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川柳的逍遥 人の世の一家言
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自分の手喰うて生きてる蛸である  木村良三


       関が原合戦絵図
左-城から抜け出した信繁主従と上田城とそこに向かう秀忠の使者。
右-攻め手の軍勢の旗指物。

「上田合戦-第二ラウンド」

慶長5年(1600)9月、家康の命令を受けた徳川秀忠は、3万8千の

徳川軍の主力を率いて信濃の上田に達した。


秀忠は今回が初陣であり、気負い立っている。

功名心も渦巻いている。

天正13年(1585)第一次上田合戦で徳川軍は屈辱的な大敗を喫した。

その雪辱と汚名返上に直結する上田城攻略の大功を家康への土産にしよう

と夢想したのだ。


西軍に属すことを明確にした昌幸・信繁親子は2千5百の兵で待ち構えた。

秀忠は城攻めの常道に基づき、信之と義弟・本多忠政(小松姫の弟)を派遣し

降伏を呼びかけた。

もういっぺんだけやで二度と言わへんで 一階八斗醁

昌幸は上田城下の国分寺で2人と会見し、饗応したうえで、

「敵対するつもりはないので明日には城を明け渡す」

昌幸が仕組んだ策謀の一環だが、秀忠は毛筋ほどの疑念も抱かない。

「殊勝な心がけ、中納言殿もお喜びで、上田城を明け渡せば、

    赦免すると仰せでござる」

一連の流れに秀忠は、無血開城できると欣喜した。

「城は明け渡すが、家臣どもを説得しなければならんので、

一両日の猶予をいただきたい」

と伝えて使者を帰陣させたのは、9月3日のこと。

喜ぶ秀忠であるが、翌日になっても返答がなく改めて使者を差し向けた。

全身を耳に一言を待っている  中岡千代美

「太閤様のご恩は忘れがたく、当城に籠ったうえは城を枕に討死し、

    名を後世に残す所存。願わくば当城を攻めていただきたい」

昌幸の引き延ばし策を知った秀忠は激怒し、上田城攻撃の断を下すや、

信之に上田城の支城・戸石城の攻略を命じた。

9月5日のことである。

戸石城の守将は信繁。弟が守る戸石城へ兄を差し向けることで、

真田一族である信之の忠誠心を試そうとしたのだった。

だが、昌幸・信繁父子の方が一枚上手だった。

寄せてくる敵の大将が兄の信之であると知ると、一戦を交えることなく

信繁は守備を放棄して上田城へ退去し、戸石城は無血で陥落した。

いずれ又と軽く指切り外される  山本昌乃


「真田父子・上田籠城図」
二次上田合戦の昌幸と信繁。
右には真田十勇士に名を連ねる海野六郎穴山小助も一緒に描かれている。

戸石城が落ちると9月8日に、牧野康成の部隊が上田城下の稲を刈り取る。

それを防ごうと城から出てきた兵に対して、潜む本多忠政隊が襲いかかる。

城兵が怯んで城へ逃げ帰ろうとすると、徳川勢はこれを追いかけてくる。

それこそ昌幸の思う壷であった。

大手門まで迫った頃合いを見計らい、城門が開かれた。

そして真田の鉄砲隊による一斉射撃を浴びせかけたのである。

連動して城内からも矢玉が雨あられと降り注ぐ。

吐く息 吸う息どちらを先行致そうか  山口ろっぱ

さらに夜のうちに城を抜け出していた信繁率いる200の部隊が、

鉄砲を浴びせかけつつ、秀忠の本陣へと突撃してきた。

慌てた徳川勢は退却を開始。

その時を狙い神川に仕掛けていた堰を切ると、


指揮系統を寸断された徳川勢はたちまち大混乱に陥り、多数が溺死。

秀忠以下の残余の将兵も算を乱し、命からがら小諸目へと敗走していった。

まさしく第一次上田合戦の再現であり、あとは一気呵成だった。

逝く時を知るも知らぬも蟻地獄  三宅保州


 天正年間上田古図
天正12年昌幸が縄張りをした上田城は、
水路を巧みに利用して防備を固めていたことがわかる。特に図の下側の
澤付近は、自然の断崖が防衛のために大いに役立っていたと実感できる。

上田第二ラウンドも徳川軍の惨敗であり、家康の伝記『烈祖成蹟』ですら、

「わが軍大いに敗れ、死傷算なし」 と記している。

面目を失った秀忠は、なおも上田城攻略にこだわった末に、

本多正信らの諫言を容れて、ようやく西上を再開したものの、

9月15日の関が原本戦に遅参するという大失態を演じてしまった。

一方3千の寡兵で3万8千の大軍を足止めし、

なおかつ撃砕した昌幸・信繁父子の武名と真田の家名は愈々高まった。

同時に信繁はこの戦いを通じ、父より戦略縦横の戦術、

いかなる大敵・強敵にもたじろがぬ不屈の闘志、義を重んじる

武将としての矜持、そして真田の誇りを身をもって学んだのである。

耳の裏洗う動物的タイム  河村啓子

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ダウンロードされているのか背がかゆい  吉岡とみえ



   犬伏の薬師堂

「家康と三成の抗争が関が原に」

石田三成が失脚した後、家康はさまざまな工作を実行。

暗殺計画があるというのを理由に大阪城に乗り込み、

さらには謀反の疑いで前田家征伐を準備した。

これは前田利長と母の芳春院の機転でことなきを得たが、

つづいて上杉景勝に謀反の疑いをかける。

こちらは言いがかりに憤慨した上杉家の家老・直江兼続

家康を愚弄する
内容の書簡を送りつけた。

これに怒った家康が、上杉の謀反は疑いないと決めつけ、

諸大名に会津征伐の陣触れを発したのである。

ニンゲンの貌か毎朝確かめる  森吉留里恵

慶長5年(1600)6月16日、会津征伐を率いた家康は大坂を出立。

その日は、鳥居元忠が守る伏見城に一泊する。

その後、家康は時間をかけて進軍した。

これは三成が上方で挙兵するのを待っていたのだ。

家康は7月2日に江戸へ到着する。

その思惑通り、7月になると三成が大坂で挙兵する。

大坂城西の丸を奪取すると、毛利輝元を家康討伐軍の総大将に据えた。

そして7月18日には、4万の大軍で伏見城への攻撃を開始する。

元忠らは勇猛果敢に戦い、10日以上も抵抗。

しかし1800ほどの城兵ではいかんともし難い。

8月1日、元忠の討死で伏見城は落城する。

真剣な目で死んでゆくエキストラ  桑原すず代

下野小山に着陣した7月24日、三成挙兵の知らせが家康の元に届いた。

翌25日、家康は会津征伐に参加していた諸大名を招集し、

以後の方針を協議。ことに家康が気にかけたのは、

東海道筋に領地を持つ豊臣恩顧の大名たちの去就であった。

だが家康は福島正則に対して、あらかじめ手回しをしていた。

評定の席上、正則が家康へ味方することを宣言すると、

諸大名もみなこれに従った。

だが真田昌幸と美濃岩村城主の田丸直昌だけは違った。

雨季のくる前に昨日を折り畳む  桑原伸吉

真田家は昌幸だけでなく、信之・信繁の兄弟も従軍していた。

3人は下野犬伏の陣で語り合い、

昌幸と信繁は西軍、
信之は東軍に味方することを決めた。

信之の妻は家康の重臣・本多忠勝の娘であり、

信繁の妻は西軍に与した大谷吉継であることも理由だった。

それ以上に昌幸は家康の下風に立ちたくなかったのであろう。

昌幸と信繁は陣払いをし、居城のある上田を目指した。

家康は評定の席上で約束した通り昌幸、信繁に追撃をかけなかった。

好き嫌い激しい耳を持て余す  新家完司


    小松姫
犬伏の別れ後、沼田城に立ち寄った昌幸らを甲冑姿の小松姫が、
門前払いした逸話を元に描かれた肖像画。(大英寺所蔵)



そして昌幸は上田に帰る前、

少数の兵とともに信之の居城である沼田城に立ち寄る。

理由は「今生の別れに孫の顔を見たい」というのだ。

だが城を預かっていた信之の妻・小松殿は、

「例え義父様でも敵味方、
主人の留守中にそのような方を

   城内に入れることはできませぬ」


と拒絶したのだ。

それを聞いた昌幸は、

「さすがは徳川家中にその人ありと謳われた本多忠勝殿の娘。


   武士の鑑である」と賞賛。

近くの正覚寺で一夜を過ごした。

翌朝、子どもを連れた小松殿が正覚寺を訪れた。

祖父と孫の対面は無事に行なわれたのである。

言い訳はよそう余白はあと少し  上田 仁

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ひがな一日祈ろうか呪おうか  筒井祥文


  小山評定跡 (ここで家康は行くべき方向を決めた)

「犬伏の決別」

慶長4年3月、家康に対抗できる大物・前田利家が病死すると、

事態は一気に動きはじめる。 石田三成は隠居に追い込まれた。

秋には、前田利家の後を継いだ利長に謀反の疑いがかけられ、

家康は、「前田討伐」を号令する。

これは利長の必死の陳弁によって回避されたが、

もはや領地を欲する大名たちに、歯止めは利かなくなっていた。

その後、家康は、おねに譲ってもらった大坂城・西の丸に入り、

大名の加増や転封・婚姻などを次々と実行していった。

家康は我がもの顔で歩き、まるで天下人のような振る舞いをしている。

所領の近江・佐和山で隠居生活を強いられていた三成は、

家康のこうした動きに焦りを覚えつつも、何もすることができない。

もしかして家系たどればコウモリ科  井上登美

そこで三成は五大老のひとり上杉景勝の家老・直江兼続と謀議した。

上杉家がまず会津で挙兵し、それを討伐しようと北に向かった家康の軍を、

大坂で秀頼を旗頭にした三成の軍が挙兵し、

挟み撃ちにしてしまうという策を練った。

思惑通り、慶長5年(1600)6月、「上杉景勝に謀反の疑いがあり」

ということで家康は自ら兵を率いて「会津征伐」へ大坂城を後にした。

これを好機と三成は、五大老・毛利輝元を盟主に仰ぎ、

7月に大坂で兵を挙げた。

そして手始めに、家康の老臣・鳥居元忠が守る伏見城に迫った。

7月18日には、輝元の名前で元忠に開城を求めた。

城将のひとり、木下勝俊のみは勧告に応じて城を出たが、

元忠は断固拒否の姿勢を崩さなかったため、

翌19日から、
西軍による伏見城総攻撃が始まった。

宇喜多秀家、小早川秀秋、島津義弘ら4万もの大軍に囲まれたため、

元忠ら城兵は大いに奮戦したが、8月1日に落城した。

この戦いを皮切りに約2ヶ月にわたる東西対決が続くのである。

縺れあってるのは底のないバケツ  森田律子


  犬伏の密談

最初は昌幸とともに信之も信繁も東軍として会津征伐に向かった。
だがその途次、三成が挙兵し昌幸にも西軍への勧誘が来た。
下野国犬伏で、真田一族は去就を決断するための協議を持った。

慶長5年(1600)7月21日、家康率いる会津征伐に合流すべく進軍して、

下野犬伏に着陣したこの日、三成が派した密使が真田昌幸の元に到着し、

西軍への加勢の要請があった。
                              かなえ
昌幸は去就を決すべく信之、信繁を呼び寄せ、鼎に座を占めて

人払いを厳命して、額を寄せ合い、密談が交わされた。

「わが真田家は今、重大な岐路に立っている。

   お前たちの存念を聞かせてくれ。 まず伊豆(信之)から申せ」

三人の前には、回し読みした文書が置かれている。
けっき
長束正家、増田長盛、前田玄以の3奉行が連署した「蹶起趣意書」

家康に対する「弾劾状」である。

片隅の内緒が重くなってくる  安土里恵

「真田家は内府(家康)殿に格別のご恩を蒙ったわけではござりませぬが、

   しかし会津征伐命令を受けて出陣しました。

   ここで逆心しては不義になりましょう。
               じっこん
   加えて昵懇を得ていますし、内府殿の養女を妻にしておりますれば、

大恩ある内府殿に弓を引くことはできませぬ」

信之は天正17年に駿府城に出仕し、領地の上野沼田も家康に安堵され、

さらに家康の養女として本多忠勝の娘・小松姫を正室に迎えてもいる。

主従関係からいっても家康に近い。

冗談に混ぜる本音の唐辛子  佐藤美はる

「左衛門(信繁)はどうじゃ」

「太閤殿下の御置目に背かれ秀頼様をないがしろにして、

 天下を私しようとしている内府殿に加担するは、

    不義不忠に味方するも同然。


    武士にして武士にあらざる末代までの家の恥であり、

    名の汚れでござりましょう。

    石田冶部(三成)殿や大谷刑部(吉継)殿らの旗揚げは、

    内府殿の不義を凝らして不忠を糺し、

   主家の安泰を図ろうとする義挙と存じます。

   豊家の海岳の恩義に思いいたさば、

   東か西かと詮議するまでもござりますまい」

信繁は天正14年(1586)から秀吉のもとで人質生活を送っている。

玉葱の肩は論理的カーブ  新家完司

だが、人質とはいえ、秀吉は信繁を厚遇をした。

朝鮮の役のおり、肥前名護屋城へ赴いたときには、馬廻りを務めさせたし、

功績著しい加藤清正や三成にすら賜らなかった「豊臣姓」を下賜していた。

それだけではない。

信繁の正室は吉継の娘だった。

信繁はまた、家康が征伐しようとした上杉景勝とも深い縁があった。

一時上杉家の人質となり、同家の直江兼続と親交を結んでもいたのである。

解凍の四捨は辛さののこる数  佐藤正昭

「相わかった」

迷妄の色が微塵もない毅然とした二人の顔貌に

満足気な視線を注いだ昌幸がつづける。
                              しゅみせん
「ともに一理はある。伊豆が内府殿から受けた須弥山より高い大恩を思い、

   左衛門が太閤殿下から受けた蒼海より深き重恩を思えば当然のことじゃ。

   行く道は違うても、帰するところは義の一字にある。

  伊豆は東につき、左衛門は西につけ」

「はっ、承知つかまつりました。それこそ我らが本懐でござります」

深々と頷いた兄弟が問う。

「父上はいかがなされます」
                                                                                               こう
「わしは内府殿に恨みこそあれ、恩義は毫もない。

   じゃが石田冶部殿は親しい縁者だ」

「されば、それがしと父上は敵と味方に・・・」

信之の眉宇が曇った。苦渋の色も浮ぶ。

人間を続けています揺れてます  合田瑠美子

「義には骨肉も親疎もない」

「しかし、父上に刃を向けるは・・・」

「大義親をも滅す、という言葉を知らぬか。何事も運命じゃ。

   それより大望を遂げ、家名をあげるには二度とない好機と心得よ。

   万一、わしと左衛門が討死しようとも、

   そのほうが残れば真田の家名は絶えぬ。真田を二つに割るが、

   それぞれに真田の誇りを貫き、六文銭の旗に恥じぬ戦をするまでよ」

「心得ました。肝に銘じまして」
    こうとう
信之が叩頭し、信繁が相槌を打つ。

父子・兄弟間にしこりもわだかまりも残っていない。

爽やかな決別の決断だった。

やがて、両者は「第二次上田城攻防戦」でぶつかることになる。

兄さんそのまま弟ありのまま  雨森茂樹

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鼻をみただけで飲兵衛だと分かる  新家完司

(画像は拡大してご覧下さい)

「戦国四方山話ー③」

「幸村は焼酎好きだった」

酒には大きく分けて「醸造酒」「蒸留酒」がある。

焼酎はウイスキーやブランデーと同じ蒸留酒である。

焼酎の正確な起源は分かっていないが、

11世紀頃には、中東や東南アジアなどで作られていたといわれている。

日本に伝わったのは14~15世紀頃と考えられ、ルートには諸説ある。

一つはシャム(タイ)から琉球経由で日本全土にもたらされたとする説。

琉球と交易があった朝鮮王朝の歴史書・『李朝実録』に、

15世紀後半に、すでに琉球に蒸留酒があったことが記されている。

発酵は爪の先から始った  立蔵信子

一つは、15世紀の初めに朝鮮の太宗から対馬領主・宗貞茂

送られた焼酎があり、やはり「李朝実録」にその記述が見られるという。

スペインの宣教師・フランシスコ・ザビエルは、天文18年(1549)

布教のために初めて日本の地を踏んだが、その3年前、

ポルトガルの商人・ジョルジュアルパレスが薩摩を訪れている。

アルパレスは、ザビエルの依頼で書いた日本についての報告書の中で、

日本人が米から作る蒸留酒「オラーカ」を飲んでいると記している。

オラーカは、アラビア語の焼酎を意味する「アラック」に由来する。

まばたき三回しっかり水気切りました 笹田かなえ

永禄2年(1559)の八幡神社(鹿児島県大口市)の改修工事の際に、

塗り込められた「焼酎」に関わる木片が見つかっている。

これが、「焼酎」の文字が使われた一番古い記録といわれている。

「永禄二歳八月十一日    作二郎
                     鶴田 助次郎

其時 座主ハ大キナこすでをちやりて 一度も焼酎ヲ不被下候。

何共めいわくな事哉」

(ここの主人は大変ケチで、一度もねぎらいの焼酎を一杯も飲ませて
 くれなかったと工事に関わった大工が愚痴って書いたもの)

※ この頃の焼酎は米焼酎で芋焼酎が出てくるのはこれから150年後。

焼酎の湯割りに塗す今日の瑕  通 一遍

真田幸村はよく知られている通り、関が原の戦いの際、

父親の昌幸と西軍に加わり信州上田城で徳川秀忠と戦った。

本線で味方が敗れたため、父子ともに処刑されるところであったが、

東軍にいた兄・信之の奔走によって助命され、

高野山の麓・九度山配流された。


ここで慶長19年(1614)に大阪に入城するまでの年月を過ごすのだが、

その間、幸村から真田家に宛てた書状が何通か残っていて、

信之の家臣・河原左京という人に出したものがある。

空き部屋があります 頭の中心に  浜 知子

書状の主な内容は、「この壷に焼酎をつめて賜りたい」というものである。

「お手持ちがなければ、ついでのときで結構だが、壷の口をよく締めて、

   紙で貼って欲しい」 

などと細かい注文がある。


以前もらったときに、気が抜けてしまったことがあったのだろう。

追伸にも「焼酎の儀 頼み申し候」と再度の要望があり、

幸村は相当な焼酎好きであったようである

お月様を味わったのはどなたです  和田洋子

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一日でならずローマもこの皺も  岡本なぎさ


「狸親爺」

「秀吉の枕元で家康が秀頼の補佐を約束したのは汚い。腹黒いやり方だ」

と、よく言われることがある。

「家康狸親爺説」がそんなところから出てくるわけだが、

豊臣家および三成サイドに立てば、それが正論だろう。

しかし家康にしてみれば、高い器量のある秀吉だから臣従したのであって、

実力ある者が天下を盗るという戦国の習いに照らしてみれば、

「秀頼より自分が上」という意識があった。

従って、戦国は終わったと考える三成と、

戦国はまだ続いていると考える家康の意識のずれが、

関が原の戦いを呼び込んだと考えられる。

身のうちに白の領分黒の領分  雫石隆子

家康が戦で仕掛ける取り口は、いつも「いいがかりをつける」である。

その矛先が上杉景勝であった。

三成が佐和山へ蟄居させられたのを目の当たりにした景勝は、

直江兼続とともに、8月初旬に京を発ち、22日に会津に帰国した。

そして領国の仕置きを表向きの理由に、翌慶長5年(1600)2月にかけて、
             こうざし
兼続に命じて新たに神指城を築城、領国内の城の普請や道路整備を行い、

武器を調達し浪人を召し抱えた。

これは明らかな戦闘準備であると家康は考えた。

加えて越後の堀秀治・出羽の戸沢政盛が、「景勝に謀反の企てあり」

との
報告が家康のもとに届く、さらに景勝の重臣・藤田信吉が、

兼続と対立して家康のもとへ出奔し、「謀反の気配」とちくった。

あなたとの境にゴーヤ植えている  寺島洋子

この頃、家康は秀吉未亡人・北政所に代わり、大坂城西ノ丸に入り、

政務を執るようになっていた。
                                 さいしょう じょうたい
そこで家康は「ここぞ」とばかりに、
京都豊光寺の僧・西笑承兌を通じて、

慶長5年4月1日付で、
景勝に書状を送りつけ上洛を促した。

この家康の書状に真っ向から挑んだのが、直江兼続である。

彼は返書として激越な文言の書状をしたため、家康に送り返した。

これが「直江状」である。

家康は重ねて景勝に上洛と謝罪を要求したが、景勝は拒否、

ここに正式に「豊臣家への謀反」を理由とした会津討伐が決定する。

朱の紐を引っぱり修羅へ直線に  上田 仁

景勝は出羽・仙道方面の守備を厳重にし、迎撃体勢を構築した。

一方、家康は6月18日に伏見城を発ち、江戸城にて再度軍議を開いた後、

7月21日、江戸を発ち会津へと向かう。

会津では景勝が仙道諸将に檄を飛ばして決戦の意を固めさせ、

8千の兵を率いて長沼に陣して家康を待った。

しかし、家康は会津へは来なかった。

石田三成「打倒家康」に向けて決起したからである。

伏見城将・鳥居元忠から、その報が家康に届いたのは、

7月24日、下野小山に着陣した日である。

世にいう小山評定といわれる軍議を開き、家康は軍を西へ取って返した。

上杉征伐への出陣は、三成に仕掛けたみせかけの罠であり、

それにまんまと引っかかった三成であった。

敵と味方に埃を分けなさい  酒井かがり

「直江状」(新潟県立歴史博物館蔵)

上杉家が軍備増強や領内の整備、城の改築したことに対し、
「謀反の兆しあり」と家康が言いがかりをつけてきたことに対する返書。

「たった三里しか離れていない京と伏見の間にさえ、

色々な風説が飛びかうのに、上方とここ会津は非常に遠く、

どんな間違った風説がたとうとも何ら不思議ではない。

また、誓紙を出せといわれるが、太閤に出した誓紙を

一年もたたずに踏みにじり、諸大名と婚姻を結んだのはどこの誰であろう。

景勝には謀反心など全くない。上方では茶の湯など、

およそ武士の本分とはかけ離れたことにうつつを抜かしておられるようだが、

我が上杉家は田舎武士につき、いつでもお役に立てるよう武具をととのえ、

人材を揃えることは、これこそ武家の本道と心得ている。

道を整え河川を修復するのは、領民のため以外に何があろう。

一国の領主として当然のことではないか。

それとも上杉家が家康公の今後の邪魔になるとでもお考えか?

前田家に仕置きをされたそうだが、大層なご威光をお持ちなことだ。

我々は心ない人々の告げ口に、

いちいち会津から上方へ行って言い訳するほど暇ではない。


このような理不尽なことでわれらを咎められるおつもりならばそうされよ。

いつでもお相手をいたそう」

不本意なカウントダウンさせられる  山口美千代

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