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川柳的逍遥 人の世の一家言
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まぼろしを剥がしつづけた現在地  たむらあきこ

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    大坂城落城

「大坂城落城ーよもやま」

外堀まで埋められ、裸同然の大坂城では、籠城はできない。

大坂方の諸将たちは、外に出て奮戦した。

天王寺、岡山田の戦いでは、

家康の孫娘の婿・松本城主・小笠原秀政と嫡子・忠脩を、

討ちとり、
さらに、真田幸村が家康の本陣に迫り、

馬印を倒さざるを得ないまでに、追い込んだ。

ピーマンを刻むと獅子唐になった  井上一筒

しかし、所詮は多勢に無勢。

この戦いで、大坂方が有利だった時に、

秀頼が出陣する絶好のチャンスはあったが、

淀やその側近が、躊躇しているうちに期を逃してしまった。

淀君も、張り切って具足をつけ、

城内を駆け回り、指示を出していたが、

いざという部分で迷ったり、

決断のタイミングを逃すことが多かった。

言い訳をするうっかりが重すぎる  神野節子

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    夏の陣・模様

やがて、幸村も戦死し、

毛利勝永がなんとか兵をまとめて、城内に撤退した。

ここで、大野治長がようやく、

淀殿と秀頼の「助命嘆願」に乗り出し、

千姫を城外に脱出させた。

城内が混乱する中で、

常高院は、家来に背負われ城外へ脱出。

常高院に、淀殿とゆっくり別れを惜しむ時間などなく、

たとえ淀殿が、死ぬのを思い止まっても、

秀頼を含めて、助命を願っても、

家康が許すはずもなかった。 

どの坂を下るか夕日待っている  黒田忠昭

 

淀殿と秀頼の助命については、千姫も願った。

それに対し、家康、「将軍次第」といい、

秀忠は、 

「一度だけでなく、何度も戦いを挑んだのだから、

  仕方ないから早々に腹を切らせよ」

 

と言ったという。

秀忠としては、

父・家康が言わんとすることが分かっていたから、

仕方のない回答だった。 

見つからぬ答に黙秘しつづける  山本昌乃
 
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     秀 頼

淀殿と秀頼は、「山里丸の糒櫓」(ほしいやぐら)に入った。

ここで、井伊直孝から大野治長に、 

「助命は叶わない」

 

という最後通告があった。

最後をともにした中には、

大蔵卿局や長政の従兄弟にあたる饗庭局など、

浅井家ゆかりの者たちがいた。

見限った処へひたひたと足音  安土理恵

この隠れ場所を突き止めたのは、片桐且元だという。

浅井ゆかりの者が、

心ならずも家康の掌のうえで踊らされ、

残酷な役回りをさせられていたのだ。

そして、元和元年5月8日、「大坂城炎上」。

京都からも、大坂の方角の空が赤く染まるのが見え、

御所では清涼殿の屋根に上って、

眺める公家もいたという。

騙し絵を透かせばいくつかの伏字   山口ろっぱ

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     夏の陣・模様

大坂城が燃え上がるのを見て、

家康は、大政所の妹を母とする小出三尹(みつまさ)に、

「どうだ?」 と声をかけた。

その問いに、三尹は、 

「思し召しの程は、心得ず候えども、

  三尹は、未だかかる憂きことには逢い候ことなし」

 

と真情を吐露したので、

家康に諂って、祝いを述べていた諸大名は驚き、

三尹の勇気ある発言に、感じいって涙したという。

ひょっとして今飲み込んだのは毒か  みぎわはな

常高院は、落城の寸前にも、豊臣方の使者として、

徳川方との間の和睦交渉にあたっていた。

が、周辺の混乱が激しくなり、

常高院は、城内に一緒に入っていた従者とともに城外へ、

そして、京都をめざした。

その合戦の最中、足を負傷する。

その時の様子を、

淀殿に仕えた侍女のお菊が、証言している。

フルートが今日のできごとを話す  立蔵信子

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大坂城を脱出する常高院と菊

『おきく物語』

本丸に火の手が上がったため、

菊は、城外への脱出をはかるが、

途中、秀頼の馬印である「金の瓢箪」が、

置き捨てられているのに気付く。

敵の徳川方に奪われたならば、

豊臣家にとって、大恥辱になるため、

もうひとりの侍女とともに、馬印を壊し、

その場を立ち退いた。

歩いたら意外に長い一時間  清水一笑

その後、城外に出た菊は、

和睦の交渉に向かおうとしていた、常高院の一行に出会う。

常高院も戦いに巻き込まれて、足を負傷していたため、

自力で動けず、武士に背負われていた。

菊は、一行に加わり、

大坂城から12キロ離れた守口まで出て、

休んでいたところ、

家康側から、常高院を迎える駕篭がやって来た。

その時、常高院から菊たちに、

「城内にいた以上は、女といえども罰せられるかもしれない。

  できるだけのことはするが、覚悟はしておくように」

と諭したという。

神さまにやっと繋がる声がする  ひとり静

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   大坂城残念石               巨大石運搬模様

≪大坂城の石垣になれなかった石、そして、その石はこのように運ばれていた≫

こうして常高院は、戦場から離脱できたが、

姉・淀と再び会うことはなかった。

翌・8日、大坂城は落城寸前となり、

大坂城天守閣下の山里廓(やまざとくるわ)で、

淀殿は、秀頼とともに自害して果てたのである。

そのときの短刀は母・市の遺品だった。

風のたよりを信じてしまう彼岸花  森中惠美子

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大河ドラマ・「お江」-第43回・「淀、散る」  あらすじ

 

「大坂の陣」が終わって、しばらくすると、

家康(北大路欣也)は、淀(宮沢りえ)秀頼(太賀)に、

到底受け入れられない要求を突きつけた。

そして要求が拒否されるや、

それを理由に、再び豊臣攻めの兵を起こす。

仏滅のあっけらかんと開くドア  井上しのぶ

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秀忠(向井理)も、豊臣攻めに加わるべく上洛するが、

実は、ぎりぎりまで戦を避ける道を探っていた。

彼はまず、常高院に会い、 

「皆の無事を願う江の気持ちを淀殿に伝えてほしい」

 

と依頼。

また、東山の地に高台院(大竹しのぶ)を訪ね、

戦を避けるよう淀を説得してほしいと頼む。

だが、高台院は、今となっては、 

「淀の心を動かすことはできない」

 

と言って、秀忠の頼みを断る。 

同じとこ行ったり来たりする頭  石橋芳山
 
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家康は、そんな息子を一喝する。 

「戦なき世が欲しいなら、戦うて勝ちうる他にない。

  それもわからず、戦がいやと言うなら、

  今すぐここを去るがよい!」   

 

豊臣家を滅ぼさなければ、太平の世は築けない。

それが家康の信念だった。

家康から、一喝され戦いを決意した秀忠は、

軍議の席で、

「総大将として敵主力に当りたい」 と申し出る。

彼には、「避けられない戦」 ならば、

せめて将軍である自分の手で、

締めくくりたいという思いがあった。

何故ダメなのか推しピンで留めておく  田中博造

だが、家康は自ら、「戦の指揮を執る」 

と宣言する。

家康も、これから太平の世を築く秀忠を、

危険にさらしたくはなかった。

そして、豊臣家を滅ぼすという、血なまぐさい仕事は、

古い世代である自分の役割だと考えていたのだ。

外角に強い蛙の眼球ぞ  岩根彰子

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一方、淀と秀頼は、本丸のみの姿となり、

かつての威容は見る影もない大坂城で、

家康との決戦を覚悟していた。 

「戦はお避けくださりませ」

 

と懇願する常高院(水川あさみ)に、淀は、 

「もはや引き返すことはできぬ」 
 
と言う。 

かくして慶長20(1615)年4月

「大坂夏の陣」
が始まる。

地下道を出よう欠片になる前に  くんじろう

豊臣方の諸将は、

裸同然となった大坂城に籠るわけにもいかず、

野戦に打って出た。

武士らしい死に場所を求めるかのような、彼らの奮闘に、

徳川方は、おおいに慌てさせられる。

中でも、幸村(浜田学)率いる真田隊の士気は高く、

敵本陣に突撃をかけて、家康に肉薄した。

端っこが欠けて真ん中あわてだす  籠島恵子


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だが、豊臣方の抵抗もそこまで。

幸村をはじめ、

名のある武将はことごとく討ち取られ、

盛りかえした徳川勢は、いよいよ、

大坂城本丸に迫る。

ことここに至り、

秀吉の遺志を継いで、豊臣家の誇りを守り続けてきた淀は、

ようやく、自分の気持ちに区切りをつけるのだった。

地図にない抜け道なのに混んでいる  寺川弘一

拍手[4回]

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切れ味の悪いジョークにけつまずく  合田瑠美子

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「秀吉迂闊」

豊臣秀吉自慢の大坂城は、

三重の堀と運河で囲まれた、高い防御機能を持つ名城で、

建設中に城を訪れた大友宗麟に、

「三国無双」 と讃えられたほどだった。

 横顔を回転ドアにほめられる  山本早苗

築城が開始されたのは、天正11年(1583)8月、

本能寺の変の翌年で、

三姉妹が、秀吉に保護されたあと、

北ノ庄城落城、柴田勝家とおの方が自刃、

秀吉は、「天下統一」に向けて奔走していた時期にあたる。

存在を知らしめるナメクジの軌跡  下谷憲子

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   黄金の天守閣

これだけ大きい城となると、

完成まで10-15年は要するが、

完成時には、当主交代も考えられる歳である。

実際、完成したのは慶長3年(1598)、

秀吉が没した後であった。

本丸、二の丸、三の丸、総構えを擁する堅城で、

また天守閣は、外観五層で、

秀吉好みに、
金箔をふんだんに使った、

華美な城であった。  

≪家光の時代になって100万都市の江戸城は、大坂城の5倍の大きさに≫

  

塀の上少し胸張る贅沢微糖  酒井かがり

大阪城は、秀吉自身の居城とするためだけに、

建てたのではなかった。

そんな日本随一の堅城として、建てられた大坂城だが、

作った秀吉だからこそ思いついた、

「大坂城攻略法」 があった。

自慢したがりの秀吉は、大坂城に家康ら諸将を招いて、

酒宴を開いたときに、その攻略法を披瀝した。

警戒心まるでないから人だろう  河津寅次郎

その時、酔いも助けて秀吉は、家康らに、 

「この城を攻めるなら、どう攻める」

 

と問答をしかけた。

答えがすぐに出せない一同に対し、

秀吉は、得意気に攻略法を語った。

それは、 

「外堀を埋めるという条件で、和議を申し込み、

そのまま内堀を埋めてしまい、本丸を裸同然にしてしまうこと」

 

だと。

石垣のところどころに湿布薬  平井美智子

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秀吉は、感心する一同を見て、

大層にご機嫌だった。

家康は、この笑談を、しっかり覚えていた。

家康は、秀吉直伝の作戦のまんま、

「大坂・冬の陣」後の和議に利用したのである。

もし、その酒宴で、秀吉の真横にいた淀殿が、

この戯れ言を、真剣に聴き、覚えていれば、

家康の術中に、嵌ることもなかっただろう。

記憶とは近づき遠ざかるものだ  杉本克子

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  秀吉の墓・「豊国廟」

阿弥陀ヶ峰中腹にある秀吉の墓・大五輪塔に着くまで、

「秀吉らしさ」に、たっぷり汗をかかされる。

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豊国廟参道ー

「女坂」から「太閤坦(たいこうだいら)」

中央にある拝殿に一礼し、

そこから石段があり、それを登り詰めると、

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さらに、急な485段の石段が待っている。

それを登っていかなければ、

秀吉に会えない「遺言の墓」である。

マテ貝は泣きだすぼくは手を合わす  湊 圭史

拍手[4回]

死に顔はこうか薄目で鏡見る  堀尾すみゑ

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       二条城

家康は二条城から「大坂の陣」に出陣した。

「大坂冬の陣」

「関ヶ原の役」後に、御家取り潰しなどに遭い、

徳川家への復讐に燃える者、

戦乱に乗じて、一旗上げようとする者など、

集まった豊臣方の総兵力は、約10万人。

そんな中に、真田幸村、長宗我部盛親、後藤又兵衛、

毛利勝永、塙直之、大谷吉治 など、

豊臣軍に歴戦の勇士が揃った。

強靭な遺伝子を持つ草の種  新家完司

とはいえ、寄せ集めは、寄せ集めである。

烏合の衆を、なかなか一つに纏めることが出来ない。

豊臣軍の内部は、二つに割れた。

大野治長を中心とする " 籠城派 " は、

二重の堀で囲われ、

さらに巨大な惣堀(防御設備)で固められた、

大坂城に立て籠もり、徳川軍を疲弊させて、

有利な講和を、引き出そうというのである。

つぎはぎだらけのシャトルの乗り心地  井上一筒      

一方、真田幸村ら” 攻撃派" は、

近江の瀬田川で、関東から進軍してくる徳川軍を迎え撃ち、

足止めしている間に、諸大名を味方につけ、

その見込みが無いときに、初めて城に立て籠るという

二段構え作戦 を主張した。

これに、後藤又兵衛・毛利勝永も、幸村案に同調し、

対立したが、

結局は、治長の 「堅固な大坂城に籠城する案

が採用された。

時間を買えば生命線がのびますか  岩田多佳子

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     大坂冬の陣

「家康の老獪な豊臣打倒の手順」

11月18日、家康が秀忠のいる茶臼山に着陣。

    19日、戦闘が開始される。

12月1日、豊臣方が籠城した大坂城を徳川方は、

             約20万の軍で完全包囲する。

        2日、家康、攻城設備の構築を命じ、

      攻撃設備の構築を行いつつ
大坂城に接近する。

こうした攻撃的な戦法の裏で、

12月3日より、徳川の方から、和議の打診を行っている。

             ① 真冬の戦であること。

             ② 徳川方の兵糧不足(豊臣方の買占めによる)。

             ③ 真田丸・城南の戦で被った徳川軍の大きな損害。

などで、家康は和議を求める作戦に出ている。 

しりとりは「る」攻めをすればほぼ勝てる  毛利由美

 

     9日~家康、大坂城に大砲による本格的な攻撃を指示。 

≪ 国産3貫目の大砲、イギリスの大砲(5門)・オランダの大砲(12門)

  和議の成立まで撃ちつづけた≫

 

砲声は京にも届き、

その音が、途切れることはなかったという。

これに対し、豊臣方・塙直之らも、

夜襲をしかけ、応戦したが、

劣勢であることは否めず、和議に応ずることとなる。

あっと秋それもかなりに深い秋  時実新子

織田有楽斎を通じて、行っていた和平交渉は、

  12日、有楽斎と治長が、本多正純、後藤光次

       講和について、
書を交わす。

その中に、「浪人たちを城内に留め置くかわりに

       「淀殿が人質として江戸に行く」

という案も出ていたという。

    16日、兵糧不足、弾薬の欠乏、

      徳川方の心理戦による将兵の疲労
などで、

淀殿も、軟化せざるを得なくなったようだ。 

手折られて花に虚ろな風ばかり  井上裕二

 

    18日より、徳川方の京極忠高の陣において、

         詰めの交渉が行われる。

            家康側から、本多正純、阿茶局

            豊臣側から、常高院。

   19日、講和条件が合意する。

    20日、誓書が交換され和平が成立。

諸将の砲撃が停止され、約一か月の戦いは終息した。

ハンもらうまでは貫く低姿勢  片岡加代

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ところが、家康は、

当初に取り決めた城の破却と、堀の埋め立てを、

豊臣側の領分まで、徹底的に行い、

大坂城を、丸裸にしてしまった。

人間の声をうたがう耳になる  中 博司

抗議する常高院に対し、家康は、

「秀頼の領地替え」 か、

「城内の浪人者の放逐か」 を条件に加え、

「それが出来なければ、ふたたび攻める」

と言い出す。

大坂に帰った常高院は、必死に淀殿を説得するも、

淀殿は、拒否。

ふたたび戦は、避けられなくなった。

許せないことのひとつを咀嚼する  合田瑠美子

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       大坂・夏の陣

4月14日、大坂・夏の陣が始まった。

戦況は明らかに徳川軍有利だった。

秀頼が陣頭に立てば、

「戦況は変わる」 という幸村たちの要請に、

秀頼は、その気になったが、淀殿はこれを拒否した。

もし秀頼が出馬していたら、

家康に味方していた福島正則、黒田長政、細川忠興

山内一豊たち、豊臣系大名は、

大坂城を攻めることに、躊躇しただろうし、

あるいは、

豊臣側として働いたかも知れないのだ。

ハンカチよりタオルがほしいエピローグ  谷垣郁郎

7b9b576e.jpeg  8ea0695f.jpeg  

大河ドラマ・「お江」-第42回-「大坂冬の陣」  あらすじ

慶長19(1614)年11月19日、

徳川方の軍勢が豊臣方の砦に襲いかかり、

ついに、「大坂・冬の陣」が始まった。

数で勝る徳川方は、大坂城周辺での戦いで勝利を重ね、

一気に城を落とさんばかりの勢い。

陣中では、

「このまま大坂城に攻め入るべし」 

と主張する武将も続出する。

だが、家康(北大路欣也)は、慎重だった。 

太刀打ちが出来ぬとぼけた顔がある  牧浦完次

 

家康は、「焦っては思わぬ手落ちを招く

と諸将をなだめ、城攻めには打って出ない。

それどころか、はやばやと、

豊臣方に和睦を申し入れるのだ。

だが、豊臣方は、家康の申し入れを突っぱねる。

総大将である秀頼(太賀)は、和睦に前向きだったものの、

家康を信用できなくなっていた淀(宮沢りえ)が、

断固反対したのだ。

偽物を掴んでからの不整脈  山本昌乃

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そんな中、大坂城の弱点ともいえる場所に、出丸を築き、

不気味な存在感を示していた幸村(浜田学)が、

彼の誘いに乗って、攻撃を仕掛けてきた徳川勢を、

さんざんに打ち破る。

この勝利により、豊臣方は息を吹き返した。

水たまりに浮かんだ乗り気らしきもの  壷内半酔

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それでもなお、家康は慌てない。

家康は、無理に攻めることなく、敵に圧力をかけ続け、

優勢のまま、

和議を結ぶことしか考えていなかったのである。

なぜなら、家康の真の狙いは、

講和条約に、堀の埋め立てを盛り込み、

停戦するやいなや堅城・大坂城を

裸同然にしてしまうことにあった。

さらさらと滞空時間さらけだす  酒井かがり

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一方、江戸城では、 

「これより先は、大坂からもたらされる、

  ありとあらゆる知らせを私のもとに届けよ」

 

ついに大坂で、戦が始まったと知り、

江(上野樹里)は、江戸城に残る家臣たちにそう命じる。

それが、大坂城にいる姉や娘の身を案じていた彼女が、

今できる唯一の行動だった。

あとはただ、祈るのみである。

指に止まったアカトンボの伝言  田中博造

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やがて、そんな江のもとに、和睦成立を伝える文が届く。

豊臣方の交渉役を務めた常高院(水川あさみ)の、

尽力もあり、

淀や秀頼は、無事に大坂城にとどまれる

ことになったとのこと。

ひとまず胸をなでおろす江。

だが、講和後すぐ、大坂城の堀が埋められていると聞き、

一抹の不安を覚える・・・。

数珠入れたままで吊るしてある喪服  小佐野昌昭

拍手[3回]

誰の手を握るだろうかその刹那  片岡加代

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    片桐且元

「大野治長と片桐且元」

小谷城の東側の谷間に、須賀谷という温泉がある。

当時も湯治場として、使われていたらしいが、

ここを本拠とする片桐直貞は、

淀の父・浅井長政に仕えて、

小谷落城前日に感状をもらうほど、忠義な人であった。

又、そのDNAを引き継いで、子の且元もまた、

若い頃から秀吉に仕え、「賎ヶ岳の七本槍」の一人として、

知られた忠義一徹の武将である。

 その後は、信頼性を買われ、武将としてより、

実務官僚として、太閤検地などに活躍し、

「秀頼の傳役」となった。

上流に向けて利き足から入る  森田律子

また且元は、徳川とのパイプ役としても活動、

信頼をされていたのだが、

ハト派でもあっただけに、

「間者ではないか」 と疑われることも多かった。

「梵鐘事件」でも、家康に嵌められただけだだったが、

治長をはじめ、彼を信用する者はいなかった。

いずれにせよ、且元が淀殿の呼び出しを無視して、

逃げ出した以上、

城内の主導権は、その後、大野治長がとることとなった。

体重計で人の器は計れまい  笹倉良一

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大野治長役ー武田真治

治長の画像はないが、かなりの美丈夫だったという。

「生きるも一緒、死ぬるも一緒」

大野治長は、永禄12年(1569)京都に生まれた。

母の名は、小袖(後の大蔵卿)

小袖は、同年、茶々の乳母として浅井長政の小谷城に入る。

お市の方には、

養育係と母乳を与える係りの、2人の乳母がいたが、

治長が、同年に生まれていた事もあり、

小袖が母乳係として、
茶々の乳母をまかされた。 

いわゆる、淀殿と大野治長とは、乳兄妹になる。

 

そして2人は、兄妹のような関係で育っていく。

青空へ一直線のハーモニカ  前中知栄

治長は成長に伴い、母が淀殿の乳母であるという関係から、

秀吉の馬廻衆(3000石)として取り立てられる。

秀吉の死後は、秀頼の側近となった治長だが、

微妙な政治情勢のなか、

その存在や動きは、多分に警戒されるようになり、

慶長4(1599)年、家康暗殺の首謀者として、

下野国結城に蟄居を命じられる。  

≪大蔵卿局もまた治長に連座し、徳川に罪に問われる≫

  

運命線ぷつりと消えて冬景色  久米穂酒

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     大蔵卿局筆跡

翌・慶長5年の「関が原の戦」では、東軍として参戦。

武功を上げ、家康から罪を許された。

戦後、家康の命で、

「豊臣家への敵意なし」 という家康の書簡をもって、

豊臣家への使者を務めた後、

江戸に戻らず、そのまま大坂に残った。 

ジグザグでいいんだわとくしの軌跡  たむらあきこ

 

人材不足と淀殿に信頼されたこと、

バランスの取れた実務能力で、

片桐且元追放の後、大坂の陣の頃には、

城内第一の実力者となった。

だが、実績がないことへの反発も強く、

淀殿からの信頼があるといっても、

「治長の下知などには、従いたくない」 

といって、入城を拒否するものもあり、

城内の信頼は薄かった。 

≪治長は、そうした政治力、外交力の不足から、

 真田幸村ら主戦派に、大坂の陣へと引きずられていく事になる≫

 

拝まれる石と蹴っ飛ばされる石  荻野浩子

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     山里曲輪跡

「大阪・夏の陣」においても、

豊臣秀頼の正室であり、

家康の孫娘である「千姫を助ける」ことを条件に、

家康側との講和の交渉中に、

主戦派が勝手に戦を仕掛けてしまうという、

治長の無力さをされけだしている。

そして、徳川方へ返した千姫を使者とし、

治長は、 

「己の切腹を条件に、秀頼母子の命は助けて欲しい」

 

と願いつつ、大坂城の山里曲輪で自害した。

限りなく下まで落ちる立ち泳ぎ  森 廣子

慶長20年5月8日未明、

大蔵卿局もまた、
淀殿や秀頼、治長とともに、

山里曲輪の蔵に入り、
47年間、

大切に育て上げてきた掌中の玉である姫が、

生き延びること叶わずに、命を散らせたのを見届け、

命を絶った。
 
遺言は物干し竿に書き残す  井上一筒

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   大坂城址

さて且元は、戦後、四万石に加増されたが、

20日のちに、突然亡くなっている。

秀頼を助命してもらうために、

あえて徳川に協力したつもりが、

こんなことになっては、

「生きていくわけには、いかなくなったのではないか」

と囁かれている。

言い訳はいらん底辺一番地  谷垣郁郎

拍手[4回]

たましいを吊るすいちばん寒い釘  たむらあきこ

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  慶長の大坂城・模型

「大坂の陣」

徳川家康が、豊臣家を滅ぼそうと決意したのは、

 

慶長16年(1611)3月、  

「二条城で19歳の豊臣秀頼に対面したとき」 
  
だと言われている。

聡明な青年に成長した秀頼を目にし、

徳川家の将来に、危機感を覚えたのだという。

このとき、家康は70歳、

老い先短い年寄りにとっては、自然な感情であろう。 

 

悪がきのままじいちゃんになりはった  片岡加代

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洛中洛外図の一部(伏木勝興寺所蔵

方広寺大仏殿と豊国神社・豊国廟大仏殿、後ろに豊国廟と参道を描く   

≪大仏殿は、高さ約49メートル・南北約88メートル・東西約54メートルという

   壮大なものであり、また境内は、現在の方広寺境内のみならず、

    豊国神社、京都国立博物館を含むものであった  

      

それから3年後の慶長17年(1614)7月、

「梵鐘事件」 が起きる

家康は、太閤殿下の霊を慰めるためにと、

しきりに、京の「大仏再建」を豊臣家に勧めた。

豊臣の財力を弱めようとする、老獪な家康の目論見があった。

ところが、出来上がってみると、家康の思惑は大きく外れる。

秀吉がつくったものは、木造であったが、

今度は、燦然と黄金が輝く金銅製のもので、

奈良の大仏をしのぐものであったのだ。

なにしろ、その大仏殿は、

現在の京都駅とほぼ同じくらいの高さがあったから、

人々の度肝を抜き、

豊臣の天下復活の狼煙のようにみえたのである。 

棒に当たるよっぽど運の悪い犬  脇 正夫

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そんなとき、

同時に完成した「方広寺の梵鐘」が問題になる。

それは、長い鐘の銘文中の一節に、

『国家安康・君臣豊楽』 とあり、

「国家安康」は、『家康』の名を分断したもので、

「君臣豊楽」は、『豊臣家の繁栄』を願うものとし、

御用学者・林羅山は、 

「『右僕射源朝臣家康』は、

  右僕射(右大臣)である、家康公を射るもの」

 

と言いがかりをつけたのである。 

月が欠けたらそれできっかけが出来る  板野美子

 

家康は、本多正純を通じて、これを詰問したので、

秀頼の後見人の1人の片桐且元が、

さっそく駿府に弁明のため、出発したのだが、

それだけでは心配で、淀殿は、大蔵卿局も派遣した。 

≪大蔵卿は茶々の乳母で、大野治長の母である≫

 

家康は大蔵卿局には、 

「何も心配することはない」  と言い。

一方で、

且元には、自分では会わず、正純の方から、

「よほど思い切って、

  不信感を一掃できる措置がないかぎり許せない」

と言わせている。 

クレームに居直るペテン師の笑い  中川隆充

 

大坂城へ帰った且元は、

「大坂城を出るか」 

「茶々が人質になるか」

「秀頼が駿府に出向くか」 

正純から脅され、捻じ込まれた意見を、

「豊臣家存続のため」 と必死に淀殿に申し述べた。

あえて、大阪方が呑めないような条件を、出してくるのが、

家康の嫌らしいところである。

返信用封筒に貼る鬼薊  笠嶋恵美子

ところが、「心配することはない」 

という、大蔵卿局の報告を受けていた淀殿と大野治長は、

承知せず、

且元を、「徳川に内通している」 と罵倒したのである。

それに動転した且元は、自分の屋敷に籠り、

淀殿からは、「再び出仕するように」と説得の手紙が届くも、

不信感は拭えず、その身は、茨城城に引き払っている。 

≪且元は、大坂の陣では、徳川方についている≫

 

蟻と目が合った蔑んだ目だった  大海幸生

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      大坂の陣

このように「梵鐘事件」で絶好な口実を得た家康は、

同年10月、大坂城を90万の大軍で包囲する。

一方、戦いを決意した豊臣方は、

6万に余る浪人を召し抱え、

大量の兵糧を城内へ運び込んで、

抵抗する姿勢を鮮明にする。

これが、「大坂・冬の陣」(11月)である。  

三日月に隠しきれない7番目の脊椎  酒井かがり
  
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   大坂の陣ー2

開戦を耳にした福島正則は、

「三年遅く、三年早い」 と言っている。

少し前なら、

加藤清正・浅野幸長・池田輝政・前田利長などが健在で、

「家康も乱暴なことも言わなかっただろう」 

し、
もう少し後なら、

「家康はこの世の人でないだろう

との意味である。

しかし、この戦闘は、

豊臣方の真田幸村、後藤又兵衛、木村重成らが、

善戦したため、家康は大苦戦をしいられる。

出来そうもないモットーが奇跡呼ぶ  坂下五男       

そこで家康は、徳川方の食料補給なども厳しく、

損害も増える一方だったから、和平を模索しはじめる。

意外な大坂方の奮戦のため、

大坂城を攻めあぐねた家康は、

和睦の使者として、側室の阿茶局を交渉の場に派遣する。

豊臣方からは、茶々の依頼を受けて、

初が、城内から出てきた。

交渉の場に指定されたのが、

義理の息子・忠高の陣所だった      

交渉をスムーズに進めるため、

家康がそう指示したのだろう。

ここ一番山を動かす低姿勢  後洋一  

豊臣家の方針を決めていたのは、

秀頼というより母の淀殿だった。

家康としてはそんな豊臣家の事情を見透かし、

初を通して、淀殿に和睦を承諾させようとする。

そのために、交渉相手として、

同姓の阿茶局を交渉のそばに派遣したのだ。


家康の目論見どおり、淀殿は和睦を承諾する。

あの世でもアホだアホだといいそうだ  中前棋人

            和議の内容は  atya.jpg          atya.jpg

  阿茶局
    
「淀殿を人質としないかわりに、

  大野治長、有楽斎より人質を出す」

「秀頼の身の安全を保証し本領を安堵する」

「城中の浪人などについては、不問にする」

 

というもので、

一見、大阪方にとってかなり有利な条件を、

家康は受け入れた。 

≪中には大阪方は「浪人に知行を与えるために加増を」と願う項目も入れたが、

    これは虫が良すぎると、受け入れられなかった≫

 

生き抜く温度 死なない温度大切に  墨作二郎

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                現在の大坂城

そして大阪方は、和議の中に、

本丸を残して二の丸・三の丸を破壊し、

惣堀を埋めること、が組み込まれた。

これは、このような和平では、常識的なことになっている。

だが、大阪方では、惣堀を、

徳川方で埋めることは承知していたが、

二の丸を囲む外堀は、大阪方がやることになっていた。

それを徳川方は、大阪方の工事を手伝うと称して、

「外堀までを完全に埋めてしまった」 のだ。 

≪忌々しいことに、その工事にあたらせたのが、

    常高院の義理の息子・京極忠高で、どこまで嫌みな家康か≫

 

形あるもの何ものこさぬ訣れかた  安土理恵

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    大坂の陣ー3

だがこれは、徳川方の見せかけの和睦で、

翌年4月、またも家康は秀頼に対し、 

「浪人たちを承知しても城内に留めるとは思っていなかった」

 

といって

「浪人を追放せよ」
 と迫ったのである。

こうした徳川の嫌がらせに対し、

5月、豊臣家は、徹底抗戦を決意、

大坂城周辺で、徳川方武将と激しい戦闘を行った。

「大坂・夏の陣」である。

泣き黒子 梅雨前線通過中  和田洋子

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家康が幸村に追われ逃げ込んだ念仏寺

豊臣方の武将は、

すでに勝ち目のない戦であることを自覚していた。

つまり、残っている者は、死を決意した人間たちであった。

死兵は強い。

とくに真田幸村隊1万の勇猛さは、群を抜いていた。

その幸村が、最終決戦において討ち死に覚悟で、

家康の本陣を目指して、突撃を敢行する。

家康は、まさか本陣まで到着するとは思わず、

たかをくくっていたが、

真田陣は、大木に錐で穴を開けるように深進し、

ついに徳川本陣へとなだれ込んだ。

失敗をすると決めてから笑う  森中惠美子       

真田隊のために、徳川本陣はたちまち蹂躍され、

馬印も踏み倒された。

旗本たちは混乱の中、家康を残してみな逃げ散った。

家康のもとにとどまったのは、

小栗久次ただ1人、という有様だった。

このとき家康は、 

「もうだめだ。俺は腹を切る!」

 

と、二度まで絶望して叫んだと伝えられる。 

ごはさんで願いましてと命消え  森 廣子
 
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                 方広寺・梵鐘

『余談』

豊臣家を滅亡させてしまう原因となった「鐘銘」が、

いまも、ちゃんと現存している。

本来なら、あのような大事件の要因となった鐘銘だから、

その部分は、削りとっていそうなものだが・・・。 

「開戦の理由さえ得られれば、鐘などどうでもよい」

 

という、家康の本音が見えてくる。

つらかった話しはしない花図鑑  赤松ますみ

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大河ドラマ「お江」-第41回・「姉妹激突!」  あらすじ

秀忠(向井理)は、

「徳川と豊臣が並び立つ」 という自分の考えが、

家康(北大路欣也)から無視されていることにじれていた。

そこで秀忠は、ひそかに秀頼(太賀)に文を送り、

共存を目指す自らの考えを、伝えることにする。

念のため、江(上野樹里)からも、

「自分の気持ちに偽りがない」 

ことを伝える文を書いてもらうなど、

秀忠の思いは、本物だった。

秀頼は、そんな熱い思いが込められた文を受け取り、

両家の未来に一筋の希望を見いだすが・・・。 

時々は善人の面修理する  合田瑠美子
 
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一方、駿府にあって、政治の実権を握り続ける家康は、

豊臣家をさらに弱体化する機会を、

虎視眈々とうかがっていた。

そんな折、事件は起きる。

豊臣家が再建中の京・方広寺の鐘に、

家康を呪っているとも取れる文言が、刻まれたのだ。

家康にしてみれば、まさに好機到来。

彼はここぞとばかりに、豊臣側を糾弾する。 

記述せよバラとラバとの相似点  井上一筒

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大坂城の淀(宮沢りえ)は、

そんな家康の露骨な言いがかりに激怒した。

だが、事を荒だてたくない秀頼になだめられ、

とりあえずは、鐘の銘文に他意がない旨を伝える使者を送る。

しかし、一方で淀は、 

「もうこれ以上、秀頼が屈辱を受けることあらば、

  家康との戦もやむなし」

 

と決意を固め、ひそかに、その準備を命じるのだった。

埋められないようにしっかり二度洗い  山本昌乃

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