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川柳的逍遥 人の世の一家言
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フグの棘フグの正義を主張する  新家完司 


「徳川治績年間紀事・十五代将軍徳川慶喜公」月岡芳年筆)

慶喜が大坂天保山沖に停泊していた幕府軍艦で、
江戸へ脱出する様子が描かれている。


「幕府の大博打」

幕府による長州征伐の試みは、停戦という名の敗北に終わる。

これによって幕府は、

広く世間に弱体化を晒すことになってしまった。

こうした状況を見極めた薩摩藩は、

日本の政治をこれ以上幕府中心で動かすことの無意味さを痛感。

そしていよいよ朝廷を動かして、

武力による政権交代を正当化するための

「倒幕の密勅」獲得を画策し始めたのである。

分岐点だったうどんを食べていた  谷口 義

こうした薩長の動きに遅れをとったのが土佐藩だ。

土佐藩の尊攘派の中心人物であった武市半平太は、

慶応元年(1865)5月、前藩主・山内容堂により切腹させられていた。

だが、予想以上に幕府が弱体化しているのを見せつけられたため、

後藤象二郎を登用して、藩論を再び尊王方向に転換したのである。

慶応2年8月20日、大坂城内で没した徳川家茂に代わり、

徳川慶喜が徳川宗家を相続。

しかし、将軍職は固辞し続けた。

そして15代将軍に就任したのは、12月5日になってからのこと。

これは周囲に恩を売ることで、政治活動が有利になる、

という考えがあってのことと言われている。

人間を続けています揺れてます  合田瑠美子


  孝明天皇       徳川慶喜

薩摩や長州が討幕を画策していることを察知した徳川慶喜は、
政権を朝廷に返上する。

だが、政治の実権は引き続いて徳川家が握るつもりであった。
孝明天皇は暗殺されたという説が今も根強く語られている。

というのも、天皇には幕府を倒す気はまったくなかったからだ。

この年の12月25日、

攘夷勢力の拠り所ともいえる孝明天皇が崩御する。

このことにより、慶喜ははっきりと開国を指向するようになる。

将軍職を引き受けたことで、以後は開国政策が本格化していく。

中でも幕府に肩入れしているフランスからは、

240万ドルもの巨額援助を受け

横須賀製鉄所や造・修船所などを設立。

軍事顧問団も招聘し、幕府軍の大幅な軍事改革も行った。

コンマの差その大きさを知り尽くす  松本柾子

こうした幕府の姿勢は諸藩に

「フランスに日本の政治主導権を握られるのではないか」

という不安を抱かせる結果となってしまう。

土佐藩もそうした考えを抱いていた。

後藤象二郎はまず、薩長に太いパイプを持つ

土佐脱藩浪士・坂本龍馬を味方につけることにした。

そこで龍馬が立案した大政奉還を土佐藩の基本方針としたのである。

それは将軍自らが政権を朝廷に返上するもので、

平和的な革命を目指したものだ。

信号は青引き返すのは難しい  森田律子


慶応3年8月から12月に「ええじゃないか」を連呼、
民衆が乱舞する騒動が近畿・四国・東海地方で発生。
討幕派の説もある。

慶応3年6月22日、薩摩藩と土佐藩は大政奉還公儀政体を目指し、

薩土同盟を締結する。

薩摩の本当の狙いは武力による倒幕だったが、

大政奉還が拒否された場合、土佐も討幕のための戦力にできる、

と計算したのだ。

だが後藤はその目論見に気付き、

10月3日に土佐の前藩主・山内容堂を通じ、

慶喜に大政奉還の建白書を提出したのであった。

聡明な慶喜は、その意味を即座に理解。

10月14日には朝廷に「大政奉還」を上奏した。

取り扱い注意私の虚栄心  中井アキ


慶応2年の正月、祝賀のためにと登城した家臣たちと謁見の様子を
フランス人画家が描いたイラスト。

慶喜が大政奉還という道を選択した裏には、

彼なりの思惑があった。

たとえ政権を手放しても、徳川家は最大の大名である。

武力倒幕の口実さえ奪えば、

新政権でも実権を握れると判断したのである。

しかし、その前日の13日には、薩摩、

そして大政奉還と同日には長州に「討幕の密勅」が下されていた。

これで薩長にとっては、幕府を討つ大義名分が失われてしまった。

慶喜が打った起死回生の大博打は、

この時点では功を奏したように見えた。

やんわりと握る女もハンドルも  菱木 誠

しかし、討幕派の先手を打ったはずのこの作戦は、

結局失敗に終わった。

たしかに一時的に討幕派を惑わせたものの、ほどなくして朝廷から、

新政府の樹立を宣言する「王政復古の大号令」が出されたからだ。

それはあくまで武力による旧幕府勢力の打倒を目指した

西郷隆盛・大久保利通らが公家の岩倉具視と結んで起こした

クーデターであり、

彼らは旧幕府に対して挑戦状を叩きつけたのである。

結果、慶喜の官職と領地の返還命令がくだされ、

徳川氏は単なる一大名となった。

きっかけを逃して角は角のまま  山本早苗

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