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川柳的逍遥 人の世の一家言
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円の中に座す円に疎外される瞬間  山口ろっぱ


  「萩一戦図」 (早川松山画)
萩の乱の鎮圧のために出動した政府軍と戦う前原一誠らを描いた錦絵。
右側の黒い馬に乗っているのが前原でその周囲を奥平謙輔、横山俊彦
腹心が固めている。
奥には萩城も描かれているが、乱勃発時には天守などは解体されている。

「萩の乱ー前原一誠」

萩の乱の主謀者・前原一誠は、長州藩士の子に生まれ、

高杉晋作久坂玄瑞と同じ吉田松陰門下であった。

長崎で洋学を学んだから、敬神党(勤皇党の過激派)ような、

国粋主義者ではない。

高杉や久坂らと倒幕の戦いに参加し、

戊辰戦争では長岡城攻めなどに手柄を立てている。

功績を認められて新政府の参議にもなり、大村益次郎の暗殺後は、

軍事の最高責任者でもある兵部大輔にも就任した。

その日ならずっとにじんでおりました 竹内ゆみこ

しかし、この頃から政府とそりが合わなくなっていった。

前原と政府の最大の方向性の違いは、士族を残すか残さないかである。

同じ長州出身ながら大村も山県も木戸も近代国家としての、

「国民皆兵路線」を目指していたが、

前原はこの点だけが妥協することができず、

結局、参議の職を辞し故郷の萩に帰っていた。

不機嫌の種はわたしが蒔きました  杉谷和雄


  前原一誠
松下村塾で学んだ前原を松陰は「その才は久坂(玄瑞)に及ばない、
その識は高杉(晋作)に及ばない。けれども、人物完全なることは、
両名もまた八十(前原)に及ばない」と称えたといわれる。

前原は清廉潔白な性格で、また「民衆を大切にしなければならない」

という、古き良き儒教の教えにも忠実だった。

維新後参議になる前に一時、越後府判事を勤めていたことがあった。

この時、前原は行政に力を注ぎ、

民政安定のため信濃川の改修工事を願い出ている。

ところが、却下された。

「そんな予算はない」と言うのだ。

だが、「カネのない」 はずの政府や軍では、

同郷の井上馨が尾去沢銅山事件で、山県有朋が山城屋和助事件で、

たっぷりと私服を肥やしているではないか。

少なくとも前原の目にはそう見えた。

あとはおぼろあとはおぼろの傘ひとつ  田口和代



「一体こいつらは何を勘違いしているのだ。

お前らが私服を肥やすために同志たちは死んでいったのではないぞ」

というのが不平士族と呼ばれる人々のリーダーたちの思いであった。

リーダーではない人々は、

単純に自分たちの特権が廃止されたことに、

怒りを覚えているものは多かったが、

リーダーに祭り上げられた人々は、

多かれ少なかれ維新の確立に何らかの形で貢献している。

だからこそ、中央政府の腐敗が許せなかった。

車庫入れの下手な政治家ばかりだな  奥山晴生   



実は、山城屋和助事件において、

山県が関与し私服を肥やしていたかについては確証はない。

山城屋がすべてを背負って自殺したからだ。

だから山県が無実だった可能性も無いとは言えず、

有罪であれ無罪であれ山県は前原にも、

「おれは関与していない」と主張しただろう。

しかし、陸軍の公金が、それも膨大な金額が山城屋によって、

浪費されたのは事実である。

「そんな金があるのなら、何故、信濃川改修資金が出せないのか、

   民を労うことこそ政治の基本ではないか、

   この御政道は間違っている」

というのが、前原の思いであり、

同じく郷里に戻った西郷隆盛の思いでもあった。

阿も吽もわたしの敵であるらしい  中野六助


萩大戦争之図 (萩の乱)
明治9年、旧萩藩の士族たちと新政府の戦いの様子を描いている。

前原は熊本・敬神党の乱のことを聞きつけ、

秋月でも呼応の動きがあることを掴んで、

熊本挙兵の二日後の26日、旧長州藩校明倫館に入り、

同志を募った。

一定の人数が集まれば、まず県庁を襲撃する予定だった。

ところが、翌27日秋月の乱が一日で鎮圧され、

28日に前原を長とする殉国軍が結成されたものの、

密偵の暗躍により県庁襲撃計画が事前に察知されてしまった。

そこで方針を変更し、

天皇に現状改革を直訴すべく陸路で山陰道を東へ向かった。

ベタ凪にぽろっと密約を漏らす  上嶋幸雀


   賊徒追討図
萩の乱を指導した前原一誠らを政府軍が鎮圧する様子。

しかし、ここで前原は重大な判断ミスを犯した。

萩がいちはやく 

「占拠され、関係者が次々と逮捕されている」 

という情報に接した前原は、一度萩へ戻って態勢を建て直すという

判断を下してしまったのだ。

実はこれは政府の流したデマだった。

行方のつかめない前原らをおびき寄せるための作戦だったのである。

そうとは知らず、彼らは萩の本拠の明倫館に戻って愕然とした。

備蓄していた武器爆薬が廃棄されており、

待ち伏せしていた政府軍がかさにかかって攻めて来た。

前原勢は約200人いたが、ここで非情の決断が為された。

牛の涎からおおよそ見えること  井上一筒

まさに「殉国軍」の名の如く、本隊が政府軍を引きつけて戦う間に、

前原ら幹部5人が脱出し東京へ向かうというのである。

直訴を実現するために、同志が囮になったということだ。

もっとも囮になった兵は粘って、

前原らを脱出させるのが目的だから、

自由に動き回り死者はほとんど出なかった。

ドロップの缶を開けたら泣き止んだ 笠嶋恵美子


  賊魁捕縛之図 (宇龍港)
前原らの挙兵は失敗し、日本海沿いに北方へ逃れようとしたが、
島根県の宇龍港で捕縛された。
図は前原らを捕らえに行く様子を想定して描いたもの。

前原は、隣の島根県に入り宇竜港から船をチャーターして、

東へ向かおうとしたが折悪しく悪天候で、

晴天になるまで待っていたところを密告され、

従者2名ともども逮捕されてしまった。

しかもこの時、前原は投降の条件として、

「裁判で弁明の機会を与えよ」

と官吏側に求め、それが了承されて投降したのだが、

この約束は守られなかった。

またしても、東京ではなく江藤新平の時のように、

山口裁判所の萩臨時支部という形で、現地に裁判所が設けられ、

12月3日に前原、山田ら幹部8名は斬首の刑が宣告され、

即日執行された。            (逆説の日本史/参照)

竹林の風ざわざわと訃が届く  桑原伸吉

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