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川柳的逍遥 人の世の一家言
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いま私積乱雲の中にいる  ふじのひろし

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"ならびおるふたつの黒き蝶々の舞い  いずれや高くのぼりけるらむ" 

これは、鳥羽の皇女・統子(むねこ)が詠った歌である。

ふたりの黒い蝶とは、藤原忠通頼長をさしている。

 

X と Y ひとすじなわでゆかぬ線  片岡加代

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「保元の乱への序章」

事の起こりは、天皇家と摂関家の内紛にあった。

摂関家の内部対立は、摂政の藤原忠通と、

その弟・頼長の主導権争いである。

「日本第一の大学生」 といわれた頼長は、

摂関となって、自ら政治を執り行うことを願っていた。

二分咲きは希望五分咲きは願望  立蔵信子

父の忠実も頼長を偏愛し、摂関の地位を譲るよう、

忠通にたびたび、圧力をかけたが、 

「実子の基実に継がせたい」

 

と考えていた忠通は、これを拒み続けた。

業を煮やした忠実は、忠通と絶縁し、

鳥羽法皇に懇請して、頼長を「内覧」につかせた。 

内覧=天皇の決定を補佐する役で、通常は摂政関白がこの任にあたる。

 

関白の忠通と、内覧の頼長というふたりの執政が、

並び立つ異常事態が、生まれたのである。 

かなたも寒いこなたも寒い爪のともしび  山口ろっぱ

 

しかし、「祇園社乱闘事件」にもみられるとおり、

厳しい処罰を伴う頼長の、厳格な政治姿勢は、

多くの貴族の反感を買う。

さらに、久寿2年(1155)近衛天皇が崩御すると、

「天皇を呪い殺した」 という噂をたてられ、

鳥羽法皇の信任を失うのである。

ゆれる灯は終着駅か狐火か  新家完司

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天皇家の内紛は、さらに複雑だった。

崇徳と鳥羽の仲の悪さは、すでに述べたとおりりだが、

保延5年(1139)鳥羽の寵愛する藤原得子が、

体仁親王(なりひとー近衛)を産むと、

無理やり崇徳を退位させ、

近衛に天皇位を継がせた。

過去ひとつ引き摺るじゅんさいのぬめり  たむらあきこ

その近衛が皇子のないまま、

17歳で崩御すると、

崇徳は、我が子の重仁親王(しげひと)が即位し自身が

「治天の君」 となって院政を行なうことを期待した。

しかし、皇位を継いだのは、

同母弟の雅仁親王(まさひとー後白河)であり、

崇徳が院政を行なう望みは、完全に絶たれた。 

限りなく下まで落ちる立ち泳ぎ  森 廣子

 

今様に熱中し父の鳥羽法皇でさえ、 

「天皇の器にあらず」

 

とみなしていた後白河が、

にわかに皇位継承者として、浮上した背後には、

次のような理由があった。

ピリオドのために踏み出す第一歩  上田斗酒

鳥羽亡き後も、権勢を保ちたいと考えた美福門院は、

関白・忠通と組んで、

養子としていた雅仁の、

第一皇子・守仁親王
(もりひとー二条天皇)を、

皇位につけようと画策し、鳥羽もそれを支持していた。

しかし、父が天皇を経験していないにもかかわらず、

その皇子が、皇位についた例はない。

そこで、いったん後白河を即位させ、

そのうえで、守仁に譲位させることにしたのである。

政権から締め出された崇徳頼長が、

接近するのは、時間の問題だった。 

メデューサの口は形も見えぬまま  井上一筒

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       為 朝

【薀蓄】ー「源為朝の夜襲計画」

保元の乱が、まさに勃発しようとする直前、

父・為義とともに、崇徳側についた為朝は、 

「夜討ちに勝る策はありません。

  後白河天皇の本陣である高松殿にただちに攻め寄せ、

  火を放てば、容易に勝てましょう」

 

と軍議で述べた。

三日月に炎の一字を引っかける  谷垣郁郎

しかし、崇徳側の大将である藤原頼長は、

「夜討ちは武士同士で行なう野蛮な行為。

  このたびは天皇と上皇の戦いだから、卑怯な策はとれない」

と述べて、為朝の提案を退けた。

公家の発想からの決断である。 

捨てられたバナナの皮の声だった  夏瀬佐知子

 

13歳のとき、父・為義に勘当されて、

九州に追放された為朝は、

自在に暴れ回って、九州を平定するという、

豊富な実戦経験をふまえて、

「夜討ちが効果的である」 と確信していた。

また、兄・義朝が夜討ちを仕掛けてくることを危惧していた。

雲だった昨日小雨になる明日  中野六助

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「先手必勝」 が戦いの常識だが、

頼長はそれを「よし」としなかった。

そして、為朝の予想通り、

兄・義朝は、夜討ちを仕掛けてきたのだった。

もし、為朝の夜襲策が採用されていたら、

勝敗は逆転していたかも知れない。

いや、兵力に劣る上皇側こそ、

勝つためには、夜討ちが必要だった。

地獄の門までの赤い鈴である  森田律子

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義朝の夜討ちを受け入れた信西と、

為朝の夜討ち策を拒否した、頼長の戦略観の差が、

勝敗を左右したといえよう。

天皇側は、義朝の放火策も認め、

なりふりかまわない攻撃で、勝利を手にしたのだった。

眼下には桜まなうらに死者の数  井上恵津子

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「源為朝」

為義の八男。2メートルの巨漢とつたわる。

13歳の時に、父の不興を買って九州に追放され、

「鎮西八郎」 と号して暴れまわった。

訴えによると朝廷の召還にも、応じなかったが、

やむなく上洛したところ、

保元の乱に遭遇し、崇徳上皇方に立って参戦。

「夜討ち」を主張したが受け入れられず、

白河殿の防御にあたった。

この時、強弓をもって、清盛軍を撃退するなど活躍した。

思い出ほろほろニトログリセリン  酒井かがり

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