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川柳的逍遥 人の世の一家言
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めそめそ生きてもサバサバ生きても一生  通 一辺


  又兵衛の奮戦

10倍近い敵軍に囲まれて奮戦した又兵衛は、伊達政宗が率いる騎馬
鉄砲隊の銃撃に討たれた。従者が落馬した又兵衛を助け起こすが、
「首を決して敵に渡すな、斬れ!」と命じられたため、介錯してその首
を泥の中に埋めたといわれている。

「浪人たちの戦い」ー①

慶長20年3月(1615)「大坂で騒ぎが起きた」という報告がもたらされる。

いまだ大坂城内にいた浪人たちの一部が堀や塀の復旧にかかり、

乱暴や狼藉を働いているとのことであった。

これは大坂を慌てさせるために蒔いた家康のでっち上げで、同時に

「いよいよ、大坂へ行くか」という戦争をちらつかせる、噂も蒔いている。


ここに来て、家康は豊臣家に対し、浪人の解雇または豊臣家の移封を要求。

「再戦か」と慌てた大坂の城内では、再び戦争をするか否か議論が起こる。

戦争ともなれば浪人衆を手放すわけにはいかないからである。

私を突如横切る冬の雷  笠嶋恵美子

家康はこれを口実とし、本格的に挙兵を決める。

4月4日、家康は息子・徳川義直の婚礼への参加を理由に名古屋へ向かう。

道中に大野治長の使者が訪れ、浪人衆の解雇も豊臣家の移封も断ってきた。

それを聞いた家康は「其の儀であれば、仕方ない」と返答した。

事実上の「宣戦布告」であり、諸大名に京都周辺に集結するよう命じた。

4月21日、秀忠は無事二条城に到着し、翌22日に軍議が開かれた。

家康、秀忠、本多正信・正純、土井利勝、藤堂高虎といった面々である。

徳川方の兵力はおよそ16万、豊臣方は8万と予想された。

家康は諸将に命じ、軍を二手に分けて大坂へ進軍させた。

ちぎれ雲パレスチナから薬師寺へ  井上一筒

裸城となった大坂城では、少しでも劣勢を埋めるべく豊臣家とは縁の深い、

大和郡山城の筒井定慶と紀州和歌山城の浅野長晟に使者を送って、

豊臣方へ味方するよう誘いをかけた。

秀吉には存分に可愛がられた両者だからである。

しかし両者ともこれを断り、徳川軍につくとの返答があった。

「ならば」と、まずはこの2城攻略のために挙兵。

4月26日、大野治房が2千人を率いて出陣し速攻で大和郡山城を落とした。

続いて紀州方面である。

こちらは浅野長晟が5千の軍勢を率いて岸和田の南へ迎撃に来ていた。

治房は、塙団右衛門、岡部則綱、淡輪重政らに戦法を命じたうえで、

浅野軍の墓後を脅かそうと紀州の地侍たちに一揆を煽動させ、

彼らと協力して挟撃を狙った。

ライオンの尻尾こすって火をおこす  岡田幸男 

しかし塙団右衛門は淡輪重政と一番槍の功名を争う形で突出してしまった。

浅野長晟の指揮下にいた亀田高綱が、西軍をおびき寄せる戦法を駆使した

ため、それに釣られたのである。

包囲され奮戦するも後続部隊が到着する前に団右衛門は

矢を額に受け落馬したところを敵兵に集中攻撃され、敢無く討死。

重政もそれを見て敵中に斬り込み、討死した。

大野治房は敗報を聞いて樫井へ急行するが、

すでに勝負はつき、浅野軍は撤退した後だったため大阪城へ引き返した。

現実と理想とのずれにバルサミコ  新川弘子


 後藤又兵衛

4月30日、豊臣軍は軍義を開いた。

「敵は冬の陣と同様、南の大和路から来る。
                          あいろ
 交通の要所にあたる道が狭い国分周辺で隘路を抜けてきた徳川軍を叩く。

 先鋒を破りさえすれば後続は郡山へ退くはず」

と提案したのは大坂浪人五人衆のひとり、後藤又兵衛であった。

大和口の徳川軍は3万を超えることが予想され、

豊臣軍も投入できるだけの部隊を動員して向かわせた。
                        かねすけ
5月1日、第一陣の後藤又兵衛・薄田兼相・明石全登らが率いる

6千4百人が出陣して平野へ。

続いて第二陣の真田幸村・毛利勝永・福島正守・渡辺糺・大谷吉治

約1万2千が天王寺に集結した。

A弦が鳴り続けても逃げないぞ  兵頭全郎

5月5日、平野で野営する又兵衛のもとに幸村の使者が訪れている。

明日の戦に備えて連絡を取り合うためである。

5月6日、午前0時、又兵衛は自軍の2千8百を率いて平野を出発。

藤井寺へ先行。

徳川軍先鋒と午前4時頃から戦闘の火蓋を切った。

又兵衛は山上から奥田忠次を攻撃し、これを討ち取った。

続いて北から進軍してきた松倉重政軍と衝突し、

これも圧倒して全域に近い打撃を与えるなどの奮戦を見せた。

しかし後続の水野勝成らが来援し、さらに伊達政宗・片倉重綱隊が加わった。

水野・伊達隊は合わせて3万に近い。

およそ10倍もの徳川軍を相手によく善戦したが、

午前10時ごろ、片倉隊の鉄砲隊の銃撃を受け又兵衛は斃れた。

ごはさんで願いましてと命消え  森 廣子

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赤なまこ黄なまこ我は青なまこ  井上一筒


 幸村の家族への手紙
大阪夏の陣が開戦する2ヶ月程前の3月に大阪城内から上田に住む
姉夫婦に出されたもの。
「訳文」
遠いところ御使者をお送り下さりありがとうございます。
そちらはお変わりがないとのこと、詳しく承り、満足いたしました。
こちらにも無事でございますので、ご安心下さい。
私たちの身の上ですが、お殿様(秀頼)は大変親切にしてくださるので大方の
ことは問題ないのですが、万事気遣いしながら一日一日を暮らしています。
お会いしなくては細かいことを申しあげられず、手紙ではなかなか詳しく
書け
ませんが御使者のかたが詳しく伝えてくださるでしょう。
 今年も何事もなければ、どうにか、お目にかかりたいと思います。
知りたいことが山ほどあります。
ですが、この不安定な浮き世のことですから、一日先のこともわかりません。
私たちのことなど、もうこの世にあるものとは考えないで下さい。
恐れながら謹んで申し上げます。

三月拾日  真田左衛門佐              小壱岐様

結論は出ている 梅は熟れている  藤本秋声

「幸村の最後の書状」

幸村が認めた「人生最後の書状」真田信之が江戸時代に治めた松代町の

小山田家に伝来する。

慶長20年(1615)3月19日付けで「真田丸の戦い」で活躍した

大阪冬の陣と
夏の陣の間に書かれたもの。
                    しげまさ       ゆきとも
宛先は信之の家臣である小山田茂誠とその息子の之知

茂誠は姉・村松殿の夫で、幸村にとっては義兄に当たる。

遺言と書いて江戸小噺を一つ  筒井祥文             

「遠路、御使者から手紙を預かりました。

   そちらは変わったことがないこと
詳しく承りました。満足しています」


幸村は手紙の中で、このように上田の家族のことを気にかけつつ、

自身の近況も報告している。

「こちらも無事でおりますのでご安心ください。

   私たちの身の上は殿様の信頼
も並大抵ではありませんが、

   色々気遣いが多く、一日一日を暮らしております。


   お目にかかっていないので、詳しくお話しすることができませんが、

   なかなか書面でも詳しくは書けません。

   様子を使者からお伝えいたします」


書状が記された時期は、冬の陣終結から3ヵ月余りが経ち、

豊臣方の主戦派が再び戦闘準備を整えた頃だ。

そうした緊迫する情勢とともに、

秀頼からひとかたならぬ寵愛を受けていたことが窺える。

背景にはやはり先の冬の陣での真田丸における戦いぶりもあったのだろう。

信号がずっと黄色のままである  杉山ひさゆき

この後、幸村は書状で、「当年中も静かであるならば、

   何とかしてお会いしてお話ししたいと存じます」


と家族への思いを吐露するとともに、胸に秘めた悲壮な覚悟を伝えている。

「心ひかれることがたくさんありますが、

   定めなき浮世ですので、
一日先のことはわかりません。


   我々のことなどはこの世にあるものとは思いなされますな」

再戦がそう遠くないことを悟り、覚悟を決めた様子が伺える。

そして、自分のことは必要以上に
気にかけないで欲しい―と綴る内容は、

幸村の複雑な心境と家族への心配りをみせる…幸村の事実上の遺書である。

閂を抜くと本音が迸る  須磨活恵

同じく冬の陣後に幸村が村松殿に宛てたものでは、

恐らくは叶わないであろう再会を願いつつも、

「お会いしてお話ししたいものです」と記している。

関が原合戦の際に兄・信之や姉村松殿など信州・上田の地の家族とは、

別の道を歩むこととなったが、

それでも真田一族は、
心通わせ続けていた。

介錯を頼む 喜劇として頼む  くんじろう


    馬 上 筒
馬上筒は全長約60センチの半自動の速射連発銃で、着火装置に改良を重ね
弾倉を付けることで8発の弾丸を10秒おきに発射でき、手綱を握る手を軽く
支えにすれば、馬上でも連射が可能になった。

夏の陣で豊臣方が総崩れする中、幸村が僅かな手勢と家康本陣へ攻めた際、
真田流砲術の名手である幸村は、この馬上筒をフルに活用し家康に自害まで
覚悟させ
たという逸話はよく知られる処である。
しかし家康にあと一歩のところ迄迫りながらも、取り乱す敵兵の反撃にあった
騎馬が動揺し、幸村は家康を撃ち損じたというおまけがついてくる。

奇跡には赤いフリルがついている  新保芳明

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ほんとうのことを言ってはいけません  吉岡とみえ


 秀吉の建てた大坂城

大阪城は秀吉没後の慶長3年(1598)に完成。本丸・二の丸・三の丸
総構えを擁する
堅城である。絵画資料では、天守閣は外観5層で金箔を
ふんだんに使った
華美な様相で描かれている。



大坂城跡地から出土した金箔瓦

「大阪城落城の原因」

大阪城は、三重の堀と運河で囲まれた高い防御機能を持つ名城で、

建設中に城を訪れた大友宗麟に、三国無双と讃えられたほどであった。

築城が開始されたのは天正11年(1583)本能寺の変」の翌年で、

秀吉が天下統一に向けて奔走していた時期にあたる。

これだけ大きい城となると完成まで10~15年は要するが、

その時、秀吉は40代半ば、完成時には当主交代も考えられる齢である。

そう、この城は自信の居城とするためだけに建てたのではなかった。

難攻不落の豊臣一族の権威としての意味もあった。

お月様を味わったのはどなたです  和田洋子

そんな日本随一の堅城として建てられた大阪城だが、

作った秀吉だからこそ、思いついた「攻略法」があった。

自慢屋の秀吉は、大阪城に家康らを呼んで酒宴を開いた時に、

その秘密をばらしてしまったのだ。

秀吉は家康らに「この城を攻めるなら、どう攻める?」と、

問答をしかけた。

答えに窮する一同に対し、秀吉は得意気に攻略法を語った。

スキップして魔女の餌食になりに行く 上田 仁


大坂冬の陣は豊臣方優勢で終わったが

それは外堀を埋めるという条件で和議を申し込み、

そのまま内堀も埋めてしまって、本丸を裸にするという作戦だった。

秀吉は感心する一同を見て、ご機嫌だったという。

家康はその策をしっかり覚えていて、大坂の陣で攻めあぐねる城に、

秀吉直伝の作戦である和議に持ち込み、外堀ばかりか内堀まで埋めて、

まんまと大阪城を落とすことに成功している。

まさか酒の席の失言が、一家を滅ぼす原因になるとは、

秀吉も夢にも、思わなかったことだろう。

どこまでも阿呆でいようか朧月  中野六助

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三日月に隠しきれない7番目の脊椎  酒井かがり


 大坂城埋立対照図

「つかの間の平穏」

豊臣方が、和議に応じたのは「淀君が命の危険を感じた」という他にも

様々な要因があった。

その一つが「弾薬の不足と厭戦気分」である。

盛んに銃撃・砲撃を行なっていたのは、徳川軍だけでなく、

城内にいる豊臣軍も同様だった。

早い段階で一時休戦に持込み、城の包囲を解いてもらう方が得策と

豊臣方も判断したのだ。

一方の徳川軍も厳寒の中で包囲を続けるのは相当に堪えていた。

この「和睦交渉」は徳川方の強引なごり押しではなく、

双方の首脳部の思惑が一致したうえで行なわれたことである。

躓いたおかげで拾う人間味  宮崎美知代

慶長19年(1614)12月18日、和議の交渉は京極忠高の陣営で始った。

豊臣軍の使者は淀の妹・常高院(初)である。

一方の徳川方は家康の側室・阿茶局本多正純が同行した。

女性二人の主導のもと交渉は進められた。

この時代、女性の地位は低かったと見られがちだが、この交渉における

顔ぶれや豊臣軍のリーダーが事実上は淀君であったことを鑑みると、

女性の中にも一定の権限を担うほどの人物がいたことが分かる。

血縁を少し残した瓶の底  三好光明

そして、和睦がなり大阪城の堀は埋められた。

後世の人は半年後に「夏の陣」が開戦することを知っているが、

当時この時点で、豊臣方は夏の陣開戦を想定していなかった。

首脳陣としては、徳川軍がそれ以上攻めて来なければよかったのである。

ただ、城の防衛機能を削り取る要求を呑んだのは、

やはり目算が甘かったというほかはない。

結果、年が明けた慶長20年1月23日までに二の丸、

三の丸と大半の堀が
更地となり、秀吉が築いた難攻不落の城は、

本丸を残すだけの裸城となる。


ともあれ東西和睦となり、大坂城周辺には束の間の平和が訪れた。

あの世でもアホだアホだといいそうだ  中前棋人
                           のぶただ
2月、大阪城内の幸村のもとを叔父の真田信尹が訪問する。

幸村については、冬の陣前は家康も余り情報がなかったかも知れないが、

真田丸の攻防で認識を新たにした。

家康は敗北の直後から側近の本多正純と政重(前田利常の家老)の兄弟や

また
信尹を介して、幸村の懐柔工作を考えたのである。

信尹は家康の依頼を受けた本多正純を通じて「信濃10万石」を条件に、

徳川方へつくよう説得に来たのだった。

幸村は「浪人して高野山へ落ちぶれたのを秀頼様に召し出され、

 ひとつの曲輪を預かる身となった。出仕せよといわれても難しい」と、

これを突っぱねている。

そこで正純は「ならば信濃一国ではどうか」と条件を引きあげた。

何ごともなかったように避けておく  山本昌乃

信濃一国といえば、約40万石に相当する。

父・昌幸が治めていた上田4万石の10倍という破格の条件である。

しかし幸村は拒否するどころか、今度は信尹と会おうとさえしなかった。

幸村は、おそらくそれを本気にしなかったのだろう。

関が原の戦いの前、伊達政宗「百万石のお墨付き」を与えながら、

わずか2万石の加増に留めた家康のことだ。

もし幸村が徳川についたとしても、本当に信濃一国を与えたかどうかは

甚だ疑問と考えたのである。

カラオケとカンオケの因数分解  黒田忠昭

そして、和睦成立後の正月から3月にかけて幸村は上田の姉・村松殿や、

その夫で義兄にあたる小山田茂誠へ手紙を書いた。

「今年何もないようでしたら、またお目にかかりたいと存じます。

   しかしさだめなき浮世のこと。一日先のことは分かりません。

   もう私はこの世にいないと思ってください」

再戦がそう遠くないことを悟り、覚悟を決めた幸村の事実上の遺書である。

平穏はいつまで菊を根分けする  高島啓子

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吹き溜り行きの最終便が来る  岡内知香



 出土した大阪城の瓦

大阪冬の陣の経過

慶長19年11月02日  家康大阪討伐を決め、諸大名に出陣を求める。
        24日  この頃、徳川方の軍勢が相次ぎ京に集結。
     12月15日  家康・秀忠大坂へ進軍
慶長20年01月03日  幸村隊 真田丸で徳川の軍勢を破る。
        15日   家康が一斉砲撃を命じる。
        18日   豊臣方と徳川方の和平交渉が妥結。

「和平交渉」

徳川家康が、豊臣家を滅ぼそうと決意したのは、慶長16年(1611)3月、

「二条城で19歳の豊臣秀頼に対面したとき」だと言われている。

聡明な青年に成長した秀頼を目にし徳川家の将来に危機感を持ったのだ。

このとき、家康は70歳、

老い先短い年寄りにとっては、自然な感情であった。

 こうした思いから家康は、まず豊臣の財力を弱めようと、

太閤殿下の霊を慰めるためにと、京の「大仏再建」を豊臣家に勧めた。

ところが、出来上がってみると、家康の思惑は大きく外れる。

秀吉がつくったものは、木造であったが、再建された大仏は、

燦然と黄金が輝く金銅製のもので、奈良の大仏をしのぐものであった。

これに人々は度肝を抜き、家康には豊臣の天下復活の狼煙のようにみえた。

落ち着いているのに階段踏み外す  篠原 久

ところが同時に完成した方広寺の「梵鐘」に問題が起こる。

長い鐘の銘文中の一節に、『国家安康・君臣豊楽』 とあり、

「国家安康」は、家康の名を分断するものと言いがかりをつけたのである。

これを家康は、本多正純を通じて、豊臣に詰問させた。

さっそく弁明のため、片桐且元が駿府に出発したが、

且元だけでは心許なく、淀君は乳母で大野治長の母・大蔵卿局も派遣した。

家康は大蔵卿局には、「何も心配することはない」と伝え。

その一方で、且元には、面会を許さず、正純の方から、

「よほど思い切って、 不信感を一掃できる措置がないかぎり許せない」

と脅しをかけている。

高野豆腐のふっくらにさえ腹立てて  安土里恵

正純から脅され、捻じ込まれた意見を大坂城で且元は、

「大阪城を引き渡すか、淀君が人質になるか、ほかに道はありません」

と必死に淀君に説いた。

ところが「心配することはない」という、大蔵卿局の報告を受けていた淀君と

大野治長は承知せず、且元を、「徳川に内通している」と罵倒したのである。

それに動転した気の弱い且元は、自分の屋敷に籠り、

淀君からは、「再び出仕するように」と説得の手紙が届いても、

不信感は拭えず、茨城城に引き籠ってしまうのである。

且元を操る、大坂の陣への導火線を引いた家康の狡猾な計算である。

月が欠けたらそれできっかけが出来る  板野美子

       
       阿茶局

その後、且元は、大坂の陣では、徳川方についている。

その大坂の陣では、難攻不落の大阪城攻めに手こずった家康は、

損害の増大、兵士の疲労、食料補給の事情等から「和平」を模索し始める。

その交渉の使者に徳川からは、家康側近の本多正純、側室の阿茶局を立て、

豊臣からは淀君の意向で、大蔵卿局と、淀の妹の常高院(初)が派遣された。

交渉は、常高院の義理の息子の京極忠高の陣において行なわれた。

さすが0何も寄せ付けない形  居谷真理子

淀君の意見がすべて反映される豊臣の事情を、家康は見透かしており、

阿茶局を立て、常高院を通し淀君に和睦を承諾させようとする思惑がある。

家康の目論見どおり、淀君は和睦を承諾する。

「淀君を人質としないかわりに、大野治長、有楽斎より人質を出す」

「秀頼の身の安全を保証し本領を安堵する」

「城中の浪人などについては、不問にする」 というもので、

一見、大阪方にとってかなり有利な条件を、家康は受け入れた。

頭からどうぞ温いうちにどうぞ  八上桐子


  大坂城の石垣

そして大阪方には、和議の中に、

「本丸を残して二の丸・三の丸を破壊し、
惣堀を埋めること」

が組み込まれた。


これは、このような和平では常識的なことになっている。

だが、大阪方では、惣堀を徳川方で埋めることは承知していたが、

二の丸を囲む外堀は、大阪方がやることになっていた。

それを徳川方は、大阪方の工事を手伝うと称して、

「外堀までを完全に埋めてしまった」のだ。

嫌みな家康を象徴するように、京極忠高にこの工事の指揮にあたらせ、

和睦」
見せかで、すべて狡猾な家康の描いた筋書きであった。

翌年4月、家康は秀頼に対し、

「浪人たちを承知しても、城内に留めるとは思っていなかった」

といって、「浪人を追放せよ」と迫るのである。

ことごとく腐ってドロドロの正義  石橋芳山

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