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川柳的逍遥 人の世の一家言
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とんでもない結論吐いているしずく  中山おさむ

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    闘う カブトムシ

”加茂川に あたら仇浪 立たせじと 思い定めて 渡る月日か”

これは、京都滞在中の山内容堂が詠った、彼の本音である。

私の幕降ろす人がいる  河村啓子

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長州藩と、これをバックとする”尊皇攘夷派”の、志士や浪士によって、

座巻されいた京都に、

文久3年(1863)1月25日,前土佐藩主・山内容堂が入った.

その世話役を、京都の土佐藩邸で留守居役の平井収二郎に命じた。

あとに思えば、これは、容堂の策略だったのだが。

その抜擢に収二郎は、興奮をかくせなかった。 そして、

「容堂公をいただいて、薩長二藩に遅れを取りがちな、土佐藩の存在意義を一挙に示そう」

と考える・・・。

収二郎の胸に野心の火が燃えたのです。

反面、この収二郎の行動は、半平太にとって、「自分への裏切り」 でもあった。

ますます広くなる頭頂のロビー  浜田さつき

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願ってもない大役に高揚する収二郎

容堂にとって、もっとも頭の痛い存在は、

攘夷ばかりにこだわる、武市半平太「土佐勤皇党」であった。

やることがすべて、容堂の考えと、反対だったためである。

収二郎は勤皇党々員。

収二郎の京都における活躍も、

尊攘派の公家や志士との交流が主なもので、

”半平太の理念”を、京都で実現化していた、勤皇党ナンバー2の存在である。

容堂の腹を読めない収二郎は、

容堂にしばしば、そういう意見を述べていた。

容堂は気にいりません。

そのたびに、容堂は激怒します。

これをきっかけに、”勤王党弾圧”の決意が、容堂の中に増殖していくのである。

遮断機を行き交うたんぽぽの綿毛  中島紀子

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『龍馬伝』・第20回‐「収二郎、無念」 あらすじ

土佐へ帰国した半平太(大森南朋)は、投獄された収二郎(宮迫博之)を助けるため、

容堂(近藤正臣)に、お目通りを願い出る。

だが、現れたのは象二郎(青木崇高)だった。

吉田東洋(田中泯)暗殺をきっかけに、

藩政から退けられていた彼は、容堂により、

再び城へ呼び寄せられたのだ。

古傷を舐め合いながら繋がれる  森 廣子

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収二郎の裁きを取りしきる象二郎に、

半平太は、

「収二郎の仕業は、藩のためを思ってのこと」 と必死で釈明。

だが、収二郎の投獄には、別の目的があった。

「東洋暗殺の真犯人は誰か」、詰問するためでもあったのだ。

その事実を聞かされた半平太の胸は、ざわめく。

収二郎を投獄へ追いやった東洋暗殺。

自分の選択は間違っていたのかー。

半平太は葛藤する。

壷へ入った賢い方のコブラ  井上一筒

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一方、龍馬(福山雅治)は、大坂の専称寺で、航海術の勉強に励んでいた。

収二郎が、投獄されたことを知った龍馬は、

彼は、幼なじみの投獄に、

居てもたってもいられず、京に滞在中の勝(武田鉄矢)のもとへ向かった。

「どうにか収二郎を助ける手だてはないか」 

と焦る龍馬に、勝は、

「東洋暗殺は、見方によって、正しくも、間違いでもある」

と諭す。

だが、大殿様のためを思って尽力してきた収二郎が、

なぜ牢獄へ入れられなければいけないのか、龍馬は納得がいかない。

地を這って厳しい現実に触れる  足立淑子

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京にいる勝のもとへ向かった龍馬と入れ違いに、

兄の権平(杉本哲太)が勝塾にやってきた。

彼は、脱藩を許された龍馬を、土佐に連れ帰ろうとしたのだ。

だが、龍馬はいまや、勝塾のリーダー的存在、

”何とか龍馬の帰国をあきらめてもらえないか” 

と考えた長次郎(大泉洋)は、

「わしらと一緒に学んでみませんか?」 と権平に提案する。

初めての体験に、おろおろするばかりの権平だったが、

徐々に、訓練生の海軍創設にかける思いを知る。

曲者ですなぁ冷や酒の口あたり   西山春日子 

885a8b74.jpeg      

そうとは知らず、そこで勝から、

「勝塾の資金が、底をつきそうだ」 と聞いた龍馬は、

越前福井藩の前藩主・松平春嶽(夏八木勲)のもとへと向かう。

春嶽に会った龍馬は

「勝塾存続のために、千両かして欲しい」 と頼む。

そして、龍馬は、そこに居合わせた横井小楠(山崎一)と出会い、

西洋のデモクラシーについて話を聞く。

しなやかに右に左に道を持つ  勝山ちゑ子

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さらに続く、投獄された収二郎への、過酷な拷問。

それに耐え、一向に、口を割らない収二郎に、

容堂は、文久3(1863)年6月8日、とうとう切腹を命じた。

「平井収二郎・辞世」

”もゝちたひ いきかへりつゝ うらむと思ふ 心の絶えにけるかな”

踏み切り前にオトコひとりを縫いつける  山口ろっぱ

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その後、

収二郎の最後を聞いた龍馬は、                                      

「収二郎ハ 誠にむごいむごい、いもふと おかおが なげきいか斗(ばかり)か」

と、平井収二郎の死を慟哭し、

平井加尾への想いを、認(したた)めている。

(龍馬の手紙 文久三年六月二十九日、乙女宛)

 平井収二郎、文久3年6月8日に弘瀬健太、間崎哲馬と共に切腹。

介錯人には、

幼少から、同じ道場へ通った幼友達・平田亮吉が務めている。

鯨幕あの世この世の歩道橋  佐藤寿美子

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獄中での爪書きの辞世、『嗚呼悲しき哉』・・・は、藩吏により削り取られたが、

明治維新後に、妹・加尾の手により復刻された。

爪で残したといわれる平井収二郎の辞世の句碑。

嗚呼悲哉 兮 綱常不張
洋夷陸梁 兮 辺城無防
狼臣強倔 兮 憂在蕭牆
憂世患國 兮 忠臣先傷
月諸日居 兮 奈我神皇   と記されている。

ああ哀しいかな、綱常張らず       
≪ああ、なんと悲しいことか ”三綱五常”の主張も叶わず≫

洋夷陸梁して、辺城防ぎ無し    
≪洋夷(異国人)が、好きに暴れ回っても わが国を守る手立てもない≫

狼臣跋扈して、蕭牆(しょうしょう)に憂いあり  
≪佐幕派の浪士が、思うがままに勢力を振るい 寂しく憂いこの上もない≫

世を憤り国を憂い、忠臣まず傷つく  
≪日本の将来を真剣に憂いている 私の心は傷ついたままだ≫

「三綱五常とは」―人として常に踏み行い、重んずべき道のこと。(儒教の教え)

≪「三綱」は、君臣・父子・夫婦の間のー『道徳』

 「五常」は、仁・義・礼・智・信の五つのー『道義』≫

世の中は刀で切れぬものばかり  山添黄葉

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両耳で狙って臍で撃ち落す  井上一筒

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えらいやっちゃ”を踊る民衆

江戸幕府が倒れたのは、

政治的には、長州藩・薩摩藩に代表される西南雄藩と、朝廷とが合体し、

その力に押されたことによるが、

より根本的には、

幕府が、”民衆から見離されたから”である。

なぞなぞが解けないままにやがて雨  山本昌乃

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 長州征伐の図

『幕府が民衆から見放されていった契機』

一つの契機となったのは、「長州征伐」である。

「幕長戦争」とも呼ばれ、第一次と第二次の二度にわたった、

幕末の政治史を方向付ける、大きな動きであった。

第一次征伐は、「蛤御門の変」における、

長州軍の皇居への、発砲に対する謝罪を求めて、幕府がしかけたものである。

この時は、ちょうど長州藩が、

4国艦隊(英・米・仏・和蘭)の下関砲撃に敗れたばかりであり、

藩内保守派の台頭によって、幕府へ恭順の意を表したため、

幕府軍は戦わずに、12月、撤兵令を下している。

あやまりに来るなら髭も剃って来い  柴本ばっは

こうして、第一次幕長戦争は終息をしたが、

そのシワ寄せは、重く民衆の肩にのしかかった。

例えば、出兵の最中の9月、大阪に立てられた高札には、

「将軍上洛はいらぬ事、此の後、上洛なれば一文も町人よりハ出銀せず」

とか、

「公儀に用金出す馬鹿はなし」 

などと貼り出されたという。

≪幕府軍の出兵により、「公金」が町人たちに賦課されたのである≫

何事もない日の重み増してくる  山田恵子

ところが、幕府に恭順の意を表した”長州藩内”では、

そうした藩上層部に、反発する動きも出てきた。

例えば、元治元年(1864)12月から翌・慶応元年はじめにかけては、

”奇兵隊”の力を背景として、高杉晋作らが下関で兵をあげ、

藩の実権を奪うことに成功し、

やがて、藩の意向は、倒幕へと固まっていくことになる。

もちろん、幕府はそうした長州藩の動きを、黙って見過ごすことはできず、

再征を決意し、その年の9月、勅許を得た。

ところがこの時は、朝廷内はもちろん、諸藩にも”再征反対”の空気が強く、

とりわけ薩摩藩は、ひそかに長州藩と連絡をとりつつ、

幕府からの出兵命令を、拒絶しているほどだった。

意に沿わぬ訂正印にある滲み  吉田信哉

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将軍・家茂上洛 (二条城より出場の図) 
 

慶応2年、幕府が”第二次長州征伐”の軍事行動をおこしたことにより、

大坂には幕府軍が次々と集結し、大坂の人々は、

その多数の軍勢の、世話や人足負担を、強制されることになった。

軍勢の世話や人足負担は、

まだ、生活そのものを脅かすものではなかったが、

幕府や諸藩が合戦に備えて、大量の米を買い付けたことにより、

大きな混乱がもたらされた。

幕府や諸藩が米を買い付けはじめると、

米商人たちが競って米の買占めに動いた。

そのため、大坂ばかりでなく、江戸の米も、不足するようになった。

戦争が、異常な”米価高騰”を招いてしまったわけである。

≪なお、14代将軍家茂は、この第二次長州征伐で大坂に出陣し、病死する≫

どの角も欠けてはならぬ冷奴  篠原伸廣           

民衆が、幕府を見限るのと、まさに裏腹になるが、

このころから、幕府に変わる”新しい支配勢力”の出現を、民衆たちが求めるようになる。

しかも、それは、幕府によって、まさに攻められようとしている、

長州藩への期待へと結びついていった。

事実として、その年の4月から5月にかけて、播磨の長府で、

「長州に負けなよ、エライヤッチャ」 

と歌いながら踊る稲荷踊りが、大流行したと云われているし、

民衆たちが、幕府政治への期待をまったくなくし、

それに対して、幕府に変わる「何か」の出現を待ち望んでいたことがわかる。

反論する若さに期待かけている  山口ろっぱ

このとき、台所を預かる女房たちが、

まず、「米を安く売って欲しい」 と米屋にかけあった。

「米を売ってくれ」  「米を出せ」 に変わるのに、

大して時間はかからなかった。

そして、ついには手元にあるいろんな道具を持って、米屋を襲い、

力ずくで米を出させる打ちこわしに、発展していった。

目の上のこぶへ一変した態度   片岡加代

この動きは、江戸にも飛び火し、江戸市中は打ちこわしの嵐が吹荒れる状態になる。

江戸の町奉行の門外に、

「御政事売切申候」 という札が貼られたのも、この時のことで、

民衆たちは幕府をすでに、見限っていたのである

≪このころから地方都市、あるいは農村で、

 「世直し大明神」の旗をおしたてた”一揆”が蜂起する≫

窮すれば奇妙な力湧いてくる  竹田りゅうき 

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『龍馬伝』より、踊り狂う民衆

『ええじゃないか』

こうした動きが、日本中を巻き込んで一大ブームに発展していくのが、

「ええじゃないか」 である。

”ええじゃないか” には、各地の事例からみて、かなり決まったパターンがある。

つまり、”お金が降る”という現象である。

当時の人の懐古談や絵などに、空からお金が降ってきて、

それを競って拾い合う、民衆たちの姿が描かれたりしている。

≪「お札が降る」とはいっても、実際には、夜中、何者かが豪農や冨商の家に、

お札を貼っていったのが一般的だったといわれる≫

シュレッダー醜い過去を刻みます  中山おさむ       

お札が降ると、降った家では、その「お札」を祀らなければならない。

しかも、ただ祀るだけでなく、

村人を招待して祝宴をはるというのが、共通している。

そして、「ええじゃないか」 と囃したてながら、

町へ、あるいは村へ、くり出していくのである。

しかも、その踊りの衣装は、

女が男装し、男が女装し、また、老人が若者の姿になり、

逆に若者が老人の格好をするなど、

いわゆる「日常性の否定」という現象がみられる。

おそらく、上下転倒の思いが、そこにこめられていたのだろう。

まあいいかと言うには五体熱すぎる  糸岡アヤ子

なお、そのときに唄われる歌詞は、

即興的なものが多く、これといった定型はない。

例えば、岐阜県下では、

「長州のおかげで 百にお米一升する えいじゃないか えいじゃないか

 おめしちりめん一たんが弐ぶする えいじゃないか えいじゃないか

 追に諸色が安くなる えいじゃないか えいじゃないか」

と唄われている。

諸色というのは、いろいろなものという意味で、

「長州のおかげで物価が安くなった」

と長州をたたえた唄になっている。

長州藩を讃えた歌詞はかなり多く、尾道地方では、

「長州さんお登り えいじゃないか えいじゃないか 長と薩と えいじゃないか」

というのもある。

鰯さく 指から潮騒聞くように  北原照子

また、各地で、

「江戸の横浜石が降る そりゃえいじゃないか 

 ここらあたりは神が降る そりゃえいじゃないか」 

などとうたわれ、

この場合は、”攘夷を唄った歌詞”となっている。

長州への期待、それに攘夷、そして「世直し」あるいは「世直り」 という言葉が、

歌詞の中に、よくみうけられる。

つまり、「えいじゃないか」は、民衆たちの「世直し」願望と結びついていた。

この「えいじゃないか」 の乱舞は、

それまで260年余りにわたり幕藩体制という、

がんじがらめの政治体制によって、

圧迫され続けた、民衆たちのエネルギーが、

一気に爆発したものみることができる。

頂点まで伸びたら空が揺れ出した  たむらあきこ

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丹頂のひと鳴き風穴があいた  森田律子


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 (吉野拓也氏撮影)

 

坂本龍馬が、長州を訪れた際に尊皇攘夷の志士・久坂玄瑞 に託され、

 

土佐へ持ち帰った武市半平太宛の手紙が、

 

土佐・山内家宝物資料館の収蔵資料から見つかり公開された。

 

矢印は正しいですか本当に  高岡宏子

 

手紙は、1862年(文久2年)1月21日付。

 

「諸大名も公卿も頼りにならず、草奔の志士を集めて立ち上がるしかない」

 

「大義のためならば、長州藩や土佐藩が滅亡しても苦しくない」

 

などの内容で、勤王党ら下級武士に決起を勧めている

 

武市半平太の使者として長州を訪ねてきた龍馬を、

 

久坂玄瑞、「坂本君」と呼び、

 

「腹を割って話し合ったので、しっかり聞き取って熟考してください」 と、

 

自分の思いを、龍馬から聞くよう頼んでいる。

 

乱世のイノシシ 枕元を奔る  加納美津子

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土佐勤王党を主宰した武市瑞山に宛てて、志士の決起を促す内容で、

 

「大義のためなら藩が滅んでもいい」 

 

という持論の部分を大きな字で、強調している。

 

龍馬も久坂の影響を受け、帰郷直後に、脱藩しており、

 

明治維新前の、緊迫した情勢を伝える文面になっている。

 

研いだ刃が突然くすくすと笑う  桑原伸吉

 

『豆辞典』ー草莽の志士とは・・・?

 

維新をめざし活動した人たちを、一般に「志士」と呼ぶ。

 

志士とは、「有志乃士」の略で、

天下を憂い、志をもって立ち上がる士分を意味している。

 

そもそも、志士なる言葉が出てきたのが、田沼意次の時代で、

 

幕藩体制がなんとなくおかしくなってきた、時代背景がそこにある。

 

しかし、時代が下がるにしたがって、

 

志士という意味合いは、もっと広く解釈されるようになり、

 

天下の時勢を考え、行動するものであれば、志士と呼ばれた。

 

つまり、「有志の徒」としての横の広がりが強まっていった。

 

『草莽の志士』というのが、

 

まさに幕末期の志士を代表する呼び方であり、

 

これを考案したのが、吉田松陰であった。

 

松陰は孟子の中にある『草莽』という語句を引き合いに出し、使うようになった。

 

草莽とはー「草むらに隠れている者」 と解釈され、

 

身を隠して志を立て行動できる者であれば、

 

だれでも草莽の志士になれたのである。

 

零一つ付けたら扱いが違う  藤井孝作

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『龍馬伝』・第19回「攘夷決行」-あらすじ

 

上洛した将軍・家茂(中村隼人)は、

 

孝明天皇に5月10日に、攘夷を決行すると約束する

 

「5月10日をもって、わが国にとどまるすべての異国人をひっ捕らえ、

 

 わが国の沿岸を航行する異国船をすべて打ち払います」

 

朝廷から攘夷決行の期日決定を迫られた将軍・家茂は、

 

しぶしぶながら決行日を宣言した。

 

稜線へ放った声が戻らない  山口ろっぱ

 

「長年の夢が叶う」と沸き立つ攘夷派。

 

だが、これらはすべて攘夷派をあざむく、幕府側の策略だった。

 

幕府は、朝廷には攘夷決行を約束しながら、外国と密通。

 

しかも各藩には、

 

「攘夷を決行するか否かは、幕府につくか、攘夷派の長州につくかの踏み絵だ」

 

と迫っていたのだ。

 

一方、長州にもどった久坂玄瑞(やべきょうすけ)は、

 

5月10日に、外国船の砲撃を始めるが、実際に攘夷を行ったのは、

 

長州藩のみだった。

 

万歳をしてから公約を省く  泉水冴子

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  半平太・収二郎・以蔵

 

そんな 裏のことは微塵も知らず、

 

半平太(大森南朋)は、突然の容堂(近藤正臣)の 帰国に右往左往していた。

 

「すべては大殿様のため・・・」

 

そう信 じて、攘夷を推し進めてきたにもかかわらず、

 

その旗 頭となるべき容堂が、京を去ってしまったのだ。

 

半平太 は、彼の真意をはかりかね、焦る。

 

刻々と 期日は迫るも、

容堂からは、一向に攘夷決行の命令が下されない。

 

半平太 は、まんじりともせず、沙汰を待っていた。

 

移り気な人で相手を降りまわす  栗田久子

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一方、龍馬(福山雅治)、収二郎(宮迫博之)以蔵(佐藤健)を、

 

半平太 に引き合わせる。

 

一度 は、半平太のもとを離れた二人だったが、

それは理由があってのこと。

 

龍馬は、「二人を許してほしい」 と訴えたかったのだ。

 

「収二郎も以蔵も、武市さんの駒ではなかったき」

 

だが、 龍馬の言葉は、もはや半平太には届かない。

 

そし て、ついに運命の5月10日がやってきた。

 

高のぞみした日ぎっくり腰になる  中井アキ

 

『5月10日の攘夷決行』ーうら話し

 

上洛し た将軍・家茂は、義兄の孝明天皇に、

 

「攘夷期限は文久3年(1863)5月10日といたします」

 

と答え た。

 

妹の和 宮を妻とする家茂の決断に、天皇は、

 

「公武一和これによって実現できる」 と喜んだ。

 

朝廷は 京都にいる大名を招集し、このことを示達した。

 

 シャー レの中で殖えていた薄笑い  井上一筒

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幕府のやり方に苦虫を噛みつぶす海舟 
           

 

「攘夷なんて実行できっこない」 

と考えていた大名たちは、心境ただならない。

 

攘夷を 行なえば、そのまま相手国との戦争になる。

 

日本の 軍事力では、勝てるはずがない。

 

「いま、大名の領地内にいる外国を、武力で追い出す」

 

となれ ば、戦うのは自分たちなのだ。

 

そんな ことから、この示達は、ほとんどの大名が本気では聞かなかった。

 

ところ が、この示達を、

「この日を待ちかねていたのだ!」 と大喜びした藩がある。

 

長州藩 だ。

 

長州藩 には、藩と北九州の間に、関門海峡がある。

 

日本に 出入りする外国船にとっても、重要な海の出入り口である。

 

コップから溢れた泡の泣き笑い  北原照子

 

尊皇攘 夷をはじめから唱えてきた長州藩は、この日のために、

 

砲台を 中心とした攻撃態勢を、着々と整えてきたのである。

 

この砲 撃陣に最初にひっかかったのが、

アメリカ船・ペンブローク号であった。

 

横浜港 を出て上海へ向かう途中、関門海峡で突然の砲撃をうけ、

 

ビック リしたそのアメリカ船は、緊急退避した。

 

禁猟句父の釦が落ちていた  宮本茂圭

 

「幕府の裏腹」

 

攘夷決行を5月10日とする というのは、

 

日本国 内における決定で、

幕府は、このことを外国側には伝えていない。

 

外国と 約束した条約があり、

 

「5月10日を期して、日本から出ていけ」 とは言えない。

 

しか し、長州藩の砲撃は、さらにフランス艦、オランダ艦におよぶ。

 

このた め、長州藩は、

その後、外国からすさまじい報復を受けることになる・・・。

 

下半身強化孤独な別メニュー 片岡加代


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夕茜やさしくなってゆく私  松尾美智代

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龍馬伝で、岡田以蔵を好演する”佐藤健くん”の表情を追いながら、以蔵を振り返ります。

岡田以蔵は、時代に流され、尊敬する人に操られ、

なんと悲しい生涯を送ったことだろうか・・・!?

生きて行くかたち三角丸四角  小山紀乃

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土佐藩では、郷士よりも身分の低い足軽だったが、剣の腕は凄まじい。

武市半平太を尊敬して"土佐勤皇党"に加わり、

上洛してからは、開国派や佐幕派の要人を次々に暗殺して、

「人斬り以蔵」の異名で恐れられた。

また、彼は半平太と同様に、龍馬も尊敬していた。

龍馬から頼まれて、勝海舟の護衛も引き受けている。

半平太の失脚後も、京に潜伏して捕らえられて、土佐に送還されたあと、

斬首刑に処せられたのである。

「君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後ぞ 澄み渡るべき」  以蔵辞世

私の弔辞は誰が読むのです  谷口 義

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岡田以蔵という人間を、

『人間の中で芽生える、不必要な倫理感、意思をもつ、ことをさせたくなかった』

と思われる、武市半平太の以蔵に対する、冷徹な取り扱い。

いわゆる、半平太はマインドコントロールによって、以蔵をロボット化したのだ。

必要だったのは、自分の思い通りに動く”暗殺者”が必要だった。

そして、武市は、「以蔵が人斬り」 として畏怖される京の都に、

狂を解き放ち、尊敬する人のためになるならと、

以蔵は、操られるまま、凄惨な殺戮を、繰り返していくことになるのである。

踏み切りのむこうで流れてる挽歌  籠島恵子

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ある時は、ただ斬り殺すのでは、幕府への見せつけにならず、

首をさらすこともした。

それとも、自分を貧困から救ってくれた恩人武市への、恩返しのつもりか・・・

武市半平太の意に添わぬ者、阻む者たちを次々と襲ったのである。

さびしい表情をうかべながら、殺戮の闇の中をさまよったのである。
 
静寂が流れて剣は垂れたまま  嶋澤喜八郎

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暗闇の中で、生きる以蔵にとって一筋の光明に・・・坂本龍馬がいる。

龍馬は・・・彼が、「心を許せる唯一の人物だった」といわれている。

龍馬は、武市の過激なやり方に、反論し続けながらも、

以蔵のことは気にかけていた。

以蔵の刀は「肥前忠広」という名刀で、龍馬から譲られたものである。

その刀を以蔵は、暗殺のために振るった。

龍馬はどう思ったでしょう・・・?

そんな以蔵を、龍馬は救い出そうと自らの師として、

尊敬する勝海舟の護衛をさせました。

以蔵は、人を斬ることを止め、人の命を守る仕事をまかされたのである。

ボスらしくないボスが好きついてゆく  亀山 緑

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文久3年3月、勝海舟は将軍・家茂の供をして京都にいた。

議論おある人は、京都に集まっていたこともあり、宿は満室。

仕方なしに、海舟は、夜の市中をうろうろしていた。

そんな所へ3人の浪士が、闇の中から現れ、海舟に斬りつけてきた。

海舟は驚きつつも後ろへ下がって、一瞬、間をかわしたとき、

傍にいた以蔵が、にわかに長刀をひきぬいて、一人の浪士をまっ二つに斬った。

そして、「きさまら、何をするか!」と一喝すると、

あとの二人は、その勢いに圧倒され逃げた。

≪これは、海舟が、『氷川情話』の日記に書いたものである≫

鍋になるイノシシの鼻撫でてやる   井上一筒

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後日、海舟は以蔵に、

「きみは人を殺すことをたしなんではいけない。先日の行動は、改めたまえ」

忠告する。すると以蔵は、

「そんなことを言ったって、あの時わたしがいなければ、

 先生の首はどこかに飛んでいましたよ」 

と言い返した。

負け惜しみの強い海舟は、このときばかり、

「これには俺も、一言もなかったよ」

と語っている。

痛み止め今日一日は笑えそう  志田千代

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以蔵は師の武市半平太から「海舟を斬れ」と命ぜられていた。

が、龍馬から「そんな馬鹿はやめろ」 と諭され、

逆に海舟の警護役になってしまった。

以蔵が、武市の言うことより龍馬の言うことに従った事実である。

以蔵にとって、龍馬のほうが敬愛できる人物だった。

以蔵が、「思想や信条よりも、人物によって生き方を左右される人間」

であったことの証明である。

以蔵は、武市に温情を感じていたが、徐々に、自分が見ている世界は、

どこかが違うと感じていったのだ。

その後、28歳で斬首され、晒し首となる以蔵だが、

気がつくのが遅かった・・・悲しすぎる以蔵の生涯である。

陽の当たる場所になじめぬカスミ草  浜田さつき

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     以蔵の刀

佐藤健くん語る以蔵

「今回の扮装でいちばん見てほしいのは、以蔵の刀。

 下げ緒がチェーンでしかもその先には、分銅がついています!

 いまのところ、分銅を使っての暗殺シーンは、今のところないのですが、

 この先は、どうなるか分りませんからね(^▽^笑)。

 ”人斬り以蔵”の新たな技が生み出されるかも? お楽しみに!」
 
もう駄目だ安全ピンじゃ留めきれん  大池温子

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  これが岡田以蔵の写真

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アベカワになって黄粉をまぶされる  井上一筒

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  近藤長次郎

『オレは侍だ!』 という思いが伝わってくる長次郎の写真。(撮影・上野彦馬)

袴姿で椅子に腰掛け、腰には長すぎる刀を差し、右手にピストルを握る。

龍馬に心酔していた長次郎は、

髪形まで龍馬を真似決して髪に櫛を入れず、

びん髪の、そそけたつままにまかせている。

ウォンテッド僕に似ていて落ち着かぬ  早泉早人

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   「饅頭屋長次郎」

長次郎は、1838年生まれ、龍馬より3歳下である。

龍馬の生家からごく近い、水道町の大里屋という饅頭屋で、生まれ育った。

司馬遼太郎”竜馬がゆく”では、

「饅頭屋の倅で、鼻まで商売物のまんじゅうに似ている」

と人物紹介している。

乙女姉さん、長次郎が売る饅頭が、大好きだったという。

龍馬とは、3歳下でを敬愛し、

龍馬が立ち回る先々には、いつの間にか、姿を現してくる。

たいへん勉強家で、龍馬にとっては、学問の水先案内人であり、

ウンチクも各方面の情報も豊富で、龍馬もいつか”便利なヤツ”と思うようになった。

電柱は曲者流し目になった  壷内半酔

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”サムライ”になりたかった、一介の饅頭屋を「侍階級」になる手助けをしたのは、

刀鍛冶・左行秀といわれる。

酒好きの多い土佐にあって、酒が飲めない行秀が、

長次郎との縁を結びつけたのは、饅頭であった。

行秀は、「饅頭屋にしておくのは惜しい」と、彼の才能を褒め、可愛がった。

行秀は、鉄砲工でもあり、江戸の砂村藩邸で、洋式銃を製造していた時期があり、

そこで長次郎は、2度目の江戸行きで、行秀の世話になっている。

漢学、洋学、砲術などを学び、その秀才ぶりに、驚いた藩が名字帯刀が許した。

「近藤長次郎」の誕生である。

土佐藩ほど、階級にやかましい藩が、

一介の書生を、その学問のゆえに”武士待遇”にしたというのは、珍しいことで。

そこに上士格だった、行秀の強い推薦があったという。

光る朝玉子の中に黄身二つ  松田俊彦

さらに、長次郎は勝海舟の門下となり、神戸で海軍術を学んでいる。

紹介したのは、行秀とも。

その時期は、龍馬よりも、早かったともいわれている。

その後、次第に「亀山社中」で頭角をあらわしていく。

長次郎の人生のハイライトは、長州の軍艦・ユニオン号の買い付けだろう。

薩長連合はまだ出来ていない。

薩長を利で結びつけようと考えた龍馬は、

軍艦と洋式銃が欲しい長州のため、

薩摩藩名義で購入することを提案する。

蓋取れば青い時代が立上がる  南 全彦

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長崎の街を眺めているブーツ

実務をまかされたのは、長次郎だった。

長州の伊藤俊輔(博文)、井上聞多(馨)を連れて長崎で交渉にあたり、

薩摩の家老・小松帯刀と連携をとりつつ、イギリス商人のグラバーとの交渉を、

手際よくまとめる。

長次郎は蘭学も学んだし、英語も話すことが出来た。

外国人には、慣れていたようだ。

交渉成立の夜、長次郎は伊藤と井上に語っている。

「幕府はばか者ぞろいだ。

 京でいくら人を斬っても、変わるべき時勢はやがて変わる。

 それも京で変わらぬ、長崎で変わるのだ」  (竜馬がゆく)

その後、軍艦の引渡しでごたごたはあったものの、功績は長州藩から高く評価された。

鍋の吹きこぼれは恋を知ってから  杉本克子

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その一方で、長次郎は独断専行が、このころから目立つようになっていた。

土佐の秀才は組織の中で浮き上がっていく。

「長崎や下関で活躍し、外国とのやり取りで業績を残す長次郎は、

 龍馬からみれば、だんだん追いついてくる感じがあったかもしれません。

 しかし、長次郎には龍馬の持つ人間的な幅がなかった。

 足元が見えなくなっていきます」  と小美濃氏が解析する。

竜馬が行くでは、相変わらず、『まんじゅう屋』 と呼ぶ竜馬に、

長次郎が、「よしてください」 と言う場面がある。

片足をとなりに入れて立ちばなし   神野節子

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   亀山社中の仲間

長次郎の野望は、さらに大きくなっていく。

縁ができた長州藩を頼り、イギリスへの留学が決まった。

亀山社中の仲間たちには、秘密の計画だった。

しかし、運悪く出航の日は、風雨で延期となる。

ついには秘密がばれ、亀山社中のメンバーたちに、詰問されることになる。

社中の規則で、事の大小にかかわらず、

自分勝手に利を求めて行動したものは切腹だという。

やがて皆死ぬとわかってても怖い  西山春日子

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  長次郎邸跡

「坂本さんがおれば・・・」

長次郎は、懸命に涙をこらえながら思った。

「きっと自分を理解してくれるだろう」

「こんな酷い検断の場に座らせるようなことはすまい」

龍馬は、

「薩長同盟」が、成立する大詰めの曲面で、下関から京都へ向かう最中だった。

慶応2年1月、長次郎は切腹して29歳の生涯を終える。

死刑廃止論春の夜のカタツムリ  山口ろっぱ

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墓碑銘・「梅花書屋氏墓」とある長次郎の墓

龍馬の妻であるお龍は、後に回顧録「千里駒後日譚」の中で、

長次郎の訃報を聞いた龍馬が、

「己が居ったら殺しはせぬのぢゃった」

とその死を悼んでいたという、証言を残している。

長次郎の墓は、亀山社中から遠くない、晧大寺(こうたいじ)にある。

薩長連合をまとめあげ、長崎に帰った龍馬は、墓碑銘をしたためたという。

「梅花書屋氏墓」

龍馬の背中を追い続けた生涯は、はかなく終わった。

「竜馬がゆくの世界」”近藤長次郎”より

棺桶から虫が一匹走り出る  大西將文

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『龍馬伝』・第18回‐あらすじ「海軍を作ろう!」

勝麟太郎(武田鉄矢)の弟子となった坂本龍馬(福山雅治)

長次郎(大泉洋)は、船で大坂へ向かっていた。

神戸に、海軍操練所ができるまで、大坂の専称寺の「勝塾」で、学ぶことになる。

龍馬と長次郎が、勝塾の訓練生を集めに、大坂の町に出ると、

龍馬とともに脱藩した沢村惣之丞(要潤)と出くわす。

龍馬は、一緒に海軍を作ろうと惣之丞を勝塾に誘う。
 
ええ格好して予定を改める手帳  島田握夢

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一方、第14代将軍・徳川家茂(中村隼人)は京に入る。

武市半平太(大森南朋)は、

将軍に確実に攘夷を約束させようと、朝廷内で画策する。

過激な攘夷派を嫌う山内容堂(近藤正臣)は、武市の動きを封じるために、

土佐勤王党を分裂させようと企む。
 
怪しさはしきりに汗を拭いている  八上桐子

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大坂で、龍馬と長次郎は、大和屋という商家に、寝泊まりしていた。

そこに、土佐勤王党の望月亀弥太(音尾琢真)、高松太郎(川岡大次郎)、

千屋寅之助(是近敦之)が現れ、勝塾の入門を希望する。

同志を得て喜ぶ龍馬と長次郎だが、

これが容堂の策略とは、気づかなかった。

さらに、容堂は、勤王党のナンバー2の平井収二郎にも策をめぐらし、

武市から離反させようとする。

岡田以蔵(佐藤健)は、武市に命じられ勝を斬りに行くが、

結局は、勝の護衛をすることになる。

武市は、いつの間にか孤立していたことに気づく。

噛みついたリンゴに前歯負け折れた  紙屋クミエ

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