忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[951] [950] [949] [948] [947] [946] [945] [944] [943] [942] [941]

デジャヴが揺れるマネキンの昼下がり  森田律子




 
         安土城天守

 
 
「麒麟がくる」 光秀激動の15年③



信長の夢の象徴ともいうべき安土城。その姿からは、天下統一のあとに
信長が考えていた新しい日本の体制が、どのようなものであったかを伺
い知ることができる。最近の発掘調査によって、安土城の天守の傍らに、
天皇の御所である清涼殿に似た建物が建てられていることが分った。
『信長公記』には、天正10年(1582)正月のくだりに「御幸の間」
「安土城本丸御殿」にあるという記述がある。
さらに信長と朝廷との間の連絡役、武家伝奏という役目を担っていた勧
修寺の日記『晴豊記』の正月七日の記述には、
「行幸之用意馬鞍こしらえ出来」行幸に使う馬に鞍の用意ができた)
とある。
おそらく信長が、天皇を安土に招くつもりで、行幸の準備が進められて
いたのだろう。天皇を招いて自分の膝元に置く。そういう信長の考えは、
朝廷の権威をないがしろにするものと受け取られた。



その話ふくらみすぎてカットせよ  畑 照代



「天正1-5年補足と光秀の動き」
 
【長政、自害】
天正元年(1573)光秀46歳。4月、武田信玄没。7月、坂本城で
連歌会を催す。信長に従い足利義昭を山城槙島城に攻める。義昭降伏。
8月、朝倉義景自刃。9月、長政「一緒に死にます」と縋るお市を諭し、
小谷城落城とともに自刃。
『信長語録』
信長は、朝倉義景を滅ぼした一乗谷城の戦いの「朝倉を逃がさないよ
うに」と何度も家臣らに厳命した。 朝倉軍が撤退をはじめると、信長は
自ら先駆けて追撃したが、再三厳命を受けていた先陣の家臣らは、信長
よりも遅れて駆けつけたため、信長から叱責された。
家臣らは謹んであやまったが、その中で重臣の佐久間信盛は、涙を流し
ながらも「そうはおっしゃいましても、我々ほどの家臣はお持ちにはな
られますまい」と言い返し、信長はその自惚れに激怒して、機嫌が悪か
った、という。



ひと言が多くていつも蹴躓く 津田照子



【越前を一向一揆が支配】
天正2年(1574)光秀47歳。2月、東美濃に出陣。7月、越前が
一向一揆の支配国となる。信長は伊勢で抵抗を続けていた長島願正寺に
大軍を派遣。完全殺戮を命じ、男女2万人が焼き殺された。
『信長語録』
一向一揆討伐で蒲生氏郷が、大剛の敵の首を取って実検にもってきた時、
信長は冷笑しながら
「およそ勝負は時の運によるもので、計画して勝てるものではない。
功名は武士の本意とはいっても、そのあり方によるものだ。いまの汝の
功名は、軽率な挙動だ。一角の武を志す程の者ならば、決してこのよう
な功名を望んではならぬ。身の危険を顧みないのは、それ程の功とはい
えぬ。今後はこのことを忘れるな」と氏郷を戒めた。



あざやかな切り口文体が透ける  荻野浩子




             長篠の戦



【一向一揆、敗退】
天正3年(1575)光秀48歳。5月、「長篠設楽原の戦6月、
丹波攻略に着手。「明智十兵衛尉」「惟任日向守」に改名。
信長と共に越前討伐を開始。荻野直正の丹波黒井城を攻める。
『信長語録』① 「名将言行録ゟ」
「組織に貢献してくれるのは、優秀な者よりも能力は並の上だが、忠実
な者の方だ」
長篠の戦いの時、信長は牛久保から新城まで、三里の道を三日かけて進
んだ。織田家中の上下の者らは「これは武田を恐れてのこと」として悉
く非難した。しかし、信長の腹の内は「武田勝頼に弱みをみせ、思い上
がらせておく」という策であった。そして、なにも知らない勝頼は信長
を侮り、無謀な戦を仕掛けて大敗した。



「判ったぞ」そうか私は馬鹿なんだ  中野六助



『信長語録』② 「名将言行録ゟ」
『必死に生きてこそ、その生涯は光を放つ』
長篠の戦いで多田三八郎の子の久蔵を生け捕りにした際、信長は久蔵に
「家臣になるよう」に言った。彼は信玄に仕え29回もの戦功を挙げた
猛将であったからである。ところが久蔵は「縄をほどいたとたん、長柄
を取って、信長の若い家臣を数人突き刺して殺し、逃亡を計ったため、
その場で取り押さえられて、首を取られてしまった」
信長は、勇将の久蔵の死を深く惜しんだという。



人情の機微は法では裁けない  山田順啓
 



        鉄張り戦艦
 


天正4年(1576)光秀49歳。1月、丹波八上城の波多野秀治の寝
返りにより黒井城攻め敗走。信長、安土城へ移る。4月、本願寺攻め。
荒木村重、明智光秀など織田軍は、海と陸から「本願寺攻撃」に向かう。
本願寺は新たな包囲網で対抗。上杉謙信、武田勝頼、友好関係にあった
毛利輝元も信長包囲網に加わる。5月、陣中で発病するも7月には平癒。
11月、妻の煕子(ひろこ)没。
【毛利水軍、織田軍を破る】
7月、毛利水軍は、「本願寺」に兵糧を運ぶために船隊を組んで大坂湾に
進む。木津川口で迎え撃つ織田軍の船は、毛利水軍の武器「焙烙」(ほう
ろく)に圧倒され敗北する。これに対し、信長は九鬼嘉隆滝川一益大船
の鋳造を命じる。「焙烙」の攻撃を防ぐために、船に厚い鉄板を張り付け
させ、大砲を三門搭載。世界初の「鉄張り戦艦」を完成させた。



実力をお目にかけます明日から  新家完司



天正5年(1577)光秀50歳。3月、紀伊雑賀党を攻める。8月、
松永久秀、信長に背き、大和信貴山城に依る。10月、久秀自害。細川
藤孝と丹波籾井城を攻め、丹波攻略を再開。



草抜いておけば問題ないでしょう  竹内ゆみこ
 
 

   
   荒木村重         波多野秀治
  
 
 
天正6年(1578)光秀51歳。1月、坂本城で茶会を催す。3月、
上杉謙信、没。波多野秀治を八上城に攻める。8月、娘(ガラシャ)
細川忠興に嫁す。10月、光秀と姻戚関係にあった摂津の荒木村重が、
信長に離反し、毛利方につく。光秀の必死の説得も好転せず、信長より
荒木村重討伐を命じられる。



猿のままいればよかったのに進化  清水すみれ



天正7年(1579)光秀52歳。1月、坂本城で茶会を催す。5月、
琵琶湖のほとりの安土の地に、巨大な城の建設をはじめていた信長は、
城が完成すると、その天守に移り住んだ。6月、八上城落城。7月、
丹波宇津城、同鬼ヶ城を攻める。御料所丹波山国荘を回復した功により、
正親町天皇より鎧などを賜る。8月、黒井城の赤井忠家を降す。9月、
荒木村重、有岡城から尼崎城へ移る。10月、安土城で丹波・丹後平定
を報告。



ピリオドの棘をきれいに抜いておく  みつ木もも花





         安土城石垣と資料



【信長の安土城建設の意図】
安土城は信長が、まさに夢を託して築いた城であった。その天守が聳え
る安土城の麓に、信長は、武家屋敷を建築させた。配下の武士たちに、
「本国の領地を離れて、安土に住むこと」を命じた。それは当時の武士
の常識を覆す命令であった。
鎌倉時代以来、武士たちは「本領」といわれる先祖代々の土地に根付い
て暮らしてきた。有力な武将に仕えて奉公するのは、この「本領」を安
堵してもらうため、つまりは土地の支配権を保証してもらうためだった
のである。ところが、信長の方針は違っていた。信長は、家臣に新たな
領地を与えるのではなく、預けておく、だけにしたのであった。こうす
れば、家臣たちは、その土地の権益にとらわれることなく、政治に励む
ことになる。信長が武士を土地から切り離そうとしたのは、家柄という
過去の遺産によらず、個人の能力を最大限に発揮させるためだった。



お醤油をたらしてちょうどいい厚み  井上しのぶ   



【武家改革の真意と光秀の違和感】   
伝統的な幕府体制の復活にかけていた光秀からすれば、大名が領地から
離されて、ましてや役人化していくような、こんな急激な改革には「と
てもついていけない」と感じた。これに光秀は信長に違和感を抱いた



卵焼きの匂いがする始発駅  神乃宇乃子 
 



     兵農分離とは
 

 
中世の武士にとって、父祖伝来の領地というものは「本領」として、将
軍であろうが守護であろうが勝手に、召し上げられるということなどは
なかった。また、武士が自分の実力で切り取ってきた「領土」について
も同様である。ところが信長の改革は「武士をその本領から離していく」
という激しいものだった。信長は、全国の統一事業を進めていく上で、
家臣対しては、その能力に応じて、領地、城郭、領民を与えていった。
戦争が大規模化して長期化していくと、会社的な規模で職業的な軍人と
専業農民とを分けていくこと、いわゆる「兵農分離」を進めたのである。



躓いた小石に明日を捥ぎ取られ  上田 仁



その兵農分離を進めていく前提として、天下人である信長の命令一つで、
領主が領地から離されたり、新たな土地へ転封されたりした。
つまり「鉢植え大名」を作っていくのである。
大名は、まさに鉢植えの木のように動かされ、家臣団もそれについてい
かねばならない。鉢植え大名化が進めば、兵農分離も進んでいくのであ
る。国主大名クラスの重臣ですら、転封を余儀なくされていくという体
制が見えてくることは、伝統的な「幕府体制の復活」にかけていた光秀
からすれば、大名が領地から離されて、ましてや役人化していくような、
こんな急激な改革には「とてもついていけない」と感じた、はずである。



目的があって階段下りた筈  前中一晃



【光秀、丹波を平定】
天正7年7月、光秀は難攻不落と言われた丹波国を平定し、信長は高く
評価。恩賞として丹波一国を与えられる。



ト書きにはここで「クシャミ」と書いてある  嶋沢喜八郎





      大坂本願寺推定復元模型 (まさに城である)



【信長、講和案を提示】
天正8年(1580)光秀53歳。1月、坂本城で茶会を催す。3月、
信長顕如率いる本願寺に「大坂の地を引き渡すならば、教団を許し、
今後その地位を保証する」という講和案を提示。
これに顕如は、大坂を出て和歌山の鷺森御坊に移る。信長と妥協した
顕如に対し、顕如の息子・教如は、本願寺にこもり徹底抗戦を全国各地
の信者に呼びかける。8月2日、教如も大坂の地を退く。織田軍に追い
詰められた本願寺もついに降伏。ここに「石山合戦」は終結を迎える。



虹になる真っ最中のアメフラシ 河村啓子



【信長、佐久間信盛を高野山に追放】
信長は身内に対しては、超合理的な組織を築いた。出自にかかわらず
実力を重んじ、有能な者をどんどん抜擢した。農民出身の豊臣秀吉、
浪人の明智光秀、忍者出身といわれる滝川一益らが、大きな領地と仕事
を任された。反面で信長は、使えない家臣には容赦がなかった。
石山本願寺との戦いが終結すると、すさまじいリストラを断行。
林通勝佐久間信盛ら老臣を次々と追放していく。その行き過ぎた合理
主義が、神経の細い光秀をして「自分も追放されるのでは」と、疑心を
もたせるにつながっていくのである。



10センチ以上も以下も間引かれる  居谷真理子

拍手[4回]

PR


Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開