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川柳的逍遥 人の世の一家言
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良い嘘と悪い嘘とを噴き分ける  井上一筒




   駿河版の銅活字 (凸版印刷・印刷博物館蔵)
銅活字は、秀吉の朝鮮出兵のとき大陸からもたらされたもので、家康
林羅山と金地院崇伝に命じて銅活字による「大蔵一覧表」を125 部制作
1冊ごとに朱印を押して全国に寄進した。
これは家康が駿府に隠居してからの仕事なので、駿河版と呼ばれる。



信玄、信長、秀吉、と続く天下取りレースに最終ランナーの家康がゴー
ルインする頃、活字印刷技術が、イエズス会の宣教師からもたらされた。
出版事業に興味をもっていた家康は、早速、7年の月日をかけて木活字
(木製の活字)を、さらには銅活字(銅製の活字)を用いて多数の書物
の出版をした。
これらの出版物は「伏見版」・「駿河版」と呼ばれ、家康の文化事業を
代表する一つである。家康のこうした出版事業によって、これまで見る
ことが困難であった書籍の多くが、世間に流布することになった。
それまで、秘蔵または秘伝とされていた学問や知識が、家康によって一
般に公開・普及されることになったのである。
そのお蔭で私たちは「history」「episode」を読むことができるのである。



とぎれとぎれの想い出と舞うぼたん雪  藤本鈴菜



家康 名言と逸話



「episode①」 慶安事件
「家康は世界一の大金持ちっであった」アビラヒロン「日本王国記」
にある。伏見城の金蔵に金銀をぎゅうぎゅう詰めにしていたため、
「その重みで床が抜け落ちた」ともある。 100万両の重さだった。
その後、伏見の金は、駿府城の天守の近くの金蔵に移された。
が、その金を狙った軍団がいた。
幕府の転覆を企てた駿府生まれの由比正雪である。
事件は事前に露見され、正雪は、駿府梅屋町の梅屋勘兵衛の家で町方に
取り囲まれて「最早これまで」と悟り自害した。
これは慶安事件・「駿府秘章」に記され現存している。



この世には拳一つを置いていく  杉山太郎






        佐渡金山採掘場面




「episode②」 家康が貯め込んだ莫大な資産
莫大な金銀を保有して頑強な政権基盤を維持した秀吉にならい、家康
各地の金銀山を直轄地とし、金銀の備蓄に励んだ。
総金山奉行・大久保長安が西洋から学び取り入れた「水銀流し」により
家康直営の金山の産出量は飛躍的に増大した。
採掘した金は、延金や貨幣に加工・鋳造されて御金蔵に納められた。
大番小判を派手に使いまくった秀吉とは対照的に、家康は地味な生活で
質素倹約に徹し、非常用の備蓄を怠らなかった。
コツコツと貯め込んだ金銀は、記録にあるだけでも江戸城に約4百万両、
駿府に約2百万両、合わせて6百万両。
(1両を現在の価格に換ると2兆1千億円に相当する)


欲の皮ちょっと伸びたり凹んだり  津田照子




   「日光東照宮」に残されている徳川家康の遺訓。



「家康の名言ー1」 大御所の遺訓
『人の一生は、重荷を負て遠き道をゆくが如し いそぐべからず。
不自由を常とおもへば不足なし こころに望みおこらば、
困窮したる時を思ひ出すべし。
堪忍は無事長久の基   いかりは敵とおもへ。
勝事ばかりを知て 負くる事をしらざれば害其身にいたる。
おのれを責て人をせむるな  及ばざるは過ぎたるよりまされり」>



これはまあ散文やろか詩やろか  本田洋子
 


「episode③」 実はでっち上げだった
「東照宮御遺訓」と呼ばれているこの言葉は、家康が将軍辞職の談話に
おいて話した言葉を書き留めたものとされている。
が、実はでっちあげだった。

明治初期、旧幕臣・池田松之助なる人物がいた。
維新後の新政府が徳川幕府を朝敵扱いすることに反感を持った彼は、
「このままでは権現様(家康)の名に傷がつく」と、
徳川家の名誉回復に命を捧げる決意を固めた、のだった。
そして「家康公御真筆」と銘打ったありがたい遺訓をでっち上げ、家康
の威光を世に示そうと、私財のすべてを投じて、名訓の書写に励んだ。
彼が「東照宮御遺訓」の手本にしたのが、黄門さまでお馴染み光圀
『人のいましめ』という訓示だった。
光圀の訓示を写したニセ遺訓は日光・上野・名古屋・久能山の各東照宮
に奉納され、いつのまにか「家康真筆」として伝えられることになった。
「筆字」「花押」も家康が書いたものである。
いや家康が書いたものに見える。
これも池田松之助が真似たのだろうか。



落款は本物らしい五百万  前中知栄



家康の遺訓と光圀の『人のいましめ』とを比較してみましょう
『苦は楽の種 楽は苦の種としるべっし
主人と親とは無理なるものと思ひ忘るることなかれ
下人はたらわぬものと知るべし
子程に親を思ひ子なきものは身にくらべて近きを手本とすべし
掟に怖じよ 分別なきものに怖じよ
朝寝すべからず 長座すべからず
小事もあなどらず 大事も驚くべからず
慾と色と酒はかたきと知るべし
九分は足らず 十分はこぼるると知るべし
分別は堪忍にありと知るべし
正直は一生の宝 堪忍は一生の相続 慈悲は一生の祈祷と知るべし』
(身にたくらべる=自分の身を思う気持ちと比べてみる。
 無理なるもの=理屈が通らないもの)



無作為にしては辻褄合い過ぎる  生田頼夫



「家康名言ー2」
『大将というのは敬われているようで、たえず家来に落ち度を探られて
いるものである。恐れられているようで、あなどられ、親しまれている
ようで憎まれている。
だから大将というのは、勉強しなければならないし、礼儀をわきまえな
ければならない。自分は足りていないと思うからこそ成長できる』
「episode③」 名言も?
これも「人のいましめ」からの盗用かな。



アリガトウと言えばトマトも良く育つ   新家完司



「家康名言ー3」 
『人は負けることを知りて、人より勝れり』
「episode④」 名将に囲まれて
家康の周囲には、武田信玄織田信長、豊臣秀吉といった非常に優れた
大名がいた。家康は、信玄が隣にいることを不幸とはとらえず、油断な
く自分を励ます幸運だと捉えていたという。
自身と彼らを比べながら足りていないものが何かを常に分析し、自分や
徳川家を強くするため、謙虚に学び続けていた。



「家康名言ー4」
『多勢は勢ひをたのみ、少数は一つの心に動く』
「episode⑤」 家康を甘く見た秀吉
天下分け目の戦いといえば、関ヶ原の合戦が通り相場だが、江戸後期の
学者・頼山陽の評価は違うようだ。「日本外史」で彼はこう述べている。
「公(家康)の天下を取る。大坂にあらずして関ケ原にあり」と、
家康の天下は「小牧長久手の合戦によって決まった」というのである。
 
この戦いは、信長亡き後に出遅れた家康が、「われこそここにあり」と
ライバル・秀吉にあえて喧嘩を吹っ掛けたデモンストレーション行動で
あった。 秀吉勢10万に対して家康勢は1万6千。
しかし家康は、北条伊達と同盟を結び、四国の長曾我部根来、雑賀
衆を味方にして強気であった。実際、局地戦では家康側が勝利しており
秀吉は数に勝りながらとうとう家康を破れなかった。



雨の日に明日の靴を光らせる  太田 昭





   一富士二鷹三茄子 (喜多川歌麿)



「episode⑥」 
1606(慶長11)、家康が駿府に隠居することを決めた時、愛妾が
「江戸は大都会の地なのに、なぜ、駿府のような小さな町に移られます
か?、理由がわかりません」 と言った。
「家康の名言」 『富士・二鷹・三茄子』
その問いに家康は、「駿河には一に富士山がある。これは三国中(日本
・中国・天竺)の中でも唯一の名山だ。見飽きることはあるまい。
二に家康は「鷹がよい。これは民情視察と運動になる」
三に家康は「茄子が名産である。美味だし、他所より早々に食せる」
家康は「いつの世も、この三つ総てに吉だ」と告げ、「この三つの夢を
見れば諸事大吉」といったという。
『富士・二鷹・三茄子』の諺は、家康からの伝承である。



平和だなメダカに餌をやる時は  小林満寿夫





         松浦静山・甲子夜話




一富士・二鷹・三茄子について平戸藩主・松浦清山『甲子夜話』には、
『楽翁(松平定信)の語られしは世に一富士二鷹三茄子と謂ことあり。
此起りは神君駿城に御坐ありしとき、初茄子の価貴くして数銭を以て
買得るゆゑ、その価の高きを云はん迚(とて)。
まつ一に高きは富士山なり、その次は足高山なり、其次は初茄子なり、
と云しことなり。彼土俗は足高山を<たか>とのみ略語に云ゆゑなるを、
今にては鷹と訛り、其末は<三物は目出度もの>をよせたるなと心得画
にかき掛て翫ふに至るは余りなることなり』
(一富士二鷹三茄子は、初夢に見ると縁起のよいものの順である。 
「富士」は日本一の山。「鷹」は威厳のある百鳥の王。
「茄子」は” なす "「成す」で物事の生成発展するさま、
を言い表わしている。



七匹のメダカ数えて予定なし  細見さちこ



「episode⑦」 
余生を静かに過ごしたい家康は、城の堀の蛙の鳴き声に閉口していた。
それを知った家臣は苦労して蛙退治をした。そして家臣は
「家康さまの一喝が利いて、蛙も静になりました」と、報告した。




何よりの薬自由とリラックス  椎葉つとむ





   家康幼少期の勉強部屋




「家康の名言5」
『不自由を常と思えば不足なし』
「episode⑧」
家康は75年の生涯で3度駿府に暮らした。延べ25年間である。
晩年の隠居の場所に選んだのも駿府だった。
どうして家康は駿府がよかったのか?
駿府は家康が幼少期に過ごした思い出の土地、ということもあるが、
何よりも食い物が旨く、客の訪れに交通便がよく、老人には住みよい
気候の土地ということ、さらに自然の要害地に適していた。


治まれるやまとの圀に咲き匂ふいく萬代の花の春かぜ
元和2年(1616)家康終焉を迎える2か月前の歌である。
この前年の豊臣家滅亡で家康は「どうする 家康」から解放された。


無風ならあなたは転けてしまうだろ  市井美春

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