- 2011/01/25
- Category : ポエム&川柳
お江ー信長の野心
『信長の本心をのぞく』
城の象徴といえる「天守閣」は、信長が築いた「安土城」がはじまりだった。
城は、敵の攻撃から身を守るための軍事施設である。
城という文字が、「土」と「成」で構成されていることからもわかるように、
土を掘って濠をめぐらし、残土を盛り固めて土塁を築いた内側を、
ふつう「城」と規定する。
自叙伝のどのページにも酒のシミ 新家完司
城というと、どうしても広大な石垣の縄張りをもち、
壮麗な天守閣がそびえ立つ威容を、思い浮かべてしまうが、
それは戦国・江戸時代に入ってからの、城である。
城郭の起源は、戦争がはじまった弥生時代にまで遡る。
といっても、もちろん城が軍事的拠点として、
もっとも多く築かれ、最高に機能したのは戦国時代である。
戦国大名は、平地に置かれた政庁で領国の経営を行い、
敵が来襲すると「山城」にこもって戦った。
時代が下るにつれ、その構造も複雑になる。
山全体にいくつもの”削平地(郭ーくるわ)”や”掘割”をもうけて大要塞とし、
周辺に出城や支城を築いて、防御ネットワークを築いていった。
街道や宿場にも、砦やのろし場といった簡素な城をつくって、
監視体制を強化した。
しかし、戦国時代後期になると、
鉄砲の出現によって、峻険な場所に要塞を築く意味が薄れ、
大名の政庁そのものを、城郭化するようになってくる。
これがいわゆる「平城」である。
そして、城は、軍事拠点としてだけでなく、政治や経済の中心地となり、
周辺には城下町が形成される。
≪ちなみに近世の城の象徴たる天守閣は、
信長の築いた「安土城」が手本となっている。
本能寺の変のおりに、城は消失しているが、
記録によると、25メートルの石垣の上に、5層の天守閣がそびえていたといい、
地上60メートルにもおよぶ、高層建築だった≫
勝ち誇る後姿が鬼に見え 綿井晴風
信長の城の変遷をみてみると、
那古野城から清洲城へ、清洲城から小牧山城へ、小牧山城から岐阜城へ、
岐阜城から安土城へと、たびたび居城を移していく。
新しい支配の中心となる土地へ、自分の城を移し、
止まることを知らない信長は、
最終目標に、安土城を築いたのではないかと思われる。
「安土城が最後の城と、信長が考えていたことは間違いない」
”本能寺の変”の1ッヶ月ほど前、朝廷から勅使が安土に下され、
信長に対し、
「太政大臣か関白か征夷大将軍か、お好きな官に任命しよう」
といっている。
「三職推任」といわれるものである。
三職推任は、朝廷が信長に要請したものか?、
信長が朝廷に強要したものか? で意見が分かれているが、
いずれにせよ当時の状況から、
その実現が、いかに難しいものであったのかが確認できる。
温泉に錯角があり四季がない 松山和代
「太政大臣」は近衛前久が、就任したばかり、
「関白」は公家の最高職で、武家は就任できない。
そして、いくら実権がないとはいえ、
「征夷大将軍」は足利義昭が、その職にあった。
≪こうした状況から多くの研究家は、
「仮に朝廷が三職推任を要請したとするならば、
それ以外の選択肢がないところまで、追い詰められていたのだろう」
と考えている≫
横波を蹴って独りの立ち泳ぎ 山本早苗
『永亨9年三島暦』(足利文庫所蔵)
実は、信長は、当時の朝廷に残されていた数少ない権限であった、
「暦の管理・管轄、元号の制定」 を意のままに操作し、
朝廷権威を公然と、侵害しようとしていた。
まず、元亀4(1573)年7月18日、義昭を京都から追放して、
室町幕府を事実上滅亡させた信長は、
朝廷に圧力をかけて「元亀」を「天正」へと改元させた。
天正10(1582)年には、
朝廷が管轄していた「宣明暦(せんみょうれき)」を、
尾張などの東国で用いられ、
自らが慣れ親しんでいた「三島暦」に変更するよう強要。
改暦を拒んだ朝廷を、信長は認めず、
”本能寺の変”の前日にも、
勅使として本能寺を訪問した勧修寺晴豊(かんじゅうじはれとよ)らに、
同じ要求を突きつけた。
≪晴豊は、「それはとても無理ですと申し入れた」と日記に残しているが、
当時”神の領域”とされていた改元・改暦を、朝廷は信長から強要されていたのだ≫
悪の華神の死角で咲き誇る 上嶋幸雀
また、天正7(1579)に完成した信長の居城・安土城のなかに建てられた
「摠見寺(そうけんじ)」という寺院について、
宣教師のルイスフロイスは、
「信長は、この寺の神体は自分であるとし、
生きたる神仏である自分の誕生日を聖日と定め、崇拝するように命じた」
と母国への報告書に記している。
信長は、「起源は天皇にある」と信じられてきた天皇の存在に、
真っ向から挑戦していたのだ。
こめかみに挑戦状がいつもある 森中惠美子
2000年に発見された安土城天主わきの殿舎跡。
さらに、平成11(1999)年の安土城の発掘調査によって、
城内に「天皇の御所・清涼殿」を模した建物の存在が、確認されており、
信長は、天皇を京都から安土城へと移し、
「住まわせようとしていたのではないか」 とも考えられている。
自らを神体とした寺院を建てた安土城に、
「天子」である天皇を呼び寄せ、
信長は「天主」と名付けた天守閣から、それを見下ろす。
不可侵とされた朝廷の権威に挑む、信長らしい考え方である。
霧のなか岩が条理を問うてくる 森廣子
【豆辞典】-「三職推任」
永禄11(1568)年、
織田信長が、室町幕府最後の将軍・足利義昭を奉じた上洛を、果たせたのは、
その前年に、正親町(おおぎまち)天皇から受けた、綸旨(りんじ)があったからである。
信長は、”禁裏を修復し、御料所を回復し、誠仁親王の元服費用を調達”
するという、三項目を請け負う代償として、
天皇の命を受けて上洛するという、大義名分を得たのだ。
とりあえず発酵させておきました 立蔵信子
こうした信長と朝廷の蜜月関係は、上洛後も変わることはなかった。
信長は莫大な費用をかけて造営した”壮麗な二条御所”を、親王にプレゼントしたり、
朝廷のために、”年貢を徴収”したりといった、援助を続け、
経済的・軍事的に朝廷を支えていたのだ。
もはや完全に信長に依存していた朝廷は、
天正10(1582)年、
”太政大臣、関白、征夷大将軍”のいずれかの官職に就くよう勅使を送り、
信長に「三職推任」を要請したのであった。
爪丸く切って賛成派にまわる 片岡加代




