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川柳的逍遥 人の世の一家言
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神代にもだます工面は酒が入り  万句合




                                            伊丹酒合戦の図
 
 
酒の良し悪しを語るのは人の常、江戸時代でも変わりはない。
江戸の人々も好みの銘柄や産地の酒を語り、楽しんだことであろう。
その江戸の酒を語るとき「下り酒」は、避けて通ることのできない話題
である。
 
 
世の中に酒というもの無かりせば  何に左の手を使うべき  蜀山人



「江戸の暮らし」 酒の話

 
 
「下り酒」
江戸時代初頭より、酒に限らず塩、醤油、油、呉服をはじめとする商品
のうち、品質のよい上等なものは、京・大坂を中心とした上方からもた
らされており、それらを総称して「下り物」と呼んだ。
江戸を中心とした関東で作られたものは「くだらない」ものなのである。
しかし、時代とともに、関東産の商品にも品質のよいものがあらわれて、
下り物を駆逐していった。その最たるものが醤油で、江戸時代中期以降、
下総(千葉)の銚子や野田をはじめとして醤油製造業が発展して、幕末
には上方醤油は、江戸市場から姿を消している。
 
 
から樽をみんなおろすと馬になり  万句合
 

 
酒の場合は、江戸時代を通じて下り酒の優位が続き、寛政年間(178
9-1800)には、幕府が政治的介入して、下り酒の江戸流入押え、
関東の製造業を保護する政策をとったほどである。
しかし、良質の酒を生産することが出来ず、結局は失敗して関東の酒は
「地廻り悪酒」などと呼ばれた。
 
 

から樽に馬の尻尾のはえたよう  玉柳
 
 


         「摂津国伊丹酒造之図」 
 
 
 
「灘の生一本」
下り酒は、年間60万から70万樽が、江戸にもたらされ、19世紀に
は100万樽にも及んだ。ただ、一口に下り酒といっても、産地などに
消長が見られた。17世紀以降、摂津(大阪府)の池田や伊丹の製造業
が発展しており、池田酒は甘口、伊丹酒は強い辛口であり「剣菱」ほか
の銘柄が好まれた。池田も伊丹も猪名川沿いの内陸に位置しているため、
より輸送に便利な条件を備えた灘が醸造地として発展して、江戸市場に
おける優位性を勝ち得ている。
灘では、冬にじっくりと作る寒造りの製法を確立し、18世紀以降には、
水車によって、米の精白度が飛躍的に向上して、有名な「灘の生一本」
が生まれている。
(※上方の醸造が江戸でもてはやされたのは、輸送の便だけではない。
かつて夏が酒造りの季節であり、雑菌のために酸味のある酒が出来るこ
とがあった)



我も迷うやさまざまの利き酒   新編柳多留
 
 
 

                                   新酒番船入津繁栄図 
その年の新酒を積み、西宮から江戸まで運ぶ早さを競う新酒番船は、
江戸の風物詩となっていた。
文久三年の番船が江戸に到着した様子。
 
 

「新酒番船」
その年の新酒を運ぶレースが「新酒番船」であった。西宮から江戸まで
「樽回船」に酒を積んで、その速さを競ったもので江戸の風物詩となっ
ていた。一着の船は、江戸酒問屋たちの盛大な出迎えを受け、この時の
新酒値段によって、その酒値段が決まった。新酒番船に勝つことは回船
問屋にとっては非常な名誉となった。当時、一隻の回船には290トン
の荷物が積まれたといい、通常江戸ー大坂間で10日から14日ほどを
要したが、新酒番船は3、4日で江戸に着いており、中には2日ほどで
到着した船もあった。
 
 

二日酔い飲んだところをかんがえる  柳多留




                                             銚釐で酒を飲む図
居酒屋では、框や椅子に腰かけて談笑しながら酒を酌み交す。
燗をつける小僧や、銚釐から直接注ぐ客の姿が見られる。
 
 

「江戸で飲む酒は冷やよりも燗」
江戸時代、濁り酒は別にして清酒の場合は、冷やよりも燗酒が主に飲ま
れていた。「鉄や銅鍋」に直接酒を温めたが、江戸時代中頃からチロリ
(銚釐)と呼ばれる取っ手のついた金属製の容器があらわれ、酒を温め
て柄のついた銚子に移して飲んだ。また、当時の居酒屋の情景を描いた
絵には、チロリから直接酒を注ぐ場面も見られる。
幕末には、小さな陶器製の器に入れて湯煎して、直接盃に注ぐ燗徳利が
生まれた。本来、銚子と徳利は別物なのである。
 
 

ちりぐるみ吸うはこぼした琥珀酒  新編柳多留



(拡大してご覧ください)
   酒器の絵
 
 
江戸時代の人々は想像以上に酒を飲んだようである。
仕事の帰り、居酒屋の店先に仕事道具の天秤棒を置いて、一杯飲む庶民
の姿も多く見られたことであろう。生活レベルは庶民と変わらない下級
武士の場合もよく酒を飲んでいる。
①燗鍋:かつては銅製の鍋に酒を入れて火にかけ燗をつけた。
②銚釐:酒を入れて湯煎して燗酒にした。
③銚子:銚釐で温めた酒を移した。
④燗徳利:幕末には陶器製の徳利に酒を入れて温めた。
(※ 幕末の江戸では、格式ある宴席のみに銚子を使い、他は燗徳利を
直接宴席に出した。宴席や料理屋などでも銚子を用いた)
 
 
なあるほどみの一つだになあるほど  新編柳多留
 
 
 
「酒は、愚痴の聞き役、色恋話の語り役」
儀礼に忙しい殿様は、品行方正で酒はあまり呑まず、ストレス発散に酒
の力を借りていたのは、大名の参勤交代について江戸詰めとなった中・
下級の武士たち。江戸の武家人口約50万のうち、大半が中・下級武士
で。一般の町人と比べて、広い屋敷の中に住まいを構えているものの、
その実態は、庶民とあまり変わらぬ長屋暮らし。違いといえば、屋敷内
には樹木や泉池があり、前庭で蔬菜(そさい)の自家栽培ができたこと
くらい。非番の日は役職によって3日から10日に1度程度、住まいは
狭く、単身赴任の寂しさもある。



何か物たらぬ雨夜のひとり酒  柳多留



そんな彼らの息抜きのひとつが酒である。日常的に酒を呑んでいたのは
もちろん、国元に帰れると喜んでは、酒を呑み、殿様の江戸滞在期間が
突然延長されたと聞けば、それを嘆いて、ヤケ酒を呑み、荒れに荒れ…
…。実際の記録にはこんなのがある。万延元年(1860)から江戸に
単身赴任となった紀州藩下級藩士・酒井伴四郎の場合、藩邸の長屋や銭
湯の二階で酒盛りを始め、蕎麦屋や料理屋に入って昼間から酒を飲み、
風邪薬と称して酒を飲む。江戸詰めの武士や庶民にとって、酒は生活に
なくてはならないものであった。



百毒の長だとおもう二日酔い  柳多留




         江戸一番の酒処ー豊島屋



「江戸の人々は酒豪だったというが」
江戸に運ばれてきた酒の量を江戸の全人口で割ると、1人あたり1日2
合の酒を飲んでいた計算になる。この計算で行くと、確かに江戸の人々
は酒をよく呑んだようだ。先に書いたように、上方から大きな樽を積ん
だ樽廻船で運ばれてきた、その量は年間90万樽にもなった。船に揺ら
れて運ばれる間に杉樽の中で酒と空気が程よく触れ合い、味がまろやか
になった。



としまやで通うちろりのなく聲は  柳多留



しかし、そのまろやかな酒も、そのまま庶民の口に入るかというと、そ
うではない。当時の酒は現在のアルコール度数の半分くらいで、安い酒
はそれをさらに水で薄めていたともいう。水で薄まった度数の低い酒を
飲んで『昨日は一升呑んだ』なんて豪語している酒豪が、江戸には数多
あったようだ。



いそがしさ浮世袋の酒びたし  柳多留



「酒の味」
下の句は、江戸の後期、4斗樽2本を馬の背に載せ、上方から江戸まで
運ぶ様を描いた句である。140里(560㌔)を超える道のりを10
日以上をかけて運ばれた樽の中の酒は、馬の背で揺られ、揉まれ続けて
熟成が進み、味が増したという。



酒十駄ゆりもて行くや夏木立  柳多留




   菱垣廻船        樽廻船



馬の背で運んだ酒は「樽廻船」に取って代わるが、4斗樽に詰められた
酒は、やはり船の上でもずっと揺られて熟成が進み、江戸へ着く頃には
柔らかく旨みのある酒となる。上方から波に揺られ、左手に富士山を見
ながら江戸に下ってきた酒を江戸の酒好きたちは「富士見酒」と呼んで、
親しんだという。



一軒でよべばすだれが皆うごき  万句合



また、上方から江戸まで運んだ「下り酒」を再び、上方までそのまま、
持って帰ってきた酒のことを「戻り酒」という。船に揺られる時間が
倍となって熟成が進み、酒がさらに旨くなって珍重された。
幕末に田辺藩藩医原田某が勤番侍の江戸生活マニュアルとして書いた
(※『江戸自慢』には、下り酒でなくとも、上等なものは口当たりも
よいと記している。しかし、値段が非常に高く、酔いが醒めるのもい
たって早いとあり、大酒飲みはたちまち財布が空になって、借金の淵
に沈むと書いている。)



女房はぬかに釘だと古事をいい  柳多留
 
 
 

           酒飲み合戦
 
 
 
「千住・酒飲み合戦」
江戸の酒食文化が爛熟に達した文化・文政期(1804ー30)それを
象徴するのが酒量を競う大酒会である。
文化12年の11月、千住の中屋六右衛門の還暦記念に催された、人
気の文人・亀田鵬斎と画人の谷文晁が、検分役として迎えられ、大田
南畝(蜀山人)酒井抱一も同席した。
南畝は参加者の酔態など、酒合戦の模様を『後水鳥記』に記し、狂歌
も詠んでいる。



はかりなき大盃のたたかいは  いくら飲みても乱に及ばず  蜀山人
 

 
(拡大してご覧ください)
    緑毛亀杯



大盃にはそれぞれ呼び名があり、市兵衛なる人は、一升五合入の「万
寿無量杯」を三杯、作兵衛なる者は二升五合入の「緑毛亀杯」を三杯
も飲み干したという。ちなみに2年後の文化14年3月には、両国柳
橋の料亭万八楼で、大酒大食会が行われ、これも大評判になった。
 


世の中は色と酒とがかたきなり どうぞ敵にめぐりあいたい  蜀山人

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