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川柳的逍遥 人の世の一家言
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世の中は底辺 × 高さ ÷ 欲  馬 骨

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清盛自筆・「平家の納経」

 

「ライバル平家盛」

延暦寺の強訴が解決し、清盛の生活も、

以前の平穏を取り戻すかと思われたが、

意外なところから、清盛の地位を脅かす存在が現れる。

異母弟の家盛の朝廷における活動が、

活発化し始めたのである。 

どの種も大きく育つ夢を持つ  早泉早人

 

清盛には、家盛、経盛、教盛、頼盛、忠度という、

5人の弟がいる。

清盛の母は、清盛が生まれてまもなく亡くなっており、

弟たちすべて異母弟である。

家盛・頼盛の母は、忠盛の正室・藤原宗子で、

六波羅の池殿に住み、

後に出家して「池禅尼」と呼ばれた。 

弟に最近△を貰う  山本早苗

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年齢的にも、そしておそらく器量ののうえでも、

清盛が忠盛の後継者であることは、

衆目の一致するところであったと思われるが、

この時代、長男が家督を継ぐとは限らない。

母の出自、正室か側室かという

夫人としての立場が重要であり、

その意味で家盛は、

清盛の強力なライバルであった。 

杏仁豆腐にも盲点があった  井上一筒

 

祇園社乱闘事件から5ヶ月後の、

久安3年(1147)11月、
家盛は、常陸介に任官した。

"介"は国司の次官であるが、

常陸は上総、上野とともに、

親王が名目的に国守の地位にあるため、

介は、実質的な長官(守)である。

その直後には、賀茂臨時祭で舞人を務め、

翌年・正月に従四位下右馬頭に任じられた。 

シュレッダーの刃に横顔がひっかかる  くんじろう

 

"右馬頭"は、御所の馬や、

馬具を管理する右馬寮の長官であり

軍事的にも重要な部署で、

武士にとっては名誉な役職であった。

さらに、久安5年2月の鳥羽法皇の熊野詣では、

病でありながら、父・忠盛、実弟・頼盛とともに、

法皇の御幸に従っているところにも、

家盛の存在感の大きさがうかがわれる。 

川に映る橋の裏側夢の裏側  北村幸子

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その行幸に清盛の姿はなかった。

祇園社乱闘事件で、政治的な挫折を味わった直後だけに、

清盛にとって家盛の台頭は、

心穏やかにはおれなかっただろう。

しかし、長途の旅が病身にこたえたものか、

この参詣の途中、家盛の病状は、急速に悪化し、

同年3月、京に間近い宇治川の辺りで帰らぬ人となる。 

平家伝説杜は音なく雪となる  奥山晴生

 

訃報を聞いて、かけつけた乳父・平維綱は、

悲しみのあまりその場で出家した。

忠盛もその翌月、自らが造営した延勝寺の供養を、

家盛の死を理由に欠席し、一周忌には、

家盛愛用の剣を奈良の正倉院に寄進している。

将来を嘱望されていた家盛の立場と、

周囲の人々の、悲しみの深さが知られる。 

一太刀の握り拳がさそう月  前中知栄

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    高野山大塔

 

家盛の急死によって、清盛の家督としての立場は、

不動のものになった。

それは、この直後から清盛の活動が、

活発になったことにもうかがえる。

家盛急死の2ヵ月後、

高野山の根本大塔が火災により焼失し、

忠盛が新しい大塔の造営を命じられると、

2ヵ月後、清盛が父の代官として、高野山にのぼった。

同年11月に行なわれた法皇の天王寺詣にも、

左大臣・藤原頼長ら公卿とともに随行している。 

闇市で拾った首が私です  谷垣郁郎

 

仁平元年(1151)2月、

清盛は安芸守に任命された。

大国の受領に任じられたのもさることながら、

清盛の安芸守就任は、その後の平家にとって

重要な意味を持つこととなった。

後年、清盛が安芸の厳島神社を熱烈に信仰したことは、

よく知られているが、

平家と厳島との関係は、この頃に始まっているのである。 

境内の鈴はひと風呂あびたがる  岩根彰子
 

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     厳島神社

忠盛が命じられた高野山大塔の造営事業は、

忠盛の死後(仁平3年)は、清盛に引き継がれ、

保元元年(1156)に竣工した。

厳島との関係が生まれたのは、この間のことである。

鎌倉初期に生まれた説話集・『古事談』によると、

清盛が高野山の大塔を造営していたとき、

自ら材木を運んでいると、

弘法大師の化身である僧が現れて、

厳島に奉仕するよう勧めたという。 

四つ目のまだら模様が透き通る  合田瑠美子

 

厳島神社に奉納した「平家の納経」「願文」にも、 

「夢感誤り無く、早く子弟の栄華を験す」

 

(夢のお告げどおり一門に栄華がもたらされた)

と述べられていることから、

何らかの神がかり的な宗教体験が、

あったのは確かなようだ。 

清盛は生田の森に帰りたし  山口ろっぱ

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保元・平治の乱を契機に清盛は、

出世街道を突き進んでいくが、

破格の昇進をとげるたびに、

厳島への信仰を深めていった。

≪こののち厳島は、六波羅や西八条の平家の邸宅にも祀られ、

   平家の氏神として、一門からあつい尊崇をあつめている≫

ファの音が出ない弟のラッパ  本多洋子

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