- 2011/03/18
- Category : ポエム&川柳
お江ー親子の別れ
賎ヶ岳羽柴秀吉VS柴田勝家布陣(CG)
「CG画の解説」
柴田勝家と羽柴秀吉の両者は、琵琶湖の北東、”近江・余呉湖畔”で対陣する。
特に、大岩山砦(CG/左辺・下)と賎ヶ岳(CG/左辺・上)で、激しい白兵戦が展開。
余呉湖戦模様・・湖の右側一辺(権現坂から堂木山砦まで)赤い幟が、柴田隊の布陣。
左上・余呉湖と琵琶湖との間に賎ヶ岳があり、
そして琵琶湖から丹羽隊が上陸する。
前田利家隊は、右辺・上・権現坂辺りに布陣していた。
左一辺、賎ヶ岳から大岩山砦まで、佐久間隊が攻めてくる。
≪この深追いが、秀吉の美濃の大返しもあり、戦の行方を決定づける≫
そして、秀吉隊は、右辺下から底辺に布陣した。
どちらが勝ちだろうと素うどんはつづく 壷内半酔
炎上する北ノ庄城
『賎ヶ岳の戦いー実況』
天正10年(1581)12月、
勝家の城である近江・長浜城が、大谷吉継によって落城する。
吉継は、これをきっかけに頭角を現していくのだが、
この時も、柴田勝家は、雪に阻まれて身動きがとれなかった。
天正11年2月20日、勝家は、北陸勢に一斉に出動命令を出した。
3月2日、柴田方先発隊・佐久間盛政ら先遣隊が出陣。
3月5日には、柴田方全軍が、琵琶湖北東部、”近江・柳ヶ瀬”に着陣した。
ここは、峻険な山塊がつらなる難所ながら、
近江と北陸をつなぐ交通の要所である。
山間部の戦いは、投入できる兵員の総数が限られることもあり、
兵数が少なくても有利に戦える。
勝家はこの地で、秀吉を迎撃すべく、
北国街道を挟撃する位置に、多数の砦を構築した。
大根を見て今晩の鍋決まる 稲葉 洋
一方秀吉は、3月17日、柴田勝家蜂起のしらせを受け、
”北近江・木の本”に着陣する。
が、勝家の迎撃体制の万全さを見ると、
深追いを避け長浜に下がり、長期戦にそなえた。
4月17日に、織田信孝が岐阜城で蜂起したのを受け、
秀吉は、押さえの兵のみをおいて、
主力を西美濃・大垣城に着陣した。
しかし、これは秀吉側の誘導作戦であった。
4月19日、秀吉側に寝返っていた柴田勝豊(勝家の養子)の家臣が、
密かに佐々木盛政の陣に駆け込み、
「秀吉が大垣に赴いていて、留守である」と伝えた。
これにより盛政は、中川清秀の砦を急襲する作戦を、勝家に提案する。
当初は、これに反対した勝家であったが、盛政の強い要望により妥協し、
「砦を落としたらすぐ戻ること」
という条件つきで承諾した。
盛政の急襲作戦は見事に成功し、盛政は清秀を討ち取り、
”賤ヶ岳の戦い”の緒戦を勝利に導いた。
欠点で長所で腰の軽いこと 嶋澤喜八郎
4月20日盛政が、大岩砦を占領すると、
盛政は、勝利におごり大岩砦にとどまった。
同日、大垣に「柴田勝家動く」の報せが届き、秀吉はただちに、
北近江・木ノ本へ出立する。
急ぐあまり、秀吉の馬廻衆(うままわりしゅう)が間に合わず、
秀吉は7騎で、しかも、「馬を乗り殺した」という伝説もあるほど・・・。
大垣ー木之本間、約52キロの街道には、
松明がともされ、食事が用意され、
秀吉軍の主力は、足軽本人と武具類を別便で輸送するという方式で、
驚異的なスピードで移動した。
≪この奇蹟の兵員輸送が成功したのは、石田三成の事務能力によるもので、
すでに事前に、入念な準備が行われていた≫
パトカーが前にいるのに飛ばせるか 横山耕三
賎ヶ岳戦場跡石碑
4月20日、午後7時頃には、秀吉軍主力は北近江・木之本に着陣していた。
秀吉軍は一転して、佐久間盛政隊を、挟撃する形となった。
4月21日深夜、佐久間盛政隊は数で劣る平地戦を避け、山沿いで撤収。
秀吉軍は、次の照準を、次蜂の勝家隊に絞った。
勝政隊が待機していた”賎ヶ岳での戦い”は、
激しい白兵戦となった。
よく見るとキツネタヌキが跳ねただけ 谷垣郁郎
賎ヶ岳
柴田勝政隊が陣を張っていた賎ヶ岳は、
険しい山々が連なり、
鉄砲隊の効果は薄い、
そのため槍を持っての白兵戦となった。
≪余談ー戦国時代の日本人は、実は命の危険の高い白兵戦は、あまり好きではない。
応仁の乱から島原の乱までの、
死傷者内訳を分析した鈴木眞哉著・『戦国鉄砲・傭兵隊』によれば、
刀剣での死者はわずか7・1%だとある≫
職業欄生きる事だと書いてみる 神野千恵子
加藤清正 福島正則
そもそも一代で成り上がった秀吉には、代々の家臣がおらず、
秀吉と家臣団は精神というよりは、利害で結ばれていた。
”人は金のために人を殺すが、金のためには死ねない”
この時点での羽柴秀吉の最大の弱点は、
「秀吉のためなら死んでもいい」
と言ってくれる家臣がいないことであった。
横向いているが聞えているらしい 杉本克子
そこで長浜時代から育ててきた、福島正則・加藤清正らに先陣を命じ、
彼らが奮戦した。
これが「賎ヶ岳七本槍」である。
≪余談ー実際には、このとき功労賞を受けたのは、7人ではなく、
石河兵助・桜井佐吉の2名を加えた、9人だったと言われている≫
大木になろうと思う草の夢 上村八重子
いずれにせよ、退路を確保していた前田利家隊が、
突如戦線を離脱した時点で、勝敗は決した。
柴田勝政隊・佐久間盛政隊は孤立し、柴田方は総崩れとなって、
越前北ノ庄へと撤退を開始。
4月21日、午前9時頃、秀吉は本陣を決戦場である賎ヶ岳に移し、
勝利を宣言した。
『お江ー第10回・「別れ」‐あらすじ』
清洲会議以降、秀吉(岸谷五朗)に押されっぱなしだった勝家(大地康雄)。
その我慢も限界にきた勝家は、
天正11年2月20日、北陸勢に一斉に出動命令を出した。
そして3月2日、甥の佐久間盛政(山田純大)が先遣隊として出陣。
つづき勝家は、雪解けを合わせたかのように、
3月3日、越前・北ノ庄をたち、5日に近江・柳ヶ瀬に着陣した。
一方、このとき対抗勢力のひとり滝川一益を攻めていた秀吉は、
勝家出陣を聞くと雌雄を決するべく、
大軍を率いて近江・木之本に進軍。
琵琶湖と余呉湖の間にある賤ヶ岳を挟んで、
勝家軍と対峙する。
こだわりを流してからの軽い靴 山崎三千代
陣地に勝るのは勝家。
数に勝るのは秀吉。
予断を許さない両軍のにらみ合いは、1か月にもおよんだ。
この膠着状態に、しびれを切らした佐久間盛政は、
岐阜城の織田信孝(金井勇太)をけん制するため、
美濃・大垣城へ進軍した秀吉の不意をついて、秀吉軍の砦を強襲。
敵将・中川清秀を討ち取るなどの戦果を挙げ、
勝家に先勝をもたらした。
.
しかし、良かったのはそこまで。
あんまりな雨に剥がれた金メッキ 山本早苗
なおも盛政は、いさめる勝家の命令を無視して、敵陣深くに進軍。
その報を待っていた秀吉隊は、
”中国大返し”を思わせる強行軍で、
大垣-木之本間・約52kmを、わずか5時間で駆け付けた。
佐久間隊は、その秀吉率いる大軍に囲まれ、
奮戦むなしく崩壊する。
秀吉とも旧交のある勝家の与力大名・前田利家(和田啓作)の、
突然の戦線離脱も重なり、勝家は、北ノ庄へ敗走することになる。
この敗戦の結果、勝家は愛する妻・市(鈴木保奈美)とともに、
北ノ庄城で自刃の道を選択する。
北ノ庄城は、石田三成(萩原聖人)見上げるもとで炎上。
そして、江(上野樹里)たち三姉妹は、秀吉に保護され、
さらに数奇な運命を歩むことになる。
のんびりの時間をつくる忙しさ ふじのひろし




