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川柳的逍遥 人の世の一家言
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時計の音する時計のない部屋で  岩田多佳子

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        ユニオン号

神戸操練所の元学徒は、天下の勝海舟に学んだだけあって、

それぞれが実践的な知識と技術を身につけ、

とりわけ航海術はお手のものであった。

龍馬が蒸気船を「俺の足」に、日本を走り回れた理由である。

亀山社中は『ユニオン号』という、蒸気船を買い入れるが、

これによって、龍馬および亀山社中の行動半径は、著しく拡大した。

「情報の先取りは、時代の先取りじゃきに、チーッとばかし金はかかったが、

 新式の蒸気船を買うことにしたぜよ。

 なにせ日本全国、はよう着くのがええ。

 海には面倒な関所もないしのう」

と、いうわけであった。

滝どどど君は力をつけました  山本義子

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    亀山社中

風雲急を告げる幕末である。

陸路の三分一で、目的地に着ける蒸気船の運用は、

勝負に差をつけ、情報の先取りに欠かせない手段となった。

≪組織に”先端機器”を導入し、その試みは成功したのである。

 そういう好条件も重なって、亀山社中は幕末には稀な会社組織として固まっていく≫

亀山社中の取り扱う物品は、武器、洋服から米まで、その品目は多岐にわたった。

しかし、時勢が時勢だけに、社中の取り扱い商品は洋式武器が主体で、

アメリカ南北戦争が終わったために、

不要となった銃器が、グラバー商会によって長崎に運び込まれ、

社中がそれを仲介し、顧客に引き渡す窓口になった。

社中の「利」は武器を仲介するマージンで稼ぎ出した。

顧客は長州である。

縦糸が進行形で戦好き  山口ろっぱ

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      高杉晋作

龍馬は、長州が幕府の第二次征長戦に備えて、

大量の新式銃を欲しがっているのを情報として、つかんでいた。

第一次征長戦では、長州藩が大敗して幕府に頭を下げた。

しかし、高杉晋作は、

「幕府に媚びた長州藩の態度は間違っている」 と大いに怒り、

みずから奇兵隊を率いて、幕府に決戦を挑もうとしていたのだ。

「この怒りは本物だ」 と悟った龍馬は、

どうにかしてアメリカ直輸入の武器購入を仲介しようとした。

ところが、幕府管轄が及ぶ長崎で、

長州者が堂々と、武器を買い付けるわけにはいかない。

手も足も借りて見事に今日が過ぎ  高橋はるか

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     坂本龍馬

龍馬は貪欲なまでに、これまで築いてきた人脈と、社中の機動力を利用した。

社中の大株主は、薩摩藩である。

そこで龍馬が考えついた案は、西郷隆盛に話をつけ、

薩摩藩名義で武器を購入させて、長州に引き渡すというものであった。

しかし、薩摩藩と長州藩は、”犬猿の仲”、

禁門の変では、久坂玄瑞ら長州を代表する志士が多数、

薩摩藩と結託した幕府軍に斬られた。

「薩摩は賊」と、敵愾心を露にしている長州と薩摩を、

結びあわせようとする龍馬の奇策には、西郷がもっと驚いた。

包丁を三日三晩も研いでいる  谷垣郁郎

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       桂小五郎

龍馬は一方で、

感情の高ぶっている高杉との接触は控えて、

長州藩の桂小五郎を口説き、馬関で、西郷と会談させる手筈を整えた。

ところが西郷は、長州を恐れてか、姿を現さなかったのである。

西郷の言い訳は、

「大久保どん(利通)からすぐ上洛せよと言われもうした」 

であった。

タヌキ寝かどうかボールペンでつつく  井上一筒

f881ab04.jpeg   

長州はカンカンに怒り、西郷の心はつかめない。

絵空事に終わる”薩長同盟”と、思わざるを得ない状況にあって、

龍馬の胸中には、次の秘策が浮上していた。

「利」の効用に、目を付けたのである。

「利」の効用を使うはといっても、目的にかなう有効な手段とはならない。

長州藩は武器を欲しがっているが、

では、

薩摩藩は何が欲しいのか?

龍馬は、そこを亀山社中の情報収集力を使って、探ったのである。

一杯の水戦略を立て直す  中上千代子

その結果龍馬は、薩摩藩が「米」を欲しがっている事実をつかんだ。

藩は他藩に、自藩の食品を回すことはなかった。

軍事的なバランスが崩れるからである。

しかし、「そこはなんとか、俺が」 と、

掛け合うのが、龍馬の根性である。

龍馬の目の付け所は、的確であった。

長州が薩摩名義を借りて、武器を購入してもらう代わりに、

長州は薩摩に、自藩の米を贈ることで、めでたく話がまとまったのである。

背面跳びようやく空と向きあえる  兵頭全郎

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伊藤俊輔と井上聞多は、長州の代表として長崎に赴き、

亀山社中立会いのもとに、

薩摩名義でグラバーから、7700挺の洋式武器を買い入れてくる。

むろん表向きは、薩摩藩が武器を購入したことになり、

薩摩藩と手を組んできた幕府は、

当然のごとく、薩摩藩の軍備増強と思い込んでいた。

しかし思い違いとはこのことで、

7700挺もの南北戦争払い下げの新鋭武器は、

亀山社中の蒸気船で海路、長州馬関へ運ばれ、奇兵隊に横流しされた。

≪奇兵隊は迫る幕府戦に自信をつけ、薩摩は大量の米を贈られて喜び、

 亀山社中は仲介料で大儲けした≫

我が底をさ迷う虫をいとおしむ  松井美津子

武器の売買となれば、

幕府への気遣いから、売りを遠慮する外国商人の多い中で、

グラバーには、先見の明があった。

長州へ支払い条件を立て、

「米か絹でよい。そのなかに小判が交じっておればなお良い」

とした。

奇兵隊への支援を、約束したのである。

そのグラバーへ話をもっていった龍馬もまた、先見の明があった。

当時、善悪いろいろな商社がひしめきあい、

グラバー商会だけが、通商の窓口ではなかったからである。

龍馬のビジネスを通じて、薩摩と長州とのわだかまりは、溶けていく。

五円玉の穴満天の星が湧く  竹下くんじろう
 

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流れゆく雲に問いたいことばかり  山口ヨシエ

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「初見三献の礼(しょけんさんこんのれい)」というのが、

坂本龍馬の率いる”海援隊”では、慣習となっていた。

”これはどういう慣わしか” と言えば、

入隊した新人とか初対面の者に、まず、酒を3杯飲ませて、

座が白けないようにしたのである。

また、酒席に遅れてきた者にも、三杯飲ませた。

≪「駆けつけ三杯」の慣わしはここから始まった。

 すなわち、”かけつけ三杯”の元祖は、海援隊ということになる≫

これが人気で、ブームを引き起こし、

初見三献の礼は、酒席に加わる一般の儀式として、全国に広まった。

笑う癖泣く癖酒はおもしろい  倉益一瑤

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   料亭・花月

幕末の志士たちには、たいてい行きつけの料亭があった。

飲食の代金を、藩に回すためであったが、

密談にも、そのほうが良かったからである。

というわけで、「まあまあ三杯」とやる酒宴が、

どこの料亭でも、見受けられるようになった。

海援隊が酒席を開くには、もうひとうの慣習があって、

それを「論決饗宴」と言い、

議論を戦わせて、”一仕事終えた後”に飲んだのだ。

決して飲みながら、仕事の話を持ち出したのではなかった。

≪しらふで仕事をしてからの一杯は、さぞ旨かっただろう≫

ありのまま素顔を見せる芸もある  大前安子

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       芸妓たち

そして、「酒宴は盛大にやるのがいい」、とされた。

芸妓、太鼓持ちを左右にはべらせ、その数50人ほどを集め、

大判振る舞いをする。

威勢のよい酒宴を開くことで、

龍馬ら海援隊の一団は、勢いを誇示したのである。

”女を遠ざけ、鮎の塩焼きで閑酌する” ような藩などは、

しょせん維新に用をなさない、弱小の藩とみられていた。

海援隊は、藩の組織ではないが、

長崎・丸山の料亭・「花月」をなじみとし、

なかでも、陸奥宗光の遊蕩ぶりは、箔がつくほどであったらしい。

幸せはあいつと呼べる友がいる  撰 喜子

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   丸山界隈

『長崎・丸山』

江戸時代、幕府公認の遊郭は、全国で四ヶ所あった。

「江戸の吉原、京都の島原、大坂の新町、そして長崎の丸山」 である。

塀と土塀に囲まれ、少なくない遊女が、

その内部で一生を終えた、吉原や島原とは異なり、

丸山遊郭には、比較的解放的な雰囲気が漂っていたという。

その理由は、当時の長崎がもつ、特殊な環境にあった、といえるだろう。

龍馬伝土佐は鰹とニンニクと  奥山晴生

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「丸山遊郭」の成立は、寛永16年(1639)頃のことで、

江戸幕府が、鎖国を実施する直前の時期にあたる。

鎖国によって、長崎市内のオランダ人や唐人は、一ヶ所に集められ、

丸山の遊女たちは、日本人に加えて、

外国人の遊び相手をも、務めるようになった。

外国人たちは、出島や唐人屋敷から出られないため、

必然的に、遊女たちは外出して、彼らの元へ出向くことになる。

流れにはもう逆らえぬわたしの艪  飛永ふりこ

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おもと

遊女たちは、

「日本人対象、オランダ人対象、中国人対象」、にそれぞれ分けられており、

多いときには数百人の遊女が、丸山に在籍していたという。

≪ちなみに、幕末の日本の医学・自然科学に大きな影響を与えた。

 ドイツ医師・シーボルトの日本妻も、丸山の遊女(お滝)である≫

アイライン猫に好かれるように描く  井上一筒

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開放的な”丸山遊郭”は、幕末の志士からも愛された。

長州の高杉晋作などは、三千両もの藩費を渡されて、

洋行に出発する前に、遊郭で遊び続け、

井上聞多が調達した渡航費用をすべて、遣いきったといわれている。

この時の高杉は、下関と丸山の花街をはしごして、遊んでおり、

彼の豪快さが想像できる。

富士山を担保に何を借りようか  青木公輔

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    花月のなかの様子

いっぽう、亀山社中を組織して、長崎に拠点をおいた龍馬と、

丸山遊郭の縁も浅くなかった。

龍馬は、遊女をあまり好まなかったらしいが、

当時の習慣として、花街に遊んでいた。

丸山の料亭「花月」には、

龍馬が酔って、斬りつけたとされる刀傷が残っている。

≪ちなみに、花月のあった場所にはかって「引田屋」という一流の妓楼があり、

 シーボルトの妻も、この店で働いていた≫

一癖も二癖もある人間味  山岡冨美子

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『龍馬伝』・第31回-「西郷はまだか」 あらすじ

龍馬(福山雅治)、西郷吉之助(高橋克実)から、

「長州と手を結んでもよい」 

という答えを引き出す。

龍馬は、高杉晋作(伊勢谷友介)に会うために、

陸奥陽之助(平岡祐太)とともに、太宰府に向け旅立つ。

太宰府には、都を追われた三条実美(池内万作)ら攘夷(じょうい)派の、

公家たちが、幽閉されていた。

雨降りはあしたのための骨休め  河田みどり

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龍馬らが太宰府に着くと、すでに高杉は去ったあとだった。

三条たちを警護していたのは、

かつて、土佐勤王党にいた中岡慎太郎(上川隆也)だった。

龍馬は、薩摩と長州を結びつけ、

「新しい世の中の仕組みを作りたい」 

ということを、三条と中岡に話す。

中岡もまた、龍馬と同じように、長州と薩摩が手を組めば、

幕府を上回る勢力になると考えていた。

中岡は、「下関に西郷を連れていく」

と約束して薩摩に向かう。

ちゃんと話せば分かってくれたお月さま 太田芙美代

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一方、龍馬と陸奥は、下関に向かい、桂小五郎(谷原章介)に再会。

龍馬は、桂に、

「長州と薩摩が手を結ぶことが、長州藩そして、日本を異国から守る最善の方法だ」

と説く。

龍馬の必死の説得により、

桂は、下関で西郷が来るのを待つことにする。

一方、中岡もようやく、西郷を連れて下関へと出発するが、

二人を乗せた船には、幕府の隠密が潜んでいた・・・。

≪ラストシーンで、中岡慎太郎を演じる上川隆也のお芝居が必見とか!

 中岡慎太郎の熱血ぶりが、さく裂するそーです≫

この国の未来を憂うドライアイ  木下草風

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諸行無常の水吸って夏椿  山本早苗

「神戸海軍操練所がスタート直後に頓挫して」

事実上、閉鎖されると、龍馬らは海舟の計らいで、薩摩藩邸にかくまってもらった。

しかし、人生とは皮肉なもので、

この一連の出来事が、龍馬にとっては幸いすることになった。

≪予定より早く、夢であった海運業をおこすチャンスが、めぐってきたからである≫

アットマーク付けて異次元巡らせる  美馬りゅうこ

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    長崎唐船

龍馬は、約20人の仲間と、大坂の薩摩藩邸に潜んでいたが、

慶応元年(1865)4月25日に、藩邸を出発。

薩摩藩の西郷隆盛、小松帯刀、大山彦八らと、薩摩藩船の胡蝶丸に乗り込み、

瀬戸内海を経て、5月1日に、鹿児島に着いた。

鹿児島に10日間ほど滞在したあと、龍馬らは、帯刀と長崎に向かっている。

無印の無色気軽にとんでいる  小山紀乃

幕末の長崎は、日本の国内外の人・モノ・情報が集まる町だった。

特に、政治情勢が日々変わる幕末において、

正確な情報をいかに早く入手するかは、

幕府や藩の命運を、左右するほど大切なことだった。

薩摩藩や長州藩など、西日本の各藩が蔵屋敷をおいており、

かつ多くの人々が情報を求めて、全国から集まっていた。

≪龍馬もここで、最新の情報を収集し、政治活動などに役立てたのである≫

アンパンに昔の知恵が詰まってる  泉水冴子

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     グラバー邸

龍馬の長崎への旅は、帯刀がイギリス商人・トーマス・グラバーから、

新しい蒸気船を購入する交渉に、同行したのだが、

その最中、龍馬の夢である”海運業”をおこすという話が、

とんとん拍子に進んでいった。

そして、薩摩藩と海舟の知人でもある長崎の豪商・小曾根家の資金提供によって、

龍馬は、「亀山社中」の設立を実現する。

亀山社中の目的は、

表向きには海運業で、

グラバー商会などの西洋商人から、購入した武器や物資を、

薩摩藩などへ輸送する事業を営むことである。

付け替えてみる右耳と左耳  井上一筒

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    夏椿(さらの木)

しかし、龍馬の真の目的は、

薩摩名義で購入した武器類を、長州藩に提供することにより、

「薩長両藩の橋渡しを行なう」ことにあった。

当時、朝廷と幕府の共通の敵であった長州は、

幕府の攻撃を目の前にして、武器や弾薬の調達を、急務としていた。

ところが長州は、経済活動を制限されていたので、

龍馬は、武器の購入や輸送を受け持つ亀山社中を通して、

薩摩に窮地の長州を助けさせ、

両藩の結びつきを、深めようとしたのだ。

『豆辞典・「沙羅双樹」』

≪釈迦が沙羅林の中で涅槃に入ったときに、東西南北の四方に、

それぞれ2本の沙羅の木があったとされている。

釈迦が涅槃に入るや、四方の双樹は、それぞれ一樹となり、林を覆い白くなって枯れた。

東西南北の双樹は、それぞれ「常と無常」、「我と無我」、「楽と無楽」、「浄と不浄」

とにたとえられている。


そこから沙羅双樹と言う言葉になったとされる。(広辞苑)≫

捨てきれぬ夢がグラスの底にある  和気慶一

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 小松帯刀

薩摩藩が資金提供したのは、

帯刀西郷らと相談し、航海術を学んでいた龍馬らを、

「うまく利用しよう」と、考えたためだった。

そんな薩摩藩の思惑に、龍馬がうまくのったという見方もできる。

≪社中を運営するなか、龍馬は海運業に勤しむだけでなく、

  航海術やオランダ語の勉強、武芸などもおろそかにせず、何に対しても貪欲だった≫

座布団ほどの我慢をボクはしてきたか  武内美佐子

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ドーナツの穴が気休めばかり言う たむらあきこ 

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 ポルトガル・宣教師たち   

「龍馬とカステラ」 
 
室町時代末期の元亀二年(1571年)、

開港したばかりの長崎港に、遥か遠く西欧から交易を求め、

初めてポルトガル人が上陸した。

「長崎のカステラ」は、

この時に、日本にその製法が、伝えられたと言われている。

70年間に渡るポルトガル人たちの長崎在住の中で、

カステラはやがて、その由来となる名前だけを残し、

日本型に、長崎で独自の進化を遂げていった。

今日もまた愛の形でパンを焼く  上野楽生

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 文明堂・「海援隊カステラ」

その長崎の地で、坂本龍馬は、カステラと出会う。

「こいつは美味いぜよ!」

と、口にほうばったに違いない。

そして、このうまいカステラを、「自分たちで作ろう」 と考えたのも間違いない。

というのは、

慶応3年(1867)に、龍馬らは長崎で組織した「海援隊」の日誌に、

”カステラ作りのレシピ”の記述が残っているからだ。 

 『カステイラ仕様 ・正味 ・玉子百目・うどん七十目・さとふ百目 、此ヲ合テヤク也 和蘭実』
 
とある。

うまい汁皆に吸わせてやってくれ  壷内半酔

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「雄魂姓名録(ゆうこんせいめいろく)」

この海援隊の日誌のレシピを基に、

長崎市の老舗カステラ店「文明堂総本店」が、「海援隊カステラ」を再現。

現代のカステラより、きめが粗く、パサパサしているものの、

「香ばしく、素朴な味わいが、よみがえった」 

と、懐かしい?・・・というような表現を聞く。

どちらにしろ評判は、上々のようである。

このカステラを齧れば、龍馬と、杯ならぬ、「ケーキを交わした仲」になる。

龍馬は、おりょうとの新婚旅行にカステラを持参し、

”手でちぎって食べた” 

と、される文献もあることから、

「あえて切れ目は入れず、縦14センチ、横16センチのサイズのままで」

と、こだわっている商品だ。

一夜干しお日様と風浴びた味  杉本克子

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炭を使って焼いた昔の焼き釜
 
≪上下に炭を入れ、中に入れた水入りの缶で釜の温度を計った≫

「カステラの歴史をかじる」

昔のカステラ焼き風景昔の製法では、

ひと釜焼くのに、約1俵もの炭が必要だった。

先にも述べたが、一般的な説では、

16世紀の室町時代末期に、

ポルトガルの宣教師によって、長崎周辺に伝えられたとされる。

当初のカステラは、卵、小麦粉、砂糖で作ったシンプルなものであり、

ヨーロッパの菓子類としては、珍しく乳製品を用いないことから、

乳製品を生産、常用しない当時の日本にも、残ることができた。

薄切りのパン見通し訊いてみる  井上恵津子

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”松翁軒の歴史”よりカステラ作り

カステラの製造に重要なオーブンは、当時の日本には存在せず、

オーブンに代替する天火として、

「引き釜」という、炭火を用いる日本独自の装置が考案された。

江戸時代には、菓子、製造の盛んだった江戸・大坂を中心にカステラの日本化と、

カステラを焼くための、炭釜の改良が進められ、

江戸時代中期には、現在の長崎カステラの原型に近い物が作られている。

≪長崎カステラの特徴である、水飴の使用は、明治以降の西日本で始められた≫

これにより、現在のしっとりとした触感となった。

血糖値ケーキを見てもいけません  井上一筒

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   池内蔵太

「龍馬伝」・第30回-「龍馬の秘策」 あらすじ

長崎滞在の龍馬(福山雅治)たちは、船を借りることも出来ずに、

途方に暮れていた。

そこへ、土佐勤王党だった池内蔵太(桐谷健太)が訪ねて来る。

池は高杉晋作(伊勢谷友介)とともに、長崎に潜伏していたのだった。

龍馬は池に連れられて、高杉に会いにいく。

そこには、引田屋で出会った伊藤俊輔(尾上寛之)井上聞多(加藤虎ノ介)もいた。

高杉は長州藩が幕府に従わず、戦いぬく覚悟であると語る。
 
この辺で所望しましょう起爆剤  西恵美子

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龍馬が小曽根邸に戻ると、

長次郎(大泉洋)が、カステラ作りをして、金を稼ごうと提案する。

龍馬は、「カステラを長崎で売って良いか」 

と長崎の豪商、大浦慶(余貴美子)小曽根乾堂(本田博太郎)に相談する。

大浦慶は、龍馬たちに興味を覚え、カステラ作りに必要な金を貸す。

そして龍馬たちは、偶然引田屋の芸子の元(蒼井優)と町で出会う。

お元は、長崎奉行・朝比奈昌広(石橋凌)に、情報を伝える隠密として、

働いているのだが、実はキリシタンだった。

道標をあなたに向けて生きている  八田灯子

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「面白い町じゃのう、長崎は」  

長崎を訪れた龍馬は、これまでに見たこともないような光景に、

目をみはる。

西洋や中国から来た異人たち、華やかで異国情緒あふれる町並み。

その中で、龍馬にもっとも大きな影響を与えたのは、

侍に媚びることなく、しかも、異国の商人と対等に渡り合う

長崎の豪商たちの姿だった。

商売への出資を願い出るため、豪商・小曽根乾堂(本田博太郎)を訪ねた折り、

小曽根は長崎の豪商たちと麻雀の真っ最中。

彼らは、互いに嫌みを言い合いながらも、同じ麻雀卓を囲んでいた。

一服の煙を吐いて街を見る  両澤行兵衛

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麻雀に興じる、大浦慶と小曽根乾堂

異国の商人という脅威に対抗するため、

敵同士であって
も、つながりは決して断たない。

そんな商人のしたたかさと、たくましさを見た龍馬は、ある途方もない

計画を思いつく。

西郷吉之助(高橋克実)に、長州と手を結んではと提案するのだ・・・。

朝敵である長州と結びつけば、薩摩も朝敵となるおそれもある。

はたして西郷が出す答えは…。

船底の空気は神の思し召し  吉田わたる

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噛み切ってしまえば事は終わるのに 谷垣郁郎

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イギリスが、交易に参加することによって、日本の地図が一変する。

「長州人を破ってから、我々は長州人が好きになった」 アーネスト・ホースト 
   

江戸時代、日本は鎖国体制を敷いて、外国との関係を閉ざしていた。

≪実際は、国を閉ざしていたのではなく、「海禁」という言葉で表現されるように、

 海外の渡航や交易を厳密に管理したなかで、

 限定的かつ独占的に、交易を行なうというのが、鎖国の実態だった≫

江戸時代以前の東アジアでは、倭寇や秀吉の朝鮮出兵によって、

さまざまな国が対外関係で、大きな痛手を負った。

そこで、侵略行為などを含む干渉を相互に禁じ、

海を閉ざして管理された貿易を行うというのが、

江戸時代当時の東アジアの体制だった。

≪したがって、鎖国とはいっても、管理された状態で、小さく開いていたのである≫

原色が好きです騒がしい日本  平尾正人 

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     幕末の長崎港         

日本では、”四つの窓口”が海外に対して、開いていたとされる。

一つ目は、出島で有名な「長崎」で、ここでは幕府が直接、

  オランダや中国との交易を行なっていた。

二つ目は、「対馬」で、対馬の領主・宗氏を介して朝鮮と交易をしていた。

三つ目は、「琉球」で、琉球を武力侵略して支配していた薩摩藩を通して琉球、

  そして、中国との交易がつづいていた。

四つ目が、「蝦夷地」。これは松前藩を介してアイヌや北方民族との交易があった。

≪ちなみに幕府は、東アジアの国々と基本的には、直接対峙をしない方針があった≫

老いた香車だから後ろへも進む  井上一筒

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こうした「鎖国」の状況は、

「黒船の来航」によって完全に崩壊する。

大船の建造や、外国との貿易を厳しく管理した幕府権力の、空洞化がはじまり、

各藩は、なし崩し的に「開国」していく。

西南雄藩のように、資金力のある大藩は、

横浜や長崎を通じて、生糸や石炭を売り、

海外から軍艦や武器を買い入れ、留学生を西洋に派遣するようになっていく。

着古した夢がタンスの奥にある  錦織久
 
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しかし、やはり武家社会の常識としては、

あいかわらず、商いは忌むべきものであったし、

海軍や、船そのものについての、知識がない。

なにより、高い金を出して軍艦を買っても、

これを操縦できる船乗りが、いなかった。

≪坂本龍馬が目をつけたのは、そこである≫

当時の龍馬と、その周辺の友人は、

外洋船を動かすことができる、数少ないエキスパートだった。

しかも、幕府や藩の足かせがないので

対価さえ払えば、どのようなクライアントの依頼でも、引き受けて、

海運業や商社活動を、することが出来たのである。

小心のユダは迷路は抜けられぬ  山口ろっぱ       

勝海舟の門下生となった龍馬は、

勝の尽力で、山内容堂から脱藩の罪を許されているが、

それは土佐藩がこうした龍馬と、

その仲間の能力を、喉から手が出るほど、欲していたからである。

ちなみに、龍馬らを薩摩で引き取る立役者となったのは、

西郷隆盛や小松帯刀だった。

≪この二人は、この後、公私にわたって龍馬の面倒をみており、

 龍馬も小松のことを「天下の人物」と褒め称えている≫

龍馬はこうして、かけひきと利害を計算し、大きくなっていく。

立派な角を日毎磨いて置いてある  森 廣子

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    右の島が出島

「龍馬飛躍の場所ー長崎港」

国際港として「長崎港」が有名になるのは、

戦国末期のことである。

≪種子島に南蛮渡来の火縄銃が伝来して以来、戦国武将の地図が一変した。

長篠の戦で織田信長軍は、500挺の鉄砲で武田勢を壊滅的な打撃を与えて以来、

戦国武将と異国との、付き合いが始まる≫

瘡蓋を剥がし仏の顔に会う  太田 昭

鎖国後は、オランダが日本との、唯一の交易国になるが、

それ以前は、ポルトガルとの交流が圧倒的だった。

徳川幕府成立前は、各地の大名が、自前で外国と交流をしていた。

なんといっても、外国との交易は、文化向上だけでなく、

莫大な富をもたらしてくれた。

山頂で両手広げている空気  太下和子  

しかしポルトガル側でも、

単に日本側に利益を与えるだけでは、つまらない。

そこで貿易には必ず、「キリスト教の布教」を条件に出したのである。

その営業交渉にあたっていたのは、宣教師だからである。

当初日本側で、積極的にポルトガルを受け入れたのは、

平戸の松浦氏であった。

しかし松浦隆信の代になって、隆信は、

「キリストの布教よりも貿易の利益重視」 という考えをもち、これが

「貿易よりも、布教重視」 の考えを持つポルトガル側と、

しばしば争いがあり、殺傷事件も起こった。

ポケットの中で火種が燃えそこね  佐藤后子

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    長崎の居留地

トラブルをきらったポルトガル側では、

「平戸にかわる日本の良港」を探しはじめ、

大村湾の横瀬浦や、長崎の福田湾などが、次々と候補として試みられた。

これに日本側でも、港を支配する大村純忠有馬晴信らが、

現在で言えば、”日本の新幹線が最高ですよ”と言うように、

「うちの港は便利ですよ」と、今で言う「誘致合戦」がはじまった。

≪当初、平戸がポルトガル船の港であったが、

 領主の切支丹嫌いから、

 あるいは、ポルトガル側の希望もあって、港は順次変わり、

 先の試みから、横瀬浦、福田浦へと変わって、

 落ち着いたのは、深江浦すなわち、現在の「長崎」となったのである。

 長崎は、古くは、”深江浦とも深津江”とも呼ばれていた≫

さ迷うて水一杯のありがた味  村田己代一

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