忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[1076] [1075] [1074] [1073] [1072] [1071] [1070] [1069] [1068] [1067] [1066]
人生の今四コマ目仕上げ中  広瀬勝博





         三河一向一揆  (月岡芳年画)



「どうする家康」ー 俺は腹を切る!




「名将言行録」より。
秀吉は家柄の低いことをコンプレックスにするのではなく、有効に利用
している。1586年(天正14)対立していた家康をとうとう大坂へ
ひきだすことに成功した秀吉は、宿舎となった弟の羽柴秀長邸に家康を
ひそかに訪ねた。そして
「自分の家柄の低いことは世間周知だから、大名どもは本気で心服して
 くれない。そこで徳川殿の協力が欲しい。
 明日は私の前に平伏してくれないか」 と、頼みこむ。
さてここで「家康 どうする?」ということになるが、こう言われては
家康も断れない。 大名たちの前で「臣下の礼」をとることを約束した。
その決意を聞いた家康の家臣は、敵対する相手が相手だけに、罠ではな
いかと家康の身を案じた。その時家康は、家来たちにこう言ったという。
「われ一人腹を切りて、万民を助くべし」
               「俺は腹を切る」といったのである。
ここに一つ、やたら腹を切りたがる家康のエピソードとして残る。


急ぐ事ない人生は長いんだ  青木公輔



家康が江戸に幕府を開くまでに「家康、どうする」の状況が数個ある。
 桶狭間の戦い
  家康初陣で味方の大将がヤラレタラあなたならどうする?
 三河一向一揆 (第一幕・三大危機
 三方原の戦い (第二幕・三大危機
  家康、戦いで死ぬほど怖いおもいをしたらどうする?
 姉川の戦い
  家康、敗戦色の濃い戦いで殿を頼まれたら…どうする?
 築山殿・信康の処分
  信長にこの二人を殺せといわれたら…どうする?
 伊賀越え (第三幕・三大危機)  
 石川数正、秀吉方へ出奔
  家康、最も信頼していた家臣に裏切られ、どうする?
 関東移封 
  家康、秀吉からど田舎に行ってくれと言われ、どうする?
 関ヶ原合戦真田幸村の追撃に家康は肝を冷やした、などである。



物干しにライトアップの雪明り  市井美春




     家康(松本潤) VS 本田正信 (松山ケンイチ)




「第一幕・三河一向一揆」


1563(永禄6)7月、今川方の諸城を落とし、西三河の制圧に成功
した松平元康は、晴れて今川氏のくびきから脱しようと、今川義元から
もらった「元」の字を捨て「家康」と名乗るようになった。
しかし、安心したのも束の間、同年9月5日、国内から新たな敵が発生
する。 「三河一向一揆」が蜂起したのである。
家康の生誕地・岡崎は、本願寺門徒の多い土地柄で、本願寺一族の本宗
本証寺、勝鬘寺、上宮寺の三河四寺を中心に強い勢力を保っていた。
こうした寺は、その権限を保つため、寺の持つ諸権利について部外者が
容喙することを一切許さないと決めていた。
これを「寺内不入権」という。



昔からあるので誰も抜かぬ釘   有澤嘉月



ところが、三河全土の掌握をもくろむ家康にしてみれば、所もあろうに、
「わが領国の三河域内に、自分の勢力が及ばないところが、1カ所でも
 あっては沽券にかかわる」
家康は、この「寺内不入権」を断固無視し、一向宗の影響力が強い寺内
にも入ることを強行した。
西三河は、もともと旧領主の今川氏が一向宗(浄土真宗)寺院を優遇し
たこともあり、北陸とならんで、一向宗が盛んな土地柄であった。
ところが家康は、急速な富国強兵策をとらなければならない事情もあっ
た。
これに一向宗門徒は猛然と反発した。



免罪符どこの店でも売り切れだ  川嶋 翔





      一向宗門徒と三河武士の壮絶な戦闘模様



本願寺宗派の独立性が保たれ、一向宗門徒たちの団結力は強かった。
家康の家臣には、一向宗門徒が少なくなく、一揆方についた者も少なく
なかった。家康に取って代わろうという国内の有力武将も何人か一揆勢
に加わったことで、鎮圧はさらに容易でなくなる。
門徒たちは、4カ寺に立てこもり、家康側と激しい戦闘状態になった。
攻めても、攻められても家康軍は疲弊する。
このままでは家康軍は分裂、弱体化するのは目に見えている。




洗っても削っても金太郎飴  森井克子



結局、家康は一時追放した4カ寺側の勢力の復帰、復活を許し。
さらに、一揆側に参加した「家臣たち」をも許した。
一時は、家康の身の危険も間近にあった戦闘状況だったが、この「戦後
裁定」であの結束力の堅い三河武士の本領が復活、永禄7年2月28日、
形の上で家康方の勝利として、半年かけた三河一向一揆は終焉をみた。
家康が一揆に勝ったのをみた東三河の今川方諸武将が続々と降り、
「三河統一」がなされたのだが、これでようやく一国。
以後、4年間ほど家康は、国内統治に専念せざるを得なくなる。
(三河一向一揆は、三方ヶ原の戦い、伊賀越えと並び、徳川家康の三大
危機とされる。 家臣団の多くが門徒方に与するなど、家康に宗教の恐ろ
しさをまざまざと見せつける事となった)



涙目でジッと見つめて許される  近藤北舟





   三河一向一揆を主導した空聖上人



「一揆側に参加した家臣たちのその後」
本多正信=戦後は出奔。松永久秀に仕えるなど諸国を流浪し、
     のち大久保忠世の執り成しで帰参し重用される。
本多正重=滝川一益、前田利家、蒲生氏郷に仕えたのち帰参。
渡辺守綱 = 赦免帰参。のち徳川義直の附家老となる。
蜂屋貞次=永禄7年に降伏帰参。
夏目吉信=野羽城陥落の際、松平伊忠の嘆願により赦免帰参。
内藤清長=蟄居処分。子の家長は父から離反し家康方として勤めた。
加藤教明=戦後出奔。室町将軍足利義昭に仕えた後、秀吉に仕える。
酒井忠尚=一向一揆収束後も抵抗したとあるが詳細不明。
石川康正=父・清兼は三河の本願寺の信徒総代で宗徒との関係は続く。




複眼で見れば許せることばかり 原 洋志





       伊賀越えルート




「第三幕・伊賀越え」




伊賀越えを無事にはたし安堵の表情の家康

「神君、よくぞ御無事で! あの伊賀を越えられてお戻りになった
 とはスゴイ」


「本能寺の変」信長が、「まさかの死」に遭ったとき、
信長の4人の師団長は、京都に誰もいなかった。
筆頭師団長・柴田勝家は、北陸で上杉を監視し、
丹羽長秀は、長曾我部対策に四国に渡る最中――、
滝川一益は、関東の相模に張り付き北条対策――、
羽柴秀吉は、中国で毛利と奮戦中といった案配だ――。
で、家康はそんな時、軍隊も連れずに、堺の町をふらついていた。
他国の空で明智光秀勢に捕まって辱めを受けて殺されるなら、
「今ここで潔く死ぬことを選ぶことこそ、武人」と、
家康は一人、うなずいて「追い腹を切る」と側近に伝えた。


それはもう棺の中に入れました  柴田桂子


突然の決意表明に驚いた重臣の本多忠勝らは、必死に説得する。
「こんな所で客死するのは、それこそ末代までの恥。
 とにかく、この際、とりあえず、三河に帰りましょう。
 すべてはそこから!」
家康もようやく、その場での切腹は翻意した。
ただ、街道筋は光秀軍が全部抑えているだろうからと、一行はまだ
誰も通ったことのない伊勢志摩半島を縦断するコースを選んだ。
何とか伊勢に出て、そこから海路、三河に帰るしか方法はない!
そして、本多や茶屋四郎次郎、服部半蔵らの必死の働きで、
ようよう三河にたどりついた。



ご葬儀はなかったことにして笑う  井上一筒




       大坂夏の陣・家康大仁村難戦之図   (楊斎延一図)
真田と家康の戦績はなんと真田の3勝1敗の記録が残る。



「第四幕・大坂の陣」




家康「死に急ぎ癖」はまだある。
「大坂夏の陣」でのこと。戦況は家康軍の圧倒的優勢。
そんな時、敵騎一騎。家康の本陣に向かって疾駆してきた。
真田幸村である。彼が狙うは家康の首だ。
幸村のこの遮二無二の気迫に、家康陣営は旗本たちが慌てふためき、
旗を捨て幟を捨てて、我先にと家康を残して本陣を離れてしまった。
一人残された家康は、幸村たった一人に、
「天下人が斬られたとあっては末代の恥。
            その恥をさらす前に自決する他はない」
この時も真剣にそう思った。
しかし、ようやくわれに返った家康警護が役目の旗本たちは、
また家康の周りに集まってきた。
幸村はすんでのところで長蛇を逸した。




生きている証薬が溜まりだす  靏田寿子

拍手[4回]

PR


Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開