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川柳的逍遥 人の世の一家言
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聖母にも娼婦にもなる両乳房  日下部敦世





                                            『辞 闘 戦 新 根』 (恋川春町作・画)

『 辞闘戦新根(ことばたたかいあたらしいのね) 』 は黄表紙作家・恋川春町の
『 金々先生栄花夢 』に次ぐ大傑作で、江戸の庶民や下級武士の間で大ヒットした
絵本である





                      お 仙 茶 屋      (鈴木晴信)
 
浮世絵師・鈴木春信は、お仙の錦絵を多数描き、これらの錦絵によりお仙の
存在がさらに多くの人々に知られるようになった。
またその有名になったお仙を描いて、春信が有名になった。





「江戸のニュース」
明和2年(1765)、笠森お仙、美人ナンバーワンとして脚光をあびる



「いずれがあやめ、かきつばた」と、双美人としてこの時期に有名なのは、
浅草境内の楊枝屋の娘・お藤と笠森稲荷前の茶屋の娘・お仙。
このお仙が、にわかに脚光を浴びたのがこの年。
お仙は、もともと田端村の百姓五兵衛の娘。双美とは言え、お藤「脂粉にい
ろどる」といった妖艶な娘。それに比してお仙は、もと百姓の娘らしく素朴の
中に人を魅了する美しさを溢れさせて、街中では「お仙が断然に艶美」とする
ものが多かった。それが、この年、数え歌に「八つ谷中のいろ娘」と唄われ、
人気が急上昇。錦絵の題材となり、一枚絵が出、やがて、市村座の芝居にまで
「笹森お仙」が採りあげられるようになって、数年後には江戸中の人気をさら
った。笹森稲荷の参詣者は増える一方だったが、稲荷人社などそっちのけで、
お仙の居る茶屋に通い詰めるものが後を絶たなかった。
ところが、この人気絶頂の最中、お仙はあっさり、将軍家の御庭番・倉地甚左
衛門の養嗣子政之助の妻になり、江戸城桜田門内に住む身となってしまった。
茶屋の娘が正妻では具合が悪いと、西の丸御門番之頭・馬場善五兵衛の養女と
の届け出をしての嫁入りだった。お仙は、政之助との間に男女合わせて十余人
もの子を生んで幸せな生涯を送ったが、お仙嫁入りのおかげですっかり客足が
途絶えた茶屋を、人々は、「笠森稲荷水茶屋のお仙、他に走りて跡に老父居る
ゆえの戯言に、とんだ茶釜が薬缶に化けた」と、父親の禿げ頭をネタに囃し立
てて残念がった。




降って湧いた話を乗せる救急車  井上恵津子





 「年が寄ても若い人だ」  (歌川国芳)
<遊び絵> 振り向いた若男。よーく見ると 、パーツ が十二支 の動物に。




「江戸時代にもあった流行語」
江戸の戯作文学のジャンルに黄表紙(草双紙)がある。
黄表紙は、当時、最先端の流行・風俗を取り入れている。
服装、髪形、ナウいスポット情報、遊女や芸人の動静、等々を逸早く作に取り
込もうと作者たちは、競うのである。
こうした中で面白い流行語が生まれてくる。
黄表紙は、簡単にいうと現在のマンガのようなもの。
当時、江戸の町に流行った流行語が、擬人化されて闘うという大変ユニークな
ものが多い。登場する流行語はというと、「大木の切り口太いの根」「鯛の味
噌吸」「どらやき・さつま芋」「四方の赤」等々。
内容は、当時の庶民の流行り言葉が、化け物の姿で現れ、黄表紙の著者や製造
職人に悪さをするという異様な、天才しか思いつかない物がたりになる。
例えば『とんだ茶釜』とは、「息を呑んでしまうほどの美女をいい、笠守お仙
という実在した江戸随一の美女で、お茶屋にまつわる話」を黄表紙作家・恋川
春町『辞闘戦新根』に書いている。



血色の良くなる話聞いている  竹内ゆみこ






         お仙茶屋ーお仙目当に来てみたら  (鈴木晴信画)



『評判に吊られて茶店に行ってみたら、お仙は、確かにとんでもない美人だと 
 分かったものの、あからさまに褒めるのは、さすがにはばかられたので、
 つい目にした「茶釜をほめてしまった」、というお茶らけからはじまる』
 「 大木の… は太い根」という言葉を引き出すための言葉遊びで、随分と太い
  んだね、という意味」(こうした流行り言葉は、当時、「地口」と呼んだ)
さて、ドラマべらぼう19話では、鯛の味噌吸(たいのみそず)」「四方の赤
(よものあか)」という蔦屋重三郎(横浜流星)のセリフが出てきます。
目は皿に、耳はナマコにして、お見逃しなく。




妖怪になってしまった友がいる  西澤知子





           『千代田之大奥 歌合』   (画:楊洲周延)




蔦屋重三郎ー大奥・お知保の方




「家治側室・お知保の方」
徳川十代将軍・家治は、祖父の吉宗から将来を期待され、直々に帝王学や武術
を仕込まれた。書画も得意とし、家治の描いた絵も現代まで伝わっているほか、
趣味の将棋もかなりの腕前だったとされている。
一方で、政治にはあまり積極的に関わらず、父・家重の遺言通りに田沼意次
重用し、幕政は専ら家臣頼みだった。ある時、書道に卓越する家治の豪快な筆
づかいを見て、吉宗が洩らした言葉がある。
「天下をも志ろしめされむかたの 御挙動かくこそあらましけれ」
(天下を志す者は、こうでなければいけない)と褒めちぎった、という。





風騒ぐ幹のえくぼの何思う  通利一遍





         家 治 肖 像





宝暦4年(1754)にその家治は、正室に五十宮を迎え婚礼の式を挙げた。
お相手は、東山天皇の孫、直仁親王の娘の五十宮倫子(いそのみやともこ)で
ある。家治と五十宮は、仲睦まじい夫婦で、宝暦6年には長女・千代姫が誕生。
千代姫は、わずか2歳で夭折したが、宝暦11年(1761)には、次女の万寿姫
が誕生している。
だが2人の仲は良かったものの、世継ぎとなる男子に恵まれなかった。
家治自身は、側室をもつことに消極的だったものの、将軍にお世継ぎがいない
ままでは「後継者問題でまた争いが起きてしまう」と、近臣たちは、しきりに
「側室を迎えて、子をつくるように」と迫った。
結局、家治は、田沼意次をはじめとする近臣の強い勧めで、渋々側室を迎える。




止まり木に隣り合わせてからの縁  村田 博




その側室のうちの一人が、お知保の方である。
寛延2年 (1749) に徳川家重の御次(雑用係)として仕えていた「お蔦」(後の
お知保)は、寛永4年(1751)1月18日には、御中臈に昇格した。
田沼意次の引きもあってお蔦は、宝暦11年(1761)8月5日、江戸城本丸大
奥へ移り、家治付きの御中臈となる。
同12年(1762)10月25日に長男・家基(竹千代)を出産したが、11月に、
家治の御台所・五十宮倫子が、その養母となったため、家基は倫子のもとで育
てられることとなった。
同月15日、お知保の方は、長子出産の功労から「老女上座」の格式を賜わる。
竹千代誕生からわずか2ヶ月後、家治のもう1人の側室お品の方が、貞次郎
出産する。





浮雲にふと立ち止まるわが想い  靏田寿子











側室が、いずれも男子を出産したために、正室の五十宮の立場が悪くなったか、
といえば、そうではない。
家治は、五十宮を尊重し、変わらず妻として愛し続けたという。
その傍証に、家治は、竹千代貞次郎の両方を、五十宮を養母として養育する
よう命じた。そのうえ出産後は、お知保の方のもとにも、お品の方のもとにも
通わなくなったという。
あくまでお世継ぎをという、家臣の言葉に従ったまで、と言わんばかりである。
貞次郎は、生後3ヶ月で夭折した。
一方の竹千代は、五十宮の養子となり、文武に優れた聡明な次期将軍として成
長していった。




深からず浅からずよし人と人  西田喜代志




明和6年(1769)に家基が、将軍世子として西の丸御殿へ移ると、お知保の方
は、それに随従して西の丸大奥へ移り、同月4日には格式が「浜女中(浜御殿
にいた先代将軍側室)」同様となる。
この2年後の明和8年、家治が寵愛した五十宮が世を去る。34歳だった。
五十宮の死後、御三家のひとつ、尾張徳川家への輿入れが予定されていた万寿
もまた、13歳で逝去してしまう。
家治の哀しみは、筆舌に尽くし難いものがあったことだろう。
そんな家治の哀しみとは別に、大奥では五十宮がいなくなったことで、家基の
生母であるお知保の方の、権力と存在感が一気に増したのだった。




神様は下さるそして取り上げる  居谷真理子




五十宮が死去して以降は「御部屋様」と称され、世子生母の扱いを受けたが、
家基は、安永8年(1779)に、18歳の若さで急死という凶運に見舞われた。
天明6年(1786)家治が逝去すると、落飾して「蓮光院」と称し、同年11
月3日に、江戸城二の丸へと居を移した。
寛政3年(1791)3月8日、55歳で死去する。
(文政11年(1828)に従三位を追贈された。御台所および将軍生母以外の
大奥の女性が叙位された珍しい例である)




網棚にポンと骨壺置いたまま  荻野浩子





      老中・田沼意次




episode 「家治の養子選定を行った田沼意次」





子どもを悉く失った家治。このとき家治はまだ41歳。
十分に子どもができる年齢だったが、もはやその気力もなかったのだろう。
次期将軍候補として養子を迎えることを決意した。
家基の没後、次の世継を決める「御養君御用掛」に命じられたのが、若年寄の
酒井忠休、留守居の依田政次、そして、老中首座の田沼意次である。
自ずから老中の意次が中心となり、家治の養子の選定が行われることとなった。
実質的には、次の将軍を決めるという大役を担うことになった意次である。
天明元(1781)年4月15日に命じられて以来、意次は、江戸城から屋敷に帰
ると小座敷に籠もり、側近さえも遠ざけて、選定に頭を悩ませたいう。
そして、天明元年(1781)年閏5月27日、家治の養子については、御三卿の
一つである一橋家の徳川治済の子、豊千代に決まったと公表された。
この豊千代が、のちの十一代将軍・徳川家斉である。
跡継ぎ問題を解決させたことで、意次は、1万石の加増を受けて、4万7千石の
大名となっている。しかも次期将軍選びで主導権を握ったことで、その後の影響
力も確約されたようなもの。(この時は、まさか恩を売ったはずの家斉によって、
田沼派が一掃されるとは、夢にも思わなかったことだろう)





追いかけて追いかけて踏切の音  山口ろっぱ






        険しい表情のお知保の方




「べらぼう19話 あらすじちょいかみ)





江戸城ではかつて将軍後継者として「西の丸様」であった徳川家基(奥智哉)
生母・知保の方(高梨臨)が、毒をあおるという騒ぎが起こった。
しかし、その毒は、致死性の高いものではない。
知保の方は、毒を飲んでも死なないことを分かった上で「狂言」をしたのである。
老中・田沼意次(渡辺謙)が、将軍・家治(眞島秀和)のために差し出した、愛妾
鶴子のことを当てこすりたかったのだろう。
もし家治と鶴子の間に男子が出来れば、その男子が「西の丸様」となってしまう。
知保の方が毒をあおるという行為は、「将軍後継者の母」という地位を絶対に明け
渡したくないという意思表示でもあった。





翻訳は出来ないウボボイのこころ  合田留美子




家治は、知保の方が毒を飲む行為は、「狂言」であることがうすうす分かって
いた。しかし、自分の父親である九代将軍・家重は体が弱く、また自分の息子
たちも早逝しているため、鶴子との間に男子をもうけて、自分の血を継ぐ人間
に跡を継がせることにも消極的である。
家治から後継者問題を相談された老中・田沼意次は、最初は家治の考えに反対
するものの、家治の真意が徳川家内部の人間が、家基松平武元(石坂浩二)
のように殺害されないことであると知ると、家治の意向に従います。
そして家治の跡を継ぐ将軍後継者は、御三卿の一つで一橋家の一橋豊千代(のち
に十一代将軍・家斉)であるこという意見に大きく傾き始める。





カラスならカァで終りにする悩み  山下炊煙











「一方、町では」
黄表紙は、絵と文章を組み合わせた庶民向けの娯楽、洒落本は遊郭文化を題材
にした知識人向けの知的娯楽という違いがあります
江戸市中では、地本問屋たちが、日本橋にある鱗形屋孫兵衛(片岡愛之助)
店に集まって、板木を買い取っていく。
座頭金による貸金や偽板作りによる奉行所からの処分で、鱗形屋は問屋の体裁
で本屋の商いを続けていくことはできない状態になっていたからだ。
その地本問屋たちの中でも、鶴屋喜右衛門(風間俊介)は、鱗形屋と組んで青
本を出版していた戯作者・恋川春町(岡山天音)の担当をすることになる。
そこに蔦重(横浜流星)が現れて、春町に作品を書いてほしいと頼むものの、
剣もほろろに追い返されてしまう。




湿っぽくなってしまった裏表紙  高浜広川






       『辞闘戦新根』 (恋川春町作画)





恋川春町
は、鶴屋で青本を書くとは決めたものの、鱗形屋と違って鶴屋喜右衛門
とはどうも相性が良くない様子。元の担当であった鱗形屋も、実は鶴屋ではなく
蔦重に春町の本の板元となってほしいと内心を明かす。
そこで蔦重は、新しい作品を書けずに困っている春町のために、『辞闘戦新根』
(ことばたたかいあたらしいのね)」のような、奇想天外な作品が生まれるよう
「案思(あんじ)」を考え始めた。
そして蔦重が、春町に案思を授けられるよう、歌麿(染谷将太)北尾政演(古川
雄大)・志水燕十など、蔦重を慕う人たちが家田屋跡の「耕書堂」に集まってく
るのである。





ぼてぢゅうへ集う偏平足会議  井上一筒

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神様の声をトサカで聴いている  井上恵津子





     「歌麿にこれを描かせれば伸びるはず」

蔦重版の狂歌絵本は、歌麿の画技を得て、派手やかに開花する。
その華麗な筆致を十分に生かした印刷の技術と造本の贅沢さは、これら絵本の
名を出版史にとどめるに足るものにしている。

天明元年(1781)歌麿名で蔦重と初めて組んだのが「身貌大通神略縁起」。 
歌麿が、それまでの「豊章」をやめ、はじめて「うた麿」を名のった黄表
紙である。そこに蔦重は、歌麿の才能を感じ取り、2人の深く長い関係が
生れた。「絵草子問屋蔦屋重三郎方に寓居す」(天明3年頃)とある。
その年の9月に蔦重は、吉原大門外五十間道から、江戸地本問屋の集中する
日本橋油町に進出した。移転以前か以後かは分らぬが、もはや青年とはいえ
ない歌麿を食客として遇したからには、並々ならぬ期待をそこに込めていた
ものであろう。




こっそりが長い長~い影になる  津田照子



蔦屋重三郎ー喜多川歌麿





            身貌大通神略縁起 (みなりだいつうじんりゃくえんぎ)
刊記に「板元 蔦屋重三郎」「画工 忍岡哥麿」とある。
作者の清水栄十は、歌麿の師・鳥山石燕と俳諧でつながり、これ以後、
哥麿と版元の蔦屋重三郎の関係がつづく。





                               喜 多 川 歌 麿 (細田榮之筆)





「歌麿が蔦重の宅に身を寄せて、下積み生活を送っていた頃」
早くから名声を博していた朋誠堂喜三二太田南畝らと異なり、蔦重が自ら
発掘し、人気絵師として大成させたのが喜多川歌麿である。
本姓は北川、名を勇助といった。出生地(江戸・川崎・近江など諸説あり)や
出生日(生年は過去帳から逆算して宝暦3年か) については不詳である。
画技を鳥山石燕に学び、23歳の安永4年(1775)浄瑠璃本『四十八手恋諸訳』
(しじゅうはってこいのしょわけ)の挿絵で、デビューしたとされる。
今までのところ、これより遡る作品は発見されていない。
この時の画名は、豊章で異説もあるが素直に考えて、石燕の名の「豊房」から
豊の字を貰ったものだろう。以後、黄表紙や絵本番付、錦絵にも筆を執ってい
るが、画名は「北川豊章」もしくは「豊章」で一致している。



生きているただそれだけで満点だ  林 國夫



さて、巻頭にも述べたが、天明元年(1781)春に刊行された黄表紙『身貌大通神
略縁起』の挿絵を担当する。文章を書いたのは、御家人の鈴木庄之助、筆名を
志水燕十という侍で、その筆名からもわかるように鳥山石燕であった。
つまり、歌麿と燕十は兄弟弟子、同窓のよしみだったのである。巻頭に歌麿に
よる文章が載っていて、そこに「忍岡数町遊人うた麿」と録していることで、
これがすなわち画名・歌麿の初出ということになる。
この時、歌麿29歳。歌麿と燕十は、その後も、洒落本『山下珍作』『契情知
恵鑑』などで組んだほか、天明3年には、黄表紙『啌多雁取帳』(うそしっ
かりがんとりちょう)を刊行した。
作者の奈蒔野馬乎人(うそのばかひと)は、燕十の別号である。




腹の中見せぬが裸見せる仲  浦上恵子





           「三保の松原道中」 (喜多川歌麿画)
駿河在住の酒楽斎滝(しゅらくさいたき)が狂歌師・四方赤良
(大田南畝)に入門したときの記念に刊行する。


「歌麿と狂歌」
鳥山石燕は、絵師であると同時に俳諧師でもあった。
歌麿「石要」と名乗って俳諧の世界にも顔を出していたようだが、狂歌にも
強い関心をみせた。というより、安永から天明という時代は、狂歌文化が江戸
を覆った時代であり、江戸文化人の端くれとしても、参加せずにいられなかっ
たのだろう。
歌麿が一時「忍岡歌麿」と名乗っていたのも狂名であったのかもしれない。
そして、浮世絵師として、生きてゆく自信がついたものか「筆の綾丸」を使う
ようになり、吉原大文字屋の主人・村田屋市兵衛(狂名・加保茶元成〔かぼち
ゃもとなり〕)を中心とする吉原連に属して、『狂歌知足振』などにその狂歌
がとられたりもする。歌麿がこののち狂歌絵本に縦横の才を揮うための基礎が、
かくて造られたのであった。



どこまでも師匠は師匠なんですよ  中村幸彦






   (1)     「画本虫撰」


   (2)                        「画本虫撰」
 (日本浮世絵博物館蔵本)
 
天明8年(1788)正月刊。歌麿の写生の技量、彫板や摺刷の技術、造本の確かさ
豪華さ、とにより高い芸術性保持している。左の文は、蔦重が直接読者に題の
狂歌を募っているのである。
歌麿の描く虫の絵と、狂歌師による狂歌が組み合わさっています.。
歌麿の狂歌作品は、主に、絵本形式の「狂歌絵本」として知られる。
特に「画本虫撰」「百千鳥狂歌合」「潮干のつと」の三部作が有名。


          「 潮 干 の つ と 」
貝をテーマにした狂歌絵本で、天明8年(1788)刊。朱楽菅江率いる八重垣連の
狂歌集。36種類の貝に、36人の狂歌師が狂歌を添えており、歌麿の繊細な
絵と、狂歌の組み合わせが魅力になっている.

           「百 千 鳥」
寛政3年(1791)頃刊。鳥をテーマにした狂歌絵本。
30種類の鳥に、30人の狂歌師が狂歌を添えており、歌麿の色彩豊かな絵と、
狂歌の組み合わせが見た目にも楽しい。狂歌は奇々羅金鶏の撰であるが、この
ぽっと出て派手に振舞う狂歌師の入銀は相当なものであった。


                                            狂歌と錦絵


鳥とともに泣きつ笑ひつ口説く身を それぞと聞かぬ君がみみづく
                       市仲住(いちのなかずみ)
うそと呼ぶ鳥さへ夜は寝ぬるものを 止まり木のなき君のそらごと
                     笹葉鈴成(ささばのすずなり)




再生のサインかさぶたそっと剥ぐ  上坊幹子





歌麿の名を高めた狂歌本と絵本を融合した「狂歌絵本」の挿絵

天明6年(1786)正月刊。江戸名所を歌丸が描き、それに合わせた狂歌を廃した
「狂歌絵本」である。菅江によると序に「ここに津多唐丸江戸の名勝を図せし
めて、これに好士の狂詠を乞う」と見え、蔦重主導の政策であることが分る。





江戸の名所や潮干狩りの貝殻草花や虫など、狂歌のテーマに合わせて巧みに
挿絵を描き、卓越した画才を世に示した。
やがて、鳥居清長の美人画がブームになると、蔦重歌麿とともに浮世絵市場
に参入する。
「豊章から歌麿へ」と改名した彼は、錦絵の方面では、どのような実績をあげ
たのだろうか。「忍岡花有所」「通世山下綿一」(かよわんせやましたのわた
のいち)などの一枚絵は、ちょうど改名直後の、天明2年ごろの作とみられる
が、その画風は、北尾重政風を出るものではない。
この二作、いずれも上野山下の「けころ」と呼ばれる安直な娼婦を描いたもの
で、のちの歌麿美人画の特質というものは現れていない。
そしてあくる天明3年は、鳥居清長が全盛期を迎えた年である。




プレッシャー鈍感力でやり過ごす  上坊幹子





    「当世踊子揃 吉原雀」

「婦人相学十躰」に先行する歌麿の大首絵。
清長風風を脱し、歌麿風の女絵がようやく成立しつつある。




そこで清長が江戸名所をバックに八頭身美人を描いたのに対し、歌麿は女性の
上半身をクローズアップした「美人大首絵」で勝負に出た。
大首絵は全身像と異なり、背景はほとんど描けない。そうした制約の中、歌麿
は、表情の微妙な違いや手首の仕草、上半身の動きなどにより、女性の性格や
境遇まで描き出した。





        「寛政三美人」
 
中央に芸者富本豊雛。左右にそれぞれ、両国の煎餅屋の娘高島おひさ、浅草の
水茶屋の難波屋おきた、歌麿の自信がかいまみえる作品。



人気の町娘を描いた「当時三美人」、吉原の名妓たちを活写した「当時全盛似
顔揃」「北国五色墨」などのヒット作を連発し、歌麿は、美人画の第一人者の
地位を確立する。しかし、40軒以上の版元からの注文を受けてこなすほど多
作(版画だけで2千6百以上)だったため、おのずと作品は様式化されてゆく。



偏屈なキウイのような褒め言葉  新家完司






                               「太閤五妻洛東遊観之図」

歌麿は、文化元年(1805)  5月、豊臣秀吉の醍醐の花見を題材にした



寛政の改革が始まると、美人画も風紀を乱すものとして、たびたび、取締りの
対象となる。これが歌麿の運命を狂わせた。
寛政9年 (1796) 、最大の支援者であった版元の蔦屋重三郎が歿した後、その
画品はいちじるしく落ちてしまったという。
文化元年(1804)、豊臣秀吉が、美女たちに囲まれて花見に興じる「太閤五妻洛
東遊観之図」が幕府の禁令に触れ、歌麿は入牢三日、手鎖五十日の刑を受ける
のである。以後、歌麿の筆は衰え、2年後に世を去った。




憂うつな話に海苔が湿けている  銭谷まさひろ






『画図百鬼夜行』より河童(川太郎) 
鳥山石燕、蓮池の茂みから現れ出でた河童を描く。




鳥山石燕(とりやませきえん)
「妖怪絵」などを得意としていた狩野派の町絵師
多くの弟子を育てたことでも有名で、蔦重と関係の深い恋川春町、喜多川歌麿、
志水燕十、栄松斎長喜などのほか、歌川派の祖・歌川豊春なども門人である。
志水燕十の『通俗画勢勇談』で絵を書いたり、喜多川歌麿の代表作・『画本虫
ゑらみ』に序文を寄せている。




年取れど躍動感は持ち続け  肥田正法





     「一騎夜行」

唯一、妖怪を描いている絵には特に署名がない。
ため、その稚拙さから志水燕十が描いたものと推測されている。




志水燕十(しみずえんじゅう)
燕十は、蔦屋からいくつかの黄表紙を刊行した戯作者。
鳥山石燕に師事して絵も学んだ。
蔦屋でのデビュー 作は、56歳で書いた『身なり大通神略縁記』と考えられ
ていて、この挿絵を喜多川歌麿が担当した。
武士の出身で、幕府御家人の大田南畝と交流を持ち戯作者となったという。
ペンネームの由来は、家が清水町だったこと、石燕から一字もらった、入門し
たのが10歳だったこと。
柳亭馬琴の記録では、「他のことによりて罪を被りて終わるところ知らず」
とあることから、晩年に何らかの罪を犯して戯作から足を洗ったものと思わ
れる。




悪友はアンドロメダになりました  合田瑠美子






         捨 吉(染谷将太)





「18話あらすじ ちょいかみ」




「青本」の作者を探していた蔦重(横浜流星)は、北川豊章(加藤虎ノ介)
いう絵師が描いた数枚の絵を見比べるうちに、ある考えが浮かぶ。
早速、豊章を訪ねるが、長屋で出会ったのは、捨吉(染谷将太)と名乗る男だ
った。そんな中、蔦重は朋誠堂喜三二(尾美としのり)に、新作青本の執筆を
依頼する。女郎屋に連泊できる〔居続け〕という特別待遇を受けて、書き始め
た喜三二だったが、しばらくして、喜三二の筆が止まってしまう。




花巡り孤独の深さ分かち合う  靏田寿子






          蔦重の妻  (橋本愛)


重三郎はようやく唐丸を見つけ出します。
今では捨吉と名乗り、吉原の裏で体を売る生活をしていました。
「この生活が気に入っている」と口では言う捨吉ですが、本当は生きる意味を
見失っていました。
捨吉は、夜鷹の母親に虐待されながら育ち、幼い頃から売られる生活を送って
いました。そんな彼に光をくれたのが妖怪絵師・鳥山石燕
絵を描く喜びを知り、逃げ出そうとしますが、「お前は鬼の子だ」と罵られ、
ついにその手をふりほどいて逃げてしまいます。
この罪の意識がずっと唐丸を苦しめてきたのです。
「死にたかった」と語る捨吉に、重三郎は「生きろ。俺のために」と語りかけ
ます。駿河屋の協力を得て、捨吉に「勇助」という人別〈戸籍)を与え、過去
とは決別させます。 その上で、画号として「歌麿」を授けました。
「お前を一人前の絵師にしてやる」という重三郎のまっすぐな言葉に、捨吉は、
はじめて「生きたい」と思ったのです。




くるぶしのあたりに灯す常夜灯  笠嶋恵美子

拍手[3回]

老人は二度目の竜宮城へ行く  くんじろう





                  草 双 紙   (赤本・青本・黒本・黄表紙)

赤本はその表紙が丹色(にいろ)であるところからそう呼ばれ、『桃太郎』
『舌切雀』といった童話からとったものや御伽草子などの絵本化、あるいは
一般によく知られた浄瑠璃を素材にしたもので、前者では、『鉢かづき姫』
後者では『頼光山入』などといった豪傑ものが多かった。






         頼光山入(酒呑童子)         鉢かづき姫





「往来物」
往来物は主として「手習い」にしようされる。いわば当時の教科書である。
幼童向けの実用書という割り付で、地本屋が扱う商品なのである。
蔦重は安永9年(1780)より往来物の出版を手掛け、寛政期前半まで、毎年の
ように新版を刊行し続ける。
往来物は相対的に価格が安く設定されているので、一冊当たりの利は薄いものの、
長く摺りを重ねられ、売れ行きの安定した商品である。
一見華々しい、浮世絵や草双紙といった地本屋の商売物は、あくまでも、消耗品的
使い捨てられる一過性のものであるが、これは長期に亙って経営の安定に寄与でき
るものである。
蔦重は、一方でこのような、経営基盤の強化をはかりながら、極力リスクを負わな
い形の出版活動を地道に展開していく。



親から子から孫へと読む絵本  川畑まゆみ





   蔦重の次の一手は赤本から




蔦屋重三郎
ー地本問屋





            「江戸名所図絵」 (都立中央図書館蔵)
鶴屋喜右衛門の店舗、贈答用の本を求める客達に混じり、左隅に地方発送の
本商いや貸本屋の姿が見える。



江戸の本屋商売といえば、「物の本」の刊行は、須原屋一統に独占的におさえ
られていた故に、多くは上方の書物問屋に隷属した形でなければ、商売は成り
難く上方からの「下り本」の売捌元となるのがせいぜいであった。
たとえば、浮世草子八文字屋本といった、当時、かなり多数の読者を確保し
ていた売捌元の地位に甘んじていた。
新たに江戸根生い(出身)の資本家が、本屋仲間に参入して成功することは難
しかったのである。



背番号のような臍の緒のような  井上恵津子






        赤 本       黄 表 紙

赤本は、表紙が赤いのでそのように呼ばれていた。
草双紙は、時代が下るにつれて、黒本・青本・黄表紙と呼び名が変わり、
江戸後期には、数冊を合本にした「合巻」として登場する。



やがてそうした環境から独立して、江戸の出版界をリードしていったのが、
原屋と同じく万治年間 (1658-1661)に開業されたとされる鱗形屋で、仮名草子
師宣の絵本類はもとより、浄瑠璃本なども手がけていた。
鱗形屋は八文字屋本の江戸売捌元となって家業はいよいよ盛んになり、何より
江戸独自の草双紙類、つまり赤本・黒本・青本からやがて黄表紙時代を告げる
恋川春町『金々先生栄花夢』を出して江戸版元の主導権役割を果たした。
(しかし、番頭が今日でいう著作権問題を起こし、天明年間(1781-1789)に家運は
  衰微、没落後は、その孫兵衛の次男が同じ江戸の地本問屋、西村与八の養子と
  なって、西村屋の隆盛を招くといった皮肉な巡り合わせとなった)



みんな夢でした黄昏観覧車  加納美津子





                                        鶴屋喜右衛門(仙鶴堂)

喜右衛門は書物・地本・暦や往来物だけでなく草双紙や浮世絵を多く手がけ、
江戸出版界の中核を担った老舗の版元。
柳亭種彦『偐紫田舎源氏』で名が全国的に広まった。



その鱗形屋より版権を譲渡され、鱗形屋に取って代わるように出版界をリード
したのが蔦屋重三郎であった。
蔦屋はまた、山本九左衛門の最後の当主浮世絵師・富川吟雪より店をすっかり
譲り受け、鶴屋喜右衛門と並んで、江戸戯作の出版界におけるバックボーン的
役割を果たした。
一方、鶴屋喜右衛門は、はじめ京都鶴屋の江戸出店だったようだが、独立した
初代喜右衛門時代に逸早く草双紙出版に手を染めて成功し、書物問屋兼地本問
として中心的な活躍をする。
初代没後も二代目の才覚によって家運上昇は続き、老舗として蔦屋と並立する
版元として確たる地位を固め、五代目まで出版書肆としての活動は続いた。



グーだけを出し続けたら勝ちました  広瀬勝博



これら地本問屋に続く新興地本問屋は蔦屋西村屋に代表されるが、その他に
浄瑠璃本の版元から草双紙まで広く手がけた西宮新六、寛政半ば頃に没落する
ものの草双紙界では、多色刷りの絵題箋を工夫するなど、独自な活動をした伊
勢屋治助、そしてこれも浄瑠璃本から草双紙まで幅広い刊行で幕末まで家業を
続けた伊勢屋勘右エ門等がいる。こうした新興地本問屋のほとんどは、「浮世
絵」の版行により財政的基盤を築いた。



人生は花遅咲きも早咲きも  津田照子





                                             「 し た き れ  雀 」

宴がたけなわになると、いま江戸で大はやりの、正調「雀踊り」が披露された。
「♪ありゃサ、こりゃサ、わたしで、セ、よいよい!」「おいらで、セ、よい
よい! ありゃサ、よいよい!」と、なんとも賑やかなお座敷で、お爺さん親
子もすっかり満足の様子である。



地本問屋が最も積極的に版行したのが「草双紙」と呼ばれるジャンルであり、
また江戸の地で独自な成長を遂げたこの草双紙が広範な読者層を獲得したゆえ
に地本問屋も成長し得たのである。
草双紙の始まりである赤本時代は、寛文未年頃からで、中本という書型や五丁
を一巻一冊とする形式が定まったのは、享保のころとされる。
赤本は、その表紙が丹色であるところからそう呼ばれ、題材を『花咲じじい』
『桃太郎』『舌切り雀』といった童話からとったものや、御伽草子などの絵
本化、あるいは、一般によく知られた浄瑠璃を素材にしたもので、前者では、
『鉢かづき姫』、後者では『頼光山入』などといった豪傑物が多かった。
こうした常識的な作柄で、素朴な絵と簡単な会話からなる赤本は作者に特別な
人材を求める必要もなく、近藤清春西村重長、羽川珍重、そして鳥居清倍
(きよます)等の鳥居派の浮世絵師が作者も兼ねて描き、読者はほとんど幼童
に限られていた。





        黄  表  紙

誘い合わせてちょいと吉原へ



赤本時代に続くのは黒本の時代とされ、黒本とは、表紙が黒色であることから
呼称されているが、歌舞伎などの絵尽くしに倣って黒色表紙にしたと考えられ
ている。その後に、萌黄色表紙の青本時代が到来、出版の流行は赤本→黒本→
青本と変遷した。
それと相まって内容も、絵組み、筋ともに演劇物や戦記・敵討物が主流の黒本
に対し、青本では、内容もやや成人向きで、当世の社会風俗などを取り込んだ
絵入りの読み物へと成長しているかにみえる。
しかし、そもそも草双紙は、新春正月向けの贈答用の子供向け読物であった。
しかし黒色表紙では、地味でその用向き不釣り合いであること、現在黒色表紙
で伝存される多くが後刷本(再販本)であることなどから、赤本を受けて出さ
れた草双紙の体裁は、黒本ではなく、萌黄色の青本であった。
青本の後を受けた黄表紙時代は、作者たちにも地殻変動があり、それをもって
今日の文学史では、黄表紙時代を特に区分している。
ただし、その本の体裁は旧態然としたもので、表紙は萌黄色、作者たちも暫く
「青本」と呼んでいた。



鬼も福も皆んな一緒におでん鍋  石田すがこ




「べらぼう17話 ちょいかみ」






      織田新之助    うつせみ



蔦重(横浜流星)は青本など10冊もの新作を一挙に刊行し、耕書堂は行列が
できるほどの大人気。これは戯作者・浄瑠璃作家でもある烏亭焉馬(柳亭左龍)
『碁太平記白石噺』という芝居に、蔦重(横浜流星)をモデルとした「本重」
なる貸本屋「耕書堂」の名を出してもらった効果であった。
お陰で蔦重ブームが巻き起こり、蔦重目当ての吉原客も増えました。
耕書堂の人気が面白くない地本問屋たちは、彫師たちに「耕書堂と組んだら
注文しない」と圧をかけてきます。
それを聞いた蔦重が思案していると、声をかけてきた者がいます。
うつせみ(小野花梨)との足抜けに成功した小田新之助(井之脇 海)です。
三年ぶりの再会。聞けば源内(安田顕)のツテで百姓をしているという新之助
は、うつせみのことを「おふく」と呼んでいました。
本を買いに寄った新之助の荷物から「往来物」と呼ばれる子どもが読み書きを
覚えるための手習い本が出てきます。
往来物は、一度板を作ればずっと使え、長期にわたって安定した利益が見込め
るというメリットがあります。
蔦重は、「学がないと商人や役人に騙される」と話す新之助の言葉に、
「書を以て世を耕すんだ」と言った源内の言葉が脳裡をかすめます。
結論は早く蔦重は、駿河屋の2階の座敷で、吉原の主人たちに「往来物を作り
たい」と申し出ます。そこで町役となったりつ(安達祐実)の賛同を得て、
主人たちは次々に豪農や豪商、手習いの師匠たちを紹介してくれました。



良いことがありそう桔梗ひらく音  宮原せつ





腕は確かだがお調子者でべらぼうな彫師・四五六



地本問屋は、腕利きの彫師・四五六に注文を断られています。
四五六は、耕書堂と毎年20両のサブスク契約(定期購読)を結んだと言うの
です。
百種類以上の往来物が、年20両払っても損はしない商売だと知った地本問屋
たちは、江戸の市中に出回らせないよう邪魔すればいいと企てます。
ついに往来物『新撰耕作往来千秋楽』『大栄商売往来』などが完成。
蔦重は取材した豪農や豪商たちに見てもらった。
感激する面々は、みなまとめ買いをしてくれました。
蔦重が豪農や豪商、手習いの師匠たちに取材したのは、「商品に関わらせる」
のが目的でした。
関わった本というのは、自慢したいし、勧めたくなるもの。
人を巻き込み道を切り拓いていく蔦重は、こうして江戸市中の本屋に縛られな
い販路を開拓していきます。



無意識に行く喝采のあるところ  柴田比呂志







         唐 丸



蔦重が、新たな販路について考えを巡らせるなか、地本問屋たちは、耕書堂の
往来物が田舎には売れているが、市中にはさほど広がっていないと噂していま
した。
そこへ日本橋通油町の丸屋小兵衛が汗だくで飛んでくる。
「もってかれました!…うちの上得意だった手習いの師匠たちをごっそり、
なんでもこれからは、師匠仲間の作ったもんを使いたいって話で…」
鶴屋(風間俊介)は、耕書堂に作家や絵師が流れないよう指示をしました。
蔦重が青本を読み、一緒に仕事をする人を探していると、ふと「北川豊章」
名が目に留まります。
その画風の変化は、まさか…。ある思いが沸きあがります。
かつて礒田湖龍斎(鉄拳)の模写を手掛けた唐丸ではないのか…!



再生のサインかさぶたそっと剥ぐ  上坊幹子

拍手[5回]

呆れはてたら笑い話になってくる  前中知栄





       「雷 光 邪 魔 入」  (松浦史料博物館蔵本)

天明5年(1785)正月刊。唐来参和(とうらいさんな)作、北尾政美画の黄表紙。
十ページ一冊で出された袋入本で、図版はその袋。
(当時、人気のあった凧絵、草摺を加えた猪熊入道の絵を図案化した奇抜で楽
しいブックデザインである)






                                    草 双 紙・洒 落 本    (五島美術館)

草双紙とは、江戸時代中期頃から刊行されはじめた、かな主体の絵入り読物。
表紙の色から「赤本」「黒本」「青本」「黄表紙」などと呼ばれる小型の
袋綴本。




「黄表紙(青本)」
黄表紙は、草双紙の一類である。もともと幼童向けの絵本であった草双紙を、
戯作的な発想をもってパロディ化したものといってよい。安永4年(1775)の
恋川春町『金々先生栄華夢』が刊行されたところから、その歴史が始まる。
パロディは、もとになったものの形式・特性をことさろ強調し、意識的にな
ぞろうとする。草双紙は、毎年新版が新春に発行されるのが原則でそもそも
新春の縁起物という性格が濃厚である。
黄表紙は、そのめでたい気分を、ことさら強調、笑いを尊ぶ正月気分の中で
思い切り羽目を外すのである。
また、草双紙は、絵を主体とした「絵解きの文芸」である。
黄表紙は読み解かせる絵を工夫し、一種のパズルめいた仕掛けを施している。
そして黄表紙「赤本」という丹色の表紙のものを早期のものとして、黒い
表紙の「黒本」が現われ、萌黄色の表紙の「青本」が登場する。
実は、「黄表紙」と称しているものは、「青本」と外形的になんら変わらず
当時においても「青本」の呼称で通っていた。




春というざわめきを待つ胸の内  靏田寿子




蔦屋重三郎ー「青本を読み解く」





                               山 東 京 伝

山東京伝は、深川木場の質屋の息子で、本名を岩瀬醒(さむる)という。
北尾重政に学び、北尾政演の画名で絵師として活動した。
一方、戯作者として、自ら黄表紙の執筆も手がけ、大手版元の鶴屋から次々と
作品を刊行。天明2年(1782) に出した『手前勝手御存知商売物』が、江戸随一
の文人である太田南畝に絶賛されたことで、人気作家となった。




かさ蓋が取れてコーヒーの美味いこと  山本昌乃




「北尾政演(山東京伝)の口上」
「黄表紙」に限らず、「草双紙」の観賞法は「絵解き」である。
草双紙のみならず、「浮世絵」など、絵は、そもそも読み解かれるものであった。
藁色の表紙をめくって現れる、または丁を繰ることに現れる絵を、何より先に読
まなくてはならない。
230年前の江戸人が、喜んで読んだ草双紙を我々も読んでみましょう。
さて、表紙をめくって目に飛び込んでくるのは、珍妙な風体の男である。









「まかり出たる者は、春ごとのたわれぞうしの画を工するなにがしにて候。
 いまだ御子さまがたのお馴染み薄く候程に、なにがな御意に敵ひ候ことを、
 御覧に入れむと存付き候ところに、今年の初夢に、怪しげなることを見候
 ほどに、これは彼の板元何がし方へ参り、物語ばやと思ひ候。急ぎ候程に、
 是は早板元が門に着て候。たのみましやう、/\。」
 「たう/\、はじめ候へや、/\。」




出囃子にもう引きつけている笑顔  武智三成




この口上を解説すれば、こういうことになります。
たわれぞうし=戯れ草紙。草双紙・黄表紙を古めかしく表現した。
春ごとの=草双紙は毎年正月に発売されるのを例としている。
画を工(たくみ)する=黄表紙の画工を務めているということ。
御子さまがたのお馴染み薄く…=草双紙が、大人の楽しむものになったからと
 いって子供の読者を無視したわけではありません。
なにがな御意に敵ひ候ことを、御覧に入れむと存付き候ところに、今年の初夢に
しげなることを見候ほどに、これは彼の板元何がし方へ参り、物語ばやと思ひ
候=
 なにか、お気に入りそうなことをお見せしようと、思いついたところ、今年
   の初夢に不思議なことをみましたので、これは、あの版元ナントカさんにお話し
 したいと思います。と、版元に企画を持ち込んだことを述べる。
急ぎ候程に、是は、早板元が門に着て候=という台詞を言い終わる前に、彼は例の
 独特な摺足で能舞台を一周しようとするところへ、「たのみましやう、/\」
 板元が早々にやって来る。
「たう/\ はじめ候へや、/\」との掛け声がかかって、この狂言は終了し、
「夢幻」の世界を迎えることになる。




自画像も夕焼け空になってきた  新家完司











「青本を読み解くー①」 





「夢のはじまり」
机につっ伏して「こふ/\」と居眠りしている男がいる。
「政」「演」の文字が肩に見える。北尾政演が自身を描いているのである。
彼から、吹き出しで二つの場面が描かれている。これは草双紙において、夢を
描くときのお約束。夢が二つに分かれていて、左側が大きく画面の左いっぱい
に広がっているので、まず右から絵解きをし、続いて左、この次からの場面は、
すべて夢の中の話として、読めばいいのである。
「今年の初夢に怪しげなることを見候ほどに」と、あったことを思い出してい
ただきたい。この「初夢」の内容がこれから語られるわけである。




自画像も夕焼け空になってきた  新家完司











『金々先生栄花夢』再度、掲載することになるが、やはり夢の中の話である。
「江戸で一旗揚げようと、田舎から出てきた金村屋金兵衛が、目黒の粟餅屋で、
粟餅ができあがるのを待つ間に、とろとろと眠り込んでしまう。
その夢の中に現れた有徳の老人が、彼を豪邸に連れ帰って養子にする。
以後、良からぬ取巻きに唆されて、吉原をはじめ江戸の遊所で金を使い散らす。
あまりの放蕩ぶりに、愛想を尽かした養父から勘当され、しおしおと屋敷を後
にしたところで夢から覚め、「お客さん、粟餅できましたよ」。
金々先生は、その「栄花」のむなしさを噛みしめ、田舎へ帰って行く」
 以後、黄表紙の趣向に「夢」は、付きもののごとく頻出する。
黄表紙の無責任に野放図な滑稽に対する「言い訳」として、「夢」という趣向
は便利であった。




いちびりの成れのはてです蒟蒻は  新川弘子




上の図の場面より------男が二人対座している。奥に招じ入れられて、こちらに
顔を向けた男の膝には、丸く白抜きした中に「八」の字が見えている。
<その人物の何者であるかを、絵解きしている者に示すために>、その人物の
略称、また名前の一文字をここに示したもので「名壺」と称される。
この男は「八文字屋の読本」、つまり「八文字屋本」である。
京都の八文字屋八左衛門から出版された浮世草子を、第一義とし、それ以外の
本屋から出版された同様の読み物も含めて「八文字屋本」の称で親しまれた。





ああ  しなやかに蔦のからまる薬指  山口ろっぱ





「青本宅、月並みの会」
絵の場面は「青本」の居宅、行灯が出ているので夜である。
さてここに集まった4人の男たちは何をしているのかというと「月並の会」
催し、「洒落本・袋ざし・一枚絵、そのほかの当世本を集め、趣向の相談する」
というわけであった。
戯作の一類となった黄表紙は、「通」という美的理念を奉ずることになった。
当然、通人として「青本」は、描かれることになる。
 絵の上部「書入れ」は、青本がどのような人物であるかを語っている。
これは登場人物の人物設定を説くとともに、黄表紙は、どんなものであるか、
いやあるべきか、という山東京伝「黄表紙論」となっている。






     『堪忍袋緒〆善玉』袋 (東洋文庫蔵)

署名書名脇に見えるように、大好評裡に迎えられた善玉・悪玉シリーズの
三作目。3匹目のどじょうを狙う版元の要請によって作られたらしい。





「青本を読み解くー②」 
 










絵の中の上部から。 「書き入れ」
「青本は、貴賤の分ちなく人の目を喜ばせ、世辞に賢く、意気を専らとして、
 当世の穴を探し、俳気も少しあって、毛筋ほども抜け目はなく、雨中の徒然
 には豆煎りと肩を並べ、女中さまがたの御贔屓強く、新版の工夫に心気を凝
 らし、しかれどもその身奢る心なく、やっぱり漉き返しの紙にて、月並の会
 を催し、洒落本・袋ざし、壱枚摺そのほかの当世本を集め、趣向の相談する」




空っぽにならぬ心と小半日  津田照子





「書き出し・解説」 絵の上部より。
「青本は、貴賤の分ちなく人の目を喜ばせ」=「青本」の人当たりの良さ、又
 皆がほれぼれする容姿のことを言っているのだが、同時に、黄表紙が階層や
 年齢を問わず、誰でも楽しめる優れた娯楽性を持っていることを言っている
 のである。
「世辞に賢く」=世辞は現在では「おせじ」として、あまり語感の良くない言
 葉となっているが、本来は社会生活を営む上で、必須の如才ない言葉遣いを
 言う。円滑な関係を維持していく上で、言葉は、重要な役割をもつ。そこに
 自覚的で、場に応じた的確な言葉遣いを、自らに課していったのが、江戸時
 代人であった。
「意気をもっぱらとして」=意気は、服装など外見的に洗練されていることを
 表すことが多いが、ここでは「通」ととらえてよいか。「青本」が、通をも
 っぱら心がけている男であるという意味になる。
(黄表紙は、すでに戯作の一つとなっており、この時期の戯作の目的は、自身の
「通」を表明することであった)
「当世の穴を探し=「当世」とは、現代・最新のという意味。
「穴」とは、誰もがまだ気づかずにいる情報。これを指摘してみせることを<穴
 を穿つ>といい「通」に敵う戯作の骨法となる。
(「通」は最新の情報に通じていなくて恰好がつかない)




二時限目から消しゴムを追っている  きゅういち




「俳気も少しあって」=俳気とは、俳諧趣味のこと。俳諧は、大人の渋めの趣
 味であり、洗練された社交に寄与するものである。
 「青本」は落ち着いた趣味、表現力も持ち合わせているというのである。
「毛筋ほども抜け目はなく」=隙のない言葉・態度を言う。
 以前の草双紙の粗雑な画組み、構成に対して、黄表紙の完成度の高さを言っ
 ている。
「雨中の徒然には豆煎りと肩を並べ」=江戸の雨天は外出にたえない。
 道はあっという間にぬかるみと化すし、足もとは下駄が便りである。
 職人も雨天は休業、家で大人しくしているしかない。
 そこで退屈しのぎに作られるのが「豆煎り」である。ほうろくで大豆を煎っ
 て作られる「おやつ」である。作るところから、退屈がしのげる定番おやつ、
 <豆煎りの手は止む事を得ざる也>で、止められない、止まらないおやつ、
 それに匹敵するもて方だ、という表現だが、草双紙の分相応の喩えであり、
 かつ具体的で笑える。
「女中さまがたお子さまがたの 御贔屓強く』=婦女幼童向けのものであると
 いう建前が確認され、
「新版の工夫に心気をを凝らし、しかれども、しかしながらその身奢る心なく、
 やっぱり漉き返しの紙にて」=再生紙を料紙としていることを、分に応じた
 謙虚な生き方のように言いなしている。




あんなにも欲しかったヒマもてあます  荒井加寿











「月並会出席者の風体・人間設定」
青本は、本多頭(月代を広く剃り、細く仕立てた髻(もとどり)をいったん宙
に浮かせて、はけ先を前にもってくる髪形で、この時期の通人に流行した)で
黒い羽織を着し、間然するところのない通人風俗である。
雁首を上向きに煙管を咥えているが、この吸い方を「やに下がり」という。
煙草の脂(やに)が口元に流れてくるからである。
「やにさがる」という言葉は、今に生きていて、下手に格好つけた嫌味な態度
についていう。この咥え方は気取った仕草で、様になる人間であれば、かっこ
よいのであるが、ちょっと間違えると、とことん嫌味な仕草となる。
居宅も、通に叶ったものでなくてはならないし、付き合っている人間も通人で
なくてはならない。
青本とともにいる三人の男、いずれも通人風俗、勢いよく煙を吹き出している
小太りの男は、肩に「しゃ」の字、洒落本と見なしておいてよいだろう。
背中を見せてまったく顔をみせていない男は、背中に「一まひゑ」とある。
「一枚絵」、つまり浮世絵である。
その隣の男は、背中に「袋」の文字が見える。袋ざしである。
左ページの、一枚絵は、右手を畳みに置いて斜に構えている。
その入り口前に立つ女性は、柱隠しで青本の妹である。




ヤニ臭い吐息を嫌う吊り忍  宮井元伸






            草 双 紙 製 本 中

                                               草 双 紙 出 版 前




「月並みの会」 趣向の相談は以下の通り。
「袋入り本」「去年の『大違宝船』はだいぶ落ちがきました(大好評でした)
と大違宝船のことを話題に」している。 それを受けて、
「洒落本」全交文もよくつくられます、と全交の手並みを褒め、続けて喜三
が『一炊の夢』も出来ました」と、天明元年に蔦重から出版された朋誠堂喜三
『見徳一炊夢』のことを評価している。
「一枚絵」は、「恋川氏の『無益委記』もおかしくてよかった」と、恋川春町
『無益委記』のことを褒めている。これは袋入り本である。 
さらに一枚絵は紫蘭先生の『油通汚』(あぶらつうへ)も面白かった。
通笑丈・可笑士の作にも、すごひのがあるて」と、言っている。
「柱隠し」は、「わしがひいぢゝいの時分、桃太郎が島へ渡り、浦島太郎が若ひ
時分にて、漆絵と畏怖が流行って、人がうるしがつたげな」という。


柱隠し=青本が妹なれども、金平なむすめではなし。
金平な娘=おてんば娘のこと。
わしがひいぢゝいの時分…=私のひい爺さんが生きていた時代ということで、
三代程前、享保ころからの絵草子の様子を語っている。
草双紙「桃太郎」や「浦島太郎」等の昔話に材をとった赤本の時代であった。
漆絵=墨刷りの版画。
うるしがった=嬉しかった。




クロークにそら豆預け同窓会  新川弘子

拍手[4回]

順調に落ちて行きます砂時計  西陣五朗






                             「見立て蓬莱」

見立て蓬莱とは、不老不死の霊山・蓬莱山に見立てて、遊郭や芸者などを表現
する際に使われる表現であり、遊郭を蓬莱山(桃源郷)、芸者を仙女に見立て
て、楽しい時間の中で朝になれば夢から覚めるというストーリーを表現する。





       平 賀 源 内    (安田顕)





「べらぼう16話 あらすじ・ちょいかみ」
ある朝、源内は異様な光景とともに目を覚ます。
手には血の付いた刀、そして目の前には血を流して倒れる久五郎-----
何が起こったのかまるで思い出せない。昨夜の出来事を振り返ろうとするも、
記憶は霧がかかったように曖昧で、自分が何をしたのか皆目わからなのだ。
奉行所に捉えられた源内は、何度も「自分には覚えがない」と訴えるが。




不条理もあったと思う人間味  津田照子





事件の前夜、丈右衛門と共に酒席を囲んだことは確かだが、源内は下戸で酒は
飲んでおらず、久五郎から渡された煙草を吸っただけだった。
とこおが、その煙草を深く吸い込んだ途端、どこからともなく人々の非難の声
が聞こえ始め、姿の見えない声に追い詰められるうちに意識を失ってしまった。
目が覚めた時には、血まみれの久五郎が倒れていたのである。
「俺は何をしたんだ…」
そう呟く源内の手を、意次はしっかりと握り、言葉をかける。
「夢ではない。俺はここにいる」
-----この一言に、源内は瞳を濡らすのだった。
-----源内の無実を信じる者たちは、最後まであきらめなかった。
続きは、20日の大河ドラマにてどうぞ…。




菩提寺の大銀杏から哀が降る  小島蘭幸






           平 賀 源 内



蔦屋重三郎ー江戸の奇才・平賀源内の生涯





「江戸の奇才・源内」
平賀源内、享保13年(1728)高松藩の御蔵番の子として生まれる。
発明の才に富み、洒脱の気風があった源内は、エレキテルの復元、燃えない布
火浣布(かかんぷ)や量程器(万歩計)、磁針器等、多くの発明をした。
その他にも、本草学者として物産会を開催したり、人気作家として戯作浄瑠璃
作品を発表したり、西洋画や源内焼を広めたりと天才的な業績を残している。
そんな源内のことを、田沼意次は、大変気に入っていたといわれる。
田沼は、源内をオランダ商人のいる出島に遊学させたこともあった。
ところが、源内が殺人事件を起こしたため、田沼は彼とのつながりを全面的に
否定せざるをえなかった。もし源内が殺人事件を起こしていなければ、田沼は
「蝦夷地開発」の責任者を源内にやらせただろう、とも言われている。




毛生え薬つけたひよこの毛が生えた  くんじろう




安永初年(1772)40代半ばに達した頃の源内先生といえば、江戸でも一、二
を争う切れ者の本草学者(植物学者)。
西に東にと飛び回る凄腕の山師 。
次々にベストセラーを出す人気戯作者。
最新の西洋絵画を伝える気鋭の絵師、陶器から羅紗までを扱う産業技術家。
と、四方八方に大活躍だった。
「近頃江戸に流行る者、猿之助、志道軒、源内先生」というわけである。
とのもかくにも源内は、自他ともに認める天才で、自信家で、やけに鼻っ柱が
強く、すぐに大風呂敷を広げる。『根南志具佐ねなしぐさ』、『風流志道軒伝』
などの戯作では、聖職者、医者から学者、庶民の男女まで、手当たり次第にこき
下ろす。鼻持ちならない野郎のはずだが、その割に源内は人には嫌われなかった。




すこしおだてると膨らむ畳  酒井かがり




「平賀源内の生涯 年譜から」
0歳~、 享保13年(1728)白石良房の三男として生まれる。
平賀の姓は、戦国時代に武田信虎によって滅びたが、源内の代で姓を白石から
平賀に復姓したと伝わる。幼年期から工作したり壊したりすることが好きで、
将来の文芸活動に繋がることにも趣味を持った。
13歳~、本草学を学び、儒学を学ぶ。
21歳の時、父の死により後役として藩の蔵番となる。
24歳の頃、1年間長崎へ遊学。蔵番という低い身分だが長崎遊学できたのは、
本草学・物産学を好む高松藩主松平頼恭の「内命」があったとされる、源内の
知能に期待するものがあったのだろう。
そこで源内は、本草学とオランダ語、医学、油絵などを学んだとされる。
26歳、病気を理由にして藩に蔵番退役願を提出し、妹に婿養子を迎えさせて家督
を妹婿に譲っている。
27歳、量程器(万歩計)や磁針器(方角を測る器具)を製作する。
28歳、江戸に下って本草学者・田村元雄に弟子入りして本草学を学び、また漢学
を習得するために林家にも入門して聖堂に寄宿する。
2回目の長崎遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を学ぶ。




そわそわとさせるひと日の好奇心  宮原せつ






        『物類品隲』(ぶつるいひんしつ) (平賀源内著1763年刊)
開催した物産会の主要な出品物を紹介した物類品





            名古屋の物産会の模様





物産会
(薬品会、本草会、博物会とも)は、舶来品含む各地の産物を展示した、
今まさに開催中の万国博覧会の先駆である。江戸・大坂・京都・名古屋など各地
で開催された。1762年(宝暦12)に源内の主催のもと、江戸湯島天神前の京屋久
兵衛宅で開かれた「第五回・東都薬品会」は、特に大規模な物産会となり、日本
各地から約1300点の出品があった。





ベランダで狭い宇宙を愛でている  奥山節子






        平 賀 源 内 肖 像
『里のをだまき評』挿絵より




29歳、日本最初の物産会(薬種・物産を展示する会)を発案。
31歳、高松藩は医術修業という名目で源内を再雇用する。
33歳、再び辞職して江戸へ。以後、役職なく風来坊となるが、伊豆で鉱床を発見
し、産物のブローカーなども行い、物産会をたびたび開催した。
このニュースにより幕府老中の田沼意次にも知られるところとなる。
34歳、物産会を度々行うことによって知名度も上がり、杉田玄白や中川淳庵らと
交友がはじまる。
35歳、オランダ博物学に関心をもち、洋書の入手に専念するが、源内は語学の
知識がなく、オランダ通詞に読み分けさせて読解に務める。
文芸活動も行い、談義本の類を執筆する。
38歳、川越藩秩父大滝の中津川で鉱山開発を行い石綿などを発見。
秩父における炭焼、荒川通船工事の指導なども行う。
43歳、出羽秋田藩主の佐竹義敦に鉱山開発の指導を行う
秋田藩士小田野直武には、蘭画の技法を伝える。
上桧木内では、子供たちに熱気球の原理を応用した遊びを教えたとされる。





黄色さえ塗ればキリンに見えるはず  竹内ゆみこ



『先哲像伝 詞林部伝』内「平賀鳩渓肖像」(桂川月池老人作)
月池の号は桂川甫周と弟森島中良の両人が使っており、ここではどちらなのか
不明だが、二人とも平賀源内と面識があり、この絵は源内の姿を伝えていると
いう説がある



46歳、蔦屋重三郎の依頼で吉原細見『細見嗚呼御江戸』を執筆。
48歳、長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理して復元する。
話題となったエレキテルを高級見せ物にすることにより謝礼を貰い生活費とし、
余興まで加えて、見物客の誘致に努めた。
鉱山開発の指導や戯作・浄瑠璃まで書き散らした文芸活動も生活費を稼ぐため
にやった。だが秩父鉱山は挫折し、憤激と自棄、(門人・師平秩東作の評)の
つのる中で多くの戯文を弄すも、生活は荒れた。経済状況も悪化し、
50歳になり、「功ならず名ばかりげて年暮ぬ」という一句を詠んだ。




しあわせになろうと磨く鍋の底   樫村日華





51歳の夏、橋本町の邸へ移る。
11月20日夜、神田の源内宅に門人の久五郎と友人の丈右衛門が止宿していたが、
明け方に彼らは「口論」となり源内は抜刀。
両人に手傷を負わせ、久五郎は傷がもとで死去。
源内はこの事件が起こる前から、よく癇癪を起こしていたとされる
(源内による殺傷事件の内容については諸説あり)
翌21日に投獄され、12月18日に破傷風により獄死。享年52歳だった。

 国益増進を唱えながら、封建社会の壁に遮られ、世に迎えられず、安永8年
(1779)12月18日、江戸の獄中で、辞世の句ともいえる一句を残した。
  ”乾坤の手をちぢめたる氷かな”




黄信号乗り越え日々を愛しんで  門倉幸子







        平 賀 源 内 肖 像
『天狗髑髏鑑定縁起』の挿絵より



獄死した源内の遺体を引き取ったのは平秩東作ともされている。
杉田玄白らの手により葬儀が行われたが、幕府の許可が下りず、墓碑もなく遺体も
ないままの葬儀となった。ただし晩年については諸説あり、大名屋敷の修理を請け
負った際に酔っていたために、修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の秋田屋九
五郎ら棟梁二人を殺傷したとも。
後年に逃げ延びて書類としては死亡したままで田沼意次ないしは故郷・高松藩
(旧主である高松松平家)の庇護下に置かれて天寿を全うしたとも伝えられるが、
いずれも詳細は不明。




傷口を優しく隠す夜の闇  蟹口和枝





    『源内肖像』「鳩渓平賀国倫  風来山人」





杉田玄白は源内を讃える「処士鳩渓墓碑銘」を書いている。
「嗟非常人 好非常事 行是非常 何非常死 」
(ああ非常の人、非常の事を好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや)
(ああ、何と変わった人よ、好みも行いも常識を超えていた。どうして死に様まで
    非常だったのか)





黄昏れて一本道となる夕日  山田こいし





          「平 賀 源 内 肖 像」
『里のをだまき評』の挿絵より




「源内の業績とエピソード」
 天才または異才の人と称される。鎖国を行っていた当時の日本で蘭学者と
  して、油絵鉱山開発など外国の文化・技術を紹介した。
 文学者としても戯作の開祖とされ、人形浄瑠璃などに多くの作品を残した。
③ 源内焼などの焼き物を作成したりするなど、多彩な分野で活躍した。
 安永5年(1776年)には、長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を
  修理して復元する。話題のエレキテルを高級見せ物にすることにより謝礼を
  貰い生活費とし、余興まで加えて見物客の誘致に努めたともいわれる。
 男色家であったため、生涯にわたって妻帯せず、歌舞伎役者らを贔屓にして
  愛したという。特に、二代目瀬川菊之丞(瀬川路考)との仲は有名である。
  晩年の殺傷事件も、男色に関するものが起因していたともされる。





アルバムの苦いページは見返さぬ  橋倉久美子






         『解 體 新 書 』 

(キュルムス著   国立国会図書館蔵)



⑥ 『解体新書』を翻訳した杉田玄白をはじめ、当時の蘭学者の間に源内の盛名は
   広く知られていた。玄白の回想録である『蘭学事始』は、源内との対話に
   一章を割いている。源内の墓碑銘を記したのも玄白である。
 発明家としての業績には、オランダ製の静電気発生装置・エレキテルの紹介、
  火浣布の開発がある。
 気球や電気の研究なども実用化寸前までこぎ着けていたといわれる。
 土用の丑の日にウナギを食べる風習は、源内が発祥との説がある。
  この通説は、土用の丑の日の由来としても、平賀源内の業績としても、最も知
  られたもののひとつだが…。(根拠となる一次資料や著作は存在していない)





衣替クローゼットは無季俳句  井上恵津子

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