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川柳的逍遥 人の世の一家言
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駅はすぐそこ踏切が上がらない  橋倉久美子



「高杉晋作を三浦梧楼が偲ぶ」(三浦は奇兵隊出身者)

高杉は)……中略……  如何に其の臨機応変、

機智縦横の大才に富んでおったかと云うことが窺われるではないか。

しかもそれが事々物々、能く趨勢に適応して基礎を固め、

根柢を築くと云う結果になったことを考えると、

実に驚嘆感服の外は無いのである。

階級を打破して諸隊を作り、一藩の士気を鼓舞振作して国論を確立し、

遂に四境の大軍を粉砕して、幕府の為すなきを天下に暴露し、

長藩の勢力をして九鼎大呂より重からしめ、

以て薩長同盟の素因を堅め、王政維新の偉業を成就するに到る迄、
               みだれ
其の間一貫せる経綸の大才毫末も紊れたることなきは、

殆んど、人智の企て及ぶべからざる点がある。

この道でいいかと天に聞いている  岡内知香

其の当時、能く我輩年少の者に向って、

「愚を学べ学べ」と訓誡を垂れられたものだ。

俺れも若い時は撃剣をやる時に、道具外れをわざと打ったり、

鎗を使う時に脛を突いたりしたものだが、

「そんなことでは駄目だ、どうしても愚を学ばなければいかん」

と屡々話されて居たが、充分理解することが出来なかった。

漸く近年になって、
            ねいぶし
あれは孔子の『所謂 甯武子、其智可及其愚不可及』

と云うことを教えられたもので、

年少客気を戒められたものであろうと考えると、

実に今昔の感に堪えぬ。

夕暮れに腰をひねっている校舎  富山やよい

また其の頃の有志家は皆な慷慨悲歌、

文天祥胡澹菴宜敷と云う風の人が多かったが、

高杉丈は一種超然とした所があって、

陣中に茶器を持って来て煎茶をやって見たり、

時には三味線を携えて来て弾いて見たりしていたのも、

今から考えて見ると、皆なそれぞれ、

深長の意味が含まれていたことが分って懐しさの限りである

寄りかかるのは椅子だけと決めている  八上桐子

遺物と云っても手元には何もなく、

書面やなぞも大概人に取られて了った。

一つ残念に思うのは、高杉が上海へ船を買いに行った時に、

二十一史を購って帰り、

其の箱に「抛千金購聖賢書、是予一人之私哉」と書いたのがあったが、

明治2年に諸隊暴動を起した時、

何処へどうなったか分らなくなって了ったのは、

今でも惜しくて堪らない。

空白のページに透けている無念  大塚のぶよし

亡くなられる十日程前に見舞に往ったら、

非常に喜ばれて色々話をされた。

其中フト傍を見ると、小さい松の盆栽があって、

其の上に何か白いものを一パイ振りかけてあるから、

「これは何んですか」と聞くと、

「イヤ俺はもう今年の雪見は出来ないから、

   此の間、硯海堂が見舞に呉れた「越の雪」を松にふりかけて、

   雪見の名残をやっている所さ」 と微笑された。

斯かる際まで平常の心根を、遺憾なく発揮せられていた其の温容、

今なお彷彿として夢の如しである。

嗚呼春風秋雨五十年、いま少し永らえたならばと思えば、
ているい ぼうだ
涕涙の滂沱たる(涙がぼたぼた流れる)を禁じ得ない次第である。
                                   『日本及日本人』より  

おしゃぶり昆布半角文字で噛みしめる  河村啓子



「高杉晋作を徳富蘇峰が偲ぶ」

(高杉)は大なる我侭者である。

彼は何人からも指揮、命令を甘受する漢ではなかった。

彼は頂天立地、唯我独行の好男子であった。

同時に彼には奇想妙案湧くが如く、

しかも同時にこれを決行するの機略と、胆勇とを具備していた。

彼は戟を横たえて詩を賦するの風流気もあれぱ、

醇酒美人に耽溺するの情緒もあった。

しかしてその脱然高踏、世間離れの気分に至りては、

東行である彼は、恐らく西行以上であったかも知れない。

有象でいもたこ無象でリスペクト  田口和代

彼は松陰門下においても、

その師松陰さえもある意味においては、畏敬したる程の、

毛色の変わった一本立ちの奇男児であった。

従って彼の行動は、到底尋常の縄墨もて律すべきではなかった。

天馬空を行き、夏雲奇峰多し、

かかる形容文句は、幾百を累ね来たるも、

恐らくは這般の真面目を道破するには、いまだ十分ではあるまい
                                    『近世日本国民史』より

この指に誰も止まらぬまま夜更け  清水すみれ



「高杉晋作を三宅雪嶺が偲ぶ」

薩の西郷に当たるは長の高杉にして、

維新前に死し、維新の元勲として名を列せざるも、

その人格および行動の豪快なる、永く歴史を飾るに足る。

長に木戸なくして可、広沢・大村なくして可、

伊藤・山県・井上なくして可なれど、

高杉なきの長は、気の抜けし炭酸水のごとし。

維新史料を編纂するも興味索然たらん。

長が幕府に破られ、続いて高杉が回復を計り、

頻りに兵を募りし時、山県は時非なりとして応ぜず。

しかして伊藤は蹶起してこれに応じ、

勢いの揚がりてより山県も応じ来たり。

ついによく募兵を駆逐し、幕兵の与みし易きを天下に知らせ、

関西数箇国の相呼応して幕府を覆すに至れる。

誰が高杉を首功に推さざるべき
                      『想痕』より

真剣に羽化して哀しい姿よ  山本昌乃



「高杉晋作を横山健堂が偲ぶ」

高杉は極めて徹底した人物である。

……徹底的なる高杉の一生には、

しばしば大疑問が起こり、それが解決されつつ前へ前へと躍進した。

彼が大徹底の路上には大煩悶が横たわるべきである。

彼が煩悶した問題は、

一に開国攘夷、二に忠孝両全、三には死生の煩悶である。

……彼は徹底したる攘夷、徹底したる開国を求めた。

彼の攘夷も開国も甚だ明晰である。透徹している。

修験者の肩から湧いてくる空よ  井上一筒

吾輩は、彼を伝するによって、

殊に愉快を感ずる所以の理由が三つある。

(一) 彼が天下第一人であること。
(二) 彼が、わが民族性の本領を発揮したる大人物たること。
(三) 彼は青年の好伴侶たり。

とこしえに将来のわが青年を鼓舞、

作興するにたるべき快男児たることである

近来、維新功臣の人物はだんだん伝記が明らかにされてきた。

しかしながら、高杉に至っては、

まだ一巻の正確なる伝記を見たことがない。

彼の名は一世に響いているにかかわらず、

身後五十年に近うして、まだ伝記のないことを私は遺憾とする
                       『高杉晋作』より

書いてやるもんかと書いてあるページ  居谷真理子



「高杉晋作を井上哲次郎が偲ぶ」

(高杉は) 維新前の騒々しき世の中に生まれ、

その渦中に在りて活動したのであるから、

ゆっくりと且つ専念に学問をする余暇はなかったのであるが、

しかしなかなか聰明なるところがあったように思われる。

しかして大いに王陽明を尊信しておったことが、

彼の詩によって明らかである

東行はかつて長崎に赴きたる時、

耶蘇教の書を読み、慨然として歎じていえるよう、

『その言すこぶる王陽明に似たり。

   しかれども国家の害、

   いずくんぞこれに過ぎるものあらんや! ・・・・』と。

なるほど東行の言うたごとく、

基督教と陽明学の間には著しい類似点がある。

第四の福音書ヨハネ伝に於ては神を内在的に観ている、

その内在的に観たところの神は、良知と異なることはない、

良知はやはり各個人の胸中に在る神である。

……もし東行が永く生存して学問の方に力を致したならば、

また非常なる見識を立てたであろうかと想像される
                     『高杉東行を億ふ』より

澄んだ鏡に忘れた傷が浮いてくる  平山繁夫

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