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川柳的逍遥 人の世の一家言
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元日の粗相二日に叱られる  万句合



                                              江戸の朝の風景
 時の鐘の音と共に江戸の朝が始まる。
 
 
釣り鐘を夕日の覗く峯の寺  柳多留拾遺
 



           寛永寺の鐘
寛永寺の「時の鐘」は、今でも、午前6時・正午・午後6時に撞かれ、
その鐘の音は「日本の音風景100選」に選ばれている。
 
 
「時の鐘」
 
 
<花の雲 鐘は上野か 浅草か>
この句で芭蕉がいう鐘とは、「時の鐘」のことである。
江戸時代の時刻制度は、今とは違い「不定時法」が主流だった。
不定時法は、夜明けを「明け六つ」日没を「暮六つ」とし、その間を
それぞれ六等分し、「一刻」と、した。
よって、春分および秋分の一刻は二時間となるが、昼夜の割合の変化
により、時の長さは違ったのである。一見すると、不便そうに感じる
が、季節に即して夜明けと共に行動を開始し日没と共に行動を終える
自然とうまく寄り添った仕組みだったとも言えるものであr。



来る年の物知り顔やこよみ売り  柳多留



江戸の頃は、各家庭に時計があるわけではないし、もちろん腕時計など
ありはしない。そんな人々の時計の役割を果たしていたのが「時の鐘」
である。江戸府内には、現在確認されているだけで15ヵ所に設置され
ており、芭蕉の句にある、上野寛永寺や浅草寺弁天山の時の鐘は現存し
ている。時の知らせ方は、一刻ごとにまず「捨て鐘」を三回撞いた後、
その刻数だけ鐘を撞いた。



鳥も鳴け鐘も鳴れ鳴れふられた夜  柳多留拾遺



        浅草寺の鐘
浅草寺の時の鐘は、都指定の文化財
 
 
時の鐘を撞く基準となるものには、和時計(大名時計)が使われた。
これは、西洋から入った定時法用の機械時計を「不定時法」に合うに
改良したものだが、半月に一度、時の長さの調整が必要なこともあっ
てか、狂いやすかった。そのため、複数の時計を使用したほか、他の
時の鐘の音も参考にして、その精度を高めていたようだ。



鐘突きの足跡ばかり寺の雪  新編柳多留



時の鐘の中には、制度を維持するため、鐘の聞こえる範囲の町々から
「鐘役銭(かねやくせん)」を集めている所もあった。
いささか無粋だが、上野寛永寺は「鐘役銭」を集めており、浅草寺は
集めていなかったといわれている。



浅草の二日は江戸の台所  柳多留




            花 の 雲


「除夜の鐘」


<除夜の鐘鼻水だけが暮れ残り> 芥川龍之介



「除夜の鐘」は、大晦日の23時頃から「捨て鐘」といって二つ余分に
撞いてから始まり、余韻が消えてから次の鐘を打ち、一つ一つの煩悩を
消して、最後の一撞き(百八つ)は、新年0時に合わせるのが、正式な
つき方だといわれる。
「百八つの鐘」は、仏教の思想に基づくもので、中国の宋の時代〈十世
紀後半〉には始ったとされ、人間の持つ百八つの煩悩を追い払い、心身
ともに清浄になって新年を迎えるため、という説がある。



大三十日ぴぃぴぃぴぃが十二文  柳多留




              大 三 十 日
旅人も女房も老人も職人も年越しそばを食いにくる大晦日
 
 
 
「年越しそば」


 なぜ、大晦日に「年越し蕎麦」を食べるのか。
月末にソバを食べる「みそかそば(晦日蕎麦/三十日蕎麦)」という風習
大晦日だけに残ったもので、江戸時代の町人の間で始まったといわれる。
ソバのように細く長く長寿であるように、またソバは切れやすいことから
「一年の災厄を断ち切る」「苦労と縁を切る」など、縁起の良いものとい
う謂われがある。



蕎麦を打つ音も馳走の数に入り  万句合



又、この習慣は江戸時代中期に江戸商人の間で始まったとも言われている。
商家の奉公人は月末に帳簿を締めるのに忙しく「夕食をとれないため、夜
遅くにそばを食べたことが始まり」という説や、金銀細工職人に由来する
との説もある。仕事場に飛び散った金粉を、そばを練って作った団子で集
め、その団子を焼いて金粉を取り出したことから「蕎麦は金を集める」
いう良い縁起の意味もあったとか。



大雨で鐘の縁起が聞こえかね  柳多留

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