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川柳的逍遥 人の世の一家言
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新天地求めて風にのった種  吉岡 民





浅草庵作、葛飾北斎画「画本東都遊」に描かれた耕書堂の様子
                 (国立国会図書館)





「蔦重、新店舗へ羽ばたく」
蔦重が日本橋通油町の書肆・丸屋小兵衛の店舗と株(営業権)を手に入れ、
店舗を「耕書堂」と改めて新たな本拠としたのが、天明3年 (1783) 9月、
蔦重34歳のとき。経済の中心である通油町への出店は、出版業のトップ
クラスに名実ともに蔦重も仲間入りしたことを意味しました。
「蔦重の店舗の解説」
絵の上を見ると、看板でしょうか、「堂書耕」と屋号が記されています。
また右下には、店の前に置かれた行灯(あんどん)型の箱看板が描かれ、
左右どちらの面にも上に「富士山型に蔦の葉」の意匠を見出せます。
これが、版元蔦屋重三郎の家標(いえじるし)つまりマークでした。
家標の下、右の面には、「通油町 紅絵(べにえ)問屋 蔦屋重三郎」、
左の面は「あぶら町 紅絵問屋 つたや重三郎」とあります。
紅絵とは本来、墨で摺った絵に紅色で彩色した初期の浮世絵のことですが、
蔦重が活躍した当時は、多色摺りの錦絵も含めて紅絵と呼んでいたので、
「紅絵問屋」と表記しているのでしょう。




まねき猫店の四隅で客を待つ  下林正夫





行灯の右上、店の壁面には、書名を記した木製の札が4枚、架かっています。
売り出し中をアピールするための、広告看板でした。
右から「浜のきさこ 狂歌のみかた小冊」「忠臣大星水滸伝」(山東京伝)
「東都名所一覧 狂歌入彩色摺」「狂歌千歳集 高点の歌を集」とあります。
絵の左下、店の前には、従者に荷物を預けて、熱心に浮世絵を物色する武士
の客。店内に目を向けると、中央の棚には、上段と中段に平積みされた浮世
絵が3品目ずつ、下段には書籍らしきものが積まれています。
棚の後ろで武士の客を見ている禿頭の人物は、店の番頭でしょうか。





只見しているサムライの懐手  通利一遍






         蔦 重 と 京 伝 通 人 総 籬




蔦屋重三郎ー田沼意次から山東京伝






  「何も失ってはおりませんぬ。奴はここに生きておりまする」
一橋治済(生田斗真)と田沼意次(渡辺謙)の火花散るやりとり。





「意知が死んで」
田沼意次は、息子の意知が佐野政言に殺害された後も、幕府の老中としての
仕事を淡々として続けた。これは意知の死によって意次の権力が弱体化した
わけではなく、また、意次自身が幕政を担う必要性を感じていたためと考え
られている。
将軍家治に重用され、側用人と老中を兼任することで、幕政を主導する立場
にあり、たとえ愛息子の意知が死んだといっても、この権力基盤を崩すわけ
にはいかない。意次の年齢:は、まだまだ50代、幕府財政の立て直しや商業
振興など、独自の政策を継続させ、達成するためには、老中としての立場を
維持する必要があった。
意知の死は、意次にとって大きな痛手だが、同時に反田沼勢力にとっては、
意次を失脚させる絶好の機会でもありました。そのため、意次は、反田沼
勢力の攻勢をかわしながら、幕政を維持しようと努めたと考えられる。



真っすぐに天に帰ってゆく煙  くんじろう





          田 沼 意 次
 金とりて田沼るる身のにくさゆえ 命捨てても佐野み惜しまん





「田沼意次の人物像」
田沼意次個人は、どのような人物だったのだろうか。
神沢杜口(かんざわとこう)の随筆『翁草』「田沼家衰微」「田氏罪案」
と、題した田沼意次批判の章があるが、そこに意外な表記がある。
「田沼は奸曲の人である。表面上は親し気に大名たちの家に立ち寄り、卑賎
 凡下の者に対しても言葉をかけ、まったく権勢を誇らない。
 とても柔和で丁寧に人に接する。
 しかし この態度はよこしまな考えがあるからだ。」
 


重い話で水は流してくれません  都司 豊



また、意次は家来を慈しんでいたという。たとえば寒い日に登城する際、
供頭を呼び「今日はことのほか寒いから、末々の者にいたるまで酒を飲ませて
温めてやれ。下戸には温食を与えて寒気を防ぐように」と述べ、彼らが飲食を
終えた後、出立したそうだ。
また、常に家臣たちをいたわり、ちょっとのことでも褒美を与えたので、
みな意次のために忠勤を励むようになったという。
しかし、これは「田沼の仁心から出たものではなく、本心ではなく拵えごと
なのだ」とある。



人の味それぞれあるから面白い  曾根田 夢






              株 仲 間




かなり強引に意次を悪く評しているが、素直にこの逸話を解釈すれば、意次は
誰にでも親しく柔和に接し、部下思いのとてもよい殿様ということになる。
次に、意次の遺訓7カ条も彼の人柄が偲ばれる。
将軍家重・家治の両将軍に厚意を蒙ったことを決して忘れてはならない。
親に孝行、親戚縁者と親しく付き合うこと。
友人や仲間と表裏のない付き合いを心がけ、目下の者には人情をかけろ。
・家中の者には、常に憐れみをかけ賞罰に依怙贔屓をするな。
・武芸を励め。ただし、余力があれば遊芸はかまわない。
・軽い公務であっても念を入れて務めよ。
・蓄えがないといざというときに役にたたないので、蓄財を心がけよ。
ともあれ、こうした律儀で真面目な人物だったからこそ、人びとは意次を信頼
し、田沼政権は長く続いたのだと思う。



肩越しへ未来一瞬だけ光る  藤本鈴菜






        意次の財政政策 俵物の輸出




その積極的な「財政改革」に待ったをかけたのが、天明期に人々を襲った
「天災・飢饉」であった。天明3年 (1783) の「浅間山の噴火・東北地方の
冷害」が重なり「天明の飢饉」と呼ばれる未曽有の大惨事となったのである。
意次の政策は、「米に依存する幕府の財政を、商業に重点をおく」ことで乗り
越えようとするものであったが、その反面、農業への救済策が不十分となり、
多くの反発を招くこととなった。
影響は都市部にも及び、凶作で米の価格が高騰、慢性的な米不足に悩まされた。
米を買い占める商人に対して、庶民の不満が爆発し、天明7年 (1787) には米穀
商の屋敷へ、民衆による「打ち壊し」が起きる。
これが田沼政権への不満となり、隠居・謹慎が下知され田沼時代は終焉を迎える
こととなっていくのである。



風が吹くただそれだけで痛い朝  前中知栄





 京屋の屋号で煙管、紙製煙草入れなどを商っている山東京伝の店。

山東京伝が、京橋銀座一丁目に開いた煙草入れ屋の店。
店の奥にいる京伝は、吉原の名高い遊女花扇と会話中、
三代目瀬川菊之丞、三代目沢村宗十郎、三代目市川八
百蔵など当代の人気者が客として描かれている。



山東京伝は、深川木場の質屋の息子で、本名を岩瀬醒(さむる)という。
京伝が生まれた深川木場はその名の通り、周辺には材木問屋が軒を並べ、
豪商たちは、深川の料亭や花街で金に糸目をつけずに、派手に遊び倒す。
そこにいるのは深川の芸者、通称辰巳芸者だ。
男物の羽織で源氏名も男の名を使う。そして何より気風が良い。
粋で鯔背な江戸の職人たちと、豪商たちの通名遊びを見て育っている京伝は、
自然と「粋」が身についていった。
やがて蔵前の札差・文魚が京伝のパトロンに付き、吉原に通うようになる。
京伝の弟子、曲亭馬琴がいうところによれば、
「家に帰るのは、月に5,6日」であったという。
落語では、そんな体たらくな若旦那は勘当されるのがオチ。
ところが、「自分の能力で稼いだ金で遊んでいるのだから」と、京伝の父母
は、気にとめる様子もなかった、という。



凛と咲く花の気高さ学ばねば  宮本 緑






 自分の店の煙管を咥えるのも粋な山東京伝


そんな京伝は、戯作者として黄表紙を手がけ、大手版元の鶴屋から次々と作品
を刊行し天明2年に出した『手前勝手御存商売物』が、江戸随一の文人である
太田南畝に絶賛されたことで人気作家となる。
蔦重との仕事は、当初、黄表紙や絵本の挿絵がメインだったが、やがて黄表紙
の執筆も手がけるようになる。
なかでも『江戸生艶気蒲焼』(えどうまれうわきのかばやき)は大ヒットし、
遊里で色男を気取る遊客が、同書の主人公の名にちなんで「艶三郎」と呼ばれ
るほどの人気を博した。



昨日今日同じようでもやや違う  雨森茂樹






        『江 戸 生 艶 気 蒲 焼』



『江戸生艶気蒲焼』のさわり。
百万長者仇気屋のひとり息子艶二郎は醜いくせにうぬぼれが強く,悪友たちに
そそのかされ,色事の浮名を世に広めようと,金にまかせていろいろ試みるが,
かえってバカの名が立つばかり。ついに吉原の遊女を身受けして情死のまねご
とをしようとするが,盗賊に遭い,まる裸にされる。
実は父親と番頭とが、戒めのために企てた計略で,以後は心を改めるという筋。
モデルの存在も噂されたほど,当時の浮薄な青年の典型を滑稽をもって浮彫に
した傑作で,主人公の獅子鼻のおかしさは、京伝鼻とよばれて評判となり,
艶二郎はうぬぼれの通称ともなった。



見えぬことだけで溢れる空の箱  山口美千代



『江戸生艶気蒲焼』の人気に、蔦重から文才を見込まれた京伝は、やがて文章
主体の「洒落本」の執筆も手がけるようになる。
洒落本は遊里を舞台にした会話形式の読み物で「穿ち」といわれる人情の機微
を描くところに面白みがあった。
原通人の京伝の書く洒落本は、そんじょそこらの「吉原武勇伝」みたいなも
のとは一線を画す。会話文には男女の「心」のやり取りが描かれる。
いわば、恋愛小説なのである。修行中のお坊さんまで愛読したというのだから、
よっぽど健全なものなのだ。



細道の恋です二度づけは禁止  福光二郎





『傾城買四十八手』 (山東京伝作画)(大東急記念文庫蔵本)
洒落本の傑作。挿絵は、中国の仙人で鯉 を巧みに乗りこなしたという
琴高仙人(きんこうせんにん)を遊女に見立てている。



『傾城買四十八手』 (健全なものかどうか皆様の目でお試しを)
年は十六、この春から突き出しの遊女と、上役なのか年上の客なのか、吉原に
連れてこられた息子は、年の頃、十八くらい、会話が苦手らしく、遊び慣れて
いない風だが、身なりが良い。
「お前さまみたいな人には、家におかみさんがござんしょうね」
「まだそんなものはいないよ」
「じゃ、どこぞの良い人と、お楽しみがあるんでしょう?」
「家がやかましいから、ここには、去年お酉様の還りに来たきりさ。
 私のことだけじゃなくて、お前の良い話も聞かせておくれよ」
「わっちのことなんて、誰も相手をしてくれないもの」
「よく嘘をつくね。そうだ名を嘘つきと呼ぼうか。惚れた客があるんだろう」
「好きになるような客なんていないのさ」
「そりゃあ残念。私になんか、尚更だろうね」
「ぬしにかえ-------? もう言わない」
「おや、ずいぶんと焦らしなさるね」



月の真夜中の二時に紙芝居  森 茂俊



(何を読まされているんだという気になるが、もうすこし我慢を)
「わっちが惚れたお人は、たった一人でござんすよ」
「そりゃあ、うらやましい男だ」
「…お前さまさ」
「ずいぶんとあやしてくれるね」
「ホントのことだもの」
「お前のような美しい女が惚れてくれるなんて、私にゃもったいない話だ」
「また来てくれる?」
「呼んでさえくれたら、きっとくるとも」
「ホントに?うれしい」
ため息ついて、遊女の誠を確かめようとした矢先に、相手の遊女に振られた
連れの男がやってきて、しっぽりがご破算になるというオチがつく。
しかし遊女と初心男は、入ってきた野暮男を無下にすることなく、ボヤキを
聞いてやっている。振られた男が部屋を出て行くと「あとはふたり、ほっと
する」



どんな風に口説けば堕ちてくれますか  石神孔雀



        





「べらぼう28話 あらすじちょいかみ」




城中で意知(宮沢氷魚)佐野政言(矢本悠馬)に斬られ、志半ばで命を
落とし、政言も切腹をする。後日、市中を進む意知の葬列を蔦重(横浜流星)
たちが見守る中、突如石が投げ込まれ、場が騒然となり、誰袖(福原遥)
棺を庇い駆け出す…。憔悴しきった誰袖を前に、蔦重は、亡き意知の無念を
晴らす術を考え始める。
そんな中、政演(古川雄大)が見せた一枚の絵をきっかけに、仇討ちを題材
にした新たな黄表紙の企画を考えます。
政言を悪役として描き、世間に問うという内容です。
しかし、須原屋市兵衛(里見浩太朗)は、反対しました。
「公儀のことをほんにするのはご法度。世間の評価を変えるのも難しい」




逆走をしていることに気付かない  山田恭正










意知の葬列が市中を通る日、群衆の中から「天罰だ」と叫ぶこえとともに
石が投げられた。田沼家への不満が、言葉や石となって飛んできたのである。
群衆の中にいた誰袖は、咄嗟に意知の棺を守ろうと駆け寄り、額に石が当り
倒れた。誰袖は涙を流しながら重三郎に訴えます。
「仇を討っておくんなんし…」
政言が亡くなっている以上、仇討は叶いません。
そんな中、重三郎は小田新之助とその妻・ふくを訪ねます。
ふくはもと遊女で今は、筆耕として生計をたてていました。
重三郎は長屋の手配や仕事の紹介をして支援します。



瀬戸際であしながおじさんの援助  井上恵津子



帰り道、重三郎は、佐野政言の墓の前で幟をたてている浪人をみかけます。
「世直し大明神」と書かれたその幟。
政言を英雄として祀ろうとする者たちが、現われはじめていたのです。
その浪人の顔は、葬列に石を投げた大工と同一人物だと気づきます。
このことを意次に伝えます。
「浪人と大工は同一人物。役者かあるいは、正体を隠す必要のある者かも
しれません」と。



滲んでいます飾っても飾っても  山本早苗

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