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川柳的逍遥 人の世の一家言
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梅干しの赤は生涯母の彩  森中惠美子

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      家盛と桜        

"吉野山こずゑの花を見し日より  心は身にもそわずなりにき"

 

(吉野の桜を見た日から心が体から離れてしまったようだ 西行)

「池禅尼」

池禅尼は、藤原宗兼の娘で俗名は宗子

清盛の母が死んだあと忠盛に嫁いだ。

従兄弟に鳥羽上皇の寵臣であった藤原家成がおり、

家成のそのまた従姉妹には、

鳥羽の寵姫・美福門院がいた。

宗子は正室の立場とともに、こうした人脈によって、

平家一門のなかでも、とくに重んぜられた。 

雪は消えても消せぬ名前があるのです  池田 勇

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宗子には、忠盛との間に2人の子がいる。

保安4年(1123)ごろに生まれた家盛と、

長承2年(1133)に生まれた頼盛である。

このうち、年長の家盛は、

長承3年の蔵人(くろうど)に任じられているが、

蔵人は、天皇の側近く仕える役職であり、

待遇としては、

清盛の院非蔵人(いんのひくろうど)よりも上である。  

確信は空が青いという事実  山口美千代

  

その後、家盛がいつ、従五位下に昇進したかは、

不明であるが、

康治2年(1143)に従五位上、

久安3年(1147)に正五位下、

久安4年(1148)に従四位下 と順調に昇進を果した。

清盛の方が年長で昇進が早く、

しかも、白河院の落胤であるとはいえ、

家盛は、正室の子であり、

鳥羽院の近臣の筆頭である藤原家成との、

血縁を持つという要素も大きい。 

鯛なのかほんとにおまえは鯛なのか  石橋能里子

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このままいくと、家盛清盛の有力な、

ライバルとなる可能性は十分あった。

それが可能性のまま終わった理由は、

家盛が久安5年に、急死したからである。

これによって、忠盛の子どもたち間で、

嫡流をめぐる争いが起こることは回避され、

清盛は嫡男としての立場を、

確固たるものにしたのである。 

抽象画吊るす迷路の入り口に  嶋澤喜八郎

 

家盛の死後、清盛が19歳年下の頼盛を尊重したのは、

本来は、頼盛が平家の正嫡であるという、

ひけ目のようなものが、あったからかもしれない。

それはとりもなおさず、

頼盛の母・池禅尼を尊重しようとする

気持ちの表れでもあった。 

押し売りが悲しき猫を置いてゆく  蟹口和枝 

 

宗子忠盛の後妻になったのは、

保延2年(1136)頃といわれており、

清盛19歳の時である。

まだ若かった清盛は、

何かと、この継母の世話になることも多かったであろう。

何よりも、宗子はすぐれた政治センスをもっていた。

「保元の乱(1156)が勃発し、朝廷の勢力が、

崇徳上皇、後白河天皇の両陣営に別れたとき、

清盛は微妙な立場に立たされた。

清盛自身は、

後白河の即位を認めた鳥羽法皇の近臣である一方、

継母の宗子が、

崇徳の皇子重仁の乳母だったからだ。  

転がったリンゴ泣きべそかいている  泉水冴子  

 

おそらく清盛も、崇徳方に勝ち目はないことを察知し、

「後白河陣営に参じたい」 と思っていただろう。

しかし、性急に動けば、

源氏のように、一門が分裂しかねず、

旗色を鮮明にすることがためらわれた。

板挟みとなった清盛を救ったのが、

宗子の判断だった。 

わが消す灯母がともす灯明易き  大西泰世

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『愚管抄』によると、宗子は頼盛に、 

「このたびの合戦では、きっと新院(崇徳)方が負けるでしょう。

  あなたはぴったり兄についていきなさい」
 
と教えたという。

この指示によって、平家はほとんど一門が、

分裂することなく、

保元の乱の
勝利者となることができたのである。 

槍を父浅間を母として仰ぐ  井上一筒

 

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