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川柳的逍遥 人の世の一家言
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名月はまだかと鯉が口あける  森田律子


  銀座の街並み
文明開化の西洋風の建物も多く建てられるようになり、
街並みは西洋風に変わっていった。明治5年の火事がきっかけとなり、
銀座はレンガ造りの街並みへと変貌した。

「文明開化が一歩づつ」

多くの同胞の血を流しつつも、日本は新しい体制に生まれ変わった。

そのきっかけは黒船来航からはじまった「尊皇攘夷」運動である。

その急先鋒だった長州藩は、今や新政府の中枢を占めている。

攘夷を叫んでいたことなどどこ吹く風で、

制度や技術、文化といったさまざまなものが、

一気に西洋化していった。

その一例として「天皇陛下の巡行」が挙げられる。

それまでの歴代天皇は京都御所の中にいて一般の人々とは、

隔絶されていた。

だが維新以降は、西洋風の君主を目指し、各地を巡行して、

存在感を示したのである。

全国各地に明治天皇が滞在したことを記念して碑が立っているのは、

そうした理由からなのだ。

せっかちを長所にしたらどうだろう  立蔵信子            


  明治天皇巡行の絵 (1869年2月20日)
時代は明治となっていたが、この頃は江戸時代と変わらない。
ただ天皇が御所の外へ出ることは、とても珍しい時代であった。

そして矢継ぎ早に制度改革が行われていった。

明治2年には、薩長土肥の4藩主が朝廷に対して、

「版籍奉還」を願い出ている。

これは大久保利通木戸孝允の根回しによるもので、

倒幕の原動力となった藩が領地と人民を進んで朝廷に返上すれば、

他藩も我先に続くことを見越したものであった。

また明治4年には「廃藩置県」が断行され、

藩も武士も姿を消してしまう。

それまでは、藩主がいる小さな集合体で、

それを徳川幕府が統制していたのを、

完全な「中央集権制度」に変えたのである。

新しい風が吹き始めたようだ  岡内知香

この制度は中央政府の権限が大きくなるため、

さまざまな改革が断行しやすくなる、というメリットがある。

また、生活も凄まじい早さで欧風化していった。

公家は「お歯黒」をやめ、武士から庶民まで「髷」を落とした。

洋服に靴を履いた人も増え、肉食も瞬く間に全国へと広がった。

なァ息子時計の針を進めるな  板野美子


明治天皇の皇后・昭憲皇太后
唐衣装の政争姿だが、眉は剃りおとしていない。

「お歯黒」

明治元年、「男性公卿のお歯黒、作り眉は遵守しなくてもよい」

との令が出され、

明治3年に、太政官布告で華族に「停止令」がだされた。

次いで明治6年に昭憲皇后陛下が率先して、

「お歯黒」、「置き眉」を止めたことで、

一般の女性の間でもお歯黒、置き眉、剃り眉が次第に廃れていった。

それまで、女性は結婚が決まるとお歯黒をし、

子どもができると眉を剃り落とした。

ただ上流では剃った後も正式な場に臨むときは、

眉を置く習わしであった。

千年以上続いた身分立場の機能を兼ねた伝統美に終止符が打たれた。

廃止になった背景には、来日した外国の高官たちの目には、

奇異な風習と映ったことも影響している。

グサリッ自分の眉間に帰るブーメラン くんじろう

親日家であった駐日英国総領事・オールコックは、

「日本は本質的に逆説と変則の国だ。 ……

   上から下へ、右から左へと横文字の代わりに縦文字を書き、

   書物は我々の終わるところから、始まる。

   歯に黒いニスのようなものを塗り直して、

   眉毛をむしりとってしまった時は、あらゆる女性のうちで、

   人工的な醜さの点で、比類のないほど抜きんでている。

   彼女たちの口は、まるで口を開けた墓穴のようだ」

と日本の風習に痛烈な批判を浴びせた。

西洋の大国と肩を並べたい政府は、

お歯黒、置き眉、剃り眉停止策を取ることにしたのである。

飾っても飾ってもアンパンのへそ  桑原伸吉


   木戸孝允
木戸は新政府でいち早く髷を切り落とした。

「ちょんまげ」

明治新政府になって木戸孝允は二つの懸念を抱えていた。

隣の中国がアヘン戦争に敗れて、英国に半植民地化されていること。

そして、一つは「ちょんまげ」であった。

明治4年、木戸孝允は新聞に唄を掲載。

「ジャンギリ頭ヲタタイテミレハ 文明開化ノ音ガスル」である。

つまり、髷を切った髪型にしてこそ、

日本は文明国になれると訴えたのだ。

そして木戸自身も新政府内でいち早く髷を切り落とし模範を示した。

さらに8月には、「断髪令」を制定。

しかし、髷は千年も続いた伝統の髪型であるため、

日本中で大騒動になる。

十日後のはらりはらはら副作用  山本早苗


明治天皇の断髪姿

断髪した頭は女性から大不評で、

日本各地で「断髪離婚」が起こったのだ。

日本中で続発する断髪への抵抗に木戸は頭を抱えた。

悩んだ木戸は、明治天皇に国民の模範になってもらおうと提案した。

それに強行に反発したのが、岩倉具視であった。

昨日と違うわたしを拒む水たまり  柴本ばっは


   海外使節団
岩倉使節団は政府首脳と留学生など107人で構成されていた。

そんな中、西洋文明を学ぶため外国に使節を派遣することになり

岩倉を団長に木戸らは11月12日、サンフランシスコにむけ出発。

12月に到着すると、行く先々で歓迎を受けた。

特に和装に髷の岩倉は、アメリカ人たちの注目の的であった。

それに岩倉は気を良くし、自らの格好に自信を深めた。

しかしアメリカ人の本心は、

岩倉の格好を野蛮なものと見ていたのである。

そうしたアメリカ人の本音を知った岩倉は、衝撃を受けた。

いずれ黄昏になる一対の椅子  山口ろっぱ


   岩倉具視
岩倉のこの奇異な頭がアメリカ人の注目を集めた。

そこで岩倉は髷を切ることを決断した。

日本で岩倉の断髪が伝えられると、公家たちも次々と断髪した。

そして、明治6年3月20日には「明治天皇自らが断髪を宣言」

側近の手でまげが切り落とされた。

新聞で天皇断髪が伝えられると、

ちょんまげを切る動きは全国に広まった。

これ以降にちょんまげを切る動きは、全国に広まった。

街並みは西洋風に変わり銀座はレンガ造りの街並みと変貌し、

また、お歯黒にしろ断髪にしろ、こうして日本人の見た目もまた、

文明開化は一歩づつ前に進んでいくのである。

前髪の色は前世のままにする  井上一筒

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