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川柳的逍遥 人の世の一家言
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積善の余光君子の花に座し  詠史余慶
 
 

      韓信股くぐり・絵馬(堤等琳画 浅草寺蔵)


韓信は楚の項羽、後に韓の劉邦に仕え、韓の建国三傑に数えられる武将。
若い頃人の股をくぐる辱めを受けたが忍耐し、その後、高名な人物にな
ったことから、小さな屈辱も大志の前では我慢できることを例えた故事。
(浅草寺には江戸の頃から多くの大絵馬が奉納され現存するものも多い)



聖堂は心の垢の洗濯所  詠史宋頃



今も、その慣習が受け継がれている「絵馬」は本来生きた馬のかわりと
して「馬の絵」を寺社に奉納していたものだった。
徐々に歴史・伝説上の人物、或いは風俗・花鳥・山水など多彩なものが
描かれるようになった。変化したのは、その題材だけではなく、絵馬自
体の大きさも巨大になり、参拝に訪れた善男善女の注目を集めるように
なる。このため、願主が信仰心から奉納したといっても、それは自ずと
願主を宣伝する効果、つまり広告のような役割も併せ持つようになった。



月明らかにして星は隠れたり  詠史春秋頃



一方で、この「大絵馬」は願主から依頼を受けた絵師にとっても多数の
人々に自分の絵を、見てもらえる絶好の機会であった。まして、大勢の
参拝者が訪れる著名な寺社の絵馬であればなおさらである。
若手にとっては、一流絵師になるための登竜門、著名な絵師にとっても
改めて自分の実力を発揮する場であった。つまり、絵馬を掲げた寺社は
今日でいうギャラリーであり、一種の展覧会の役割を果たしていた。



峯の寺墨絵のように帰る僧  柳多留




    喜三郎が見つけた額面左下の角の部分



「ものがたり」
ある日、この等琳画の韓信の股くぐりの絵馬を見つめる少年がいた。
少年の名は喜三郎。喜三郎は、丁稚奉公に出されていたのだが、暇さえ
あれば、絵を描いていたので、ついには勤め先を解雇されてしまった。
それで父親は仕方なく絵の道に進ませることにした。この少年は感動し
つつ、時間の許す限りこの絵を眺めていたのだが、どうしても「腑に落
ちない所」があった。
左から二人目の人物の右足なのだが、本来小指があるところに親指が描
かれている、のだ。早速、絵の師に告げると、すぐさま師は浅草寺へ出
向いたが、喜三郎の言う通りだった。



ひょんな目を入れて達磨の貰い泣き  柳多留



「この絵馬は、何年も大勢の人が見ているのに誰も気づかず、こんな少
年が見つけ出すとは不思議なことだ」と、この師は会う人ごとに語った
という。この師の名は、葛飾北斎という。少年だった喜三郎は、後に
代目・北斎を名乗ることになった。



師の恩は目と手と耳にいつまでも  万句合



「葛飾北斎伝には」
『前北斎為一老人は、其名四方に高く、幼童といへども知る程なり、師
の弟子に深川高橋に住みける橋本某が倅・喜三郎といふものは、幼年の
頃、堀江六間町なる砂糖店の丁稚奉公に仕はしけるが、客のいとまある
時は筆をとりてゑがく、されば自然、主人の心に叶ず、終に家にもどる、
父も心に任せ北斎門人とす。
或日、浅草観音へ詣で、堂内の掛額の中、雪山等林が筆をふるひし韓信
市人の「胯潜の図」をよくみて、師のかたへ行き、「等琳が筆意、眼を
おどろかすばかりなれど、一の失あり、後ろのかたに立ち居る衆人の足、
小指のあるべき方に大ゆびあり」と語る、師すぐさま喜三郎を同道して、
かの額をみるに、喜三郎がいふにたかはず、「是まで数年多くの人こゝ
ろ付ずありしを、若年のもの見出し候は不思議なり」と、語られしが、
此の喜三郎二代・北斎となり、終惜しいかな新吉原遊女屋の養子となり、
画名発せず、末はいかゞなりしや』とある。

師の恩は目と手と耳にいつまでも  万句合





劉邦に天下を取らせた国士無双の大将軍・韓信



「韓信の股くぐり」
韓信が若い頃、町の破落戸(ごろつき)に「てめえは背が高く、いつも
剣を帯びているが実際には臆病者に違いない。その剣で俺を刺してみろ、
できないならば俺の股をくぐれ。」と挑発された。韓信は黙って若者の
股をくぐり、周囲の者は韓信を大いに笑ったという。
その韓信は、「恥は一時、志は一生。ここでこいつを切り殺しても何の
得もなく、それどころか、仇持ちになってしまうだけだ」と冷静に判断
していたのである。
この出来事は後世「韓信の股くぐり」として知られることになる。



人間万事さまざまな馬鹿をする  柳多留







「堤等琳」
「浅草寺に韓信の額あり、秋月と云いしを三代目・等琳と改名せし時の
筆なり。今猶存す…中略…門人あまたあり、絵馬や職人、幟画職人、提
灯屋職人、総て画を用る職分のものは、皆此門人となりて画法を学ぶも
の多し」と述べられている。このように等琳は、絵馬や屏風などといっ
た肉筆画を最も得意としていた。この等琳が三代目を継いだ時に浅草寺
に寄贈したといわれる「韓信股くぐり図」の絵馬が現存する。



墨の出る町には筆も生きている  柳多留



その他、雪山等琳名の絵馬を、東京近郊や上総安房方面の寺社に多く見
かけることがある。さらに『増補浮世絵類考』に堂舎の彩色を請け負っ
たり、貝細工などの見せ物までも、手掛けていたことが述べられている。
これは絵馬、幟絵などといった庶民的肉筆画を生業とする町絵師の元締
め的な存在であったことを示していると思われる。反面、浮世絵師とは
異なる町絵師という立場故か、狂歌絵本や摺物類以外の木版作品(錦絵)
は、ほとんど残っていない。 (『増補浮世絵類考』)



菓子鉢は蘭語でいうとダストヘル  新編柳多留



「等琳と北斎」
等琳北斎と互いに意識し合う関係だった、らしい。文化元年(1804)
に北斎が護国寺で大達磨を揮毫した際、等琳はその様子を見物して驚愕
したことや、反対に北斎が、浅草寺に掲げられた等琳の大絵馬について
門人の二代目・北斎と批評したという話が残る。
実作品を見ても、寛政から文化初年頃の北斎作品には、等琳風の漢画的
描写が見受けられる。他にも『北斎骨法婦人集』の序文によると、文政
5年(1822)春頃根岸御形松近くにあった等琳宅に一時、北斎が同居し
ており、さらに北斎の娘・応為は等琳の門人・南沢等明に嫁している。
これらから二人は、単なる同業者仲間を超えた深い交流があったと分る。



友だちに一竿戻す渡し守り  万句合



    
(漢の三傑)
    蕭何           張良        



「国士無双」
 劉邦の腹心であり、名宰相として知られた蕭何(しょうか)は、長び
く戦闘に疲れ故郷へ帰っていく多くの武将の中で「韓信だけは引き止め
たいと考え」、そのあとを追った。劉邦としては、韓信の実力を認識し
ていないから、蕭何の行動を理解することができなかった。そこで劉邦
は、その理由を蕭何に訊ねた。蕭何は、
「あなたが中国の地方の王で満足しているなら、彼を用いることもあり
ませんが、天下を取ろうと望まれるなら、彼を重用するより方法はない
のです。韓信は、国士無双と称するに足る人物なのですよ」と諭した。
劉邦も後に帝王となるような偉大な人だから、蕭何の論説を素直に信じ、
韓信を大将軍に任じた。
(※ 劉邦のもとに集まった「国士無双」と呼ばれるような英雄たちが、
劉邦の右腕となって全知全能を尽くして働いたのも、劉邦が「漢中の王
では収まる人物でない」と考えたからである。



三人寄って種を蒔く桃の下  詠史三国・晋

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茶助
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