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川柳的逍遥 人の世の一家言
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計り売りしておりますよ今日の空気  北原照子

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高杉晋作と伊藤俊輔

「名付けの名人・高杉晋作ー登場」

『動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし。

 衆目駭然として、敢えて正視するものなし。

 これ、我が東行高杉君に非ずや』
 
”一たび動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし。

 周りの者は、ただただ驚き、呆然とするばかりで、敢えて正視する者すらいない。

 それこそ、我らが高杉さんのことだ”

同じ松下村塾の門下であった伊藤俊輔は、改名して伊藤博文となり、

馬関海峡(下関海峡)を通過したおり、同志として働いた高杉晋作を想い、

彼の人となりを、こう読んで、碑とした。

見つけてください私は此処にいるのです 春野ゆうこ

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    井上聞多

伊藤俊輔井上聞多(馨)らと、馬関海峡で欧米列強の艦隊を相手に、

一戦を交えてきた相手である。

時代の申し子というか、維新のために、

それぞれの才を開かせて、寄せ集めた時代が幕末であった。

高杉晋作の場合は、奇知があるというか、

出くわした曲面に対し、瞬間的に策を思いつき、

その実行が、またまた要を得て効をなすのであった。

≪奇兵隊という組織の編成がそれを表す≫

セピア色剥がすと熱を帯びてくる  谷垣郁郎

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   高杉晋作

≪高杉晋作は、小柄で本人もそれを気にしていたため、

 立って写っている写真はない。

 しかし小柄ではあったが、何故か長刀を好んで愛用していた。

 そのため歩く姿は、刀を引きずって見えたという≫

”高杉いわく”

「兵には正と奇とがあり、戦には虚と実とがある。

 正兵は正々堂々として敵に対し、実をもって実にあたればよい。

 藩の部隊がまさに、正兵であろう。

 しかるに寡兵(小兵)をもって敵の大兵の虚を衝き、神出鬼没の兵があってもよい。

 私が創設する部隊は、常に奇道をもって相手を悩まし、

 勝利を制するのが目的である。

 よって、この部隊を”奇兵隊”と名付ける」 となった。

中七に八分休符が利いている  井丸昌紀

しかし、長州藩の正兵はすでにある。

高杉は、義や徳を重んじる男でもある。

藩主にお伺いを立てなければならない。

「そうせい公」の異名をもつ、

長州藩主・毛利敬親(もうりたかちか)に、申し立てたところ、

緊急時だから、そうせい」 と、快諾がおりたのである。

高杉のこうした考えに、反感をもつ長州藩士も多かった。

追いかけられる、命を狙われるで、

地元・萩で奇兵隊を創設するわけには行かない。

ビーナスの鼻はめがねを掛けにくい  井上一筒

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奇兵隊は、農民・僧侶・下級武士・商人の寄せ集め部隊だった。  

そんなわけで、高杉により、馬関で結成された「騎兵隊」は、

和洋折衷の軍服で、

隊士の意識と機動力とを高めるとともに、

理解しやすい隊則で組織をまとめた。

例えば、

「農道で牛や馬に出会えば、奇兵隊士は道を譲って、通り抜けるのを待て」

とか、

「農家に押し入って動物とか物品を奪ってはいけない」 

など、隊則は理解しやすい内容をもって、

組織の集中力を強化することに、成功したのである。

羞恥心なくせば一気にスターダム  ふじのひろし

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 「攻山寺」・高杉晋作銅像

雪の降りしきる頃、

馬関の「攻山寺」で農民・僧侶・下級武士・商人など多様な人材を集めて、

奇兵隊は、出陣を決行する。

馬関を通過するたびに、

伊藤博文は、こうした高杉晋作のエピソードを思い出した。

”博文”と命名したのも高杉である。

≪博文の2文字には、日本の文化をあまねく、広めてほしいとの、

  高杉が伊藤に託する熱い願いが込められていた≫

実印を男の顔で押している  多良間典男

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     毛利敬親

「蛇足」

長州藩主・毛利敬親が、土佐の山内容堂のように、

幕末期において、あまり表に名前が出てこないのは、

「そうせい侯」 と呼ばれるように、家臣の意見に対して、

いつも、「うん、そうせい」 と言い、

家臣の申し出にほとんど意義を挟まず、

家臣の好きなように、藩政をまかせたためである。

そのため、藩士からは慕われ人気があった。

やる気がなかったのかと言えば、そうかもしれないが、

家柄や年齢にこだわらずに、

下級武士の息子である吉田松陰の才を見い出し、

その門下から、高杉晋作など数々の優秀な人材を、

輩出させた影の功績もある。

字引より軽薄がよい電子辞書  八木 勲 

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『龍馬伝』・第29回-「新天地、長崎」 あらすじ

薩摩藩の西郷吉之助(高橋克実)小松帯刀(滝藤賢一)に、

身を預けた龍馬(福山雅治)たち、脱藩浪士は、

大坂から薩摩へ航行中、長崎に立ち寄る。

そして豪商・小曽根乾堂(本田博太郎)の屋敷に泊まることに。

西郷や小松は、龍馬たちに薩摩の船の、操船をさせようと考えていたが、

龍馬たちは特定の藩に頼らず、

龍馬、近藤長次郎(大泉洋)沢村惣之丞(要潤)らは、

操船技術を生かすため、蒸気船を手に入れようと計画する。

折り返し点で傘一本買う  大槻和枝

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そして龍馬らは、イギリス商人のトーマス・グラバー(ティム)を訪ねる。

惣之丞や陸奥陽之助(平岡祐太)が、英語で交渉するが、

グラバーは龍馬たちを信用せず、船は借りられなかった。
 
そこで龍馬たちは、

花街である、丸山の料亭・引田屋(ひけたや)に乗り込み、

商人相手に、船を借りようとする。

その引田屋では、

長州藩の高杉晋作(伊勢谷友介)井上聞多(加藤虎ノ介)、

伊藤俊輔(尾上寛之)が、酒を飲んでいた。

高杉は、外国から武器を購入するため、

正体を隠して長崎に潜りこんでいたのだ。

なめくじの関節だろう鳴ったのは  東おさむ

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高杉の部屋では、芸子の元(蒼井優)が踊りを披露していた。

そこへ龍馬たちが入り込んでくる。

龍馬は、「自分たちを利用しないか」 と、高杉に売り込む。

するとそこへ、薩摩藩士たちが乗り込んでくる…。

 豆腐のような煙のような明日です  徳永政二

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甘党の男に期待などしない  原井典子

期待できる男・龍馬はかなりの酒豪であったようだ。

質屋・才谷屋の血をひく、ボンボンだからお金もあって、

酒ばかりでなく、

結構なグルメでもあったそうだ。

そういう意味で、長崎は龍馬にとって、ダブルに希望の町であった。

さて、7月13日の卓袱料理(P-1)につづき、

ここでは長崎・卓袱料理(P-2)をご紹介・・・の前に、ちょっと寄り道。

恋なんてご飯のたしになりますか  杉本克子

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長崎へ一歩踏み込んだ龍馬の足

「龍馬伝ー第3部の舞台は長崎へ~」

龍馬は、薩摩藩家老・小松帯刀の助けを得て、長崎で海運会社・亀山社中を始める。

当時、長崎は外国との交易で栄えていた。

一獲千金を狙うトーマス・グラバー、

茶貿易で巨万の富を手にした大浦慶、

江戸幕府の手先・長崎奉行、花街・丸山の芸妓・お元、

そして、奇兵隊を創った長州の高杉晋作など、龍馬は様々な人々と出会う。

未知数にあつい視線が注がれる  吉岡 民

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    長 崎 崇 福 寺

「国宝・崇福寺で撮影が進む中、龍馬、晋作、お元、大浦慶が、長崎の印象を語る」

福山雅治(坂本龍馬)-長崎はおいしいものも沢山ありますし、歴史を感じられる場所です。

    このお寺にもちょくちょく、お参りに来ていたのですが、

   カメラ越しに見てみると、

    こんなに画になる場所だったんだなって、改めて思いました。

伊勢谷友介(高杉晋作)”崇福寺”は、国宝のあるお寺ということで、

   そういう場所で撮らせていただけて、演技にも身が入ります。

蒼井(芸者お元)-私は父が長崎の五島列島の出身なので、

   何度か来たことがあるのですが、今回久しぶりに長崎に来ました。

   やっぱり落ち着くなと思います。

余貴美子(大浦慶)ーまだ来たばかりなのですが、

   長崎街道も歩いてみたいですし、

   これからいろいろと見学させていただきたいと思っています。

   昨夜は、卓袱料理を堪能いたしました。

   和・洋・中のミックスで、”長崎は、こんなところなんだなあ”と感じました。

   すごく楽しくて、おいしかったですね。

福山龍馬ーなんで、僕、一緒に行ってないんですか・・・? (≧∇≦)/ ハハハ・・( iдi )

消防車が着くとサンマは焼けていた  壷内半酔

いよいよ余貴美子さんが、堪能したという卓袱料理へご案内。

長崎の大金持ち・大浦慶も、日常のように食したことでしょう。

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卓袱料理はお鰭椀に始まり、梅鉢で終わる。

お鰭椀・[鯛切り身]。紅かまぼこと白餅。椎茸。柚のつぼみ。小菜・[鯨百尋]。
中鉢ソボロ。果物。小菜・[ハトシ]。梅椀・「しるこ]。煮物・[チンゲンサイと木耳のスープ]。
小菜・[黒豆]。汁物・[ヒカド]。中央の大鉢・[煮物、飛龍頭、里芋、筍、菜の花、木の芽]。
中鉢・[豚角煮]。 【写真正面から時計回りに並ぶ】

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円卓には、あらかじめ小菜が並べられ、宴席のスタートを見計らって、

熱々のお鰭椀がつけられる。

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     お 箸 袋

ひとつ箸袋に、数人分の箸が入っている。

赤白の水引は祝儀、黒白は不祝儀

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     中鉢/豚角煮

とろとろ煮込んだおなじみ料理。

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中鉢/ハトシ

すり身にした海老を、パンで包んで揚げたもの。

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 小菜/鯨百尋(ひゃくひろ)

長崎の婚礼や正月の祝宴に必ず使われる一皿。

お赤飯何のお祝いかと思う  井上恵津子

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余さんが演ずる、「大浦慶とは?」

長崎で亀山社中を立ち上げた龍馬は、

その後、資金を何人かのパトロンに頼った。

その代表が、長崎の小曽根家と下関の伊藤家だったが、

大浦慶という女性にも、300両(約1800万円)の金を借りたことがある。

龍馬は、油屋町にあった慶の屋敷に転がり込んで、

居候することもあったが、

この女性は、いまでも長崎に伝説の女商人として、

語り継がれているほどの”女傑”だった。

生き生きあける炊飯器のまぶた  岩田多佳子

大浦慶は、長崎の老舗に生まれ、

17歳で、親の決めた男性を婿に迎えた。

しかし、婚礼の翌日、無気力なところが気に入らないと、

100両を渡して、叩き出したという経歴を持つ。

その後、両親があいついで亡くなり、家業が傾くと、

慶は、再建を果たすため、

21歳だった嘉永元年(1848)の、ある日、

長崎からオランダ船に忍び込み、中国へ向けてひそかに旅立った。

まだペリー来航前の話で、密航は極刑の時代だったが、

あえて挑んだのは、

日本で最初の茶貿易をはじめるという、壮大な商魂を宿していたからだ。

≪というのが、現在まで長崎に伝わる大浦慶伝説≫

釜飯の底のおこげがたまらない  前田咲二

密航伝説から5年後の、嘉永六年(1853)。

出島のオランダ商人で、

その後、東インド会社の重役に出世したテキストルが、帰国する際、

慶が、肥前嬉野の茶を見本として預けたことは、確かである。

ココロザシ確っかと抱いている翼  山口ろっぱ

すると、日英和親条約が発効された安政3年(1856)。

テキストルの紹介で、イギリス商人・オルトが訪ねてきた。

そして、いきなり72万トンの日本茶を注文。

こうしてはじまった”茶貿易”で、慶は大成功を収める。

やがて、日本茶は、長崎貿易のなかで、第一位を占めるようになり、

長崎とその近郊で、茶栽培が広がると、

慶は長崎の女傑として、その名を知られるようになった。

≪龍馬を慶に紹介したのは、グラバーだといわれている≫

森を開いて割り箸の山作る  井上一筒

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土地土地に十種十味の味噌がある 河原章久

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幕末の面影を残す料亭「迎陽亭」の茶室

京都文化博物館の『特別・龍馬伝』で、

龍馬の原板や、写真を見てきたオバちゃんたちが交わしていた、龍馬の感想。

おばちゃんポツリと、

「もうちょっと、いまやってる人に似てたら、よかったのになァー」

面白い!・・・が、

「違うやろー、ソレを言うなら逆やがなァ」

しかしそう考えれば、大河ドラマに主役で登場した、数々の歴史上の人物は、

たいてい本人より男前である・・・多分・・・。

並べてみると、

近藤勇ー香取慎吾直江兼続ー妻夫木聡、山本勘助ー内野聖陽

徳川慶喜ー本木雅弘、山内一豊ー上川隆也、小松帯刀-瑛太、義経ー滝沢秀明、

伊達政宗ーハリウッドスター・渡辺謙 しかりである。

大阪のおばちゃんだったら許される  本多洋子

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   坂本家の食事風景

いよいよ、4部作の「龍馬伝」も第3部に入る。

舞台は長崎。

戦国時代に、西洋と出会い。

鎖国時代もオランダ船や唐船が、やってきた港町である。

そして、長崎といえば、龍馬も食したであろう「卓袱料理」がある。

”しっぽく”と読む料理は、なにかと、外来との調和の響きがある。

今回は、龍馬の時代の食卓として、「卓袱料理」を紹介。

伝統の味を守っている重石  石田隆彦

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代々伝わる卓袱料理の食器も和洋中折衷

海の道をやってきた南蛮船や唐船が、

異国の食文化や流儀を長崎に伝えたのは、400年以上も前のこと。

龍馬の時代の長崎人は、

西洋風料理や中国風料理を、家庭で楽しんでいた。

そんな文化的風土に育まれたのが、

幕末の料亭で出されていた”卓袱(しっぽく)料理”である。

今も、”和洋中折衷”の料理が、朱塗りの円卓に華やかに並ぶ・・。

「卓袱とは食卓のこと。

 いうなれば”ちゃぶ台”です。

 卓袱料理は、もともと食卓を囲んで食べる料理という、意味なんですよ」 

玉葱を毎日食べて血を洗う  松尾美智代

料理より、食卓で食べるという行為に、注目が集まっていた。 

「当時、日本では武士も庶民も、一人用の食膳を使っていました。

 ことに武家は、食事作法に厳しく、

 身分によって座る席も、使う食膳も決められていたのです。 

 長崎の人たちがひとつ円卓を囲んで食事をするのを見て、

 龍馬も驚いたことでしょう」 

と、長崎食文化の生き字引、歴史研究家の越中哲也さん。

串カツへシャキッとキャベツ控えおり  伊藤礎由

「卓袱料理は江戸時代から、江戸でも知られていました。

しかし、将軍家のお膝元で、普及することはありませんでした。

そんなわけで”ちゃぶ台”も、

長崎以外の土地では、明治時代になってからも、

なかなか暮らしに、取り入れられませんでした」

骨も煮えたかと山姥蓋を取る  井上一筒 

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当時のままの座敷に掲げられた「迎陽亭」の額

江戸期文化9年(1812)に創業した長崎の格式高い料亭・迎陽亭の文書によると、

慶応年間(1865~1868)に、卓袱料理が出されている。

迎陽亭は、龍馬が”いろは丸事件”の賠償交渉に赴いた玉園町”聖福寺”の、

ほぼ真向かいにある、長崎屈指の料亭である。

龍馬もここで、卓袱料理に舌鼓を打ったのでしょうか?

そのへんの事はどの記録にもない。

けれど、グルメを気取り、新種の気風を愛した龍馬なら、

多分面白がって、円卓の食事を楽しんだに違いない。

≪龍馬伝でも、1人一膳格式どおり並んで食事をとっている通り、

 当時の武士にとって、ひとつの食卓を囲むということは、

 封建的身分制度をひっくり返すのと同じくらい、画期的なことだった≫

朗らかな顔が大きな輪をつくる  遠山唯教

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座敷に緋毛氈を敷き、朱塗りの円卓を置いた宴席

長崎では卓袱料理は、おかあさんがこしらえる家庭料理。

ちゃぶ台を囲む一家団欒の食事風景が、その始まりだったようだ。

長崎で270年、砂糖卸業を営む脇山壽子さんの家に伝わる献立には、

”ヒカド、ソボロ、ゴーレン”といったカタカナの料理名が並んでいる。

今も手作りされる料理の写真を見ると、

華やかな料理というより、素朴で温もりのあるおかず。

≪ヒカドは、1cm角に切った根菜を煮て、

 仕上げにサツマイモをすりおろして、とろみをつけたもの。

 寒い日に食べる、具沢山の汁物。

 ソボロは、細切り人参、たけのこ、ごぼう、こんにゃく、豚肉などを炒めて、

 濃いめに味付けするきんぴら風の一品。

 ゴーレンは、いまでいう竜田揚げ≫

梅干して母の秘伝で染める壷  池部龍一

飛龍頭(ひりゅうず)も、ポルトガル語・「フィロウス」に由来するカタカナ料理。

豆腐をすりつぶし、野菜を混ぜ、丸めて揚げたもので、

手間をかけて作る”もてなし料理”である。

南蛮渡来の料理は、

おかずになってこなれ、

お客料理になって磨かれ、

料亭の宴席を飾る料理にと、洗練されていきます。

すき焼きがにおう駅裏ぼくを呼ぶ  濱田良知

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 長崎漆の見事な鶴蒔絵椀

≪卓袱のはじまりに出される汁お椀≫

さて、料亭でいただく卓袱の宴席は、

「おひれをどうぞ」と言う、おかっちゃま女将さんの、あいさつで始まる。

卓には、小菜の皿が並んでいるが、それまではおあずけ。

お鰭(ひれ)は、本膳の流れを汲む汁椀。

かつては、「尾頭付き鯛を一尾使いました」と言う、

”もてなし”の気持ちを込めて、

お鰭(ひれ)を椀にそえたそうである。

今は、鯛の切り身が入る。

温かい汁物で一息ついたところで、宴席のごあいさつが始まる。

それからは和気あいあい。

赤のれん腹から笑うバカ話  平紀美子

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ワイングラスとプレスガラスの取り皿

「注がれたのはワインか、それとも日本酒か」

小菜の冷菜4品、大鉢の煮物、中鉢の揚げ物、煮物と、

ひとつ皿の料理を分け合い、酒を酌みかわしつつ、

打ち解けた宴が進む。

当時は、ひとつ器から食べるなど、「武士」にあるまじきことだった。

しかし幕末は、武士が自らの手で、

「武士の世を終わらせよう」 とした時代でもあり。

幕府の直轄地だった長崎に城はなく、藩主もいない。

幸せの原点だった腹いっぱい  森田美代子

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迎陽亭の庭先から、

龍馬が紀州藩との談判にやってきた聖福
の甍がみえる

自由で、したたかに生き抜く商人の町で、

龍馬は、「総合商社・亀山社中」を立ち上げ、

坂本龍馬という名の、新しい一歩を踏み出す・・・ことになる。

円卓に華やぐご馳走が、

まだ見ぬ世界へ、はばたこうとする龍馬の背中を、

そっと押してくれたかもしれません。

”木曜日に続きます”

名曲にワインの樽も酔いしれる  徳山みつこ

拍手[5回]

耳奥をポンポン船が通る夜  井上一筒

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『国の為め 君の為めに 命を捨てることは 武士の真の道』

これは武市半平太(瑞山)が、切腹の直前に、親類に出した手紙の一文である。

切腹というのは、短刀の切っ先を腹にあてた瞬間に、

首を切り落とすのが従来の作法であった・・・が、

武市の場合は、腹を十文字に捌いてから、首を落とさせた。

これが、武市の純粋性の貫徹であった。

武市は、仇名で「顎」と言われ、「窮屈」と言われた。

突き出た顎と、何事にも堅苦しい理論で、話してくる半平太を、

幼友達の龍馬が、つけたあだ名だ。

この仇名が示すように、

後半生の彼の不幸な生涯は、この頑なさが、起因していたともいえる。

せせらぎに預けておこう花の首  山口ろっぱ

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   獄中の自画像ー1

「武士の忠義とは?」

武士には、忠義の精神が必要とされた。

忠義がもっとも重みを帯びるのは、”武士の名誉”において、である。

たとえ落ちぶれた藩主であっても、

お仕えして、苦難を共にするのが忠義の骨子である。

ところが、である。

主君の気まぐれとか、酔狂、思い上がりによる部下の犠牲に対しては、

武士の評価は、極めて厳しかった。

”馬鹿殿”には、お仕えするわけには、いかなかった”のである。

真白になって明日を追ってみる  谷垣郁郎

それでも、奴隷のように仕えようとする者は、

無節操なへつらいをもって、主君の”ご機嫌を伺う者”であり、

おのれの良心を曲げ、筋を通せない者として、

軽蔑され、武士の不名誉とされたのである。

したがって武士は、

「忠義という徳目を、果たすべき主君かどうか」 

を考え、その是非を自分の心に、問うて見るしかなかった。

言い訳の知恵を絞っている歩幅   藤井正雄           

忠義は日本に特殊な、直線的な徳目である。

主君に誠を尽くし、命運を同じくするのだから、

部下たる武士には、命がかかっている。

それを考えると、馬鹿殿のために、

「死ねるか?」 

と問えば、

「左様なことは出来かねる」 となったのだ。

梅田たそがれ人の流れも様変わり  廣岡志女

幕末になると、封建体制も緩んできたから、

藩の枠に縛られるよりも、

脱藩することにより、自分の筋を通していく若き浪人も増えたのである。

龍馬などは、

「朝から酔って候」 の土佐藩主・山内容堂に、サッサと見切りをつけ、

長州の久坂玄瑞には、

「藩など潰れてしもうてもかまわんではないか」

と諭されたこともあり、土佐を脱藩したのだった。

≪優柔不断で腰抜けの、最後の将軍・徳川慶喜も、

 幕末の混乱に部下たちの人心を集められず、徳川幕府を崩壊させる、

 一因になっている≫

しかし、半平太の忠義に対する考え方は、少し違った。

風向きがどう変わろうと受けた恩  吉村久仁雄

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    獄中自画像ー2

武市半平太の”土佐勤皇党の主張”の一つに、

「藩の階級制の廃止と、能力に応じた人材の登用」 

というのがある。

容堂は、徳川家には恩があり、

”タテの規律”を大事にと、考えていた人物である。

いわゆる武市が考える、

「すこし、ヨコにしませんか」という、考え方とはちがっている。

結社をつくり、規律を壊そうとする勤皇党の主張は、

容堂にとって、絶対許せないものであったのだ。

≪容堂は、酔っ払いではあるが、馬鹿殿ではない。

 むしろ飲むほどに、頭が研ぎすまされ、鋭く切り替えの早い、藩主であった≫

政治家が擦り減らしてる削除キイ  八木 勲

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   獄中自画像ー3   

本当は、「タテ社会を、ヨコ社会にする」 と考えていたのは、

脱藩をした龍馬であり、幕府側で言えば、勝海舟である。

その意味で言えば、藩を飛び出さなかった半平太は、

「藩のこと、藩士のこと」

を真摯に考えていた、今で言う愛社精神いっぱいの優秀な武士であった。

容堂は、半平太のそんな真意を汲むことができず、

半平太も、純粋なまでの一途さが、藩との誤解を生じさせてしまった。

水平思考の利かない半平太の弱点である。

ドラマ・「龍馬伝」で半平太が叫んだ言葉が、耳奥に残る。

『土佐勤王等は、ただ土佐藩の為、藩主豊範様のため、

そして大殿・山内容堂様をお支えするために、働いてきたがでございます』

水ばかり飲んで蛍を待っている  山本早苗

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獄中自画像ー4

最後にやっと容堂と面会できた、半平太は、

「大殿さまは、天下一の名君でございます」 

という。

≪頭脳明晰といわれた半平太は、一直線の馬鹿正直な人間だった・・・!≫

そしてそこで、「切腹しいや」 と容堂に言われたとき、

半平太は、その言葉に感激するのである。

「切腹が許された」・・・と。

武市が、獄中で自画像とともに、書いた言葉がある。

”花は清い香りによって愛され、人は仁義によって栄える”

武市は、最後の最後まで、自分を信じた。

即ち、大殿・容堂を信じたのだ。

武市は、真の忠義の侍だったのである。

十文字の切腹の仕方が、

半平太の”武士としての一途さ” を物語っている。

あまりにも、悲しい最期です! ( iдi )

消しゴムでそっとあなたを泣きながら  北原照子

半平太の一途さをあらわす、龍馬伝でのセリフを回顧する。

愛する妻・冨に言った言葉。

『もし来世ゆうもんがあるがやったら、

 わしはまたおまんと出会うて、夫婦になりたいがじゃき。

 そのときはずっと・・・おまんと一緒におるがじゃき』

くたびれた翼よ終電は行った  壷内半酔

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「龍馬伝で武市半平太役・大森南朋の、”半平太最期”の感想」

”今週は、いよいよ半平太が切腹という、最期を迎えます。

 これまでドラマでは、半平太の迷いや劣等感といった、

 人間としての弱い部分が、重点的に描かれてきました。

 でも僕は最期は、

 『この人はやっぱり侍だった』 と、示して終わりたかったんです。

 切腹を前に、半平太が牢番に告げた言葉が、実際記録に残っています。

 彼は牢番に対して、敬意を表したそうなんですが・・・、

 それを知ったとき僕はすごく感動して、

 半平太は、死を前にしながらも、

 自分の姿勢を崩さず、真に侍であり続けたのだと・・・。

土壇場の涙が情に絡みつく  浜田嘉穂          

 演出の方に「ぜひやらせてください」と、お願いして、

 牢番への言葉をセリフとして、追加してもらいました。

 罪状を後藤象二郎に読み上げられた後にも、二言くらい加えてもらって。

 凛とした様をより具体的に示すことで、

 「半平太は、最期まで侍としての意地をみせたんだ」 

 ということを、視聴者の皆さんに感じてほしいと、思ったんです。

ロスタイム如何に飾るか思案中  前田紀雄

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「山内容堂役・近藤正臣的おすすめ」

大殿様である容堂が、

わざわざ牢屋にいる武市半平太(大森南朋)のところへ出向くシーンがあります。

そこで半平太に、「腹を切りや」 と言う。

これは、すごいプレゼントなんだよね。

武士に、腹を切る名誉を与えるということは。

そのとき僕は、脚本には書いてないし、

監督からも言われていないこと、

つまりアドリブであることをやるんです。

とにかく2部の最終回、二人のヒントを楽しみにして、ともに泣きましょう。

雑談でアイデア一つ持ち帰り   哀川加枝子

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『龍馬伝』・第28話-「武市の夢」 あらすじ

龍馬(福山雅治)が土佐に現れ、

「自分が東洋殺しの下手人だ」

と認めたことを聞いた山内容堂(近藤正臣)は、

武市半平太(大森南朋)の牢を訪れる。

容堂は、尊王運動と土佐藩との板挟みになりながらも、

土佐藩に、忠義を尽くそうとした武市と、

「徳川家のやり方に納得せずとも、徳川家に忠義を尽くさなくてはならない」

容堂自身が似ていると半平太に話す。

容堂の予期せぬ優しい言葉に、武市は感激するのだった。

いいニュースを拡大できる耳である  立蔵信子

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『これは奇跡じゃ、これはおまんが起こしてくれた奇跡ぜよ』

その夜、龍馬と弥太郎(香川照之)は半平太の牢に忍び込む。

龍馬は自分が罪をかぶり、武市を助けようとしたことを話す。

しかし、武市は自ら罪を認め、切腹する決意を語り、

龍馬には日本を変え、異国から日本を守ってほしいと話す。

以蔵(佐藤健)はざん首、武市は切腹と刑が決まる。

人の世を底なし沼と言うらしい  浜田さつき

拍手[5回]

足は長く顔は小さく写してね  武内美佐子

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「わしの大好きな町の景色を、しっかり見とうせ」

と、言わんばかりに腕組みをして、”身長3メートル”の龍馬像が、

”長崎港”の絶景を見下ろしながら、”風頭山”の展望台に立つ。

すぐ近くにあるもう一つの展望台には、

司馬遼太郎
「竜馬が行く」の文学碑があり、

「長崎は、わしのきぼうじゃー」 

と小説にある龍馬の言葉が、刻まれている。

流されて流れて僕の現住所  岸本宏章

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   風頭公園の龍馬像

≪亀山社中跡の丘陵と連なる風頭山は、長崎の絶景を見下ろす好展望台。

 龍馬像が、その展望台から、「わしの街をみておおせ」と、

 長崎の夜の町を見据えている≫

実際は、

「わしの大好きな”お元”がいる長崎の町を、しっかり見とおせ」

と言っているのかも知れないが、

その長崎で、幕末に多くの志士たちと関わってきた、

一人の写真家がいる。

その当時、"東の下岡蓮杖"、"西の上野彦馬" と並び称された、

名写真家の一人、上野彦馬である。

スケールの違いは耳朶の広さ  上野多恵子

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上野彦馬は、営業写真家の草分けで、

文久2年(1862)、故郷の長崎に戻り中島河畔で「上野撮影局」を開業。

「一等写真師」の看板をたてて、客を待ったのだが、

閑古鳥が鳴く有様で、開店休業状態が続いた。

写真があまりにも写実的で、自分の生き写しと考えられて、

「写真を撮ると命まで取られる」

との迷信が流布していたからだ。

身中の虫がどっぷり胡坐かく  森 茜

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龍馬と同じスタジオで写真に収まる後藤象二郎

長崎には、開明の青年が全国から集まっていた。

「迷信などに引きずられてなるものか」

と、度胸を据えた若者がついに、写真館の門をたたいたのである。

「わしの写真を撮ってはくれまいか」

と、言って彦馬の客になったのが、

坂本龍馬や高杉晋作、伊藤俊輔(博文)、桂小五郎らであった。

一汁一菜仏が少し分りかけ  たむらあきこ

しかし写真は、彼らにあって「遺影のつもり」であった、と伝えられている。

有名になった折には、

「後世に自分の姿を残しておきたい」 との功名心も働いた。

混乱の幕末は、志士を目指す者にとって、

いつ命を落とすか分らない、ご時世であり、

彼らには、それなりの覚悟があって、写真に収まったのである。

効いてるか試しにクスリやめてみる  中 博司

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風頭からのぞむ長崎港(古写真)         現在の同じ位置からの情景

≪港に停泊する数多くの外国船が、当時の長崎の賑わいを物語る≫

”日本初の写真機”が、出島経由で、長崎に輸入されたのは、

幕末の1843年のこと。

写真撮影に成功するのは、さらにその16年後である。

龍馬が、

『日本を洗濯するために』
長崎を訪れたのは、

1864年~67年にかけてで、ちょうど写真が普及し始める時期と重なる。

龍馬は、彦馬のスタジオで撮影した肖像写真を、

5枚~10枚ほど、焼き増しして持っていたという。

「当時、”カルテドヴィジド”といって、今でいう”写真入の名刺”を作った」 

という。

新しいもの好きで、アイデア豊富な龍馬らしいエピソードである。

もひとりの僕の視線を意識する  嶋澤喜八郎

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   ガラス原板

ガラス原板とともに、この「名刺写真」

”龍馬の実像”
を、後世に遺すことになったのである。

慶応2年(1866)頃に、撮影されたという、

龍馬の写真(立像写真)の、「オリジナル・ガラス板写真」が、

3日間限定にて、

京都博物館の『龍馬伝特別展』で見られるということで、

早速行ってまいりました。

まさに龍馬ブームである。

入り口では、約30分の行列、

目的のガラス板前では、ものの2秒ほど見るのに、

40分以上は並ばされた。

肯定も否定もしない群れにいる  勝山ちゑこ

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龍馬伝の人気 あやかりたい人もいる

暗いケースに入った、「そのもの」は、

2・3秒程の鑑賞で、ほとんど印象にも残らない。

館内もまた、人・人・人の頭が邪魔で、肝心な物はほとんど見えない。

龍馬は、地球一周分歩いたというが、

達成感のないその日の、我々のだらだら歩きは、

龍馬が実感した同じような疲労を、

たった一日で感じさせられた、おもいだけが残る。

許したが一つの棘が抜け残る  吉川哲矢

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    上野彦馬と家族 

≪彦馬の前に、母と妻、横に4人の妹、前列で行儀よい姪と、眠たげな甥≫

古写真とは、

幕末から明治にかけて、撮影された黎明期の写真で、

「初期写真」と呼ばれる。

「古写真の魅力は、そこに本物の歴史があるということ・・・

 絵画は不要なものを省きますが、

 写真は意図しないものまで全部写ってしまう。

 そこに、現実が写っているんです」

と語る古写真研究家の姫野順一さんの、言葉を思いめぐらせながら、

歩いた。

現在の進化したカメラ(デジカメ)の中に、

この数々の幕末の歴史を収めたかったが・・・、館内は撮影禁止 ((( T_T)

横顔で盗む角度で我慢する  辻 葉

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「龍馬の写真(立像写真)は、上野彦馬によって撮影されたという・・・が?」

上野彦馬の弟子に、井上俊三という土佐藩出身の人物がいた。

ふるさとの馴染みということで、土佐藩出身の人々は、

井上に、無料で写真をとってもらうことが、よくあったようだ。

龍馬の写真も、スタジオは、間違いなく上野彦馬のスタジオだが、

撮影者は、この井上だという説がある。

龍馬の立像写真の原板(湿板)は、

井上家に保存されていた事から考えて、

「撮影者は、井上俊三とするのが妥当なところではないか・・・」

と、古写真研究家。
 
もう時効なんです七味唐辛子  山口ろっぱ

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上野写真館にて、日本に友好的な外人たち(古写真)

開店休業状態だった「一等写真師」の写真技術も徐々に、

次第に高く、評価されるようになる。

ポーズをとるものも現れて、ちょっとした写真ブームが、長崎に起きた。

そのブームにあやかり、

上野写真館を訪れる人が増えてきたのだが、

心の奥底では、「もしや俺の命が・・・」と恐れる向きもあった。

そこで写真機に向かって、”にらみ”を利かせてから写れば、

自分の精神力が貫通するから、

「死なずにすむ」との、『にらみの心得』が、説かれるようになる。

≪その心得を、最初に言い出したのが、長州藩の重臣、周布政之助であったらしい≫

迷信の通りに腹が痛くなる   村上恵美子            

「さぁ写します。

 こちらを見て、私がイイと言うまでジッとして、動いてはいけない。

 よろしいか。  ヒィ、フゥ、ミィ、ヨォ、イツ ・・・」

上野写真館では、少なくとも約2分ほどは、動かずにジッとして、

ポーズを決めていなければならなかった。

そのための首押さえの道具も用意されていた。

しかし2分間と言えども、ジッとして耐えている時間は長い。

首は凝る、それに、「にらみ」も利かせなくてはならないので、

我慢も限界に達する。

≪彦馬の家族をよく見れば、その様子が写っている≫

カップ麺2分半しか待てなんだ  井上一筒        

遠路やってくる客を、そういう苦痛から逃れさすには、

写真機を改造しなくてはならなかった。

やがて彦馬の手で、5秒程度で写せる画期的な、新機種が出来上がった。

上野彦馬は、化学にも通じており、長崎でこれを学ぶ予定でいたが、

蘭学者の中で、たまたま見つけた”ポトガラヒー”という語の

意味を外国の教官に質問したのが、”写真との出会い”となった。

蘭学者に従って、機械から薬品の開発まで手がける彦馬の徹底ぶりが、

新機種の開発につながった。

もしもからついにまで抱く寒たまご  山本早苗

「わが国最初の公害問題が、彦馬写真館から発生した」

『エピソード2件』

研究心が嵩じて、

彦馬は牛骨から、アンモニアを抽出する方法を開発するのだが、

実験室からアンモニアが流れ出し、

臭気が近所に及んだために、奉行所に突き出される、

ハプニングもあった。

最後にはごみとなるものばかり買い  八木勲

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居留地の中央を流れる大浦川の河口から見たダウンタウン(古写真)

フィルムは、硝酸銀の液体に浸した原板を、乾かないうちに、

現像しなければならなかった。

ただ問題は、このフィルムを撮影に使ったときには、

光量不足になりやすく、

被写体になった志士たちを、寺の大屋根に登らせて、写したこともあった。

一見、室内写真のように見えても、

すべてよく晴れた日当たりの良い野外で、撮ったのである。

小道具を外に持ち出して、

それらしい室内写真に仕上げる、大仕事であったのだ。

≪龍馬も小五郎も、小道具に囲まれた野外スタジオで、

後世に残る一枚を撮影していたのだ≫

蛇口からやっと太平洋につく  板野美子

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   龍馬の紋服

「龍馬伝・特別展での収穫」

龍馬のサイズが、現実的に見れたことが唯一の収穫。

当時龍馬が羽織っていた紋服から、計測したサイズがこれ。

身長=173cm 体重=約80kg

以下、紋服の寸法。

着丈=149cm    肩巾=32cm    袖丈=50cm 
袖巾=33.5cm   裄丈=65cm    前巾=26cm   後巾=30.5cm

どぉうってこと月は東に日は西に  河村啓子

拍手[9回]



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