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川柳的逍遥 人の世の一家言
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たましいを吊るすいちばん寒い釘  たむらあきこ

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  慶長の大坂城・模型

「大坂の陣」

徳川家康が、豊臣家を滅ぼそうと決意したのは、

 

慶長16年(1611)3月、  

「二条城で19歳の豊臣秀頼に対面したとき」 
  
だと言われている。

聡明な青年に成長した秀頼を目にし、

徳川家の将来に、危機感を覚えたのだという。

このとき、家康は70歳、

老い先短い年寄りにとっては、自然な感情であろう。 

 

悪がきのままじいちゃんになりはった  片岡加代

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洛中洛外図の一部(伏木勝興寺所蔵

方広寺大仏殿と豊国神社・豊国廟大仏殿、後ろに豊国廟と参道を描く   

≪大仏殿は、高さ約49メートル・南北約88メートル・東西約54メートルという

   壮大なものであり、また境内は、現在の方広寺境内のみならず、

    豊国神社、京都国立博物館を含むものであった  

      

それから3年後の慶長17年(1614)7月、

「梵鐘事件」 が起きる

家康は、太閤殿下の霊を慰めるためにと、

しきりに、京の「大仏再建」を豊臣家に勧めた。

豊臣の財力を弱めようとする、老獪な家康の目論見があった。

ところが、出来上がってみると、家康の思惑は大きく外れる。

秀吉がつくったものは、木造であったが、

今度は、燦然と黄金が輝く金銅製のもので、

奈良の大仏をしのぐものであったのだ。

なにしろ、その大仏殿は、

現在の京都駅とほぼ同じくらいの高さがあったから、

人々の度肝を抜き、

豊臣の天下復活の狼煙のようにみえたのである。 

棒に当たるよっぽど運の悪い犬  脇 正夫

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そんなとき、

同時に完成した「方広寺の梵鐘」が問題になる。

それは、長い鐘の銘文中の一節に、

『国家安康・君臣豊楽』 とあり、

「国家安康」は、『家康』の名を分断したもので、

「君臣豊楽」は、『豊臣家の繁栄』を願うものとし、

御用学者・林羅山は、 

「『右僕射源朝臣家康』は、

  右僕射(右大臣)である、家康公を射るもの」

 

と言いがかりをつけたのである。 

月が欠けたらそれできっかけが出来る  板野美子

 

家康は、本多正純を通じて、これを詰問したので、

秀頼の後見人の1人の片桐且元が、

さっそく駿府に弁明のため、出発したのだが、

それだけでは心配で、淀殿は、大蔵卿局も派遣した。 

≪大蔵卿は茶々の乳母で、大野治長の母である≫

 

家康は大蔵卿局には、 

「何も心配することはない」  と言い。

一方で、

且元には、自分では会わず、正純の方から、

「よほど思い切って、

  不信感を一掃できる措置がないかぎり許せない」

と言わせている。 

クレームに居直るペテン師の笑い  中川隆充

 

大坂城へ帰った且元は、

「大坂城を出るか」 

「茶々が人質になるか」

「秀頼が駿府に出向くか」 

正純から脅され、捻じ込まれた意見を、

「豊臣家存続のため」 と必死に淀殿に申し述べた。

あえて、大阪方が呑めないような条件を、出してくるのが、

家康の嫌らしいところである。

返信用封筒に貼る鬼薊  笠嶋恵美子

ところが、「心配することはない」 

という、大蔵卿局の報告を受けていた淀殿と大野治長は、

承知せず、

且元を、「徳川に内通している」 と罵倒したのである。

それに動転した且元は、自分の屋敷に籠り、

淀殿からは、「再び出仕するように」と説得の手紙が届くも、

不信感は拭えず、その身は、茨城城に引き払っている。 

≪且元は、大坂の陣では、徳川方についている≫

 

蟻と目が合った蔑んだ目だった  大海幸生

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      大坂の陣

このように「梵鐘事件」で絶好な口実を得た家康は、

同年10月、大坂城を90万の大軍で包囲する。

一方、戦いを決意した豊臣方は、

6万に余る浪人を召し抱え、

大量の兵糧を城内へ運び込んで、

抵抗する姿勢を鮮明にする。

これが、「大坂・冬の陣」(11月)である。  

三日月に隠しきれない7番目の脊椎  酒井かがり
  
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   大坂の陣ー2

開戦を耳にした福島正則は、

「三年遅く、三年早い」 と言っている。

少し前なら、

加藤清正・浅野幸長・池田輝政・前田利長などが健在で、

「家康も乱暴なことも言わなかっただろう」 

し、
もう少し後なら、

「家康はこの世の人でないだろう

との意味である。

しかし、この戦闘は、

豊臣方の真田幸村、後藤又兵衛、木村重成らが、

善戦したため、家康は大苦戦をしいられる。

出来そうもないモットーが奇跡呼ぶ  坂下五男       

そこで家康は、徳川方の食料補給なども厳しく、

損害も増える一方だったから、和平を模索しはじめる。

意外な大坂方の奮戦のため、

大坂城を攻めあぐねた家康は、

和睦の使者として、側室の阿茶局を交渉の場に派遣する。

豊臣方からは、茶々の依頼を受けて、

初が、城内から出てきた。

交渉の場に指定されたのが、

義理の息子・忠高の陣所だった      

交渉をスムーズに進めるため、

家康がそう指示したのだろう。

ここ一番山を動かす低姿勢  後洋一  

豊臣家の方針を決めていたのは、

秀頼というより母の淀殿だった。

家康としてはそんな豊臣家の事情を見透かし、

初を通して、淀殿に和睦を承諾させようとする。

そのために、交渉相手として、

同姓の阿茶局を交渉のそばに派遣したのだ。


家康の目論見どおり、淀殿は和睦を承諾する。

あの世でもアホだアホだといいそうだ  中前棋人

            和議の内容は  atya.jpg          atya.jpg

  阿茶局
    
「淀殿を人質としないかわりに、

  大野治長、有楽斎より人質を出す」

「秀頼の身の安全を保証し本領を安堵する」

「城中の浪人などについては、不問にする」

 

というもので、

一見、大阪方にとってかなり有利な条件を、

家康は受け入れた。 

≪中には大阪方は「浪人に知行を与えるために加増を」と願う項目も入れたが、

    これは虫が良すぎると、受け入れられなかった≫

 

生き抜く温度 死なない温度大切に  墨作二郎

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                現在の大坂城

そして大阪方は、和議の中に、

本丸を残して二の丸・三の丸を破壊し、

惣堀を埋めること、が組み込まれた。

これは、このような和平では、常識的なことになっている。

だが、大阪方では、惣堀を、

徳川方で埋めることは承知していたが、

二の丸を囲む外堀は、大阪方がやることになっていた。

それを徳川方は、大阪方の工事を手伝うと称して、

「外堀までを完全に埋めてしまった」 のだ。 

≪忌々しいことに、その工事にあたらせたのが、

    常高院の義理の息子・京極忠高で、どこまで嫌みな家康か≫

 

形あるもの何ものこさぬ訣れかた  安土理恵

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    大坂の陣ー3

だがこれは、徳川方の見せかけの和睦で、

翌年4月、またも家康は秀頼に対し、 

「浪人たちを承知しても城内に留めるとは思っていなかった」

 

といって

「浪人を追放せよ」
 と迫ったのである。

こうした徳川の嫌がらせに対し、

5月、豊臣家は、徹底抗戦を決意、

大坂城周辺で、徳川方武将と激しい戦闘を行った。

「大坂・夏の陣」である。

泣き黒子 梅雨前線通過中  和田洋子

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家康が幸村に追われ逃げ込んだ念仏寺

豊臣方の武将は、

すでに勝ち目のない戦であることを自覚していた。

つまり、残っている者は、死を決意した人間たちであった。

死兵は強い。

とくに真田幸村隊1万の勇猛さは、群を抜いていた。

その幸村が、最終決戦において討ち死に覚悟で、

家康の本陣を目指して、突撃を敢行する。

家康は、まさか本陣まで到着するとは思わず、

たかをくくっていたが、

真田陣は、大木に錐で穴を開けるように深進し、

ついに徳川本陣へとなだれ込んだ。

失敗をすると決めてから笑う  森中惠美子       

真田隊のために、徳川本陣はたちまち蹂躍され、

馬印も踏み倒された。

旗本たちは混乱の中、家康を残してみな逃げ散った。

家康のもとにとどまったのは、

小栗久次ただ1人、という有様だった。

このとき家康は、 

「もうだめだ。俺は腹を切る!」

 

と、二度まで絶望して叫んだと伝えられる。 

ごはさんで願いましてと命消え  森 廣子
 
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                 方広寺・梵鐘

『余談』

豊臣家を滅亡させてしまう原因となった「鐘銘」が、

いまも、ちゃんと現存している。

本来なら、あのような大事件の要因となった鐘銘だから、

その部分は、削りとっていそうなものだが・・・。 

「開戦の理由さえ得られれば、鐘などどうでもよい」

 

という、家康の本音が見えてくる。

つらかった話しはしない花図鑑  赤松ますみ

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大河ドラマ「お江」-第41回・「姉妹激突!」  あらすじ

秀忠(向井理)は、

「徳川と豊臣が並び立つ」 という自分の考えが、

家康(北大路欣也)から無視されていることにじれていた。

そこで秀忠は、ひそかに秀頼(太賀)に文を送り、

共存を目指す自らの考えを、伝えることにする。

念のため、江(上野樹里)からも、

「自分の気持ちに偽りがない」 

ことを伝える文を書いてもらうなど、

秀忠の思いは、本物だった。

秀頼は、そんな熱い思いが込められた文を受け取り、

両家の未来に一筋の希望を見いだすが・・・。 

時々は善人の面修理する  合田瑠美子
 
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一方、駿府にあって、政治の実権を握り続ける家康は、

豊臣家をさらに弱体化する機会を、

虎視眈々とうかがっていた。

そんな折、事件は起きる。

豊臣家が再建中の京・方広寺の鐘に、

家康を呪っているとも取れる文言が、刻まれたのだ。

家康にしてみれば、まさに好機到来。

彼はここぞとばかりに、豊臣側を糾弾する。 

記述せよバラとラバとの相似点  井上一筒

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大坂城の淀(宮沢りえ)は、

そんな家康の露骨な言いがかりに激怒した。

だが、事を荒だてたくない秀頼になだめられ、

とりあえずは、鐘の銘文に他意がない旨を伝える使者を送る。

しかし、一方で淀は、 

「もうこれ以上、秀頼が屈辱を受けることあらば、

  家康との戦もやむなし」

 

と決意を固め、ひそかに、その準備を命じるのだった。

埋められないようにしっかり二度洗い  山本昌乃

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