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川柳的逍遥 人の世の一家言
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スクランブルの雨は切なく恋しくて  市井美春




             城と城下町   (静岡美術館)




2022年10月、全国の20~59歳の男女を対象に、
「自県を代表すると思う歴史上の人物は誰か?」という調査が行われた。
結果は次の通り
「織田信長」は、岐阜県、愛知県、滋賀県の3県で、
「豊臣秀吉」は、大阪府で、
「徳川家康」は、栃木県、東京都、静岡県の3県で、選ばれた。
秀吉を別にして面白いのは3県の人が、信長・家康を地元の人物として
選んでいることだ。その考え方を承認するのなら、家康は愛知県でなけ
ればならないはずだが。




剥製として曖昧に生きている  青砥英規



家康ー小さなちいさな戦国時代」



    焼失前名古屋城




「ともに愛知県なのに」
150年も前のことである。
愛知県は昔「尾張」「三河」という2つの地域に分かれていた。
時代が慶応から明治へと移り「愛知県」となった。
ところが今も愛知県内では「尾張と三河の軋轢」なるものが存在する。
これは戊辰戦争から150年会津が、長州になお遺恨が存在するように
割り切れない、また許せない愛県心なのだろう。



根気よく胸板ぐるり巻く昆布  山本早苗




        名古屋城


「金鯱城」「金城」の異名を持つ、国の特別史跡。伊勢音頭では、
「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」
と詠われている。
大天守に上げられた金鯱は、城だけでなく名古屋の街の象徴である。

「名古屋城は尾張に」
家康が天下普請によって築城した名古屋城は、尾張国愛知郡名古屋(愛
知県名古屋市中区本丸・北区名城)にある。
尾張地方は、名古屋城築城までは「清須」が中心だった。
しかし、家康は尾張徳川家の拠点として名古屋の地を選び、名古屋城の
築城と同時に「清須越し」(清須の街ごと引越すこと)を行った。
清須の街に住んでいた武士や町人・職人などをすべて名古屋へ呼び寄せる
ため、城を起点として、逆三角形の城下町造を計画したのである。



正解の一つと思う前を向く  津田照子



元々は名古屋城の二之丸付近には、信長の父・信秀が当時の城主・今川
氏豊から那古野城を奪取し、それを譲り受けた信長の居城だったが、
その縄張りに囚われず、家康は自身の強い意志の下に、新たに名古屋城
と碁盤割の城下町をつくり上げたのである
1616年(元和2)に名古屋城が完成すると、家康自らは住まず、
初代藩主として9男「徳川義直」が初代藩主として入城させた。
以後、御三家の一つとして、尾張徳川が明治に入るまで尾張を守った。



たて糸に理性 横糸に本能  石塚芳華




           旧・岡崎城



岡崎城は天下人を生んだ出世城として人気も高く今川義元、信長、家康
へと引き継がれてきた歴史のある城で、史料的にも高い評価を得ている。
天守は家康時代に建てられたもので、シャチホコもあったが、その当時、
許可を得ずに金を施すことは許されていなかったため、瓦造りになった。
が、岡崎は、春は桜の名所としても知られており、それが逆に美しく城
を引き立たせている。




          今・岡崎城




「岡崎城は三河に」
岡崎城は、三河国岡崎藩(愛知県岡崎市康生町)にあり、1542年
(天文11)に家康が生まれた城である。
当時の岡崎城は、櫓や門の屋根も茅葺で、石の産でありながら石垣など
もなく、ただ堀を掘ったその土をかきあげて、芝を植えただけの土塁が
めぐっていた。
7年後に父・松平広忠が死去すると岡崎城は今川家支配下の城となった。
1560年(永禄3)桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると、松平元康
(家康)は、岡崎城を取り戻し、今川家から独立する。
1590年(天正18)家康が関東に移封となり、豊臣家臣の田中吉政
が入る。家康に対する抑えの拠点の一つとして、吉政は城を拡張し強固
な石垣や城壁などを用いた近世城郭に整備した。また、城下町の整備も
積極的に行い、岡崎の郊外を通っていた東海道を、岡崎城下町の中心を
通るように変更し、「岡崎の二十七曲がり」といわれるクランク状の道
に整備され、現在の岡崎城の原型を造った。



闘いに行けと心に触れてくる  阪本きりり



「応仁の乱からの因縁が現代に!」
尾張と三河がお互いを牽制しあっている理由については、諸説ある。
足利家の後継者争いを発端として起こった「応仁の乱」説。
三河国仁木氏の守護代であった西郷氏は、永享年間(1429~1441)に、
菅生川南岸の明大寺付近に居館を構えた。居館は「平岩城」と呼ばれた。
位置は、岡崎市上明大寺町2丁目のペデストリアンデッキの徳川家康
が置かれた広場辺りであることが判明している。



握りしめた愛を必死で守りぬく  柴辻踈星





  ペデストリアンデッキの徳川家康像




「尾張」は、足利義尚率いる西軍、「三河」足利義視サイドの東軍に
付き戦ったことで、両者の間には大きな溝が生じた。
のち、戦国時代にこの地を治めていたのは、尾張は織田家、三河は松平
家(徳川家)であった。
しかし思いがけない裏切りにあい、幼いながら三河地の当主になるはず
であった家康は、織田家に囚われ、人質となってしまう。
精強で家康への忠義が強いと言われる三河武士団が、家康を人質に取っ
た織田家に、ただならぬ恨みを抱いたことは、いうまでもない。
このような積年の怨みつらみが重なってか……、尾張と三河には、今だ
戦国時代の戦火(遺恨)が残っている、


一房の葡萄家族であった頃  平井美智子



「尾張と三河は本当に仲が悪いの?」
尾張・三河出身者に聞いてみると…。
両地域の関係性について愛知県民は、どう思っているのか? 
尾張・三河出身者の人たち数十名に訊いた。
「 尾張と三河は仲が悪いと思いますか?」
30代尾張出身者の男性の答え、
「そんな風に考えたことはないですね。でも、三河人は尾張の人が好き
じゃないというのは確かによく聞きます」
40代女性の答え、
「三河の人は、尾張を敵視していると聞いたことはあります。
 でも尾張出身者の私は、そんな風に三河の人を嫌ったことはないです」
尾張の人の反応は、
「(自分たちはそうでもないが)三河の人はあまり友好的ではない」
というイメージを持ったようだ。



ガーグルベースンに溜まっていく吐息  みつ木もも花





      名古屋城・本丸御殿




次に三河出身者の人たちに同じ質問をしてみると、
「三河を田舎だと軽視しているな…と思うことがたまにあります」
と、30代男性は答え、20代女性は、
「仲が悪いというよりも、見下されてるのかな?と感じたことは多々
ある」と、答えた。
さらに、30代・男性の答えに次のような人も、
「尾張出身の人が名古屋を地元みたいに考えているのが、なぜか癪に
さわってしまいます」
どうやら、三河よりも尾張の方が「都会」だという上目目線が、敵対意
識の中に根づいているようだ。



上からの目線に耐えている稲穂  松山和代





       岡崎城・内部




尾張出身者と三河出身者の違いは他にも。
特に面白い違いの一つが「出身地」の答え方である。
「出身地ですか? ええっと…名古屋出身です」
と、間をおいて語ってしまう尾張の出身者たち…
尾張出身者の10人に出身地を聞いたところ、8人が「名古屋出身」
回答し、残り2名からは「愛知県出身」という答えがかえってきた。
ただ「名古屋出身」と答えた人のうち、本当に名古屋市出身の人は、
4人だけで、それ以外の人は、正確には他の住所なのにも関わらず
「名古屋出身」を答えるのだそうだ。



何もかも過ぎ去るまではダンゴムシ  中岡千代美



対して三河出身者の人たちに「出身地どこですか?」と訊くと、10人
中9人が「愛知県出身と答える」と、回答。
「名古屋を出身として語るのは『身売り』してる感じがして、抵抗感が
 あるんですよね」
と、40代女性は答え、30代男性は、
名古屋に対する独立意識なのか、名古屋出身と言われると、
「カチンとくるし、違います!と言いたくなる」
と、答えが返ってきた。
三河出身の人は意地でも「名古屋出身」と、言いたくない意識が際立っ
ていた。



レタス裂くわたしの嫉妬これぐらい  河相美代子



「ホトトギスの句は地域性をよく表現している?」
尾張出身者と三河出身者の性格については、信長・家康を前面に詠った
「ホトトギスの句」に例えられる。
信長と家康。この2人に、尾張・三河の人口の性格を確定されるなども
ってのほか、堪ったものではないが……。
尾張の人は、信長の「鳴かぬなら殺してしまえ…」の句から、信長がそ
うであったから、そこに生まれ育った人も同様に、気の短い人が多いの
ではないかと決めつける人が多い。
一方、三河に生まれた家康は「鳴かぬなら鳴くまで待とう…」の句のイ
メージから忍耐強い性格の持ち主として、三河に育つ人にも受け継がれ
ているとみている人が結構いる。



人間を切り裂く人間の刃  もりともみち 




     岐阜・織田信長の銅像



「ホトトギスの俳句」の例えについて、訊くと…。
先ほどの尾張出身の40代男性は、
「基本的にはプライドが強くて気の短い人が多いかもしれません」
と答え、先ほどの三河出身の30代女性は、
「信長が冷たいイメージで、家康はふくよかで豊かなイメージだから、
 確かにホトトギスの句は、それぞれの尾張と三河の地域性を上手く
 表現しているかも」
と答えた。続き、三河出身30代男姓は、
「確かに家康の考えかたや、生き方にシンパシーを感じることは多いで
 す。辛抱強く物事を我慢することもあるかな」
と答え…他にも約半数の人が
「ホトトギスの句は、地域性をよく表現している」
と、コメントしてくれた。         (まいどなニュース参照ゟ)



正直に生きると他人を傷つける  宗 和夫



「最後に」
応仁の乱から550年以上もの月日が経っても、三河の確執、因縁が、
いまでも存在するとは…、感慨深く、人間の不思議を実感させられる。
ついでながら、会津と長州の150年の遺恨については、
「会津と長州は仲直りはできないが、仲良くはできる、のでは」と、
歴史家がコメントする。
アンケートのその他、一部をご紹介。
神奈川は「源頼朝」、山梨は「武田信玄」京都は「足利義満」、
広島は「毛利元就」、高知は「坂本龍馬」
福岡は「黒田官兵衛」、鹿児島は「西郷隆盛」



そこはそこ大人ですもの握手する  岡田良子

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