川柳的逍遥 人の世の一家言
≪武装して庭に控えているのが平家貞、 殿上で太刀を抜いているのが平忠盛。 家貞は忠盛・清盛の二代に仕えた。 (平家物語絵巻第一巻)≫ 「殿上闇討」 長承元年(1132)11月、
念願の殿上人となった忠盛に、
来るべき「豊明の節会」の際に、
それを知った忠盛は、懐に忍ばせた刀を抜き、 後日、貴族たちは手出しができなかった腹いせに、 忠盛が宮中に刀を持参したことを鳥羽院に告げるが、 それは、木刀に銀箔を張っただけのものだったため、 上皇は忠盛の機転を大いにほめたという。 * 豊明(とよのあかり)の節会=新嘗祭の最終日に行われる宴会。 赤ペンのインクが洩れる雑木林 湊 圭司 「闇討ち」などというと、暗殺を想像してしまうが、 そのような物騒なものではなく、 せいぜい乱暴狼藉を働く程度のことであったのだろう。 殺人を生業とする武士の、 しかもその棟梁に暴力を振るおうというのだから、 見上げたものだが、 その程度の嫌がらせしかできないところに、
「斜陽の貴族階級」と「新興勢力である武士」の、 さるすべり赤い爪跡ふえている 安土理恵 もっとも、肩すかしをくらわされた貴族たちは、 直後の宴席で、さらに卑劣な嫌がらせを試みる。
天皇の命により、 伴奏していた貴族たちが、急に拍子を変えたかと思うと、 「伊勢平氏はすがめなりけり」 とはやし立てたのである。 伊勢平氏の忠盛が " 斜視(すがめ) " であったのを、 「伊勢産の瓶子(へいし)が粗悪で、
酢を入れる酢甕(すがめ)にしか使えないこと」 公衆の面前で恥をかかされ、怒りに震える忠盛であったが、 宮中の酒席ではいかんともしがたく、 悔しさを押し殺しながら、早々に退出しるしかなかった。 正解硫酸銅の青の中 井上一筒 この「殿上の事件」を清盛が知っていたのかどうか? は分からないが、何らかの形で、 耳にする機会もあったのではないだろうか。 こうした屈辱に耐えなければならなかったのは、 忠盛だけではなかった。 ≪清盛が「鼻平太」のあだ名で呼ばれたというのは、 このころのことである。 「源平盛衰記」≫ 鳥羽院の寵臣である藤原家成が、播磨守であったころ、 清盛は朝夕に柿色の直垂(ひたたれ)に縄緒(なわお)の
足駄(あしだ)という貧相なかっこうで、 京童(きょうわらわ)は「高平太」といって笑った。 清盛は恥ずかしく思ったのか、 扇で顔を隠したが、扇の骨の間から鼻が見えていたので、 京童は、「高平太殿が扇に鼻を挟んだぞ」 といって、
その後は " 鼻平太 " と呼んだという。 外見を笑いの種にする発想は、 「伊勢平氏はすがめなりけり」 にも通じる陰湿で幼稚なものだ。 ただし、家成の播磨守任官は、清盛が十三歳のときであり、 すでに官位を得て貴族の仲間入りをしていた。 忠盛も受領を歴任して、裕福だったはずであり、 この逸話には、かなりの誇張が混じっていると思われる・・・。 ≪が、当時の京都や貴族社会には、依然として 平家をあなどるような雰囲気があったようだ≫ 火葬場の横に噂が積んである 和気慶一 このような屈辱を受けるたびに、清盛はいつか、 「貴族たちを見返してやりたい」 と思いを抱いたかもしれない。
だからといって、 とまでは、考えもしなかっただろう。 渋い茶の底で沈んでいる我慢 百々寿子 清盛は現実主義者である。 いくら貴族たちのあざけりを受けても、 彼らに公然と仕返しできる力は、今の平家にはない。 屈辱に耐え忍ばなかればならない現実を、 かみしめていたのではないだろうか。 生垣の猫のこの世をこことして 筒井祥文 PR |
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