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川柳的逍遥 人の世の一家言
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幕間のコントに痛烈なジョーク  荻野浩子

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「平治物語絵巻 三条殿焼討巻」

平治元年12月9日、藤原信頼、源義朝によって、

後白河の院御所三条殿に火が放たれた。


信西は自害、二条天皇・後白河上皇も確保したが、

周囲の支持を急速に失ってゆく。


(画面をクリックすれば映像は大きくなります)

矢印の反対側へ置くこころ  井上裕二

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「義朝、クーデターを決行」

平治元年(1159)12月9日、

義朝の軍勢が、後白河上皇「御所三条東殿」を襲撃し、

上皇を内裏の一本御書所に幽閉した。

軍勢は御所に火を放ったうえ、

外からさんざんに矢を射かけたため、

多くの女官が御所内の井戸に身を投げて、

命を落したと言われる。

一本御書所=書籍の書写や管理が行なわれた場所。

俎板の窪みに溜まる雨の音  笠嶋恵美子

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信西はからくも京を脱出し、

宇治に近い自身の荘園に逃れたが、

助かる見込みはないと観念して、

土中にもぐって自害した。

この時、信西に従った郎党のひとりに、

後年「鹿ヶ谷事件」で斬首される藤原師光がいた。

信西の死体は、追手の武士によって

堀り起され、首は獄門にかけられた。

実権を握って、わずか3年の短い天下であった。

配役に首塚とある暑さかな  石田柊馬

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一方、内裏では、

信頼が天皇の名のもとに論功行賞を行い、

自身は念願の大臣・大将に就任。

義朝は、清盛が保元の乱で任じられた播磨守に、

三男の頼朝は、右兵衛佐に任じられた。

ここに信頼・義朝連合によるクーデターは、

ひとまず成功をみた。

かくて決着A4の夢の中  筒井祥文

熊野参詣の途上にあった清盛が、

都の異変を知ったのは、田辺宿の付近であった。

一緒にいたのは次男・基盛、三男・宗盛

それに郎党が15人ほどである。

義朝勢に対抗するには、あまりにも数が少なすぎる。

驚いた清盛は、

「いったん九州へ落ちて手勢を集めるべきであろうか」

と気弱なところを見せた。

刻々とメルトダウンが進む脳  泉水冴子

ところが、紀州の在地武士である湯浅宗重が、

37騎の武士を、熊野別当湛快が、

鎧7領と弓矢を提供してくれた。

これに力を得た清盛は帰京を決意し、

一門・郎党を引き連れて京への道を急いだ。

                            『愚管抄の記述より』

運のいいタケノコそっと生き延びる  新家完司            

軍記物語・『平治物語』だと、さらにドラマティックになる。

急報を受けた清盛は、

「朝廷の御大事となった以上、帰京するしかない。

しかし武具がないのはどうしたものか」


というと、平家第一の郎等と言われた平家貞が進みでて、

「少々は用意してございます」

と長櫃の中に隠してあった甲冑や弓矢を取り出した。

家貞は、

「大将軍に仕える者はこのように用意をしておくものだ」

といい、侍たちは、

「あはれ高名かな」 と感心したという。

前頭葉あたりで葦のそよぐ景  福光二郎

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「余談」

清盛の熊野詣は、

「義朝の挙兵を促すための偽装だった」

という説がある。

ライバルの義朝や、

将来政敵になる可能性のあった信西を,

滅ぼすために、"清盛が仕組んだ大芝居だった"

というのだ。

しかし、先の清盛の狼狽ぶりを見る限り、

そのような計画があったとは思われない。

悪役の今日はなんだか芋けんぴ  くんじろう


清盛一行は、義朝の長男・悪源太義平

天王寺、阿倍野で待ち伏せしているという情報に接し、

戦々恐々としながら京への道を急いだが、

それは義平ではなく、

決戦に備えて集まっていた平家の軍勢であったという。

                               『平治物語より』 

汐目が変わりここからは喜劇です  筒井祥文 

義平は15歳のとき、

武蔵国大蔵で叔父の源義賢(木曾義仲の父)

攻め滅ぼしたという豪の者。

普段は鎌倉を拠点として、

関東における義朝の勢力拡大を助けていたが、

このたび義朝の挙兵に応じて、

関東の精兵を率いて上洛していたのである。

確かに、清盛一行は兵も少なく武装も軽微で、

帰京を阻むには、絶好の機会であった。

流れ矢の一つがにじり寄ってくる  谷垣郁郎

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しかし、義朝たちのクーデター計画は、

隠密裏に進められたため、

大規模な軍勢の動員はできなかった。

少ない戦力を割いて、

清盛の帰京を阻むゆとりはなかっただろう。

あるいは平家と二重の姻戚関係を結ぶ信頼が、

身内意識から、清盛の反撃を警戒しなかった可能性もある。

いずれにせよ、清盛は何ら抵抗を受けることなく、

12月17日に、京に帰ることができたのである。

表紙からサソリ2匹も生き延びた  井上一筒

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