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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ハートにも枯れ葉模様が降り積もる  新家完司



「光秀激動の15年」 光秀、謀反の動機
 
 
 
   
   明智光秀        森蘭丸
 
 
 
天正9年、光秀54歳。前年に「天下」(京都周辺の領域)が平定され
た後、光秀は、信長の支配領域である「天下」を守備する立場として、
信長の親衛隊長のような役割を担っていた。その一方で光秀は、信長に
従って甲斐の武田氏討伐に出陣し、その終了後の10月15日、近江安
土城へ駿河加増の礼へ来訪した「徳川家康の接待」を任された。
『信長公記』によると、光秀は「京都堺にて珍物を整へ、生便敷(おび
ただしき)結構にて、十五日より十七日迄、家康の接待に没頭した」
ある。このように光秀は、準備に奔走して、家康を、至れり尽くせりの
もてなしをした。が、この3日のうちに「信長と光秀の間で、何らかの
対立が起こっていた」と、ルイスフロイス『日本史』に、秀吉『川
角太閤記』にすっぱ抜いている。



紫の袱紗をかけて出す料理  山本早苗



【光秀は、どんな料理で家康をもてなしたのか』



 
1の膳
① 金高立入 蛸(湯引たこ) ② 鯛の焼き物 ③菜汁 ④ 膾(な
ます) ⑤ 高立入 香の物(味噌漬大根) ⑥ 鮒の寿司  ⑦ 御



どうにでもしてくださいと鯛のうつろ  寺島洋子



2の膳
① 絵を書いた金の桶入 うるか(鮎の内臓の塩辛) ② 高立入 宇
治丸(鰻の丸蒲焼き) ③ ほや冷や汁 ④ 太煮(干ナマコに由芋を
入れた味噌煮) ⑤ 貝鮑(絵入り金色の輪にで) ⑥ 高立入 はも
(照焼き) ⑦ 鯉の汁



本籍を移した白焼きのうなぎ  森田律子



3の膳
① 焼き鳥(鶉[雲雀]の姿焼き) ② 山の芋鶴汁(仏産鶴とろ汁 
味噌仕立て)③ がざみ(ワタリガニの一種) ④ 辛螺(にしがいの
壷煎) ⑤ 鱸の汁



じゃがいもよお前もほんのりと恋  山口ろっぱ



4の膳
① 高立入 巻するめ  ② 鮒の汁  ③高立入 椎茸 ④ 色絵皿



味付けは薄めであしたから他人  清水すみれ


 5の膳
① 真名鰹さしみ  ②生姜酢  ③ 鴨の味噌汁 ④ けずり昆布  
⑤ 土器入りのごぼう



秘伝の出しは利尻昆布と猫のツメ  岡谷 樹



6の膳(足付の縁高御菓子)
① から花(造花)  ② 干し柿  ③ 豆飴  ④ 胡桃
⑤ 花昆布  ⑥ 求肥(はぶたえ)餅



あこがれの大空を行く 鯉として  徳山泰子







【飲み会の締めは、汁かけ飯】
非公式なので式次第には書かないが、宴会の最後は無礼講。当時の武家
の饗応は、箸の取り方から饅頭の食べ方まで、事細かなマナーに縛られ
ていたが、会の最後にはそんなことは忘れ、提供されたあらゆる汁もの、
吸物をご飯のうえにかけたようだ。
雉の青かち汁に饅頭のかけ汁、魚介の吸物を姫飯のうえにかけ、ズズッ
と景気よく啜ったら…安土桃山時代の飲み会の締めは、ラーメンライス
先祖のような味がする。



泳法を変えて世間を広くする  吉松澄子



「食のエピソード」
「かわらけに盛られた吸い物や酒を飲む時は、事前に唇を舐めて湿らせ
ておかないと唇の皮が剥ける」
これはルイスフロイスが痛い目にあった経験から、仲間の宣教師に丁寧
に忠告した言葉。天皇も公卿も武将も茶人も、食前にペロっとやったの
であろうか。



唯一の失敗が横で寝ています  中岡千代美




      森蘭丸に殴打される光秀
信長の勘気に触れ、家康の饗応役を解任されたうえに森蘭丸に殴打され
るという、屈辱を味わった光秀。(『絵本太閤記』ゟ)


【蘭丸の光秀殴打事件の出所は『狂言絵本太平記』か】
狂言絵本太平記は武智(明智)光秀を、暴君・小田春永(織田信長)の
イメージに耐える貴公子とした。激怒した春永が、美少年の森の蘭丸に
鉄扇で打擲するよう命じる場面は、定番になり、四世鶴屋南北などでも
踏襲されている。歌舞伎や浄瑠璃の世界では、光秀は、いわれなき虐待
を受ける悲劇のヒーローであり、それが判官贔屓の感情を刺激して、魅
力的な武将の劇に仕立て上げられている。



鴨川を流れる噂みたいなもの  雨森茂樹




                    斉藤利三(太平記英雄伝)



【光秀、謀反の動機についてー①】
斉藤利三「無双の英勇」「隠れなき勇士」とうたわれた明智家随一の
勇将であった。その武勇は「丹後攻め」においていかんなく発揮された。
天正7年(1579)に黒井城を攻略し、丹波平定を終えると、利三は
城主に任じられ氷上郡の支配を任された。一方、独自の人脈により光秀
の外交政策も担った。実兄である石谷頼辰の妻の姉妹が四国の長曾我部
元親に嫁いでいた関係から、光秀が信長と元親の同盟の取次役となり、
外交窓口を利三・頼辰兄弟が務めた。長曾我部氏との交渉は、天正6年
ごろに始ったとされ、以後、織田家と友好関係を保ったが、この役目が
利三と光秀の運命を暗転させることになる。



方程式狂って影を切り刻む  上田 仁



天正8年、信長の「四国政策」の転換により、元親の分国の縮小方針が
打ち出されると両家の関係は、一気に冷え込んだ。光秀・利三の面目は
丸潰れとなり、信長に対する不満が高じていった。そこに、利三が信長
に自害を命じられる事件が起きる。
同10年、稲葉一鉄の家臣・那波直治(なわなおはる)が利三の口利き
で明智家に仕官した。しかし、怒った一鉄が信長に訴えたため、那波は
稲葉家に帰参、利三には、切腹が命じられ、光秀も激しい譴責を受けた
という。
信長の側近のとりなしで、何とか助命されたが、この裁定が伝えられた
のが「本能寺の変」の4日前であることから、光秀の謀叛決起に何らか
の関係があったのではないかと推測されている。変後、公家の山科言経
「斉藤利三を今度謀叛随一也」と名指ししているのも、利三の主導的
役割を示唆しているのかもしれない。



しゃないなあ開き直って生きるしか  合田瑠美子



この一件に関し、幕末の吉田東洋の歴史書『日本外史』にも、光秀謀叛
の原因を、次のように説明している。
『信長配下の稲葉一鉄に仕える斉藤利三那須和泉守が稲葉家を去って
光秀に仕えた。信長は、光秀に「那須を返して斉藤を誅殺せよ」と命じ
たが、光秀は応じなかった。そのため信長は光秀を激しく罵倒し、遺恨
を残した』



タイヤ痕残して消えた三輪車  森 茂俊




     光秀を折檻する信長



【光秀、謀反の動機についてー②】
織田家中の酒席で、酒を飲んでいない光秀に腹を立てた信長「酒が飲
めないなら これを飲め」と光秀を組み伏せて刀を突きつけた。さらに
信長は、光秀の頭を抱え「この禿げ頭は鼓の代わりだ」と言って頭を叩
いた。光秀は、信長が自分を殺そうと思っているのではと恐怖を感じた。
(『日本外史』ゟ)



釘抜きは曲がった釘を産み続け  くんじろう



【光秀、謀反の動機についてー③】
信長が寵臣の森蘭丸が、光秀が領する近江国志賀郡を欲した。信長は
「3年以内に願いを叶える」と返答。これを密かに聞いていた光秀は、
光秀は3年以内に殺されると思った。(『日本外史』ゟ)



あさっても亀は多分を引きずって  山本早苗



【光秀、謀反の動機についてー④】 
光秀徳川家康の接待を命じられた時、もてなしの途中で中国地方への
出征を命じられた。光秀は無駄働きをさせられたことに怒りを感じた。
(『日本外史』ゟ)



一枚のコピーで人を売り渡す  森中惠美子



※ 日本外史の内容には、間違いも多いと、当時から指摘されていたが、
幕末から明治にかけて最も盛んに読まれた歴史書である。つまり、近代
の日本人が「本能寺の変」をどう見ていたかの標準が、ここに示されて
いるのである。



美しい嘘だな永久保存する  山本昌乃



【光秀謀反の動機については、様々な史料で語られてきた】
① 『川角太閤記』(1620代)では、家康もてなしの接待係を命じ
られた光秀「生魚を腐らせてしまった」「腐っている鯛を出した」
信長にいいがかりをつけられて、接待係を首になってしまった、ことを
怨んだ、と書いている。




腐っても鯛太っても愛妻  川畑あゆみ



② 『総見記』(1650頃)では、丹波八上城を攻めた光秀が、母を
人質に出して城主・波多野氏を懐柔したところ、信長が「約束を破り波
多野氏を殺害、光秀の母も殺されてしまった」ことが怨恨を生んだとし
ている。




収まりは付かず抜き身のままである  石橋芳山      



③ 『明智軍記』(1690頃)では、中国攻めの結果、光秀は毛利領
の出雲・石見を与えられる代わりに、丹波近江を召し上げられるという
話が語られ、これに不満の光秀が謀反に及んだとしている。




花びらをまとって風も狂うとき  居谷真理子
 
 

※ 『川角太閤記』にしても『総見記』にしても「本能寺の変」から、
70~100年も後の書物であるため、史料的な価値は低く、確かな
史実や時代状況との整合性もないため、現在では「俗説」の一つと、
とられている。




反逆の血をたぎらせて緋を纏う  森吉留里惠



【光秀と茶会】
信長から茶の湯の開催を許された光秀は、天正6年正月11日、初め
ての「茶会」を催している。光秀にとっては、初めての茶会で十分な
亭主を務めることが出来ず、茶人・天王寺屋宗及が、霜夜天目という
名器を用い、光秀の代わりに濃茶を点てた。おかげで光秀は信長から
「水を得た魚のように接待上手ぶりだった」と褒められた。
宗及への感謝の礼は、光秀が白綾の小袖など、様々な贈り物をしたと
以前にここに書いたが、その後、光秀はその経験を生かし、正月のた
びに茶会を催している。その経験豊かな光秀が、家康の饗応膳で何の
失敗を犯すのだろうか。「本能寺の変」まで後6ヵ月と迫っている。




寝返りを考えている涅槃像  河村啓子

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