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川柳的逍遥 人の世の一家言
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秋風はわが分身のように吹く  河村啓子

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駿府城にいた家康が、鷹狩と称して江戸城を訪ね、竹千代、国松と久々に対面。

”そこで、家康は竹千代を側に呼び、

 
「国松は竹千代の家臣である」 と宣言した。

「春日局ー家康に直訴」

お福が、家康のいる駿府に出向いた年には、

二つの説がある。

ひとつは慶長16年(1611)、

もうひとつは、元和元年(1615)だが、

有力とされる後者ならば、

家康の死の前年、ということになる。

国境を跨ぐ右耳左耳  岩田多佳子

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    春日局・自筆

お福は江戸城を出て、西に向かったが、

その表向きの理由は、伊勢神宮への参拝だった。 

「竹千代が秀忠の跡継ぎとして、披露されることを願うため」

 

と、周囲は推測していたが、

その真の目的までは、気付かなかったようだ。 

圏外で煮つめています実山椒  合田瑠美子

 

伊勢参宮の途中、駿府の家康のもとに出向き、 

「竹千代を秀忠の跡継ぎに定めてほしい」

 

と嘆願することが本当の目的だった。

この一件は、「春日局抜け参り」と呼ばれるが、

お福の懇願を家康は受け入れる。

ひらきたる秋の扇の花鳥かな  大西泰世

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生まれながらの将軍・家光画          

その後、しばらくして家康は江戸城に出向き、

秀忠・お江夫妻と、食膳をともにしたことがあった。

その際、家康は、 

「竹千代を嫡子とすること、

  国松が成人すれば家光の家来にせよ」

 

と命じている。

さらに家康は、 

「竹千代ほど、自分の幼少の頃に似ているものはない」

 

と、お江を諭した。

お江は顔を赤くし、当惑したと伝えられる。

ウツの実を食べてコントが裏返る  斎藤和子

その後、家康はお江に、

念を押す意味で、『27か条からなる訓戒状』を与えた。 

「健康で活発な国松を、格別に可愛がることは、

  結構であるものの、

  次男は、あくまで嫡子の家臣に過ぎない」

 

ことを示した上で、

「次男の威勢が増して、嫡子を軽るんじるようになると、

  家の乱れとなるだけではなく、

  取り返しのつかない結果を招くこと」

など・・・など。

笑っております涙が出ています  吉川 幸

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  若き家光・江戸絵

「家光擁立、忠長廃嫡でみせた幕府の新方針」

戦国時代には、

キーワードだった「下克上的風潮」があったからこそ、

時代そのものが、生き生きとしていた。 

革命の彩が沈んでいる歩道  森中惠美子

 

しかし、低成長・停滞経済の時代になると、

「下克上」は、完全に否定され、代わって、

「武士は二君にまみえず」

といった言葉に代表される「儒教的武士道」が、

主流となってくる。

幕府が率先して、示したその代表的な例が、

「家光擁立・忠長廃嫡」 の一件である。

猫の絵を切り抜く音を立てないで  時実新子

二代・将軍秀忠の子として、

二男家光と三男忠長がおり、

家光より弟の忠長の方が、器量があった。

戦国時代的感覚からいえば、

「暗愚な兄」より、

「聡明な弟」を立てる方が家は発展する。

世が戦国時代ならば、

祖父・家康、父・秀忠の判断もそうだっただろう。

しかし、時代は江戸時代であった。

にんげんの喜劇がいつも濡れている  たむらあきこ

高度成長から、停滞へと移ったばかりのときだ。

家康も、「器量より秩序」を選んだことになる。

つまり、  

「暗愚でもよい。

  長幼の順で家督を決めた方が、家は乱れない」

  

という論理を示したわけである。

将軍家の三代目が、

このように決められたことにより、

結局、諸大名をはじめ、それ以下の武士たちも、

「右へならえ」となったことは、いうまでもない。

テーブルに青大将を置かないで  井上一筒

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