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川柳的逍遥 人の世の一家言
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苦くなるほど熟れていた角砂糖  井上一筒

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  高知城をのぞむ半平太

「外様の大名が、幕政に関わりを持ち幕末へ」

関が原で、豊臣方に味方した外様大名は、裏切りを警戒され、

『幕政への参画』 を一切許されることがなかった。

天保8年のペリー来航以来、多少、様変わりしたものの、

なお、政治の中枢には、入り込むことができない。

そこで、薩摩や長州などの雄藩は、幕政への関わりを得るため、

次のような一手を考え出した。

①、天皇に、幕府への使者(勅使)をたててもらう。

②、外様の藩主は、その補佐と護衛の命令を、天皇に下してもらう。

③、そして勅使を通じて、自分たちの考えを幕府に実現させる。

というもの、これが、大成功。

待ちわびてわたしの仮面ずれてきた 山口ろっぱ           

成果として、

薩摩藩― 幕府に将軍後見職・政治総裁職のポストを新設させ、

       一橋慶喜と松平慶永(春嶽)を任命させたこと。

長州藩― ”安政の大獄”で罰せられた人びとをすべて、無実にさせたこと。

        などを勝ちとった。

これに出遅れたのが、土佐藩であった。

負け惜しみの強い性格の前・藩主の山内容堂は、苛立ちます。

そしてここで、待ってましたとばかりに、武市半平太の出番が来ます。

彼は、

「将軍に攘夷実行を督促する勅使の派遣」 

朝廷に工作し、実行させる事に成功し。

勅使に、正使・三条実美(さねとみ)、副使・姉小路公知(きんとも)が決定し、

武市半平太は、姉小路公知の補佐官を、命ぜられることになる。

この時、半平太、得意の絶頂の瞬間である・・・。

この歳になって自分が好きになる  嶋澤喜八郎 

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 手に杯を持つ、容堂公像

その後、

「土佐藩を尊皇攘夷の先駆けにしよう」 と願う武市半平太は、

参政の吉田東洋を通じ、隠然たる力を持っていた前藩主・山内容堂に、

働きかけようとした。

しかし、東洋も容堂も、万次郎を通して、西洋事情について、

接する機会があったため、

攘夷が、現実的でないものと、気付いていた。

学習した兎に亀はもう勝てぬ  永井玲子 

09530b67.jpeg             

酒好きの容堂が、愛用した鹿模様の江戸切子グラス

また、山内家は、外様とはいえ、徳川家康によって、

土佐一国の、領主にしてもらえたという、関が原の戦い以来の、

恩義がある。

容堂にとって、幕府=徳川家を度外視して、

朝廷と結びつこうとする”過激な尊攘思想”は、

とうてい受け入れがたいものだった。

東洋や容堂は、あくまでも”現実主義”に立ち、

幕府と朝廷が協調しつつ、

政局を運営するという、「公武合体路線」 を進もうと考えていたのだ。

ワープロもぼくも時代に残される  八木 勲

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半平太は、それを理解することができなかった。

自説が、容堂や藩主・山内豊範に受け入れられないのは、

「吉田東洋のせいである」 

と決め付けた半平太は、

文久2年4月8日、ついに、”東洋暗殺”するという挙にでたのである。

尊皇攘夷を達成するための、具体的な行動である東洋暗殺は、

まさに、久坂玄瑞ら、過激な尊皇派志士が、望んでいたものだった。

藩の重臣であり、主君の側近である人物を、

「暗殺する」 ということは、

主君への反逆と同じなのだが、彼らには、

「主君に取り入って、道を誤らせている悪者を、排除する」 

〔君側の姦(かん)を除く〕 という、意識が勝っていた。

じたばたと錯角を連れてどしゃぶり  北原照子

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妻・富子の前では、素直であった半平太

暗殺決行の結果、

半平太は、東洋派の藩士を、要職から追い出すことに成功し、

東洋らの”藩政改革路線”に、反感を抱いていた旧派・重臣層を、隠れ蓑として、

一時的に、”藩政の実権”を左右する立場を手に入れた。

それを契機に、

半平太は、藩主・山内豊範に随行して京都に上り、

攘夷実行を幕府に命じるよう、朝廷工作を行なう一方、

「天誅!」 と称して、反対派の暗殺を、繰り返していった。

おそるべき地図を体内から剥がす  田中博造

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酔うほどに、先を見る視線が冴えた容堂

しかし、「8・18政変」 によって、長州藩が力を失うと、

京都政局においても、土佐藩内においても、

公武合体派が力を盛り返し、”土佐勤皇党” の面々は、

一転して、弾圧を受けることになる。

半平太ほか、勤王党員は、次々に捕縛され、

切腹を命じられるのである。

このとき、勤皇党の弾圧の主導したのは、

吉田東洋の甥・後藤象二郎であった。

散骨にしてくれ閉所恐怖症  播本充子            

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顔にシワあり脳みそにシワがない  杉本克子

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  幕末の志士・全員集合

左端ー勝海舟  前列ー右から(4番目)・坂本龍馬 -(7番目)・明治天皇

後列ー左から(8番目)・岩崎弥太郎 (12‐13番目)・大久保利通・西郷隆盛

他には、小松帯刀・桂小五郎・大隈重信・伊藤博文も来ている。

場所は不明だが、

テーマ・『維新』について”幕末サミット”が開かれたようだ?( ̄个 ̄)

折り返し点はあしたと決めている  足立玲子

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「武士階級が揺らぎ始めた幕末期」

武士は、その身分とか生活権を、守り抜くため、

『寡黙(かもく)であれ』  とされた。

多弁を弄して、

心の奥底まで見せるような言動をとれば、

ついに感情はあらわになり、不利益なことまで述べて、失言する。

平凡な男で金も敵もない  秋田利恵

人間関係まで損ねて、上司の反感まで買うようになると、

どこの藩も、財政が逼迫しているときだから、簡単に首になってしまう。

その結果、浪人となって、生活に困窮することになる。

「何はしても寡黙であるほうが身のためだ」

と、考えられていたのである。

口あけて腸(はらわた)見する石榴かな  古川柳

幕末の武士たちは、多弁をつつしみ、保身に汲々としたのである。

それゆえ、武士は、冷淡であるとも言われた。

何か感情が高ぶっても、それを押さえようとする制御装置が、心の中で作動し、

冷ややかな笑みをたたえながら、呟かずして耐え、

人とのつながりを保持し、交誼を深めようとしたのである。

失言がなかった今日のぶら下がり  井上一筒 

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幕末の風景(日本を遊歩する外人と日本人)


あえて、はっきり物を申し立てるよりは、

相手の心内を慮(おもんばか)って、

「その一件、手前どもには一向に判断つきもうさず」 

とか、上司に対しては、

「いかにも、さようのご所存、もっともでござりまする」

と話を合わせておくのが、

「お家とわが身とを守る処世の術」 

と心得ていた。

ほどほどという逃げ道がいとほしい  荻野美智子       

「適当に」また「曖昧に」するという習慣は、武士に独特であって、

このころから、欧米の列強の外国人には、

「何を考えているのかわからない」 との、

日本人のイメージが、出来上がってしまったようだ。

外国人から見た日本人の『原型』は、

”幕末の日本人”に、端を発していたのである。

黙っていよう明日くるまで晴れるまで  前中知栄

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幕末の、志士と呼ばれる人たちには、

この『寡黙』であることを、許せなかった。

「自分たちが、選んだ道は正しかったのかどうか?」

それは、その場で答えを得られるような、簡単な時代ではなかった。

世の中が移り変わろうとしている、

ここで立ち上がらねば、

「男」=「志士」
ではないのだと、判断したのだろう。

それゆえ、多くの草莽を翔けた志士たちは、早死にしたのである。

久坂玄瑞  24歳    沢村惣之丞  25歳   吉村寅太郎  26歳   
岡田以蔵  27歳    平井収二郎  27歳   近藤長次郎  29歳     
坂本龍馬  32歳    中岡慎太郎  30歳   武市半平太  36歳
   など。

花いちもんめカラスが連れてきた夕陽 山口ろっぱ

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  半平太の妻・富子

「糟糠の妻」

武市半平太は、明晰な頭脳と、高い指導力で知られ、

土佐勤皇党を結成し、尊皇攘夷を突っ走った、大物である。

その夢の実現のために、盲目的に半平太は、

岡田以蔵らの暗殺者をつかって、京都の佐幕派を次々と葬った。

そして、藩内で権勢を振るう吉田東洋の暗殺事件の、黒幕でもあった。

目的のためには、テロの実行すらも辞さず、

しかも、自分自身の手は汚さない・・・。

真っ直ぐな人間ゆえに、冷酷な行動も、必要な善としたのである。

野心家の花火十重二十重に揚がる  内山雅子

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武市半平太への、後世の評価は賛否両論。

他人には、冷徹な半平太も、自分の妻には優しかった。

彼は、21歳の時に、1歳年下の富子という女性を妻に迎え、

その死まで、彼女を愛し続けたのだ。

富子は、美人であり実家も裕福、

また半平太も、色白で上背のある美男子だったことから、

外見の面でも、似合いのカップルだったようである。

スマートで金持ちそんなはずはない  三好聖水

半平太が33歳で、土佐勤皇党を結成するまで、

富子は、日常生活のなかで、夫を助けた。

しかし、美男美女で相思相愛、

理想的な夫婦に見えた、武市夫妻にも、懸念があった。

富子に、子どもが授からなかったのである。

これは当時の社会通念では、大きな問題とみなされた。

賞味期限に訂正印のあるわたし  中岡千代美

そんなことから、ある時、勤皇党員の吉村寅太郎は、

富子を説き伏せて、実家に帰らせ、

半平太のもとに、若い側女を替わる替わる、送り込んだことがある。

しかし、半平太は女性たちに、一切手を出さず、

「子の無いのは天命、二度とこのようなこたはするな!」

と、吉村を叱責した、と伝えられている。

目の前の叩き割るしかない景色  筒井祥文

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    獄中の半平太

一方、富子が、夫を想う気持ちも本物だった。

勤皇党が、山内容堂によって弾圧され、半平太が投獄された際、

彼女は、二年近く、獄舎に足しげく通って、

衣類や食事、書物などを差し入れている。

半平太と富子は、しばしば手紙を遣り取りして、互いを慰めあった。

慶応2年(1865)、半平太は切腹を命じられたが、

富子は、納棺の際に首を討たれた夫の、髪を結うなど、

とことん愛情を示している。

古傷に指を這わせている朧  合田瑠美子

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限界に悔しいコンセントの位置  岩田多佳子

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文久3年(1863)3月、勝の容堂へのはたらきにより、

龍馬の脱藩の罪は赦免され、兄・権平とも再会したが・・・。

10ヶ月後には、

今度は勝が龍馬に、2回目の脱藩を促すような事態になる。

無色にはなれそうにもないカメレオン 杉山ひさゆき

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龍馬たちが、蒸気船の操艦技術習得に明け暮れた頃、

攘夷の熱狂は、最高潮に達していた。

当時、武市半平太を首領とする”土佐勤皇党”は、

藩の参政・吉田東洋を暗殺し、藩の実権を握ることに成功していた。

その一方で、中央の政治情勢は様変わりしていた。

ややこしい空かきまぜて三杯酢  岩根彰子    

8月には、「八月十八日の政変」 と呼ばれる佐幕派のクーデターが起き、

京都政界を牛耳っていた、長州藩と尊王攘夷の勢力は、

京都から追放されたのだ。

その中央の情勢変化に、後押しされて、

土佐の前藩主・山内容堂は、勤皇党への弾圧を強め、

土佐以外にいる勤皇党員や危険人物にたいして、

「土佐へ戻れ」 

という命令を発した。

神戸の海軍塾にいた龍馬も例外ではなく、

「帰って来い」 

という命令が届いていた。

逃げるのは曲がりくねった道がいい  高田 桂

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神戸海軍操練所寮舎の古写真

≪多くの若者が寝起きしていた。(舟の入る大きなドッグもある)≫

海舟は、それを知って、土佐藩の江戸屋敷にたいし、

「現在、龍馬ら土佐藩士は、海軍術の修行の最中であり、

 ”一同の召還を許してもらえないか”」

と要請した。

また、一同が幕府の軍艦・順動丸の乗組員であることも強調。

「海軍塾の土佐人が帰国すれば、順動丸の航海に支障をきたし、

結果として幕府に混乱をもたらす」 と、

遠まわしに脅しを利かせた。

言い訳の上手な猫がいて困る  本多洋子          

しかし、江戸屋敷の役人は、

「土佐藩庁からの命令に従っているだけだ」
 と、

この要請を拒否した。

この結果、いったん藩籍を回復することができた龍馬だったが、

兄と再会の10ヶ月後の12月、藩の帰還命令にそむき、

”2度目の脱藩”をすることになる。

かけ違うボタンに重い風の橋  産田佐代子

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操練所のあった古地図

≪JR三宮付近にあったとされる。右側を流れるのが生田川。

 上の赤い部分が生田神社で異人館通り・(北野坂界隈)、

 中央の赤部分が勝邸。下の赤部分が操練所になる≫

「操練所解散」

その後、元治元年(1864)2月、海舟、幕府から長崎出張を命じられる。

任務は、アメリカなど4国連合艦隊に、

「長州攻撃をやめてほしい」 

と、依頼することだった。

いわゆる、「長州征伐」 という、

幕府の大義名分づくりの為の、長崎出張であった。

海舟は、龍馬らを伴い、長崎へ向かって出向。

連合艦隊は、神奈川で改めて幕府と交渉することを条件に、

攻撃の延期を了承し、海舟はひとまず任務を果たした。

5本も脚がある今日のひつじ雲  井上一筒

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これにより、海舟は、軍艦奉行に昇進。

同年5月29日、”海軍操練所の開設”が布告される。

ところが、開設布告から一週間後の、6月5日、

操練所は、反幕府組織と危険視され、

突然、解散の憂き目にあう。

その6月5日、「池田屋事件」が起きたのだ。

京都三条の旅籠・池田屋で、集会中の尊攘過激派を新撰組が襲撃。

多数の死者や捕縛者が出た。

その捕縛者のなかに、

操練所の塾生(望月亀弥太・北添吉摩)がいたことにより、

幕府は、操練所に疑いの目を向けたのだ。

盃の底から浮いてくる疑惑  森 廣子

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       蛤御門

さらに、7月19日には、「禁門の変」が起きる。

池田屋事件に触発され、

武装上洛した長州藩兵が、御所をめざして進軍、

警備の諸藩と交戦したのである。

その時にも、安岡金馬や池内蔵太という、

ふたりの塾生が長州方に加わっていた。

幕府は、事態を重く見て、

9月になると、操練所の閉鎖を前提に捜査を開始。

10月には、頭取の海舟が監督責任を問われ、江戸へ召還される。

さらに、海舟は軍艦奉行も罷免された。

ゆっくりと収める朧夜の刀  本多洋子

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これにより、各藩から派遣されていた塾生は、

帰国せざるをえなくなった。

また、脱藩浪人である龍馬らは、身の危険を感じて各地に散った。

その後、龍馬は海舟の配慮で、

薩摩藩の大坂藩邸に、かくまってもらうことになる。

元治2年(1864)3月12日、神戸海軍操練所は閉鎖された。

躓いた足に素足が文句言い  松瀬俊雄

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『龍馬伝』・第21回‐「故郷の友よ」 あらすじ

収二郎(宮迫博之)が切腹した。

土佐から届いた幼なじみの悲報は、

龍馬(福山雅治)に大きな衝撃を与えた。

大殿・容堂(近藤正臣)のためにと、懸命に働いてきた収二郎。

なのに、当の容堂から、切腹を命じられなければならないのか。

龍馬は、容堂から感じた底知れぬ恐怖心を、思い返しながら、

この先、さらなる悲劇が待ち受けているのではと、

不安を募らせる。

蓮の葉にひとつ滴が座禅する  北田ただよし

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そのころ、朝廷では攘夷派の長州を京から追い出そうと、

薩摩藩がひそかに、反攘夷派の公家たちに近づいていた。

そして、世に言う「八月十八日の政変」・・・

孝明天皇(阿部翔平)の 

「異国との戦をのぞんではいなかった」 

という言葉をきっかけに、

長州藩と三条実美(池内万作)ら、攘夷派の7人の公家たちは、

京の御所から追放される。

これにより、尊皇攘夷派は失脚した。

枯山水夢が流れた跡がある  嶋澤喜八郎

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攘夷派の衰退を、早くから予測していた容堂は、

この政変を機に、土佐勤皇党への本格的な弾圧を始める。

勤王党の本部が置かれていた武市道場は、取りつぶされ、

土佐に帰っていた武市にも、追っ手が差し向けられ、

国外にいる勤王党員へも、土佐への帰国を命令が出される。

帰国命令は、当然、勝塾の龍馬のもとにも、やってきた。

地下鉄の出口でつむじ風になる  八田灯子

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近藤長次郎(大泉洋)は、「土佐には戻らない」 と言うが、

龍馬は、半平太(大森南朋)以蔵(佐藤健)を助けるため、

勝塾を、しばらく休ませてほしいと、勝(武田鉄矢)に懇願する。

「わしを土佐に帰らせてつかあさい!わしらは考えは違うても、友達ですき!」

土佐に帰れば、龍馬も無事では済まされない。

勝は、龍馬ひとりでは、

「武市を助けられない」 といって、必死に龍馬を引き留める。

同じ頃、京に潜伏していた以蔵は、

土佐藩だけでなく、幕府からも追われる身となっていた・・・。

蓋閉じて海老の末期を聞いている  たむらあきこ        

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底に着いたら挑戦状を突きつける 立蔵信子

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    ”金門の変” 図

”文久から元治”へ、この時代、幕末がいちばん慌しくなったときである。                                                        

江戸から京へ、京から江戸へ、土佐からも、薩摩からも京へと、人が動いた。

そこには、幕末を象徴する出来事が起きる。

長州藩による関門海峡での外国船砲撃や「薩英戦争」。

京都では、「八月十八日の政変」 といわれる「佐幕派」のクーデターが起き、

京都を牛耳っていた「攘夷派」が、一掃され、

次への事件を誘発していくのである。

混沌の、幕末の2年の出来事を年表で追ってみる。

有為転変いろはにほへと散りぬるを  岡田陽一

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『文久三年(1863)』                                                         

  1月 1日 坂本龍馬 京に入る。
  1月 4日 武市半平太 京より土佐に向う。
  1月13日 勝海舟、下田・「宝福寺」山内容堂と会見 坂本龍馬の「脱藩罪」を解く。
  1月25日 龍馬 大久保一翁と面会、「大政奉還」 の構想を得る。
  
  2月17日 近藤勇 浪士組・組頭になる。
  2月25日 坂本龍馬「脱藩罪放免状交付」。
  
  3月 4日 「新撰組結成」。徳川家茂 入洛(将軍上洛、家光以来229年振り)
  3月 7日 徳川家茂 参内し孝明天皇に拝謁
  3月 8日 勝海舟 京都寺町通で岡田以蔵に救われる。
  3月20日 坂本龍馬 姉・乙女に勝海舟の弟子になったと手紙を書く。

金の卵になりなさい勉強なさい  山口ろっぱ

  4月13日 清河八郎、 麻布一之橋で佐々木只三郎らに暗殺される。
  4月20日 徳川家茂 参内し朝廷に攘夷期日を 「5月10日」 と約束。
  4月27日 勝海舟 幕府より「海軍操練所」の取締りと教授を許可される。

  5月16日 坂本龍馬 越前福井で松平春嶽から”操練所運用資金借用”。
                                   
(このとき横井小楠に会う)
  5月17日 坂本龍馬 姉・乙女に、海軍操練所の設立を伝える手紙を書く。

  5月24日 山内容堂 土佐藩校致道館に郷士以下を集め、「勤皇党の解散」を命じる。
  5月25日 山内容堂 「勤皇党の弾圧」を開始。

  6月 5日 仏軍艦・「セミラミス号」「タンクレード号」長州砲撃。
  6月 6日 高杉晋作 白石正一郎邸に入り奇兵隊の編成開始。
      8日ー奇兵隊発足

  6月 8日   土佐 間崎哲馬、広瀬健太、平井収二郎切腹。
  6月28日 坂本龍馬 姉・乙女に日本を洗濯すると手紙を書く。

フィクションに薄く桃色塗っておく  中川隆充

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  ”七卿の都落ち” 図
 
  7月 2日 「薩英戦争」 英国艦隊、鹿児島を砲撃。    
 
  8月ー   天誅組挙兵。
  8月18日 「八月十八日の政変」 大和行幸中止。
          朝廷より、壬生残留浪士組に「新選組」の隊名が下賜される。
  8月19日 「七卿の都落ち」。
          新選組 三条木屋町に桂小五郎の捕縛に向う。

 9月 4日 天誅組討伐の軍令出る。
 9月 9日 勝海舟 坂本龍馬、大坂に入る。
 9月21日 武市半平太 投獄される 高知城下戒厳令。
 9月27日 天誅組 大和で壊滅 吉村寅太郎死亡。

10月 3日 島津久光 京に入る。
10月22日 一橋慶喜 京に入る。
10月28日 勝海舟、坂本龍馬 江戸に向う。
12月28日 山内容堂 京に入る。

いい奴を送る煙たいのが残る  藤井孝作

解説ー「八月十八日の政変」

文久3年8月18日

「公武合体派」
中川宮朝彦親王近衛忠熙、忠房らは、

薩摩・会津とともに、長州藩が守っていた”堺町御門”の警備を解任した。

同時に、攘夷派公家の三条実美、沢宣嘉ら7人を排除した。 〔七卿落ち〕

これが、後の 「池田屋事件」「蛤御門の変」へと発展していく。
  
指切りを違え落葉が抱くドラマ  谷垣郁郎

元治元年(1864)

この年、龍馬は、生涯の伴侶となる”楢崎龍”と出会う。

そして、「池田屋事件」につづき「禁門の変」が勃発。

龍馬のような浪人者には、京は危険な場所になっていた。

年の暮れには、龍馬の師である勝海舟が”軍艦奉行を罷免”され、

翌年には、”軍艦操練所”も閉鎖。

龍馬の拠点は、長崎へと移っていく。

お国のために糖尿になりました  井上一筒

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長崎の街を見つめる龍馬の靴・モニュメント

 3月27日 天狗党の乱。

   5月14日 勝海舟 軍艦奉行に昇進。
 5月29日 幕府、神戸海軍操練所開設を布告。

 6月 5日  「池田屋事件」ー新選組、池田屋で会合中の宮部鼎蔵、吉田稔麿らを急襲。
 
 7月11日  佐久間象山、暗殺される。
 7月18日  「禁門(蛤御門)の変」。久坂玄瑞自刃。
 7月23日  孝明天皇 長州追討の勅命を出す。  

  8月 2日  「第一次長州征伐」。
  8月 5日  アメリカなどの四国艦隊、長州藩の下関砲台を占拠。
  8月ー    龍馬・京都で、と出会う。
          勝海舟の使者として西郷隆盛に会う。

流れ星のひとつを横で受け止める  本多洋子

  9月11日  勝海舟 西郷と会見、「列藩同盟」を説く
10月22日   幕府 勝海舟に帰還命令を出す
             英陸軍少佐・ボールドウィン、中尉バード 鎌倉八幡宮前で殺害される

11月10日  幕府 勝海舟軍艦奉行罷免。閉門蟄居。
         長州藩幕府に謝罪。
12月27日  幕府、長州領から撤兵する。

曲がりくねった道だ川だったらしい  西藤 舞

ここから、幕末のシナリオは、クライマックスへと・・・。

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武市半平太・入牢(龍馬記念館)

元治2年(1865)
 3月18日  神戸海軍操練所閉鎖

慶応元年(1865)
 4月25日   「第二次長州征伐」。 
   5月11日     武市半平太、処刑される。
           岡田以蔵、刑死。

笑い方忘れたマリが弾まない  あいざわひろみ

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言葉選ってるのねメガネ拭くふりで  森田律子

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    馬関(下関)戦争

幕府に対する攘夷実行圧力の強まるなか、

その期限となっていた5月10日、

長州藩が、下関海峡を通過したアメリカやフランス・オランダの商船を、

次々と砲撃した。

そして、約一ヶ月後の6月初旬に、報復攻撃を受け、

長州が惨敗するという事件もあった。

刀から涙思わぬ展開に  小林満寿夫

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手紙の中程に”今一度、洗濯・・・”の文字がみられる

龍馬が、「日本を洗濯いたし申し候」 の手紙を書いたのは、

長州が、外国の報復攻撃を受け、

惨敗した、約3週間後のことである。

坂本乙女宛  文久3年(1863)6月29日の日付で、冒頭に

『 この文は、極大事の事ばかりにて、 けしてべちやべちやシヤベクリには、

 ホ、ヲホ、ヲ、いややの、 けして見せられるぞえ

 六月廿日 あまりいくかゝ、きょうのひは忘れたり。

 一筆さしあげ申候。

 先日、杉の方より御書拝見仕候。    ありがたし 』

と龍馬らしく、冗談めかして、乙女に他言の禁止を求め、

自分について、

「よほど芽を出し」 

と自分がついに、檜舞台に立ったという、心境を報告している。

解らない記号で手帳埋めている  中川隆充

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その、「よほど芽を出し」 とは、

龍馬が、長州藩が、外国船に砲撃を加えた直後の5月16日、

神戸の”海軍塾創設”のため、勝海舟の使者として越前・福井藩へ向かい、

資金を援助してもらうという話を、まとめていたことを意味する。

福井藩主の松平春嶽の信頼も得て、

多くの人や大金を、動かすことが出来るようになったことを、

姉に自慢しているのだ。

とっておきの話 にんまりするワイン  泉水冴子

『 私事も、此せつは、よほどめをいだし、

 一大藩に、よくよく心中を見込て、たのみにせられ、

 今何事かでき候得ば、二三百人ばかりは、私し預候得ば、

 人数きまゝにつかい申侯、よう相成、

 金子などは少し入ようなれば、十、廿両の事は誠に、心やすくでき申候』

≪ 私も最近芽が出てきて、

  大藩(福井藩)に心中を見込まれ、頼りにされ、

  今何か事が起きれば、二、三百人くらいを預かり、自由に使える立場になり、

  金が必要な時も、十両や二十両のことなら、心配いりません≫

鰐の歯を磨く仕事で食べてます  井上一筒

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      下関英国船

そして、長州の攘夷戦争を嘆き、

これは幕府内の”姦吏(かんり)”が、夷人と内通して行なったものだと指摘。

『 然に誠になげくべきことは、ながとの国に軍初り、

 後月より六度の戦に、日本甚利すくなく、

 あきれはてたる事は、

 其長州でたゝかいたる船を、江戸でしふくいたし、又長州でたゝかい申候。

 是皆、姦吏の夷人と内通いたし侯ものにて候 』

≪ ところが、誠に嘆かわしい事は、

  長州で戦争が始まり、先月から六度の戦いに、日本は勝ち目がなく、

  あきれた事には、長州で戦った外国船を、江戸(幕府)で修理して、

  また長州で戦っています。

  これらはみな、悪い幕府の役人が、外国人と内通しているものです≫

干からびたミミズになって這っている  谷垣郁郎

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『 こうした悪役人は、よほど勢いもあり、大勢いますが、

 龍馬は二、三の大名と、固く約束し、同志を募り、

   朝廷もまず神の国を守る大方針を立て、

 江戸の同志 旗本・大名・その他 と心を合わせ、

 こういった悪役人と戦って撃ち殺し、

”この日本を今一度、洗濯しなければならないこと”  を祈願しています』

と書いている。

真っ当に生きてることが恩返し  伴 洋子

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