ませてやる。

「皆、疲れたであろう。もう休んでもよいぞ」

末期の水をもらった家臣たちは、微かな笑みを浮かべ、次々と目を閉じる。

幸村は愛駒にも水をやり、最後に己の乾ききった喉を潤した。

すでに立っている余力はなく、灯篭にもたれかかりながら地面に崩れる。

気を失いそうになる幸村を、駆けつけた松平忠直の鉄砲隊が囲む。

幸村は最後の力を振り絞って鎧通しを抜き、躊躇いなく己の首を貫いた。

これでいいこれでよかったこれでいい  嶋澤喜八郎

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どちらにしても葬儀屋さんが太る  中村登美子  

伊達の騎馬鉄砲隊(イメージ)

騎馬隊を自由自在に操るだけでなく、その馬上から鉄砲を放ち、
敵をひるませてから突撃する精鋭部隊。
かって織田信長を苦しめた雑賀衆が得意とした戦法という。

「浪人たちの戦い」ー②

八尾・若江の戦いの布陣図

八尾・若江では東の河内方面や京都方面から大阪城へ迫る徳川軍を

長宗我部盛親隊木村重成隊が迎撃していた。

八尾・若江は道明寺より数キロ北にあり、大阪城により近い要所だ。

河内方面は徳川軍の藤堂高虎、井伊直孝を先鋒に、本多忠朝、前田利常、

松平忠直などが続いて総勢5万5千人、

さらにその後に徳川家康、秀忠
本隊が続いていた。

戦いは午前4時頃に始まり、長宗我部盛親の部隊が地の利を生かした

見事な戦いをみせ、午前中まで藤堂高虎隊の先鋒を圧倒する。

笑っても笑ってもまだ穴がある  山口美千代

一方、若江でも23歳の木村重成が奮戦を見せていた。

午前5時頃、待ち構える木村隊の右手に藤堂隊の右翼先鋒が攻撃をかけた。

しかし木村隊の激しい銃撃により兵の半数を失って敗走する。

若い重成は側近の制止を振り切って追撃をかけたが、

井伊隊にいた18歳の若武者・安藤重勝に討たれてしまった。

木村隊を破った井伊隊は八尾へ向かい、苦戦する藤堂隊を救援した。

これに勢いづいた藤堂隊も体勢を立て直す。

くいしばってごらん海が見えるから  笠嶋恵美子

  道明寺の戦い

一説に、又兵衛は一手に敵を引き受け戦死する覚悟で戦いに臨んだという。

多勢に無勢に新手が加わって不利とみて、長宗我部盛親も退却を命じた。

道明寺方面では、野村にて真田幸村隊と伊達隊の先鋒が鉢合わせし、

伊達の「騎馬鉄砲隊」が真田勢めがけて一斉に銃撃を浴びせた。

伊達の本拠地・仙台は名馬の産地として知られるが、

この騎馬鉄砲隊は伊達
政宗が家臣の次男・三男の中から力自慢の者を選抜

して編成した。


「馬上より鉄砲一放ちすれば、当たらぬこと稀なり」

という精鋭部隊であった。


撃ち立てられて敵の乱れた所に、煙が消える前に即座に突入する荒々しい

戦法に幸村隊の兵も多くの犠牲を出した。        

何もかも不可能だらけどうしよう  庄田潤子

手強いとみた幸村は銃弾の飛び交う中で督戦に務め、

「ここを堪えよ!片足でも引けば全滅ぞ」と兵を励ました。

真田隊は松の木を楯にして猛攻に耐える。

この時、幸村は暑さを凌がせるため、兵に兜をつけさせずにいたが、

伊達隊との距離が縮まるに及んで、

「兜をつけよ、槍を取れ!」と順々に号令した。


これで幸村隊は勇気百倍し、伊達隊の接近に備えた。    

鉄砲を撃ち終え、煙が薄らいだ頃合いを見計らい「いざかかれ!」と、

幸村が下知すると真田隊は皆立ち、突きかかった。    

近距離に立つ槍ぶすまの前に伊達軍の騎馬も浮き足だった。

尾骶骨あたりで見せてやる気骨  藤井孝作

政宗の先鋒・片倉重綱石母田大膳らは、

「敵は小勢だ、根こそぎ打ち倒してみせよう」と豪語もしていたが、

この真田隊の手強さに泡を喰い、崩されて退いた。

一説に、重綱は幸村の姿を認め、突きかかって行くが、

幸村はそれを見て傍らの丘陵へと登った。

誘い水を仕掛けたのである。

重綱は罠と見てそれ以上進まず、馬を返した。

しばらく攻防が続き、両軍とも相応の犠牲を出す。
          こんだ
政宗は攻撃を中断させ、誉田を挟んで睨み合いとなる。

午後2時、幸村は頃合いと見て撤退にかかる。    

追撃しようとする兵を政宗らは必死に制した。
               しんがり
追おうとすれば逆にやられる、幸村の殿の指揮は見事なものであった。

風よりも軽いんですの命綱  河村啓子

日の丸の軍扇を手にした隻眼の武将が伊達政宗、
後藤又兵衛の部隊と
戦闘中の様子を描かれている。
その左上には松平忠明
(家康の外孫)。


この戦いで重綱の戦いぶりを見た幸村が、彼を自分の遺児たちを

託すに値する人物とみて手配に動いたという説がある。    


戦後、重綱は幸村の5女・阿梅を妻に迎え、次男・大八も保護をしている。

道明寺の戦いで後藤隊だけが突出してしまった理由として、

「北川覚書」には
深夜から濃霧が発生し、真田や毛利の軍勢は進軍できず、

戦場到着が遅れたと説明がなされている。

戦場において予期せぬ事態は付き物だが、この「5月6日の激戦」は、

双方とも相応の損害を出しており、豊臣軍はよく善戦した。

しかし、滅亡の時は刻一刻と迫っていた。

冬はもう大腿骨の中にいる  新家完司

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めそめそ生きてもサバサバ生きても一生 通 一辺  (拡大してご覧下さい)
茶臼山本陣が描かれている絵図のなかで最も有名な『大坂冬の陣図屏風』

右端の望楼のある建物が本陣中央の曲輪内の高まりに家康の居所。
その左、一段下がったところに描かれているのが中央の曲輪の平坦部。
その左側、画面の端に少しだけ見えている水色の部分が、西側の曲輪との
間の堀の一部だと考えられる。中央の曲輪の平坦部から家康の居所に
向かって坂を登っていく武士が描かれている。
坂の上には簡素な門が造られ、門の左右は塀か土塁ではないかと思われる。
門の中には、刎ねられた首が置かれており、
この屏風は下絵なので、その姿は描かれていないが完成した屏風には、
家康が首実検をしている様子が描かれているといわれている。

「江戸川柳ー真田幸村」

城を埋められては城では戦えず、豊臣方は大坂城から遠く離れ、

個々の軍団ごとに野戦の陣を布きました。

各軍団へ連絡役を務めた武将が薄田隼人

「遊軍」と言うは薄田隼人也

― 遊軍は戦列外にあって時機を見て敵を攻撃する遊撃軍。

夏の陣は戦う前から勝負が決まっていたので、任務が遊びに見えた皮肉。

それでも茶臼山に陣を構えた、

幸村は生きる気でない紋所

― 真田氏の紋所は六文銭。

三途の川の渡し賃が六文とされていることから、
生きる気でない。

その覚悟で戦い戦果を挙げ、

敵が粉になる茶臼山御陣

― 粉と茶臼が縁語。

なお茶臼山は冬の陣では、徳川家康が本陣を構えた所。

豊臣方の陣は次々に落とされていき、幸村は秀頼が城から出て戦うよう使者

を何度も送りましたが、淀君「敵に首を取られるのは嫌じゃ」と拒みました。

やがて城に火の手が上がるのを見た幸村は、

「もはやこれまで」と敵陣に突っ込み華々しく討ち死に。

銭の遣いよう大坂知らぬ也

銭がなくなって大坂しまい也

惜しい銭無駄に遣って落城し

―銭は幸村。一句目は商売上手な大坂人を皮肉って、

淀君と秀頼は燃えさかる蔵のなかで自害。

威容を誇った天守閣は、豊臣の重臣が爆薬を仕掛けてすっ飛ばし、

豊臣氏はここに滅びました。

擦り切れた尻尾を見せてくれないか  森田律子


「鹿角・六連銭紋旗指物」(個人蔵)
縦180㌢  横36・5㌢
六連銭は三途の川の渡し賃を表し、信濃の豪族、海野氏の家紋でもあり
真田家は海野氏の出と称していて、同じく六連銭を家紋としていまる。

並べると石は兵士の貌をする  奥山晴生

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