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川柳的逍遥 人の世の一家言
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体制を恨み続ける平家蟹  新家完司

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     宮廷相撲

「後白河帝」

御簾の向こうで、後白河帝が立ち上がった。

「さあ、みなの者。飲めや、歌えや。

 われらは遊ぶために生まれてきた。

 戯れるために生まれてきた。

 ここにおるは選ばれし者たち。


 誰よりもおもしろき遊びをするを許された者たちじゃ」

白拍子たちが、清盛のまわりで歌舞を披露する。

いかにも後白河が、清盛に用意した趣向だ。

手鏡に写る景色は一部分  奥山としつぐ

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  梁塵秘抄歌碑

後白河が清盛に誘いをかける。

「どうじゃ播磨守。生きる力がわいてこよう。

  体がうずうずしてこよう!」


√遊びをせんとや生まれけむ  戯れせんとや生まれけん

  遊ぶ子どもの声聞けば   我が身さへこそ動がるれ


白拍子の舞と歌が華やかであればあるほど、

清盛の心が暗く沈んでゆく。

沈むに従い、奥底から攻撃的な感情が湧き上がる。

清盛はぎりぎりと歯を食いしばり、肩をいからせ、

今にも噛みつきそうな目で御簾の中を見た。

プライドの鱗一枚ぶら下げる  岡内知香

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後白河帝は、そんな清盛をもてあそぶように見ている。

やがて、歯を食いしばった清盛の口角が上がっていき、

噛みつきそうな目をしたまま顔だけ笑った。

「・・・こたびはかように華々しき宴の場にお招きいただき、

 身にあまるほまれにござります。

  今後ともお導きいただけまするよう、

 お願い申し上げます・・・」


話の途中ですが頭裂けてるよ  増田えんじぇる

後白河帝がなにか勝負を仕掛けてくるなら、

清盛はいつでも、賽を振るつもりだ。

”平清盛とはなかなかおもしろそうな男だ” 

美福門院が不敵な笑みを浮かべている。

スイトピー咲いたらまな板になろう  田中博造

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「保元の乱・その後の政局」


保元の乱後、後白河天皇の親政は、

乳母夫・藤原信西が主導する政権となった。

一方、美福門院も権力の維持に成功し、

美福門院も藤原信西も出家していることから、

「仏と仏が話し合って政治を動かしている」

と噂された。

幽霊が桜の下に出るなんて  杉山ひさゆき

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「信西の執政」

保元の乱で藤原頼長が死んだあと、

朝廷で絶大な権力を振るったのは、信西だった。

鳥羽院に仕えたものの、官位は低く不遇だったが、

後白河天皇の乳母(紀伊局)の夫だったことから、

後白河天皇の信任を得て側近になった。

五線譜を繋ぐと多分多分春のうた  山本昌乃

保元の乱で、義朝の夜襲の献策を採用したのは、

信西である。

当代随一の博覧強記の学者だった信西は、

後白河天皇の黒衣の宰相として、

「天皇親政」を押しすすめた。

乱の3ヶ月後の出された「新制7か条」はその例である。

うず潮に乗ろうとπは思索中  和田洋子

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荘園の整理を意図したもので、

全国にある荘園を規制し、

天皇の支配下に置こうと意図するものだった。

また、宮廷人や社寺、源平両氏に費用を分担させて、

内裏を再興させた。

この時の信西の算段は、見事だったという。

こうして、保元2年(1157)10月に内裏が完成すると、

途絶えていた数々の「朝儀」も復活させた。

その盛大さは、平安中期の醍醐・村上天皇の治世を

超えるといわれた。

ぶつ切りのジェットコースター以来絶頂  酒井かがり

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相撲節会に参加した豊真将(ほうましょう)

信西が考えた朝議に「相撲節復活」もその一つである。

平治物語によれば、

「保元元年よりこのかたは、

 内宴、
相撲の節、久しく絶たる跡をおこし、

 詩歌管絃のあそび、折にふれて相もよほす。

 九重の儀式むかしをはぢず、万事の礼法ふるきがごとし」


とある。

ひとりぼっちの君にひだまり届けます  高橋謡子

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  【相撲節会】

奈良時代の天平年間になると、

毎年7月7日の「七夕の節会」と一体化して、

近衛府、兵衛府の官人(武官)と,

諸国から貢進された相撲人たちの間で,

「宮中相撲」が行われるようになった。

平安時代になると、宮中の年中行事として、

相撲が盛大に行われるようになる。

≪射礼、騎射とともに「三度節」と呼ばれる≫

残ったのこった国技館座席券  脇 正夫

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「相撲節会変節」

保安3年(1122)の相撲節の後、長い空白期間ができた。

天養2年(1145) 7月27日に相撲召合の予定があったが、

「天変あるによりて停止」せられてしまった。

天変とは、ハレー彗星の出現のことで、

 3月30日と4月1日に相撲使が任命されたが、

彗星は不吉であるという意見から

7月22日に久安元年と改元されるなどのゴタゴタで、

中止となっていた。

煙突の煙を追いかけ過ぎた夢  くんじろう

しかし、「相撲節会」は慣例化するに至らぬうち、

翌年の「平治の乱」でまた頓挫してしまう。

16年後、中絶期間中も御白河院は、

相撲見物をやっているし、

「相撲御覧の儀」も数度あったという。

消しゴムの好きな神様だっている  定金冬二

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