- 2011/03/08
- Category : ポエム&川柳
お江ー賎ヶ岳の戦い
生命線も運命線も汗をかく 森中惠美子
賎 ヶ 岳 合 戦 図 屏 風
左隻には、大岩砦、岩崎山砦への柴田勢の猛攻、
秀吉方の”中川清秀の奮戦の様子”が描かれている。
右隻には、翌日退却する柴田軍と追撃する秀吉軍が描かれ、
”中央に扇を掲げて喜ぶ秀吉の姿”が見られる。
柴田勝家は、清洲会議以後、羽柴秀吉との対立を深め、
ついに両者は、近江余呉湖畔で対陣する。
戦争は平和を守るためでした 矢須岡信
「賤ヶ岳の戦い」
織田家の幼主となった三法師は、
いったん清洲から信孝の岐阜城に戻ったあと、安土城に移るはずであった。
安土城は、”本能寺の変”で、天守閣などは焼かれたが、
すべての殿舎が、失われたわけではない。
応急で新しい御殿も設備され、本能寺の変から三年後に、
近江領主となった豊臣秀次が、安土の城下をそっくりに、
近江八幡に移すまでは、城も町も存続していた。
ところが信孝は、お傅役に予定されている堀秀政らが、
羽柴寄りであることもあって、三法師の引渡しを渋った。
秀吉や信雄は、「引っ越しを早くするように」催促していたが、
越前に雪が降って、柴田勢が動けなくなるのを待って、
天正10年(1582年)12月、
勝家の甥で、長浜城主だった勝豊を攻めた。
勝豊は養子であったが、勝家ともうひとつ、しっくりいっていなかった。
そこを見越しての攻撃で、勝豊は二日間で、城を明け渡すことになる。
いけ好かぬ顔向うからやってくる 山本翠公
この報せは、北ノ庄にも届いたが、すでに雪が降り積もり始めており、
勝家は、なすすべもなかった。
秀吉と信雄の連合軍は、こんどは岐阜城を囲んだ。
雪で閉じ込められた越前からの援軍も、期待できず、
信孝は、三法師を引き渡して、安土に移すとともに、
大切な生母と、自身の娘を人質に出さざるえなくなった。
悔しくてたまらない勝家は、春になったら秀吉と戦うべく、
各地に手紙を出し味方をつのった。
とくに毛利家では、小早川隆景が秀吉シンパだということで、
兄の吉川元春や、備後にいる足利義昭に味方するように工作をした。
2月になると、秀吉は伊勢の滝川一益を攻めた。
一益は、信長軍団でも軍司令官としては、もっとも有能な武将であったが、
本能寺の変のときに、上野の厩橋にあって北条勢に囲まれて、
逃げ帰ってきたことから、宿老の地位を失い、
領地も旧領の伊勢長島周辺だけになっていた。
あちらこちらにト書きうっかりしておれず 山本昌乃
左・秀吉軍 右・勝家軍
いたたまれなくなた勝家は、
3月9日、雪がまだ積もる中で強行出撃をする。
秀吉は急いで軍を近江に戻し、湖北の木之本付近で、柴田軍と睨みあった。
この情勢を見て、動き出したのが信孝である。
美濃国内の稲葉一鉄や大垣の氏家直道といった、秀吉派大名の領地へ攻撃を加えた。
秀吉は、一旦、美濃に転進するとともに、
人質にとっていた信孝の母を、殺してしまうことになる。
このことは当然、信雄も同意していた。
乗せられた船には穴が空いていた 辻 葉
母を人質にとられていたのに、
どうして信孝が、大胆な動きをしたのか判然としない。
信孝の犠牲は、大きいものであった。
この母は、蒲生氏郷夫人である冬姫の母でもあった。
氏郷は、この戦いで秀吉軍の有力武将として、
伊勢で滝川勢と戦っていたのだから、
戦国の掟とはいえ、残酷なことである。
攻める秀吉軍
このとき、秀吉が岐阜に向かったのは、柴田軍をおびき出す意図があった。
果たして柴田軍の佐久間盛政は、中川清秀が守る大岩山砦を急襲した。
その近くにある岩崎山砦にあった、高山右近は撤退し、
清秀にも、それを勧めたが、清秀は踏みとどまって戦死してしまった。
武将としての美学を通したのである。
≪ただ、この清秀の頑張りによって、
中川家は豊後竹田藩七万石の大名として、生き残ることができた≫
向うから仕掛けられたら受けて立つ 堀江くに子
さて、盛政は、緒戦の勝利に酔ってしまい、
勝家の忠告を無視して、羽柴軍を深追いしてしまう。
陣形が伸びてしまったところに、
急を聞いた羽柴軍が、農民に松明を焚かせ、食事を炊き出しさせて、
常識破りのスピードで戻ってきた。
≪午後4時に大垣を出発して、賎ヶ岳までの50キロを、
5時間で走ったと言うから、誇張があるにしても、驚異的なスピードである≫
迅速な行動は、羽柴軍の得意とするところ、
盛政軍は、あわてて退去しようとしたが間に合わず、
羽柴軍にさんざんに打ち破られた。
≪福島正則、加藤清正のほか、浅井旧臣の片桐且元、脇坂安治など、
”賎ヶ岳の七本槍”といわれる羽柴軍の若手武者たちが、
活躍したのはこのときのことである≫
ライバルはおへその裏に棲んでいる 小谷小雪
扇をふりあげ奮戦する秀吉
しかも、この戦いでは、
後方を支援するはずの前田利家軍が傍観し、
戦況不利と見ると、早々に戦場を離脱している。
柴田の与力とはいえ、秀吉とは若いときから懇意で、
娘の豪姫を秀吉夫妻の養女として、出しているほどだったから、
もともと、しぶしぶ参加していただけなのだ。
それは、勝家も分かっていたことであった。
そこで勝家は、北ノ庄への帰路、府中の城に立ち寄り、
利家の従軍に感謝し、後事を託して落ちていった。
そのあとに、秀吉が訪ねてきて、利家とまつ夫妻に会い和解したという。
こんにちは さよなら言うただけの今日 泉水冴子




