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川柳的逍遥 人の世の一家言
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裏の顔もときどき見せておきましょう  津田照子

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     相撲節会

「信西の執政2」

保元の乱後の政治をリードした信西

乱の後には、新たな政策が矢継ぎ早に打ち出された。

まず、保元元年(1156)閏9月18日、

「荘園整理令」を中心とした保元新制が発令されている。

荘園整理令後白河天皇の即位以前に設置された荘園の内、

 天皇の宣旨、および
白河・鳥羽院庁下文に基づいていないものを、

 廃止するよう命じた。


塩辛いやがてを水に晒す  岩田多佳子

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荘園整理令が出された理由は、

荒廃していた「大内裏」を新造する財源を、

捻出するためである。

いつの世も、大規模な事業のためには、

行財政改革が欠かせない。その甲斐あって、

早くも翌年の10月8日に「大内裏」が完成している。

こうした事業はすべて、

後白河天皇の名前で命令が出されたが、

その裏で計画を立案していたのは信西であり、

その目的は、信西が擁立した後白河天皇の権威を、

高めることにあった。

ポイントデーという ワナにおちていく  井上一筒

大内裏新造での信西の活躍ぶりは、

『愚管抄』で、

「立派に取り計らって、全国に少しの負担もなく、

  2年ほどであっと言う間に完成させてしまった」


と賞賛されている。

【大内裏】=
 
天皇の居所である内裏と政府諸官庁の置かれた一区画。

因みに、平安京大内裏の規模は、

東西約1164メートル、南北約1394メートル。


縁取りを待つだけになる森の水  兵頭全郎

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後白河天皇は、あくまでも中継ぎであり、

皇太子・守仁天皇の皇位継承は既定路線だ。

保元3年(1158)8月16日、

後白河天皇は、守仁天皇に譲位し院となった。

即位した守仁天皇が、すなわち二条天皇である。

この譲位は、二条天皇の養母である美福門院と、

信西との2人だけの相談で決定され、

関白の藤原忠通をはじめ、他の貴族たちは、

一切関与しなかった。 このことからも、

信西が握っていた権力の大きさがうかがえる。

石けんと皆既月食詰め放題  岩根彰子

信西の権力の源泉は、

後白河天皇の乳母の夫であることが大きかった。

後白河天皇から二条天皇に代替わりすると、

今度は、二条天皇との関係が問題となるが、

さすがは信西、その点には抜かりがない。

信西は、長男・俊憲を皇太子時代の、

二条天皇の東宮学士(学問の師)としている。

二条天皇が即位すると、

俊憲は、天皇の一番側近である蔵人頭とされた。

はみだした線を回収する熊手  加納美津子

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父親に似たのか、

信西の息子たちは総じて優秀で、

次男の貞憲も弁官に就任し、

4男の成範も、受領の最高位である播磨守となっている。

信西が息子達を要職につけた理由は、

私利私欲というよりも、学才のみを頼りに、

徒手空拳で成り上がった信西にとって、

権力を維持する為に必要なことだったからだ。

いいのではないか俺流わたし流  新家完司

しかしながら、これが信西にとっての命取りとなった。

というのは、この結果、信西は、

他の院近臣たちを敵に回すことになったからである。

弁官にせよ受領にせよ、

ポストを信西一門が占めれば、

代わりに誰かがあぶれることになる。

臨海を見るまで磨く大ふぐり  上野勝彦        

あぶれたのは、これまでこうしたポストに就いて、

院に奉仕してきた他の院近臣たちだ。

彼らにしてみれば、自分達の昇進が滞っているのは、

「信西一門のせいだ」

ということになる。

≪こうして、「従来の院近臣」たちの間に、

   深刻な反・信西の感情が芽生えたのであった≫


これ以上刻むと流れだす私  山本早苗

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