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川柳的逍遥 人の世の一家言
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茶碗の中にも爆発音はある  森中惠美子

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  平治の乱対立の構図

(画面をクリックすれば大きくみれます)

「くすぶる官邸」

保元3年(1158)「中継ぎ」だった後白河天皇が、

皇子の守仁(二条天皇)に譲位した後も、

信西は引き続き権力を握り続けた。

平家も一門をあげて、大内裏の再建に貢献する一方、

信西の引き立てを受けて出世し、清盛も乱の翌年、

播磨守から大宰府の長官である「大宰大弐」となった。

「三位の公卿」が就任することもある高官である。

半開きのドアの向うで笑う海  酒井かがり

しかし、信西と平家一門の繁栄の陰で、

不満をかこつ者も増えていた。

1人は保元の乱勝利の立役者義朝

もう1人は、後白河上皇の近臣・藤原信頼である。

当時、後白河の引き立てにより、

右衛門督となっていた信頼は、

大臣・大将を望んだが、

信西に阻止されて恨みを抱いていた。

今日を紡いで首に巻く夜風  近藤真奈

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「義朝の恨み」

信西政権を経済・軍事面で支えたのが、

清盛と平家一門だった。

保元の乱の恩賞が平家に厚く、

源氏に薄かったのは、両者の同盟関係が、

前提になっていたのである。

義朝も、この実力者に取り入ろうと、

信西の子息の1人を、娘婿にもらいたいと申し出た。

しかし、信西は、

「我が子は学者であり 武者の婿にふさわしくない」

とはねつけた。

永遠に弐ひく壱はさみしかり  中野六助

その一方で清盛の娘との縁談を進めて、

義朝の面目をつぶした。

信西としては、冷静に清盛と義朝の器量を比べて、

「清盛こそ頼むに足る人物である」

と判断したのだろうが、

義朝が信西に恨みを抱いたのも、また当然であった。

裏側に解答欄がある鏡  山本早苗

「信頼のこと」

信頼は、『平治物語』に、

「文にもあらず、武にもあらず」 と評され、

後白河の男色相手だったこともあり、

ひ弱な公卿のイメージが強いが、

政治的な力量は、なかなかのものであったとも言われる。

武蔵国の知行国主として、支配権を握っており、

その関係から、東国を基盤とする義朝を、

自らの武力として活用することができた。

ひらがなのように男がやってくる  大西泰世

また、当時、信頼の兄弟や一族は、

武具や駿馬の一大供給地である陸奥の国守を、

歴任していた。

良質の武具や馬の確保は、

武門の棟梁としての地位を左右する、

重要な要素であったから、

義朝が東国で影響力を保ち続けるためには、

奥州に顔がきく信頼との提携は、必須だったのである。

経由地に立派な塔ほか指の影  兵頭全郎

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さらに、信頼は平家とも姻戚関係を結んでいた。

異母兄の藤原隆教は、忠盛の娘(清盛の姉妹)を妻とし、

信頼の嫡男・廼信親は、何と清盛の娘婿になっていたのだ。

後白河の寵愛もさることながら、

源平の武士との二重三重のつながりも、

信頼の政治力の源泉になっていたのである。

息止めて太刀の笑くぼを選り分ける  井上一筒

また、以上の姻戚関係をとおして、

信頼は平家に親近感を抱いており、

清盛が敵対してくるとは、思いもよらなかったのであろう。

ここに、信頼が大胆なクーデターに踏み切った

要因の1つがあったと考えられる。

この両者に、

天皇親政を目論む二条の外戚の藤原経宗

乳母子の藤原惟方が加わり、

打倒信西のクーデターは、決行された。

パンパンと叩いて洗濯物を干す  笠嶋恵美子

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