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川柳的逍遥 人の世の一家言
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サボテンを蹴ってしまったリアクション  美馬りゅうこ

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  頼長と忠通の対立

「保元の乱-発端」

 

保元元年(1156)、平安の都に兵乱が迫る。

天皇家、摂関家の対立は、武士を巻き込み、

もはや、干戈(かんか)を交えずにはすまなくなる。 

横縞につまづき縦縞におぼれる  酒井かがり

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      崇徳院

「天皇家の対立」

天皇家では、鳥羽崇徳の親子が対立していた。

鳥羽の子には崇徳後白河、近衛がいたが、

崇徳は、実子でないととの噂があり、

両者は不仲だった。

近衛が早世し、天皇後継問題において、鳥羽は、

約束の崇徳の子・重仁親王の後継の約束を反故にし、

久寿2年(1155)後白河を即位させたことで、

両者の対立が、決定的となった。 

神経に障る神経性胃炎  中村幸彦

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     藤原忠通

 

「摂関家の対立」

近衛天皇が死去した時の関白は、藤原忠通であったが、

ややこしいことに、

忠通は、「摂関家」の実権を握ってはいなかった。

当時、摂関家の実権を握っていたのは、

忠通の父・藤原忠実と忠通の異母弟・藤原頼長である。 

二百あまりの骨ギシギシと謳う春  大海幸生

 

事の起こりはこうだ。

保安2年(1121)、父・忠実に代わって関白となった忠通は、

跡継ぎとなる男子に長く恵まれなかったため、

忠実の寵愛する異母弟の頼長を養子として、

跡継ぎとする取り決めをしていた。

ところが、康治2年(1143)忠通に、

嫡男となる基実が生まれると、
忠通は、

この約束を破ってしまう。 

べたべたはざらざらよりも罪深い  野口 裕

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     藤原頼長

さらに忠実・頼長と忠通とは、

近衛天皇の結婚問題でも対立し、

久安6年(1150)正月に頼長の養女である多子が、

近衛天皇に入内し、皇后となると、

4月には、忠通の養女である呈子が、

入内し中宮になる
という有様であった。

中宮も皇后も、天皇の正妃であるが、

中宮の方が格は上である。

これに怒った忠実は、忠通との親子の縁を断ち、

忠通に相続させていた邸宅・荘園などの財産を取り上げ、

頼長に与えてしまった。 

縁を切るハガキ一枚でも切れる  森中惠美子

 

ところが、摂関の任命権を持つ鳥羽院は、 

「忠通を罷免して、頼長を関白とするよう」

 

求める忠実の願いに応じず、

頼長を左大臣のまま「内覧」とするに止めた。

忠通はかねてから、美福門院と提携していたため、

鳥羽院としては、

忠通を切り捨てるわけにも、いかなかったのである。 

切り替えて胸に点滅させておく  山本早苗

 

頼長が任じられた内覧は、

天皇に奏上する文書に、事前に目を通す役職で、

職務内容は、関白とほぼ同じであるから、

実質的には、関白の忠通と内覧の頼長とが、

並び立つこととなった。

この並立状況が、破局を迎えたのも、

近衛天皇の死がきっかけだった。 

眼や鼻の置き場をちょっと間違える  中野六助

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     鳥羽院        

近衛天皇は、長く目を病んでいたのだが、

その原因は、

「忠実・頼長が近衛天皇を呪ったためである」

との噂が流れ、鳥羽院は、これを信じたのである。

当時は、迷信深い中世という時代。

子を亡くした鳥羽院の目には、

呪いによる死が真実と映った。

≪頼長の日記『台記』には、近衛天皇の霊が巫女の口を借りて、

   「自分の目が見えなくなったのは、何者かが、

     愛宕山の天狗の像の目に、
釘を打って呪いをかけたからだ」  

    
と述べ、鳥羽院が調べてみると、

    「その通りになっていた」、という話がかかれていた≫

ええ仕事でおます藁人形の釘  山口ろっぱ

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もともと、頼長はよく言えば、真面目な堅物、

悪く言えば、融通のきかない厳格すぎる性格で、

あまりの苛烈さに、

「悪左府」との異名を奉られたほどであり、

トラブルの絶えない人物だった。 

切ないね棘ある水に馴染んでる  岩根彰子

 

その最たるものが、仁平元年(1151)、

家人の間で起こった諍いをきっかけに、

鳥羽院のもっとも信頼する藤原家成の邸宅に、

自分の家人を乱入させ、家成の家人を、

召し取らせた事件である。

鳥羽院はこの事件をきっかけに、頼長を疎み始めた。 

小石蹴りネンザしたとはよう言わん  下林正夫

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      後白河

 

関白も内覧も、天皇が代替わりすると、

改めて任命されなければならない。

だが、近衛天皇が死去し、

後白河天皇が即位したにもかかわらず、

鳥羽院は、忠通を関白としたのみで、

頼長を内覧に再任しなかった。

事実上の頼長失脚である。 

最初から迷路の口は開いていた  佐藤美はる

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ところが、事態はこれでは済まなかった。

というのも、忠実が積極的に荘園を集め、

荘園経営のために武士たちを、組織していたため、

当時の摂関家は、いわば、

私兵を備えた独立組織と化していたからだ。

それゆえに忠実が忠通を、

関白の座から降ろすことはできなくても、

父親として家の財産を、

忠通から奪うことは可能であったし、

逆に頼長が失脚した後も、摂関家の荘園や武士は、

そのまま忠実・頼長の下に残されていた。 

真っ黒を着ようか真っ赤を脱ごうか  森田律子

 

その後、鳥羽に疎まれ失脚していた頼長は、

後白河が即位すると復権する。

かくして、

鳥羽を恨む崇徳と頼長が結ぶことになり、

鳥羽、後白河、忠通に対抗するようになる。 

定位置をかえても葬儀屋が見える  郡司 豊

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      平清盛

 

「武家の対立」

当時、武士は、院や摂関家に個別に仕えており、

源平両氏もこの対立軸に巻き込まれていった。

平氏では、清盛が鳥羽に仕えていたが、

叔父・忠正は清盛と不仲で、頼長に近侍していた。

また源氏では、棟梁の為義が忠実・頼長父子に、

臣従していたが、
息子の義朝は東国の権力争いで、

父と仲違いしたともいわれ、鳥羽寄りの立場だったという。 

とって置きの万年青が消えたこの辺り  山本昌乃

 

保元元年(1156)「鳥羽が崩御」すると、

対立が一気に表面化。

後白河と崇徳方に分れての大騒乱が起きる。

その中で、キーマンとなったのが、

最大の軍事力を有する清盛である。

清盛は鳥羽に仕える一方、

継母(宗子)が崇徳の子の乳母であり、

どちらについても、おかしくなかった。 

杏仁豆腐にも盲点があった  井上一筒

 

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