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川柳的逍遥 人の世の一家言
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敵側に知らぬが仏座ってる  柴田園江





     浅井長政              お市



信長には妹がいた。
明眸皓歯の美人と讃えられたお市である。
信長はこのお市を浅井長政に嫁がせて、同盟を結ぼうと考えた。
長政さえ味方にしてしまえば、京への道は開けたも同然になるからだ。
そしてお市は、兄・信長の命に従い長政に嫁いだ。
絶世の美貌のお市を娶った長政は「大果報の人」と羨まれた。
見も知らぬ他国へ輿入れした花嫁を、長政は優しく迎えた。
政略結婚とはいえ、お市は夫・長政を深く愛するようになった。



グレーだが今は味方に入れておく  竹中ゆみ





           信長、朝倉義景を攻める



家康ーどうする信長



長政を味方にし憂いをなくした信長軍は、敵対勢力を破竹の勢いで蹴散
らして上洛を果たした。
「天皇や将軍に挨拶するために、ただちに京に馳せ参じよ」
京に上った信長は、諸国の武士に命令を下した。
この命令は、表向きは、天皇・将軍のためという名目を掲げてはいたが、
実質的には、信長に従えというものであった。
日の出の勢いの信長の力を恐れ、多くの大名が京の都に集まった。
だが信長の命に反し、なかなか態度を明らかにしない大名がいた。
越前の朝倉義景である。



-------朝倉家は代々、大国を預かってきた由緒ある家柄である。
どうして成り上がりものの信長如きに従う必要があろうか。
朝倉家の家臣たちは、口々に異を唱えた。
結局、義景は信長を無視した。
<義景がでてこない>
実はそれは、信長にとって思う壺であった。
天皇のためにという命令を無視したからには、逆賊として討伐できる。
口実ができた信長は、密かに朝倉攻撃の準備を始めた。



直角が三角形を離脱する  加納美津子







     難攻不落といわれた小谷城の絵図




軍議の席上、信長の家臣が懸念を漏らした。
「朝倉家と浅井家は、古くから結んでいるのだから、朝倉攻めの儀は伝
 えておいた方がいいのでは…」
というのである。だが信長は一蹴した。
「我々は縁者にて親しき仲なり。朝倉と浅井は元来他人なり。
 然れば一旦のことわりにも及ぶべからず」「総見記」
<浅井に知らせれば、攻撃計画が朝倉に洩れるかもしれない>
これを信長は恐れてのことだった。



わがままに生きる氷点下の覚悟  和田洋子



1570年(永禄13)4月20日、信長は3万の兵を率い、越前に侵
攻した。先陣は木下秀吉と信長の若き盟友徳川家康であった。
不意を打たれた朝倉勢は、たちまち壊滅状態になった。
一気に朝倉の本拠に迫ろうとしていた矢先、思いも寄らない報せが信長
の陣にもたらされた。
「江北浅井備前手の反復の由」
長政が朝倉方について、信長に叛旗を翻したというのである。
「嘘であろう。まさか、あのお市を嫁がせた長政が裏切るとは」
それが事実とわかった信長は、こう呟いた。
「是非に及ばず」
信長と長政。義理の兄と弟が相食む「姉川合戦」へと繋がっていく。



今更のバトル我が家に正露丸  前中知栄




     義景へ集中攻撃をかける信長




信長の朝倉攻めは青天の霹靂であった。
「これからどうするか」
軍議は紛糾した。
信長の大軍には、「誰も勝てない」という家臣に、長政の父・久政が反
駁した。
「たとえ信長についたとしても、行末とても頼みなし」
信長は味方として頼みにならないというのである。
<このまま信長についていっても、領地の拡大が望めるとは限らず、
 単なる家臣の一角に成り下がってしまうのではないか>
久政は、浅井と朝倉のよしみを強調して、信長打倒を強硬に主張した。



裏も表も舌の根までも見せている  大葉美千代










「信長を討ってとるべし」
軍議の間ずっと黙っていた長政が、決意した言葉だった。
長政はもはや引き返すことのできない道に、足を踏み入れたのである。
一度裏切った以上、信長を倒すか倒されるか、二つに一つしか残された
道はない。
一方、長政の妻・お市にとって、夫の決断は、我が身を二つに割かれる
に等しいものであった。
戦国時代、嫁ぎ先と実家が戦争を起こした場合、妻は人質として処刑さ
れる場合もあった。 しかし長政はお市に手を下そうとはしなかった。
政略結婚で結ばれたとはいえ、長政はお市を、本当に愛するようになって
いたのである。



二つの命二つの歓喜二つの孤独  蟹口和枝



夫と兄の間で引き裂かれたお市の胸中を伝える史料はない。
ただこの時、お市は信長のもとに、両端を結び小豆を入れた袋を送り、
信長が袋の鼠になったことを知らせたと記されている。
                      (「朝倉家の記録」
浅井朝倉に味方することになった今、遠く離れて遠征している信長の
大軍は、補給路を断たれて孤立し、「袋の鼠」となったも同然であった。



困ったら訪ねて来いと突き放す  菅沼 匠



お市からの袋を受け取ったあと、信長の本陣で意外なことが起った。
信長が忽然と戦場から姿を消してしまったのである。
戦場に3万の軍勢を残して、信長は消えた。
同盟者として参戦していた家康さえ何も聞かされていなかったようだ。
取り残された織田軍に、朝倉軍は逆襲を開始した。
織田勢の殿(しんがり)となって敵を防いだのは、秀吉、家康、光秀
3武将であった。



雑念と格闘をする二十四時  松山和代






       浅井長政・久政・朝倉義景の箔濃髑髏盃
「朝倉義景、浅井下野、浅井備前が三人が首、御肴の事」
信憑性の高い歴史資料「信長公記」には、織田信長は浅井長政の頭蓋骨に
金箔を貼って宴会の場に飾った」 と記されている。




戦場から姿を消した二日後、信長は突然、京の都に姿を現した。
浅井領を避けて、琵琶湖の西側の山の中を馬で駆け抜けた信長は、京で
悠然と振舞った。かねてより命じていた御所の修理の様子を視察に訪れ、
越前からの決死の逃避行など、なかったかのような態度を見せつけた。
そして少数の護衛を引き連れ、山道を辿って本拠地の岐阜に舞い戻った。
京の都で自分の健在ぶりを見せつけた信長が次に打つ手はなにか。
一刻も早く陣容を立て直し、自分を裏切った長政を叩くことであった。



止まれない訳を踵も知っている  森井克子





    長政、お市と三人の娘との別れの場面




絶体絶命の窮地に陥ってから、50日後、信長は、2万余の軍勢を率い
て岐阜を出陣、長政の領国へ向かった。
長政劣勢のまま時間が経過すると、1573年(天正元)年に信長は、
将軍義昭を追放。
同年8月、朝倉・浅井の連合軍は信長の前に討伐され、29才という
若さで長政は、小谷城で自害した。
戦後、裏切りの結末を見せるように信長は、浅井久政・長政の首に箔濃
=漆を塗り金粉を施し、家臣に披露したという。
一方お市の方は、茶々、初、江の3人の娘と共に織田家に引き取られた。
信長はお市と3人の娘に気をかけ、厚遇したという。
そして3人は、約9年の歳月を尾張・清洲城で過ごした



紅を地面に咲かす寒椿  安藤なみ

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