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川柳的逍遥 人の世の一家言
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金平糖手に遊ばせて聞き流す  合田瑠美子
 


 

  黒髪を売る煕子


「明智光秀の妻と子供と従兄妹)


光秀に愛され続けた妻・煕子
光秀の妻は煕子(ひろこ)という。生年は不詳。父は妻木範煕、妻木広
という2説あるが、煕子の「煕」からとったものともいわれる。
ただ、範煕、広忠は同一人物という説もある。
光秀が生まれた当時の明智家は、決して大きな力は持ち合わせておらず、
美濃の小土豪に過ぎなかった。光秀自身も明智家の居館で生まれること
はなかったようで、高木家の居城だった美濃の多羅城で生まれている。
そして、幼少期は妻木家の庇護を受けながら成長したようだ。だが幼少
期の彦太郎ことのちの光秀は、周囲からの評価は非常に高く、斎藤道三
「万人の将となる人相」をしていたと言う。

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そのようなこともあり彦太郎は、土岐郡妻木城を本拠とする妻木家から
ある程度安定した生活を送れるだけの庇護を受けながら育ち、自然な流
れとして、元服した明智十兵衛光秀は、幼馴染みでもあった妻木範煕
娘・煕子を娶った。弘治2年(1556)斎藤義龍によって明智城を落
とされ越前に落ちた際、煕子は、身籠っていたというから、2人の婚姻
は少なくとも弘治2年以前ということになる。資料的には、光秀20歳
のとき煕子と天文14年(1545)に婚約をしたと伝わる。また西教
寺の過去帳には、光秀の妻について没年などの記載もある。


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天正4年(1576)10月、光秀の室・煕子は病に罹り、光秀は病気
の平癒を吉田兼見に依頼した。兼見は、お祓いとお守りをもって煕子を
見舞い、煕子は、同月24日には快方に向かった。喜んだ光秀は、兼見
に折紙と銀子1枚を贈った。(兼見卿記)
この後、光秀の室は史料上にあらわれず、そのまま健康を保ちえたのか
は不明。このように煕子の病は回復に向かったようだが、11月7日に
亡くなった。(西教寺塔頭実成坊過去帳)
ただし、この光秀の室が煕子と同一人物であるかは、確定し難く、側室
の可能性もある。というのは『川角太閤記』に本能寺の変後、明智秀満
が光秀の妻子を介錯した後に自刃とも書かれており、情報が一致しない。

受け身になって愛の深さを考える  本田洋子










「黒髪を売って光秀を支えたと伝えられる煕子 」
光秀が越前の朝倉氏に出仕していた頃、光秀は歌会を催すための資金繰
りに悩んでいた。その際に、煕子が黒髪を売ってお金の工面したという
エピソードが伝えられている。検証してみると、妻木氏はこの当時、小
土豪だった明智家を保護できるだけの力を持っていた。それだけ力を持
った家の娘が、仮にお金を工面するために黒髪を売ったとなれば、光秀
としては妻木家の面汚しとなってしまう。恐らくは黒髪を売ったのでは
なく、売ろうとおもう心境にあったということだろう。実際には煕子の
父親である妻木範煕が支援したと考えるのが自然である。 すなわち女性
が黒髪を切ったり剃髪するのは出家した時だ。しかし煕子は、光秀の妻
であり出家などしていない。親に云えば答えは見えている。だから糟糠
の妻として親に頼らずに煕子は、髪を切って売ったということなのか。


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「光秀の子供」
明智軍記によれば、光秀に妻・煕子との間に三男四女があったという。
ほかに系図等の記載のみで確認できる光秀の子どもがいる。
津田宗久『天王寺屋会記』によると「惟任(これとう)日向守殿父子
三人」とあるので、少なくとも二人の子どもがいたのは確かである。
嫡男とされるのが光慶である。生年は不詳であり、永禄12年(156
9)誕生説もあるが、明確な根拠はない。通説に、仮名を「十五郎」と
するが、最近では父と同じ「十兵衛」が正しいのではないかと指摘され
ている。本能寺の変の直前に催された連歌会「愛宕百韻」に光秀に同行
して参加し「明智十兵衛」と記されている。


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   ガラシャ

このほか光秀の子息として自然丸とその弟の2人の男子が確認できる。
いずれもその事績は詳しいことがわかっていない。
次に女子である。光秀の娘といえば、玉(ガラシャ)が有名だ。
玉は永禄6年に光秀の三女として誕生した。天正6年に細川藤孝の嫡男
忠興と結婚した。この結婚からは、明智氏細川氏の深く良好な関係
がうかがえる。天正10年(1582)の本能寺の変後も、忠興と玉の
睦まじい夫婦関係は続いた。しかし、同年6月、父の光秀が織田信長
本能寺で討って、自らも山崎の戦い後に滅んだため、玉は「謀叛人の娘」
となる。忠興は天正12年まで玉を丹後国の三戸野に幽閉する。
この間の彼女を支えたのは、結婚する時に付けられた小侍従や、細川家
の親戚筋にあたる清原家の清原マリア(公家・清原枝賢の娘)らの侍女
達だった。


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天正12年、ようやく玉は赦された。は再び忠興と、大坂玉造で生活
をともにする。その翌年には次男・興秋、さらにその翌年には忠利が誕
生している。美貌で知られた玉は、豊臣秀吉から参上するように命じら
れたことがある。そのとき、玉は短刀を懐に隠し、いざというときの覚
悟をしていた。それを知った秀吉は、かえってその心掛けを褒めたとい
う逸話がある。この頃、玉は高山右近からキリスト教の話を聞き、関心
を持つようになった。天正15年、忠興が九州出兵に出陣中、玉は小侍
従とともにイエズス会の教会を尋ねた。そこではじめてキリスト教の教
えに触れ、その教理などについて尋ねた。聡明な玉の質問は的確であり、
応対したスペイン人も驚いたという。



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がキリスト教に関心をよせていたことは、やがて細川家中に知れわた
り、ついに外出が禁止された。そかし、玉は小侍従を教会で学ばせ、間
接的に教えを習得しようと努力した。のちに玉が大坂の細川屋敷で洗礼
を受けた際、再来日したヴァリニャーノは使者を送ったという。慶長5
年(1600)の関ヶ原の戦いがガラシャの運命を変える。ガラシャは
石田三成から大坂城へ入るよう指示されるが、光成の思惑をよみ、忠興
が東軍に属している夫が、心置きなく戦に臨めるよう慮ったうえ、家臣
小笠原少斎に胸を突かせた。


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「光秀の従兄妹」
斉藤道三の室は「小見の方」で、東美濃の明智氏の女性とされる。
道三の支配が東美濃にまで及んでいたのかどうか、道三は東美濃に勢力
を拡大すべく明智氏の娘を娶った。(『美濃国諸旧記』)
この小見の方と道三の間に生れ、のちに織田信長に嫁いだ娘が「帰蝶」
である。光秀とは従兄妹になる。天文17年(1548)に道三の娘が、
和議の証しとして信長に嫁いだことは、「信長公記」にもある。
ただし、その娘の名が「帰蝶」(濃姫)であったかどうかは不明。
なお、信長の正室・濃姫として有名だが、信長との間には子はなかった。
濃姫の生涯に関しても不明な点が多く、その実像はよくわからない。時
代劇では、本能寺の変に際して、濃姫が薙刀を振るい、戦死する場面が
描かれているが、濃姫が本能寺で死んだとする史料は確認されていない。
信長没後「安土殿」と呼ばれ、尾張国で余生を送り、慶長17年(16
12)に死んだという説もある。


パック剥ぐ女真っ赤な嘘も剥ぐ  上田 仁

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