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川柳的逍遥 人の世の一家言
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政論が大好物の天邪鬼  松浦英夫



 
                            「 麒 麟 が く る  」
 
 
「天正7‐8年 光秀の動き」
光秀は、丹波・丹後両国の平定を成し遂げ、既に任されていた近江志賀
郡に加えて丹波国を領国として支配する「織田大名」となった。
天正7年10月のことである。翌8年には、光秀は、丹後宮津城の城主
となった細川藤孝、忠興親子や大和郡山の筒井順啓らと縁戚を交わし、
日本の中央にあった京都など、畿内地域(『天下』)の守衛を掌った。
つまり、信長が日本の中央に君臨する「天下人」であるならば、光秀は
その活動を裏から支える織田家の重鎮にあった。
まず手始めにとりおこなったのが「馬揃え」(軍事パレード)であった。



政治にはパフォーマンスという虚飾  森井克子



「光秀激動の15年」 天正9-10年



【馬揃え】
天正9年(1581)正月23日、光秀54歳。信長は京都で馬揃えを
敢行することを決め、光秀に「京都の公家や織田軍団の諸将には、光秀
から馬揃えのことを触れるように」という内容の朱印状を与えている。
こうして馬揃えの総責任者に抜擢された光秀は、公家や諸将に馬揃えを
報じると共に、京都御所の東に東西一町(約87㍍)、南北八町(約8
72㍍)の馬塲を構築した。



馬の足さくら吹雪の外にいる  村山浩吉



『信長公記』によれば次のような顔触れ、順番であったという。
一番=丹羽長秀・摂津衆・若狭衆
二番=蜂屋頼隆・河内衆・和泉衆
三番=明智光秀・大和衆・上山城衆
四番=村井貞勝・根来衆・上山城衆
五番=織田信忠・御連枝の御衆
六番=近衛前久・公家衆
七番=細川昭元・旧幕臣衆
八番=馬廻衆・小姓衆
九番=柴田勝家・越前衆
十番=織田信長
羽柴秀吉は遠征中のため不在だが、この馬揃えには、織田軍団の精鋭が
参加しており、近衛前久ら公家衆も顔を出している。当日、特設された
桟敷から見物した正親町天皇(おおぎまち)も馬揃えの素晴らしさを称
賛したという。



マンモスをティッシュで包むプロジェクト  井上一筒



少なくとも、ここまでの光秀の出世と明智家の権勢獲得には、信長との
強い信頼関係があったことはいうまでもない。
「馬揃え」を見事に成功させた光秀は、信長からお褒めの言葉を賜った
ろうが、近年、軍事力を見せつけることで「信長には、正親町天皇に譲
位を迫る意図があった」とする説が支持されている。そのような意図が
あったとすれば、光秀の心中も複雑だったに違いない。



秋風に晒す薄っぺらい矜持  徳山泰子
 


(拡大してご覧ください)
  明智光秀家中軍法


【光秀の微妙な心の変化】
では、そんな天下人の信長から、強い信頼を得ていた光秀や明智家を、
謀反にかりたててしまった要因とは、なんだったのだろうか。
実は、畿内地域の守衛の役割を基盤に権勢を誇っていた明智家だったが、
その一方で織田家を取り巻く「情勢変化」の中で、その立場や今後の行
く末に、影響のおよぶ事態が起きていた。
その一つが、近年注目される織田家の「四国対策」である。



ブラックホールを時系列で刻む  森田律子


 

            四 国 征 討


問題となったのは「四国の支配」をどう行うかということだった。
戦国時代、四国では、土佐に本拠を置く長曾我部と、阿波に本拠を置く
三好氏とが覇権を争っていた。信長は当初、長曾我部氏と結んで、四国
に勢力を伸ばそうとしていた。その仲立ちをしたのが光秀である。
光秀を頼った長曾我部氏は、信長に忠誠を誓うことで、安心して合戦を
続け、四国全土を征服しかねない勢いを見せた。
ところが、天正9年6月、信長は突如として思いもよらぬ命令を発した。
長曾我部氏の当主・元親の弟。香宗我部親泰(こうそかべちかやす)へ
の朱印状には、次のように記されている。
「阿波の支配は三好氏に任せることにするので、長曾我部氏は、三好氏
を援助するように」



大根の髭は他人を騙さない  桑原伸吉



【次に、暦の変更問題】
天正10年2月、光秀55歳。信長はさらに、思い切った要求を朝廷に
突き付けた。「暦の変更」である。
天皇が定めた当時の暦では、天正11年1月に「閏月」があった。
しかし、信長の出身地尾張では、天正10年12月を「閏月」にする暦
が使われるなど、地方によってまちまちだった。
朝廷の暦は「宣明暦」を基礎とした京暦を用いたのに対し、尾張などで
使われていたのは「三島暦」という。その暦を、信長は尾張のものに統
一しようとしたのである。
「暦の制定」は、古来、日本では天皇だけが定める権限を持つ、いわば
神聖にして浸すべからざる事柄であった。その権限を浸そうとする信長
の行為は、多くの人に衝撃を与えた。光秀もまた、その一人であったと
考えられる。



蟷螂の斧が吠えてるお月様  荻野浩子



信長が暦の問題に介入してきたというのは、明らかに天皇に対する権限
侵害を狙ったものだろう。行幸することによって、天下人である信長の
権威の前に、天皇が平伏していくという構図が、可視的にアピールされ
ることになる。ましてや国主大名クラスの重臣ですら、転封を余儀なく
されていた体制の成立がみえてきていた時だから「伝統的な幕府体制の
復活」にかけていた光秀にすれば、大変なことだ思っただろう。
そして光秀は、公家衆や信長の家臣団の不協和音や反感を、目や耳にし
たりして、「反信長は自分一人ではない、将軍義昭を奉じて、朝廷と結
び信長を討てば、きっと自分は広く支持されるのではないか」と確信し
ていった。



雨ノニホヒ水瓜ノニホヒ御乱行  酒井かがり



【蛇足】
「暦の制定」という問題は「元号の制定」と同じで、重要な問題であり、
当時の天皇に残された唯一最大の権限であった。信長が暦の問題に介入
してきたというのは、明らかに、天皇に対する権限侵害を狙ったものと
解釈される。



賛同はいたしかねます一括り  山本早苗
 


(拡大してご覧ください)
   石谷家文書

この石谷家文書に収録されている天正10年5月21日付け「斉藤利三
宛 長曾我部元親書状」が公表されたことで、光秀蜂起の動機をめぐる
「四国政策転換説」が再浮上した。



 【再び、四国問題】
「暦の問題」が起きてから三ヶ月後の天正10年5月、信長は、光秀
決定的に追い詰める出来事を起こした。
長曾我部氏に最後通牒を突き付けて、四国への遠征軍編成したのだ。
5月7日、信長は「四国の処分案」を明らかにした。長曾我部氏の勢力
圏とはお構いなしに、讃岐と阿波は、信長の三男・信孝三好氏に預け、
土佐と伊予の処分は、あとで信長が決めるというのである。そしてその
遠征軍の出発日は、6月2日と決められた。



しゃっくりが止まらぬままに幕上がる  指方宏子



そもそも阿波は、長曾我部氏が自らの努力で領土とした土地である。
それを一方的に「三好氏のものにせよ」という命令は、承服しがたいも
のだった。
<信長に忠誠を誓ったのも、領地を保証してもらえると思ったからこそ
のこと。なのに、ここに来て、突然取り上げられるとは>長曾我部氏の
当主・元親は反発した。長曾我部氏が従わないとみるや、四国侵攻の準
備を命じた信長。その真の狙いは、四国全土の征服であることは明白で
あった。



浮き雲の裏でゲリラを産みおとす  堀口雅乃
 



  長曾我部元親



信長長曾我部氏の仲立ちをした光秀の面目は、丸つぶれになった。
長曾我部元親は、光秀の重臣・斎藤利三の妹と縁組をしていたうえに、
光秀は長曾我部氏に「信長に尽くせば安泰だ」と説得していたのである。
思わぬ成り行きに驚く光秀、追い打ちをかけるように、光秀は信長から
四国担当を外されてしまう。
<おかしい。信長様はいったい何をやろうとしているのか>
光秀の心には、信長の改革に対する底知れぬ疑念と恐怖が沸き起こって
来たにちがいない。「本能寺の変」その半年前のことであった。



いっぱいの矛盾へコーヒー冷めてゆく  山本昌乃



【刻々とその時へ】
「古い秩序の回復」を目指す光秀は、朝廷の権威をないがしろにする信
長の行動に危機感を強めていったのだろう。そんな光秀と朝廷の一部と
が、連携をとりつつあったと推察できる史料がある。
<信長打談合衆>(信長を討つために談合していた衆である)この勧修
寺晴豊の日記『天正10年夏記』6月17日のくだりは、明智光秀の家
臣・斎藤利三が、護送されているのを見て記されたもので、光秀と公家
が、信長暗殺について相談していたともとれるものである。



道程の中程からは土砂降りで  北原照子



「三七殿(織田信孝)、五郎左衛門殿(丹羽長秀)、四国へ6月2日に
渡海あるべし…」(『細川忠興軍功記』)
「このままでは長曾我部氏は滅亡して、光秀の立場も危うくなる」
長曾我部氏の文書には、光秀の重臣・斎藤利三が、信長の四国攻撃を
憂いて光秀に謀反を促した、という記述が残っている>
「斎藤内蔵助(利三)は四国の儀を気遣いに存ずるによって也、明智殿
謀反の事いよいよ差し急がるる」(『長曾我部元親記』)
光秀は重臣からも「信長討つべし」という突き上げを受けていたのであ
った。「本能寺の変」3週間前のことである。



右寄りの風がびしびし吹いている  上山堅坊



【斉藤利三宛長宗我部元親書状】
土佐の戦国大名・長宗我部元親が、明智光秀の腹心に宛てた書状からは、
「本能寺の変」の要因をめぐり、元親と光秀の緊密な関係がクローズア
ップされた。



闇に文字描いて明日を吉にする  瀬川端紀

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