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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ボコボコのバケツひしめく日本列島  阪部文子






           「大 洪 水 の 爪 跡」

大水害により停泊していた多くの船が街道まで打ち上げられたほか、流され
た船によって永代橋が破壊され。さらに暴風により築地本願寺の本堂が破壊
されて、江戸の人々は恐怖に怯えた。

天明年間 (1781-89) は、ことに天災が多かった。
 すなわち天明3年には、6月中に大水があり、七月には、信州浅間山の大爆
発、加えて大冷害による東北・関東の大飢饉に発展した。
ついで、天明5年も大雨・冷害による凶作となったが、翌天明6年7月には、
古老の申伝えにもない〟程の大洪水が伊豆から関東にかけて襲った。
                       (「西方村・旧記参」ゟ)



空一枚めくればトラブルの芽  岩田多佳子



 この時の様子は、『武江年表』に
「七月十二日より別けて大雨降り続き、山水あふれて洪水と成れり…中略…
小塚原は水五尺もあるべし、千住大橋往来留まり掃部宿軒まで水あり、本所
深川は家屋を流す、平井受地辺水一丈三尺(約4㍍)と云う、大川橋両国橋
危うく16日往来留る…中略…関八州近在近国の洪水は、ことに甚しく筆紙
に尽しがたしとぞ、この水久しくたゝへたりしかば、奥羽の船路絶えて、物
価弥猛(驚くほど値上り)しとぞ」とある。
さらに『徳川実紀』の記録には、
「まして郊の外は堤上も七、八尺(2㍍3.40㌢)田圃は一丈四、五尺
(4㍍50㌢)ばかりも水みち、竪川、逆井、葛西、松戸、利根川のあたり、
草加、越谷、粕壁、栗橋の宿駅までも、ただ海のごとく、岡は没して、洲と
なり、瀬は変じて淵となりぬ、この災にかかりて、屋舎・衣食・財用を失な
ひ、親子兄弟ひき別れて、ただ神社仏宇などの少しも高き所をもとめ、辛き
命をたすかり」とある。



筋一本あの世とこの世行き違う  北原照子






         水 没 す る 江 戸  ①




「江戸の空に線状降水帯発生」
「西方村・旧記参」によると、その年は6月から日照りが続き、田畑とも相
応の豊作が予想される天候であった。7月12日は朝からの快晴であったの
で、西方村の人々は豆などの土用干をしていたところ、昼頃から俄かに西北
の空から雷が鳴りだし、大雨が降りだした。
人々は「よいおしめりだ」とこの雨を喜んでいたが、大雨は、翌十三日にな
っても降り止まず、14日、15日、16日と降り続いた。




擦れ違いざま赤い舌が見えた  酒井かがり




 

                               水 没 す る 江 戸 ②




このため耕地は勿論、元荒川も満水となり村々では日夜、水番を立てて警戒
に当った。翌17日も、相変らずの大雨であったので心配していたところ、
綾瀬川の上流上瓦葺村の見沼代用水掛樋(みぬまだいようすいかけおけ)が
押流され、見沼用水の押水が綾瀬川通りをひた押しに下ってきた。
西方村をはじめ八条領村々は、早速、水防人足を西葛西用水東土手に集め、
綾瀬川通りからの押水を防ぐため堤防の盛土作業にとりかかった。
そのうち同日の夜になると、今度は、利根川通りの堤防が、所々で決潰し、
幸手領・庄内領・松伏領・新方領一円が洪水になった。このため元荒川の水
位は、一挙に二尺余も高くなり、たちまち堤防通りを惣越して田畑や屋敷地
に流入した。元荒川の水防につとめていた人々は、「今はかなわぬ切れた切
れた」と叫びながら、水丈(たけ)の深くなった道を家に戻ったが、この時
はすでに家々の床上に水があがり、家財や穀物を片付けるひまもなかった。





大変だ地球の熱が下がらない  赤木克己 




「自然は常に人間の上をゆく」
 西方村の家々では、宝永元年と寛保2年の大出水に鑑み、家の建替時には
それぞれ適当に盛土をして、出水にも心配のないように備えていたが、当年
の出水は、寛保2年の出水より3尺余の高水であったので、ほとんどの家が
水につかったという。このときは西方村のなかでも、大相模の不動尊境内だ
け水があがらなかったので、多くの人馬が不動尊境内に避難した。
しかし、それから約10日間も水が引かなかったので、この間、避難人馬は
境内に閉じ込めとられたままであったという。
 最終的に本所深川周辺でも最大で4.5m程度の水深となり、初日だけでも
3641人が船などで救出されたという記録が残る。




それ以後の人魚は縄梯子を確保  山口ろっぱ




「その後」
 天明3年と天明5年の大凶作に続き、当年の大出水で米価がいちじるしく
高騰したため、困窮者が続出した。ことに大水後の暮から翌年春にかけては、
江戸市中の米価は金1両につき一斗八升まで暴騰したため、多数の餓死者が
続出したといわれる。
このため天明7年5月を頂点に、京都・大坂・江戸をはじめ全国各地の都市
では、困窮者による打毀し騒動が激発した。この全国的な飢饉現象も天明7
年の暮には収まり、米価も金1両につき八斗位までに復した。






        洪水が呼んだ天明の大飢饉




夜明け前江戸の尻尾が疼きだす  蟹口和枝





蔦屋重三郎ー天明の大水害・わが名は天





夏の盛りを迎えた天明6年7月、湿気を帯びた風が江戸中を吹き抜けていた。
人々は「今日は降るぞ」と口々に話ながら、屋根の補修を急いでいた。
この年の夏は、例年よりも蒸し暑く雨の気配が続いていたが、この日は特に
異様な空気がただよっていた。
午後になるとついに天が裂けるような轟音とともに大雨が降り始めた。
雨脚は次第に激しさを増し、軒先から流れる水は小川のように江戸中を駆け
抜けた江戸の民衆には知る由もないことだが、この大雨は、3年前の浅間山
大噴火による影響だった。




ピチャピチャと雨を踏むのは刺客とな  通利一遍




噴火によって吾妻川には、大量の火山灰や土砂が堆積しており、今回の豪雨
によって利根川へと流れ込んだのだ。
川の流れは、濁流となり川床の上昇を招いた。
利根川沿いの村々では、住民たちが恐怖に怯えていた。
そしてついに起きてしまった。利根川は羽根野あたりで堤防を越え濁流とな
って周囲の田畑や家屋を飲み込んでいった。
栗橋宿の南側は瞬く間に海のような景色へと変わり、大量の船や家屋が濁流
に流されていった。




サイコロを何度振ってもゼロが出る  三ツ木もも花






                  利 根 川 の 氾 濫




利根川の氾濫は江戸市中にも深刻な影響を与えた。
日本橋から数えて七番目の宿場である、栗橋宿から南へ広がった濁流は江戸
市内へと流れ込み市中を混乱に陥れた。
町奉行所では、評定が開かれていた。
利根川から流れ込んだ水が日本橋まで迫っている。
このままでは江戸全体が水没するおそれがある。
「それぞれ町々にて速やかに非難を始められよ!それと食料や衣類の確保も
急ぐように! 心得違いなきよう速やかに行動するべし」
江戸庶民らは奉行所の指示に従い非難を進めた。
しかし、水害によって多くの物資が失われており、混乱は収まる気配を見せ
なかった。
「母ちゃん 水がもう腰まで来てるよ!」と叫ぶ子供。
「大丈夫だよ 手を放すんじゃないよ」と応える母親。
その光景は、江戸中で繰り広げらていた。
濁流によって運ばれた土砂や瓦礫は、江戸中に退席し、湿気と泥臭さが立ち
込める中、人々は、食べ物や寝床を求めて奔走し始めたいた。
日が暮れる頃には、川の水があふれ始めていた。




ケセラセラに包むふわふわの梯子  森田律子






    大奥で田沼意次の悪評を流布する奥女中




「べらぼう31話 ちょうかみ」 (わが名は天)




「米一粒涙で濡らし炊く日々も 笑い忘れぬ江戸の心よ」
その頃、耕書堂の中では、番頭たちが荷物を二階へ運び込んでいた。
「早く!版木が濡れるぞ!」
重三郎(横浜流星)の声が響く中、若い番頭たちは汗だくになりながら作業
を続けている。外では川の水が溢れ日本橋に流れ込み始めたという。
「旦那様!水がここまで来てます!」
田畑の作物は芽吹く間もなく枯れ収穫は激減。
人々は、この未曽有の危機を「天明の飢饉」と呼び
恐れと絶望の中で日々を過ごしていた…。





隅田川の下半身は江戸だろう  徳山泰子





夏の終わりを迎えた江戸の空はどこか寂し気な秋の兆しが漂い始めていた。




深川の長屋では、蔦重が米を抱えながら小田新之助(井之脇海)を訪ねていた。
新之助の妻・ふく(小野花梨:)が、産んだばかりの赤ん坊「とよ坊」のために
赤子用の着物も担いでいる。
「新之助さん ふくさんこれを受け取ってくれ」
「米と着物だ、とよ坊が健やかにそだつようにねがっているんでさ」
「蔦重…いつもすまぬ かたじけない」
そのとき長屋の外から元気な声が聞こえてきた。
「おい 新之助いるか」
現われたのは大工の長七(甲斐翔真)だった。
長七は新之助の友人であり短気だが正義感あふれる男だ。
「どうしたんだ長七」
「最近、江戸市中では、米不足がひどく、米を奪おうとする打ち壊しもおきて
いる。俺たちもなんとかしなきゃならねえとおもっているんだ。新之助お前
も一緒にやらねえか」
蔦重はその言葉に耳を傾けながら、静かにうなずいた。




折々に万葉仮名になる梯子  くんじろう






   田沼意次と三浦庄司 政局は暗澹として




一方、老中・田沼意次の屋敷では、諸藩からの報告を携えた側近の三浦庄司
(原田泰造)が、意次に対座していた。
「田沼様 東北では冷害による凶作が深刻化しており、このままでは民衆の
生活がさらに困窮する恐れがあります」
「冷害か 今年の春先から天候が不順だとは聞いていたが、やはり予想以上
に影響が大きいようだな」
三浦はさらに続けた。
「それだけではございません。諸藩が江戸への廻米を優先するあまり地元の
民衆が十分な米を手に入れることができず、不満が高まっております。
そのため一部では、米の買い占めを行う者も現われ米価が急騰しております」





雨あがりお地蔵さんは苔まみれ  藤本鈴菜




「米の買い占め…!それは江戸だけでなく、国中に混乱が広がるのも時間の
問題ではないか」
意次は深い溜息をつき、手元の地図に視線をおとした。
「まずは買い占めを防ぐため、国中に向けて、厳格な禁止令を発する必要が
あるだろう。また諸藩には廻米の際、道中での米の売買を禁じるように指示
せねばならぬな」
三浦はさらに
「加えて江戸に入る米の量を確保するために、諸藩との協議を進めるべきか
と存じます。特に供給量が多い藩には、江戸への廻米量を増やすよう要請し
てはいかがでしょうか」
意次はしばらく考えこみ
「しかし、それだけでは根本的な解決にはならぬ」
民衆の不満を抑えるためには、彼らに直接的な支援を行う策もかんがえねば
ならぬな」




あっぱれを泥沼から引っぱりあげる  山本美枝






    我の名は天せあると治済を見据える家治




    「わが名は天」




江戸城では、家治(眞島秀和)が病床にあった。
将軍家治の病状は、日に日に悪化、重篤な状態に陥り、一橋治済(生田斗真)
甲斐翔真(相島一之)ら寝所には家臣たちが集まり、緊張感が漂っていた。
家治は枕元に集まる家臣たちを見渡す。
家治の顔は、病に蝕まれ顔色は蒼白だが、その目にはまだ将軍としての威厳
が宿っている。家治は視線は若き徳川家斉(城桧吏)に向ける。
14歳の少年である次期将軍・家斉は不安そうな表情で言葉を待っていた。
「家斉 お前がこれからこの国を背負うのだ。若きお前にはまだ多くを学ぶ
べきことがある。しかし心ある者を見極め、その力を借りることを忘れるで
ない。田沼意次のような正直な者を重用せよ。それこそが国を守るみちであ
るぞ」
家斉は緊張した面持ちで深く頷く。
その姿を見て家治は、満足気に微笑むが、次の瞬間家治は床から力なく這い
出た。家臣たちはそれを支えようとするが家治は、それを制するかのように
手を振る。そのまま治済を見据え
「よいか天は見ておる。天の名を騙る驕りを許さぬ。これより余も天の一部
となる」 と声を絞った。




スポイドでほんの一滴の皮肉  筒井祥文

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言いたくは無いがと言って言い募る  渋川渓舟






   定信が将軍家斉に拝謁する場面を描く

「将軍家心得十五か条」を献上、定信の家紋「梅鉢」が見える。




「江戸のニュース」 
松平定信が、将軍補佐となる 天明八年三月四日
前年、三十歳の若さで老中首座となっていた陸奥白河藩主の松平定信が、将軍
家斉が年少(十六歳)であるとの理由で、将軍補佐役も兼ねることになった。
これにより、松平定信は、幕府の大権を掌握したのだが、ここに至るまでは、
それまでの実力者であり田沼意次を中心とするグループとの暗闘があった。
松平定信は、一橋家の一橋治済や御三家の後押し、そして続発する天明の打ち
壊しなどの世情不安を背景にして、その暗闘に勝利したわけである。
定信は将軍補佐となるや、三月二十八日老中水野忠友、四月三日に同じく老中
松平康福を解任。ともに田沼派の面々で、これに代って定信派の松平信明を
はじめとする四名を老中とした。こうして田沼色を一掃し、寛政改革に取り組
んだ。定信は五月に入ると京に上り、大坂まで足を伸ばして儒者の中井竹山
招いて経世作の講義を受けた。
その影響から定信なりの大政委任論(天皇ー将軍ー諸大名は、委任関係にある
との考え)を構築。十月に、将軍家斉に「将軍家心得十五か条」を献上した。
定信の新政権の権威付けを考えたものだったとされている。




幸せのシャワーを浴びる花の下  髙橋兎さ子




蔦屋重三郎ー松平定信






          松平定信肖像





「松平定信とは」
松平定信は、御三卿田安家・田安宗武の七男として誕生した。
宗武の7人の息子のなかで長男から4男までが夭折。残された3人のうち1人
は養子に出されていたので、5男の治察(はるあき)が父の死後、田安家を継
いだ。田安宗武は、父である八代将軍・吉宗に似て、文武に優れた人物だった
ので、宗武を九代将軍にと推す声もあったが、叶わなかった。
田安家とは、家康が定めた一橋家、清水家と合わせて御三卿一つである。



枕カバーじゃぶじゃぶ夢が消えました  和田洋子






78年ぶりに発見された松平定信作「紅梅叭々鳥」(桑名市博物館提供)

松平定信は絵画のほかいろいろな方面に才能を発揮した。
逆にいえば政治の世界に手を染めたことは彼にとってマイナスであった。
幕閣を辞して、隠居の身になって多才な趣味を謳歌したのであるから。



定信は17歳の時、田安家を継いだ兄の治察が、この年の7月病にかかり翌月に
22歳の若さで亡くなってしまう。治察には後嗣がいなかったので、田安家は
松平白河藩へ養子に出されていた定信を、戻したいと交渉はしたが、幕府は認
めなかった。定信が、松平定邦へ養子に出されることになったのも、田安家の
相続を拒絶したのも、田沼意次の裏の動きがあったものと言われている。
意次は成り上がりの自分とは違って、門閥出身で優秀な定信が将軍になること
を恐れていたのかもしれない。真相は定かではないが、定信は意次によって、
将軍への道を阻まれたことになる。



理由まで知らぬ体重計の針  安倍俊八




実家の田安家へ戻れなかった定信は、天明3 (1783) 年10月に26歳で松平家
の家督を継ぐことになった。ちょうど深刻な飢饉として知られる「天明の大飢
饉」の最中だったが、定信は、手腕を発揮した。
家臣や領民に質素倹約を徹底させるだけでなく、自らも贅沢を禁じ「救い米や
塩、味噌の支給」など飢饉対策を講じた。また、農民に「荒地の開墾」による
作物の増産を命じるなどして難局を乗り切り、名君としての評価を得た。
こうした功績を評価されて、十一代将軍・家斉の時代に、将軍の補佐役として
老中首座に就任。天明8年 (1788) 3月4日に老中首座となり、「寛政の改革」
を主導することになる。




ときめいた場面でちゃんと涙出る  古賀由美子






        「近世職人尽絵詞 茶屋之図」

江戸で暮らすさまざまな職業の人々を、鍬形蕙斎が3巻に描いたもの。
蕙斎は畳職人の子で北尾重政に浮世絵を学び北尾政美と号した。
幕府老中を勤めた松平定信が発案したとされ、上巻に大田南畝、中巻に
朋誠堂喜三二、下巻に山東京伝が詞を加えている。


「定信 意趣返しのはじまり」



「江戸の臨時ニュース」
十代将軍家治が死去する。天明六年八月二十五日
この年八月の初め頃から、全身に水腫(むくみ)の症状を見せていた将軍家治
の容態が、九月に入って急速に悪化。六日に危篤状態となりこの日に死去した。
享年五十。家治が九代家重から将軍位を継いだのが宝暦十年だから、二十六年
間将軍位にあったことになる。
この間の家治自身の政治実績として挙げられるものは何もない。しかしそれは、
在位の前半を松平武元に、後半を田沼意次にと、二人の老中に任せていたこと
によるもので、人材をよく用いたという考えに立てば、評価されても良い将軍
だったといえるかもしれない。




一番の褒め言葉です地味な人  山下由美子




「ところで、この家治の死だが、現在でもいくつかの点が謎に包まれている」
まず死去した日だが、これがはっきりしない。
公式記録の『徳川実記』では九月八日となっているが、最も信頼していた老中
田沼意次「辞職願」を出したのが、八月二十六日、罷免されたのが翌二十
七日であった。そして九月七日に大名・旗本らに対して、総出仕するよう触れ
が出ていることを考えれば、公式記録の九月八日以前に死んでいたのではない
かとの疑いが出てくる。
「次いで死因だが水腫で急激に容態が変化するとは考えにくい」
この点から、田沼意次の推薦していた医師が、毒を盛ったとの説もあるが意次
が自分の重用してくれている家治に毒を盛るとすることには無理がある。
そうすると、幕府内にあって次期将軍に取り入ろうとする反田沼勢力によるも
のかとの憶測が飛び交った。




堂々めぐり出口探している焦り  原 洋志




定信は、天明5(1785)年に意次に近づき、溜間詰(たまりのまづめ)に準ず
る扱いとなる。白河藩にとって破格の処遇である。が、意次蹴落とし糾弾を考
える定信にとっては、これは「意趣返しの始まり」でしかない。
前年に息子の田沼意知を刃傷事件で失った意次のダメージは大きく、求心力の
低下は防ぎようもない状態だった。
財源確保のために打ち出した改革も失敗し、意次の政治的責任を問う声が幕府
内から出るようになっていた。
そして天明6(1786)年8月に、頼みの綱の将軍・家治が病に倒れて生涯を閉
じると、老中辞職を余儀なくされた。意次の失脚を受けて御三家は、定信を老
中へと推挙をするが、この時は、反対派により頓挫した。
(溜間詰=将軍や老中と政治的な相談をすることもある立場)




尻尾ふり含み笑いをしてる猫  宇治田志寿子






職務に励む定信 改革の成果の報告を受けているところか




家治の死を受けて、天明7(1787)年4月に世子の家斉が将軍の座につくこと
になると、まだ14歳という幼い年齢だったこともあって、老中を誰にするの
か激しい政争が繰り広げらた。
時を同じくして、米価高騰が改善しない事態に苛立った民衆によって、米問屋
の居宅や蔵が打ちこわされる騒動が勃発。打ちこわしによる市中の混乱を知ら
されていなかった家斉は激怒して、定信の老中起用を反対していた御側御用取
次の家臣を罷免。これによって幕府は一転して、定信の老中起用を受け入れ、
その首座をつとめることになった。




風下にいるからわかる腐敗臭  正岡鏡花




天明7年に30歳の若さで念願の老中首座となった定信は、「米価の安定」
「社会の引き締め」を決意、改革を進めていく。定信は、尊敬していた祖父・
吉宗にならって、質素倹約に努めるとともに、幕府の歳出にも目を光らせ、
今まで誰も口出しできなかった大奥の経費も、3分の1に減らすという徹底ぶ
り。自らが模範となるように、江戸城に初登城した時には、木綿と麻の質素な
礼服を身につけたという。




句読点をうつ僕の言葉にするために  前田一石




ほかには、社会政策として寛政元 (1789) 年、「棄捐令」を出して、札差など
の金融業者に借金を重ねて困っている旗本・御家人を救うことにも着手。
また寛政2 (1790) 年、隅田川河口の石川島に「人足寄場を設置」し無宿人や
刑期を終えた者などの自立を支援するために、技術を学ばせもした。
さらに定信の「改革」は、高価な菓子の製造は中止、女性の衣類も豪華な織物
や染物は禁止と、民衆の日常生活にまで立ち入って規制を行った。
当初は、若い老中の登場を歓迎していた世間も、次第に息苦しさを感じ始め、
「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」という狂歌が詠ま
れる始末だった。




見た目ほどやさしくはないトリカブト   新家完司






黄表紙『江戸生艶気樺焼』に向き合う京伝


北尾政演役・古川雄大さんが演じた『江戸生艶気樺焼』の主人公の艶二郎



田沼時代の自由な風潮の中で流行した、遊郭を小説の主題とした洒落本や多色
刷を用いた錦絵も、定信は取り締まりの対象とした。
黄表紙・狂歌本、そして浮世絵の出版にまで手を広げて、版元として成功した
蔦重は、民衆の不満を感じ取ると「黄表紙」で、改革を茶化す作品を発表し、
喝采を浴びることになるが、老中の定信としては、政治を批判する出版物を見
過ごすことはできない。定信は、そうした不満を無視し、信念を持って改革を
続けたが、武士から庶民にいたるまで、文化や思想までも統制するやり方に、
人々の不満は、政治を動かすまでにおおきくなっていく。




生まれつき嫌れ者と蛇が泣く  ふじのひろし




「べらぼう~30話あらすじ ちょいかみ」 (人まね歌麿 )





蔦重は狂歌師と絵師が協業した狂歌絵本を手掛けるため「人まね歌麿」と、
噂になり始めた歌磨を、今が売り時と判断する。





黄表紙の「江戸生艶気樺焼」が売れ、日本橋で蔦重(横浜流星)が営む耕書堂
は開店以来の大盛況となった。蔦重は、狂歌師と絵師が協業した「狂歌絵本」
を手掛けるため、〔人まね歌麿〕と噂になり始めた歌磨を、今が売り時と判断
し起用。その後、蔦重は、「歌麿ならではの絵を描いてほしい」と新たに依頼
するも歌麿は描き方に苦しむことに。
 一方御三卿の田安徳川家出身で、陸奥白河藩に養子に出されていた定信(井
上祐貴)は、同じく御三卿の治済(生田斗真)から、公儀の政に参画しないか
と誘いを受ける。
定信は一橋治済を訪れたが、自身の家格が低いこと、養母宝蓮院(花總まり)
の体調がすぐれないことを理由に、丁重に断りをいれた。
定信の生家・徳川田安家には、跡継ぎがいない。
もし宝連院が亡くなれば、家そのものが取り潰されてしまう可能性がある。
すると治済は、次の将軍となる倅・家斉の代になれば、必ず田安家を復活させ
ると約束。その言葉を聞いた定信は、決意を固め、公儀の政に身を投じること
を選んだ。




蘊蓄を並べて蕎麦を捏ね始め  萩原鹿声




蔦重は、やってみると答えた歌麿(染谷将太)に、須原屋所有の枕絵を借りて
きます。部屋にこもり、食事も取らずに枕絵に取り組む歌麿が心配な蔦重がの
ぞいてみると歌麿は、心の中の深い傷に苦しめられている。
蔦重は、夜中に荷物を抱えて出かけた歌麿の後をこっそりつけていくと…。
 同じ頃、幕臣にとって最高の席である江戸城溜場に老中たちとともに、顔を
並べた定信は、天敵・田沼意次に対して、質問を浴びせ続けています。
疲れ切った意次は、帰宅して三浦庄司に「武家の借金に対する考え」を聞きま
した。三浦庄司は、蔦重の「広く安く入銀を募って狂歌本を作る」システムを
説明します。




珍しく0時過ぎてもこない明日  小原由佳

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足跡が消えることなどないのです  市井 美春





『万載集著微来歴』 恋川春町画作黄表紙(東京都立中央図書館蔵)
天明4年正月刊。絵は天明3年時の狂歌の会の様子を描いている。
本の内容は、狂歌会の著名人を戯画化して平家物語の世界にはめこみ、
楽屋落ちに興じた作品。天明狂歌の発想がそもそも極めて戯作に近いもの
であったことがわかる作品である。






" 世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといふて夜もねられず "

松平定信「寛政の改革」を皮肉った狂歌。作者は、四方赤良(太田南畝)
「狂歌」は、その「狂」の文字に現われているように、最初から正統でない
ことを意識した短歌で、諧謔や滑稽を旨とする文芸。
こうした内容の誕生は古く『万葉集』の戯笑歌や『古今和歌集』などもこれ
にあたる。のち中世に入っても行われていたが、それは正統な和歌に対して、
あくまでも、戯れのものとされていた。これが江戸期に入って、上方を中心
として生白童行風(せいはくどうぎょうふう)、豊蔵坊信海などの狂歌師が
登場して盛んになり、文芸の一隅に位置を占めるようになっていた。



おもしろい空だいろいろ降ってくる  新家完司




そんな折の天明のはじめ、画期的な狂歌会が催された。
江戸では武士グループの唐衣橘洲、萩原宗古、飛塵馬蹄、朱楽菅江らと、
町人グループの平秩東作、大根太木、元木網、知恵内子、大屋裏住らが、
それぞれ狂歌を作っていたのだが、この両グループが、唐衣橘洲の呼びかけで
橘洲宅に集まり、狂歌会を催し、大きく盛り上がったのだ。
このことに当初は、「狂歌、ひとりで勝手に詠み捨てる程度のもの。わざわざ
集まって読むのは、愚の骨頂」と、嘲笑っていた狂歌師の重鎮・太田南畝も仲
間が次々と参加していると知って、「我もいざ、痴れ者の仲間入りをせん」
して参加。この集まりの盛会ぶりから主流が江戸に移り、狂歌時代の幕が上が
った。



正座して言葉の沼に沈み込む  中野沙千湖 






            『愚人贅漢居続借金』 (東京大学総合図書館)

狂歌仲間連れ立って吉原に遊びにいくところ。
右から、蓬莱山帰橋、四方赤良、清水燕十、朝倉雲楽斎、朱楽菅江、



蔦屋重三郎ー狂歌時代の幕開け






        大 田 南 畝





「同世代人・南畝との出会い」
「黄表紙」というのは、狂歌師ととりわけ縁が深い。
落語が狂歌師から出てきたように黄表紙も狂歌師から出てきたのである。
狂歌師が関わることによって、「赤本・黒本」の幼児的世界は、「知的な大人
の笑い、都会の笑い」に変質したのだった。
ちなみに、蔦屋が狂歌会最大のネットワーカー太田南畝と出会うのは、恋川春
朋誠堂喜三二が蔦屋に移ってすぐの、天明元年 (1781)12月17日のこと
である。この時は、春町が同行している。朱楽菅江も一緒だった。
南畝と菅江はもっとも親しく、ともに幕臣、つまり、国家公務員としては同僚
である。この時は、この3人の武士、重三郎と一緒に吉原の大文字屋に遊んだ。
重三郎はこのころまだ、、吉原大門口にいる。
大文字屋は、重三郎のご近所であるばかりでなく、狂歌・吉原連のリーダー、
加保茶元成{かぼちゃのもとなり)と秋風女房が経営している妓楼である。
重三郎はやがて「蔦唐丸」として吉原連のメンバーになり、歌丸は、「筆綾丸」
としてメンバーになる。




時には夢を食べてみるのもいいもんだ  北川拓治




次に南畝と出会うのは、天明2 (1782) 年の3月10日の朝である。
前の番、幕臣・土山宗二郎の招待で大文字屋に宿泊した南畝は、次の日の午前
中、菅江とともに大門口の蔦屋に寄って宴会をしている。
「午後、書肆肩與(しょしけんよ)を命じ舎に帰る」と南畝の記録にあるから、
蔦屋は、駕籠を呼んで帰宅させている。かなり気を使った扱いかただ。
(書肆肩與=本屋が駕籠を呼ぶこと)
さらにこの年の秋、歌麿が上野で宴席をもうけて、南畝、朱楽菅江、恋川春町、
朋誠堂喜三二、清水燕十、南陀伽紫蘭(なんだかしらん・絵師の窪俊満)市場
通笑(表具師)、芝全交(大蔵流狂言師)、竹杖為軽(蘭学者)、北尾重政、
勝川春章、鳥居清長、朝倉雲楽斎など、約20人を招待している。
新人の歌麿を主催者にして、パーティーを開くことによって、戯作・出版界と
浮世絵に歌麿を売り出す考えもあったものと思われる。
ここに集まった人たちの多くが、後に歌麿と組んで仕事をすることになる。





ようこその入口やけに上機嫌  下谷憲子






                                                       『百千鳥』 (日本浮世絵博物館蔵)

『画本虫撰』の予告にあった「鳥の部」がこのような形で実現された。
歌麿の写実的な相変わらずすばらしい。
 鳥とともに泣きつ笑ひつ口説く身をそれぞと聞かぬ君がみみづく
市仲住(いちのなかずみ)
 うそと呼ぶ鳥さへ夜は寝ぬるものを止まり木のなき君のそらごと
笹葉鈴成(ささばのすずなり)
狂歌は、奇々羅金鶏の撰であるが、このポッと出て派手に振舞う狂歌師の入銀
(出版経費の負担)は、相当なものであったと思われる。



もやもやが晴れる引き摺ることはない  佐藤 瞳






                                   『夷歌連中双六』(歌麿画)

天明5年の四方側の歳旦狂歌集は道中双六の体裁で出されている。
狂歌に遊んだ歌麿は「筆綾丸」の名で、蔦重こと「蔦唐丸」のものと並べて
右下に狂歌を寄せている。



戯作も浮世絵も、芝居や映画と同じで、ひとりでは作れない。
プロデューサーの手腕と、優れた人材と、スター性とが組み合わさって作品と
なる。それをコーディネートしてゆくのが、蔦屋の仕事だった。
天明元 (1781) 年、志水燕十と組んで戯作を作った歌麿は、この連の亭主を務
めた後、南畝とも、狂歌連とも組んで仕事をするようになり『夷歌連中双六』
など三冊の狂歌本、そして (1788) 年には、南畝をはじめとする30人の狂歌
師とともに、あの狂歌本の傑作『画本虫撰』(むしえらみ)が出来上がる。
この狂歌本の系譜が、1790年代 (寛政年間)の歌麿の大首絵時代を準備
するのである。



新刊が拓いた脳の新境地  北出北朗






      『狂歌百鬼夜行』



「天明狂歌」の集まりは南畝を中心としていた。
しかし南畝が、常にその仕掛け人だというわけではない。
連にはまとめ役はいるが、ボスはいない。
後に「咄の会」を生みだし、落語発祥のもととなる天明3 (1783) 年の「宝合わ
せの会」は、竹杖為軽によって主催され、その記録である『狂文宝合記』は、
上総屋によって刊行されている。ここには、蔦唐丸も参加している。
そして連の典型例として、かつて、石川淳が注目した天明5 (1785) 年の「百物
語の会」は、蔦唐丸によって『狂歌百鬼夜狂』として、蔦屋に寄って発刊されて
いる。主催とは「亭主」をつとめることである。
連の亭主は、それだけの存在でなければならない。
重三郎は天明に入ってから、狂歌連の中で重要な存在になっていた。



声上げて夢の芝居をつづけよう  佐藤正昭




重三郎にとって編集とは、めったに会わない著者に適当に並べた目次を見せて、
「金をやるから原稿を書け」と、注文することではなかった。
編集人が自ら、その連のただ中で生き、自ら創作し、著者や絵師と同等になっ
て時に亭主をつとめ、時代の運命を共に引受けていくことだったのである。
蔦屋重三郎は、「天明狂歌の運動」と共に生き、「浮世絵の変遷」に巻き込ま
れて生き、「人間の連」を編集することが、そのまま本の編集となっていった
編集人だった。



一番の褒め言葉です地味な人  山下由美子




「べらぼう29話 あらすじちょいかみ」(「江戸生蔦屋仇討」)









江戸の町にひとりの男が倒れていました。
倒れていたのは、なんと平秩東作(木村了)、命からがら蝦夷地の松前家から
戻ってきたのです。東作が持ち帰ったのは、松前家の裏帳簿でした。
そこには、幕府に黙って私腹を肥やしていた証が残されていました。
「これを利用すれば、幕府は松前藩の領地を没収できる」
この帳簿、実は、田沼意知(宮沢氷魚)が命と引き換えに手に入れようと動い
ていたものでした。
「今すぐ、上知願いの書状をしたためよ。ここが勝負どころだ」
田沼意次は意知の意志を継ぎ、家臣の土山宗次郎(柳俊太郎)に命じます。




折りたたみの梯子でこの世を渡ります  福光二郎










一方、重三郎の店では、戯作者たちが集まり、新たな企画会議がはじまっていま
した。蔦重(横浜流星)は、政演(まさのぶ)(古川雄大)が持ち込んだ手拭
いの男の絵を使った黄表紙を作りたい」と戯作者や絵師たちに提案します。
政寅や春町らが案を出し合うなか、鶴屋(風間俊介)「これは二代目近々先生
にぴったりだ」と意見を出します。しかし、政寅は気が進みません。
それでも重三郎に推されて、しぶしぶ執筆をはじめました。
ひと月後、完成した原稿を囲み、春町・喜三二・南畝・小田新之助まで参加して
試し読みが行われました。春町は高評価、南畝は「まずまず」といい。
ていは「世間知らずの若者が騙される話は笑えない」と指摘します。



草案はすでに五色沼の模様  岩田多佳子

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梯子ですかいいえおぼろ昆布です  酒井かがり






「的中地本問屋」(あたりやしたじほんどんや)十返舎一九作画、
(享和2年(1802)版元・村田屋次郎兵衛)
この絵は、十返舎一九作の草紙が大人気、版元から品物を担いで向かう世利
引っ張りだこになる場面。 (国立国会図書館デジタル化資料)





「本の流通」
本の流通は、物之本では、三都(京・大坂・江戸)に限られた本屋が握って
いたが、大衆本である草紙の類は零細だが全国にあった貸本屋たちが広めた。
物之本屋がじっくり本を作るのに対して、草紙屋は「生き馬の目を抜く」
勢いがあったが、悪く言うと「粗製乱造」でもある。
次から次へと目先を変えて新刊本を売った。
とくに合巻の時代になると、二冊セットの値段が百文を超えて(二、三千円
くらい)、庶民が買うには高すぎる。そこで貸本屋が活躍した。
江戸だけでも、六百軒の貸本屋が記録されている。
多くは風呂敷包みを背負って、顧客の家に持ち込む行商である。
出版元もこの需要に左右され、人気のバロメーターにしていた。
さらに丁子屋兵兵衛などのように、貸本屋が自ら出版に乗り出した。





ナンバーディスプレイに山ほどのありがとう 井上恵津子





             『屈伸一九作』(えいやっといっくがさく)
蔦重方に寄宿してドウサ引きした十返舎一九作、「本のできあがるまで」を
題材にした黄表紙である。





蔦屋重三郎ー本の出来上がるまで







                  十 返 舎 一 九





「本の出来上がるまで」
今日ではコンピューターの力に与かる本作りが一般的になりつつあるが、
その少し前は活字印刷が主流であった。江戸時代も初期においてはキリスト
教の宣教師による印刷技術の輸入と同時に、活字印刷が行われたものの、
木製の活字という制約は、コスト高と耐用性に欠けることから長続きせず、
これに代わって普及したのが「製版印刷」である。当時の製版とは、
一枚板に彫刻して印刷するものだった。





                                            執 筆 依 頼  ・打 合 わ せ





① 草稿
 作者が書いた下書きで、絵の指定や要望が指示される。
② 板下本
 画工が絵組みを画き、空白部分に筆耕が本文や詞書(台詞)等を浄書する。
浄書が終わった段階で作者は、校合(校正)や書き改めをすることもある。
特に絵本読本などの場合では、この段階で注文も多い。
また自画の場合は、筆耕の浄書(清書)の具合をチェックするわけである。
※ 黄表紙の敵対物の祖とされる初代・南仙笑楚満人丈阿・鼎峨などがこの
筆耕を業としていた人物で、後の合巻時代には、筆耕から作者に転じた人物も
少なくない。











七色を掴んでからの筆選び  近藤真奈






                   版下聖書・作成・彫り





    
③ 彫刻
 板木に板下本を裏返しで貼り付けて板木を彫る。
訂正を加えられた板下本は、次に彫刻されるわけだが、当然、板木師の彫り
損じも予想されるため、板下本ができて直ぐに試し刷りが行われて、作者の
許へ届けられる。そこで作者の校合(校正)があり、部分的な訂正や手直し
は入木(埋木)で彫り直しを行なって修正される。
(これで④の印刷にとりかかるわけだが、②→④の前で、板下や校合刷りが
版元とを何度か往復することがあった)





帰宅する目玉がやっと元の位置  桑名千華子






               印 刷





④ 印刷
 完成した板木に礬砂引(どうさひき)=和紙に墨が滲むのを防ぐ加工。
※ 式亭三馬の実父・菊池茂兵衛は、晴雲堂と号した板木師で、楚満人も板
木師を兼ねていたと伝えられる。
製版による本作りでは、この板木師の腕に委ねる比重は高かったといえよう。





輪転機に旬と嵐と代議士と  岩田多佳子






              製 本





⑤ 製本
 5枚づつを袋綴じ(印刷された一枚紙を中央から二つ折りにて、一丁オモテ
と一丁ウラとする)にて表紙をかける。
※ 印刷後の製本・販売過程は、本屋の仕事になるのだが、大阪から江戸へ下
った十返舎一九は、一時、蔦屋の食客になって、礬砂引(どうさびき)をして
いたと伝わる。
※ 礬砂引=印刷紙への滲み留め






               製 本





ひとひねりふたひねりして鉤ホック  荒井慶子





              販 売




⑥ 販売
(店頭売り、行商、貸本屋へ)
前年の霜月頃より新作販売というから、歌舞伎の顔見世興行などと同じ11月
頃より、順次、新作草双紙が地本問屋の店先に並べられ、地方向けの田舎注
文も纏めて荷商いが担いで運んだものであろう。






     
               行 商




(当時の地本問屋の店先風景の絵には、そうした荷商いする者の姿が描かれ
ていることが多い。





言葉を流すと変温動物に  近藤真奈





「多満宇佐喜(たまうさき)」
深川芸者が貸本を読みかけにしている図。




さて読者の好評著しく伝わり、続編を望む意向が強いとなると、版元は早速
早速それに応えるべく二編、三篇に嗣作を作者に依頼する。
ここに、かの『道中膝栗毛』『南総里見八犬伝』柳亭種彦の合巻『偐紫田
舎源氏』といった、あらゆるジャンルにおいて、十年以上も読者を確保しつ
つ長編化した作品の出現する理由があったのである。
それが結果的に発行部数の増加となり、版元は、毎年のごとく続編と同時に
旧編を幾度も再編して利を得ていったのである。





身近なところにあります感嘆符  山本美枝






         「人情本の祖・為永春水の絵」




自らも貸本屋営んでいた為永春水などは、殊にそうした読者の反応に敏感で
あった。一時、二代目・南仙笑楚満人を名乗った春水は、筆耕を業としてい
たとも伝えられる。それ故に、「為永連」と呼ばれる人情本製作スタッフを
抱えて、婦女子の読者受けする作品を次々に世に送り出し、人情本を一つの
ジャンルに成長させて「人情本の祖」と自称するに至った。これなどは配給
システムの機能を最も有効に活用した例であり、現在におけるマンガ・劇画
の工房と本質的には同じことで、春水が早く先蹤(せんしょう)であったと
考えればよい。
創作を協同作業でするという、一見、相容れない行為踨が合体して文学作品を
産みだす仕掛けは、読者の反応を、逸早く伝える貸本屋の存在を抜きに語れな
いのである。





吹き出しはゆらりのことで点滅中  桑名千華子

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新天地求めて風にのった種  吉岡 民





浅草庵作、葛飾北斎画「画本東都遊」に描かれた耕書堂の様子
                 (国立国会図書館)





「蔦重、新店舗へ羽ばたく」
蔦重が日本橋通油町の書肆・丸屋小兵衛の店舗と株(営業権)を手に入れ、
店舗を「耕書堂」と改めて新たな本拠としたのが、天明3年 (1783) 9月、
蔦重34歳のとき。経済の中心である通油町への出店は、出版業のトップ
クラスに名実ともに蔦重も仲間入りしたことを意味しました。
「蔦重の店舗の解説」
絵の上を見ると、看板でしょうか、「堂書耕」と屋号が記されています。
また右下には、店の前に置かれた行灯(あんどん)型の箱看板が描かれ、
左右どちらの面にも上に「富士山型に蔦の葉」の意匠を見出せます。
これが、版元蔦屋重三郎の家標(いえじるし)つまりマークでした。
家標の下、右の面には、「通油町 紅絵(べにえ)問屋 蔦屋重三郎」、
左の面は「あぶら町 紅絵問屋 つたや重三郎」とあります。
紅絵とは本来、墨で摺った絵に紅色で彩色した初期の浮世絵のことですが、
蔦重が活躍した当時は、多色摺りの錦絵も含めて紅絵と呼んでいたので、
「紅絵問屋」と表記しているのでしょう。




まねき猫店の四隅で客を待つ  下林正夫





行灯の右上、店の壁面には、書名を記した木製の札が4枚、架かっています。
売り出し中をアピールするための、広告看板でした。
右から「浜のきさこ 狂歌のみかた小冊」「忠臣大星水滸伝」(山東京伝)
「東都名所一覧 狂歌入彩色摺」「狂歌千歳集 高点の歌を集」とあります。
絵の左下、店の前には、従者に荷物を預けて、熱心に浮世絵を物色する武士
の客。店内に目を向けると、中央の棚には、上段と中段に平積みされた浮世
絵が3品目ずつ、下段には書籍らしきものが積まれています。
棚の後ろで武士の客を見ている禿頭の人物は、店の番頭でしょうか。





只見しているサムライの懐手  通利一遍






         蔦 重 と 京 伝 通 人 総 籬




蔦屋重三郎ー田沼意次から山東京伝






  「何も失ってはおりませんぬ。奴はここに生きておりまする」
一橋治済(生田斗真)と田沼意次(渡辺謙)の火花散るやりとり。





「意知が死んで」
田沼意次は、息子の意知が佐野政言に殺害された後も、幕府の老中としての
仕事を淡々として続けた。これは意知の死によって意次の権力が弱体化した
わけではなく、また、意次自身が幕政を担う必要性を感じていたためと考え
られている。
将軍家治に重用され、側用人と老中を兼任することで、幕政を主導する立場
にあり、たとえ愛息子の意知が死んだといっても、この権力基盤を崩すわけ
にはいかない。意次の年齢:は、まだまだ50代、幕府財政の立て直しや商業
振興など、独自の政策を継続させ、達成するためには、老中としての立場を
維持する必要があった。
意知の死は、意次にとって大きな痛手だが、同時に反田沼勢力にとっては、
意次を失脚させる絶好の機会でもありました。そのため、意次は、反田沼
勢力の攻勢をかわしながら、幕政を維持しようと努めたと考えられる。



真っすぐに天に帰ってゆく煙  くんじろう





          田 沼 意 次
 金とりて田沼るる身のにくさゆえ 命捨てても佐野み惜しまん





「田沼意次の人物像」
田沼意次個人は、どのような人物だったのだろうか。
神沢杜口(かんざわとこう)の随筆『翁草』「田沼家衰微」「田氏罪案」
と、題した田沼意次批判の章があるが、そこに意外な表記がある。
「田沼は奸曲の人である。表面上は親し気に大名たちの家に立ち寄り、卑賎
 凡下の者に対しても言葉をかけ、まったく権勢を誇らない。
 とても柔和で丁寧に人に接する。
 しかし この態度はよこしまな考えがあるからだ。」
 


重い話で水は流してくれません  都司 豊



また、意次は家来を慈しんでいたという。たとえば寒い日に登城する際、
供頭を呼び「今日はことのほか寒いから、末々の者にいたるまで酒を飲ませて
温めてやれ。下戸には温食を与えて寒気を防ぐように」と述べ、彼らが飲食を
終えた後、出立したそうだ。
また、常に家臣たちをいたわり、ちょっとのことでも褒美を与えたので、
みな意次のために忠勤を励むようになったという。
しかし、これは「田沼の仁心から出たものではなく、本心ではなく拵えごと
なのだ」とある。



人の味それぞれあるから面白い  曾根田 夢






              株 仲 間




かなり強引に意次を悪く評しているが、素直にこの逸話を解釈すれば、意次は
誰にでも親しく柔和に接し、部下思いのとてもよい殿様ということになる。
次に、意次の遺訓7カ条も彼の人柄が偲ばれる。
将軍家重・家治の両将軍に厚意を蒙ったことを決して忘れてはならない。
親に孝行、親戚縁者と親しく付き合うこと。
友人や仲間と表裏のない付き合いを心がけ、目下の者には人情をかけろ。
・家中の者には、常に憐れみをかけ賞罰に依怙贔屓をするな。
・武芸を励め。ただし、余力があれば遊芸はかまわない。
・軽い公務であっても念を入れて務めよ。
・蓄えがないといざというときに役にたたないので、蓄財を心がけよ。
ともあれ、こうした律儀で真面目な人物だったからこそ、人びとは意次を信頼
し、田沼政権は長く続いたのだと思う。



肩越しへ未来一瞬だけ光る  藤本鈴菜






        意次の財政政策 俵物の輸出




その積極的な「財政改革」に待ったをかけたのが、天明期に人々を襲った
「天災・飢饉」であった。天明3年 (1783) の「浅間山の噴火・東北地方の
冷害」が重なり「天明の飢饉」と呼ばれる未曽有の大惨事となったのである。
意次の政策は、「米に依存する幕府の財政を、商業に重点をおく」ことで乗り
越えようとするものであったが、その反面、農業への救済策が不十分となり、
多くの反発を招くこととなった。
影響は都市部にも及び、凶作で米の価格が高騰、慢性的な米不足に悩まされた。
米を買い占める商人に対して、庶民の不満が爆発し、天明7年 (1787) には米穀
商の屋敷へ、民衆による「打ち壊し」が起きる。
これが田沼政権への不満となり、隠居・謹慎が下知され田沼時代は終焉を迎える
こととなっていくのである。



風が吹くただそれだけで痛い朝  前中知栄





 京屋の屋号で煙管、紙製煙草入れなどを商っている山東京伝の店。

山東京伝が、京橋銀座一丁目に開いた煙草入れ屋の店。
店の奥にいる京伝は、吉原の名高い遊女花扇と会話中、
三代目瀬川菊之丞、三代目沢村宗十郎、三代目市川八
百蔵など当代の人気者が客として描かれている。



山東京伝は、深川木場の質屋の息子で、本名を岩瀬醒(さむる)という。
京伝が生まれた深川木場はその名の通り、周辺には材木問屋が軒を並べ、
豪商たちは、深川の料亭や花街で金に糸目をつけずに、派手に遊び倒す。
そこにいるのは深川の芸者、通称辰巳芸者だ。
男物の羽織で源氏名も男の名を使う。そして何より気風が良い。
粋で鯔背な江戸の職人たちと、豪商たちの通名遊びを見て育っている京伝は、
自然と「粋」が身についていった。
やがて蔵前の札差・文魚が京伝のパトロンに付き、吉原に通うようになる。
京伝の弟子、曲亭馬琴がいうところによれば、
「家に帰るのは、月に5,6日」であったという。
落語では、そんな体たらくな若旦那は勘当されるのがオチ。
ところが、「自分の能力で稼いだ金で遊んでいるのだから」と、京伝の父母
は、気にとめる様子もなかった、という。



凛と咲く花の気高さ学ばねば  宮本 緑






 自分の店の煙管を咥えるのも粋な山東京伝


そんな京伝は、戯作者として黄表紙を手がけ、大手版元の鶴屋から次々と作品
を刊行し天明2年に出した『手前勝手御存商売物』が、江戸随一の文人である
太田南畝に絶賛されたことで人気作家となる。
蔦重との仕事は、当初、黄表紙や絵本の挿絵がメインだったが、やがて黄表紙
の執筆も手がけるようになる。
なかでも『江戸生艶気蒲焼』(えどうまれうわきのかばやき)は大ヒットし、
遊里で色男を気取る遊客が、同書の主人公の名にちなんで「艶三郎」と呼ばれ
るほどの人気を博した。



昨日今日同じようでもやや違う  雨森茂樹






        『江 戸 生 艶 気 蒲 焼』



『江戸生艶気蒲焼』のさわり。
百万長者仇気屋のひとり息子艶二郎は醜いくせにうぬぼれが強く,悪友たちに
そそのかされ,色事の浮名を世に広めようと,金にまかせていろいろ試みるが,
かえってバカの名が立つばかり。ついに吉原の遊女を身受けして情死のまねご
とをしようとするが,盗賊に遭い,まる裸にされる。
実は父親と番頭とが、戒めのために企てた計略で,以後は心を改めるという筋。
モデルの存在も噂されたほど,当時の浮薄な青年の典型を滑稽をもって浮彫に
した傑作で,主人公の獅子鼻のおかしさは、京伝鼻とよばれて評判となり,
艶二郎はうぬぼれの通称ともなった。



見えぬことだけで溢れる空の箱  山口美千代



『江戸生艶気蒲焼』の人気に、蔦重から文才を見込まれた京伝は、やがて文章
主体の「洒落本」の執筆も手がけるようになる。
洒落本は遊里を舞台にした会話形式の読み物で「穿ち」といわれる人情の機微
を描くところに面白みがあった。
原通人の京伝の書く洒落本は、そんじょそこらの「吉原武勇伝」みたいなも
のとは一線を画す。会話文には男女の「心」のやり取りが描かれる。
いわば、恋愛小説なのである。修行中のお坊さんまで愛読したというのだから、
よっぽど健全なものなのだ。



細道の恋です二度づけは禁止  福光二郎





『傾城買四十八手』 (山東京伝作画)(大東急記念文庫蔵本)
洒落本の傑作。挿絵は、中国の仙人で鯉 を巧みに乗りこなしたという
琴高仙人(きんこうせんにん)を遊女に見立てている。



『傾城買四十八手』 (健全なものかどうか皆様の目でお試しを)
年は十六、この春から突き出しの遊女と、上役なのか年上の客なのか、吉原に
連れてこられた息子は、年の頃、十八くらい、会話が苦手らしく、遊び慣れて
いない風だが、身なりが良い。
「お前さまみたいな人には、家におかみさんがござんしょうね」
「まだそんなものはいないよ」
「じゃ、どこぞの良い人と、お楽しみがあるんでしょう?」
「家がやかましいから、ここには、去年お酉様の還りに来たきりさ。
 私のことだけじゃなくて、お前の良い話も聞かせておくれよ」
「わっちのことなんて、誰も相手をしてくれないもの」
「よく嘘をつくね。そうだ名を嘘つきと呼ぼうか。惚れた客があるんだろう」
「好きになるような客なんていないのさ」
「そりゃあ残念。私になんか、尚更だろうね」
「ぬしにかえ-------? もう言わない」
「おや、ずいぶんと焦らしなさるね」



月の真夜中の二時に紙芝居  森 茂俊



(何を読まされているんだという気になるが、もうすこし我慢を)
「わっちが惚れたお人は、たった一人でござんすよ」
「そりゃあ、うらやましい男だ」
「…お前さまさ」
「ずいぶんとあやしてくれるね」
「ホントのことだもの」
「お前のような美しい女が惚れてくれるなんて、私にゃもったいない話だ」
「また来てくれる?」
「呼んでさえくれたら、きっとくるとも」
「ホントに?うれしい」
ため息ついて、遊女の誠を確かめようとした矢先に、相手の遊女に振られた
連れの男がやってきて、しっぽりがご破算になるというオチがつく。
しかし遊女と初心男は、入ってきた野暮男を無下にすることなく、ボヤキを
聞いてやっている。振られた男が部屋を出て行くと「あとはふたり、ほっと
する」



どんな風に口説けば堕ちてくれますか  石神孔雀



        





「べらぼう28話 あらすじちょいかみ」




城中で意知(宮沢氷魚)佐野政言(矢本悠馬)に斬られ、志半ばで命を
落とし、政言も切腹をする。後日、市中を進む意知の葬列を蔦重(横浜流星)
たちが見守る中、突如石が投げ込まれ、場が騒然となり、誰袖(福原遥)
棺を庇い駆け出す…。憔悴しきった誰袖を前に、蔦重は、亡き意知の無念を
晴らす術を考え始める。
そんな中、政演(古川雄大)が見せた一枚の絵をきっかけに、仇討ちを題材
にした新たな黄表紙の企画を考えます。
政言を悪役として描き、世間に問うという内容です。
しかし、須原屋市兵衛(里見浩太朗)は、反対しました。
「公儀のことをほんにするのはご法度。世間の評価を変えるのも難しい」




逆走をしていることに気付かない  山田恭正










意知の葬列が市中を通る日、群衆の中から「天罰だ」と叫ぶこえとともに
石が投げられた。田沼家への不満が、言葉や石となって飛んできたのである。
群衆の中にいた誰袖は、咄嗟に意知の棺を守ろうと駆け寄り、額に石が当り
倒れた。誰袖は涙を流しながら重三郎に訴えます。
「仇を討っておくんなんし…」
政言が亡くなっている以上、仇討は叶いません。
そんな中、重三郎は小田新之助とその妻・ふくを訪ねます。
ふくはもと遊女で今は、筆耕として生計をたてていました。
重三郎は長屋の手配や仕事の紹介をして支援します。



瀬戸際であしながおじさんの援助  井上恵津子



帰り道、重三郎は、佐野政言の墓の前で幟をたてている浪人をみかけます。
「世直し大明神」と書かれたその幟。
政言を英雄として祀ろうとする者たちが、現われはじめていたのです。
その浪人の顔は、葬列に石を投げた大工と同一人物だと気づきます。
このことを意次に伝えます。
「浪人と大工は同一人物。役者かあるいは、正体を隠す必要のある者かも
しれません」と。



滲んでいます飾っても飾っても  山本早苗

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茶助
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