忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[1082] [1081] [1080] [1079] [1078] [1077] [1076] [1075] [1074] [1073] [1072]
バラの名のひとつひとつに物語  田口和代



           側 室 の 集 い




江戸幕府を開いた徳川家康は、後継ぎ候補を確保する重要性をよく認識
していた。 系図や史料で確認できる子どもの数は、16人に上る。
正室の築山殿が生んだのは1男(信康)1女(亀姫)。
朝日姫との間に子はない。
残る14人(男児10人、女児4人)は、19人いた側室のうちの10
人が生んだ。このうち何人かは夭折し、築山殿とその子・信康は、家康
自らが粛清してしまった。


潜望鏡で見る無人島の煙  森 茂俊


妻子を見捨てた背景には、長年敵対していた武田氏との関係を巡って、
あくまで武田と戦う意向の家康派と、対武田を見直そうとする信康・築
山殿派の路線対立があったという。
このため、側室との間に生まれた子らが、徳川の次代を担うことになる。
のちの2代将軍・秀忠をはじめ、福井・尾張・紀伊・水戸の各藩の藩祖
を生んだのは側室である。 娘たちも有力大名家に嫁いだ。
家康の側室は、敵対する大名家から徳川に取り込んだ家臣の娘や、神官
の娘、関東の名門大名家出身など、さまざまな出自を持つ。


枯れ草にまじり茗荷の芽が数多  徳山みつこ




家康ー家康の側室




      宝台院蔵・西郷局肖像




「家康に愛された於愛の方」 (広瀬アリス)

西郷の局(宝台院)こと於愛の方は、1552年(天文21)、遠江国
の名門・戸塚忠春の娘として生まれる。美しい姫に成長すると、母方の
従兄弟・西郷義勝の後妻として嫁いだ。1男1女をもうけ平穏に暮らし
ていたが、夫が武田氏との戦いで討死してしまう。
於愛の方と義勝の間に生まれた男子は、幼過ぎて西郷の家督を継ぐこと
も許されず、叔父・西郷清員のもとでひっそりと暮らしていた。
そんな若くして夫に先立たれてしまった於愛の方だったが…、その後、
思いもかけない出会いが訪れる。
家康が浜松城へと帰る途中、休息にに西郷氏宅へ立ち寄った折、家康は
於愛の方の美貌と温かみがある眼差しが目に留まり、気に入ってしまっ
たのである。


滑り込んだのは四つ葉のクローバー  市井美春




この時期の家康は、妻の瀬名との関係が冷えており、浜松と岡崎という
離れた城での別居状態だったこと。また「長篠の戦い」の後も武田勝頼
との戦いは続き、気が休まる時がなかった。
ため、美しく温和なお愛の方に惹かれたのも無理はない。
そして1578年(天正6)の春、西郷清員の養女として家康の側室に
迎えられることになる。


平等に春は誰にもやってくる  奥山節子




  ドラマで仲のよいところを見せる於愛と於万




於愛の方は、美人で温和誠実な人柄であり、家康の信頼厚く、周囲の家
臣や侍女達にも好かれていた。
家康を虜にした於愛の方の眼差しは、彼女が強度の近眼であったゆえか、
とりわけ盲目の女性に同情を寄せ、常に衣服飲食を施し生活を保護して
いたという。
(西郷局が死去すると、大勢の盲目の女性達が連日、寺門の前で彼女の
 ために後生を祈ったという)
こんな於愛の方だから、殊の外、家康に愛され、家康もまた心から癒さ
れたことだろう。
「築山殿事件」によって瀬名と徳川信康が処刑された直後の天正7年に、
のちに幕府2代将軍となる秀忠を生み、翌天正8年には、尾張清洲藩主
となる松平忠吉を生んでいる。


哀しみを癒す時間という秘薬  六斉堂茂雄




『七年の卯月七日に浜松の城にしては三郎君生れたまふ。是ぞ後に天下
 の御ゆづりをうけつがせ給ひし台徳院太政大臣の御事なり。御母君は
 西郷の局と申。さしつづき翌年この腹にまた四郎君生れ給ふ。是薩摩
 中将忠吉卿とぞ申き』 (『東照宮御実紀』)



ほほえみについてくるのよ幸せが  藤河葉子




浜松城で家康に尽くした10年、明朗で闊達な於愛の方も、積み重ねた
疲れがあったのだろう、天正17年に38歳で死去する。
しかし、於愛の方が遺した家康の血は、3男・秀忠にはじまり、家光
綱吉、8代の吉宗で戸切れるまでつづいた。
秀忠の五女・和子後水尾天皇に嫁いで、明正天皇を生んでいる。
いわゆる明正天皇は於愛の方のひ孫になり、天皇家の母方の親戚という
ことになるのである。
(西郷一族は、秀忠の治世で優遇された。
 だが秀忠が家康ほど長命でなかったためその栄華は極めて短かかった)


あれこれと明日を思う秋の夜  若林くに彦




     お万の方 長勝院肖像




「家康に愛されなかったお万の方」
 (松井玲奈)
長勝院こと(天文17)お万の方は、1548年(天文17)父・池鯉
鮒明神神主・永見貞英水野忠政の娘、で於大の妹を母にして生まれる。
於大は家康の生母である。つまりお万の方は於大の姪にあたる。
お万の方は戦災を逃れ、1572年(元亀3)瀬名姫仕えの侍女となり、
やがて浜松城で暮らす家康のそばに仕えることになる。
神秘的で妖艶な魅力をかもす女性で、信玄との激戦で疲れた家康の心を
射止め側室となる。



片恋はいたずら者のバイオリン  小池正博




2年後の1574年(天正2)、お万の方は、家康の次男となる次郎
生む。実は、生まれたのが双子で、ひとりは於万の方の実家である永見
家に養子に出され、永見貞愛と名付けられ池鯉鮒神社を継いだとされる。
次郎の弟はもともと居なかったものとしたのか、死んだものとしたのか、
家康は、貞愛のその存在を知らぬまま、生涯、会うことはなかった。
(当時、双子は忌み嫌われて、密かに殺処分された)
『二月八日次郎君生れたまふ。後に越前中納言秀康卿といへるは是なり』
『東照宮御実紀』



ほのかまで五分はるかまでトウシューズ  河村啓子



しかし、家康正室の瀬名姫が自分の侍女であったお万を、側室と認めな
かったため、妊娠が発覚した時点で城外へ追放されてしまう。
二郎は遠江有富村の中村源左衛門正吉の屋敷で生まれ、幼名を「於義丸」
とした。 この「オギマル」の名には逸話がある。
家康がこの子の顔を見て「ギギという魚に似て気持ち悪い」と、言った
ことから、その名を付けたというのである。
家康はそのあと3年間、一度も於万の方にも、於義丸にも、会うことは
しなかった。築山殿が承認しない子どもであったため、家康もまた認知
できなかったのが理由である。
(家康の子との対面も、あまりの冷遇を受ける異母弟を不憫に思った兄
・信康による取りなしで、実現したものであったという)




取り敢えず先に笑おう初対面   伊藤良一




     結城秀康




於義丸は、1584年(天正12)の「小牧・長久手の戦」後、家康
秀吉の和議により秀吉の養子となり、羽柴三河守秀康を名のる。
天正18年には下総結城氏5万石の跡目を相続し、結城秀康 と称した。
「関ケ原合戦」のときは、会津上杉氏を押さえる任務を負って宇都宮に
留まり、戦後、越前北の庄68万石の大名となった。
振り返れば、秀康は家康の次男なのだから、2代将軍は5歳下の三男・
秀忠ではなく、自分に回ってくるべきものだった。
が、お万の方への家康の冷い扱いと秀吉の養子になったことが原因で、
継嗣に恵まれず、1607年(慶長12)に急死する。
さてお万の方は、秀康と共に越前北ノ庄へ移住し、秀康が急死すると、
出家し長勝院と称し、1620(元和5)北ノ庄で72歳の幕を閉じた。



護摩を焚く奥歯のネギがとれるまで  きゅういち

拍手[5回]

PR


Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開