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川柳的逍遥 人の世の一家言
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あじさい闇どうにもならぬ事もある  山本昌乃



「大谷吉継と石田三成の絆」

慶長5年(1600)9月15日、「関が原の戦い」で獅子奮迅の活躍をした

一人の武将がいた。

石田三成の盟友・大谷吉継である。

人質として上洛したのちに真田信繁が正室として迎えたのが、

吉継の養女・(浅井蔵之助の娘)安岐姫であることはよく知られる。

約1500の兵でありながらも、吉継は4人担ぎの輿に乗り、

紙の鎧兜を付けて陣頭指揮をとった。
  ごうびょう
彼は業病を患い、ほぼ視力を失っていたという。

それでも自軍の2倍にあたる藤堂高虎・京極高和の部隊と激突し、

互角の戦いを演じた。

アラベスクの中で果てしない鼓動  加納美津子

この間、吉継は松尾山に陣を置く小早川秀秋に何度か使者を送り、

西軍への加担を促したが、動きは見られない。

この時点で吉継は、秀秋の裏切りを予測し、

秀秋と三成の間に
大谷隊の布陣を移している。

予測の通り、正午になると秀秋は裏切り、眼下の大谷隊に突撃してきた。

秀秋の裏切りに備え、精鋭をもって一旦はこれを撃退したが、

秀秋の裏切りに呼応し、その他の諸隊が大谷隊に突っ込んでくると、

形勢は逆転し、そこへ藤堂・京極らの横槍が入り大谷隊は壊滅。

家臣の湯浅五助が全滅状態であることを伝えると、吉継は、

「汝、介錯して、我が首を敵に渡すべからず」と言い、

輿にのったまま腹を十文字に掻き斬って自決し、壮絶な最後を遂げた。

裸木の鋭く潔い線よ  新家完司



吉継は三成とともに豊臣秀吉に仕えた有能な人材であった。

天正5年(1577)織田信長から播磨攻略の命を受けて,

姫路城を居城とした秀吉。

19歳の吉継は、秀吉のお馬廻り衆の一人として、

加藤清正らとともに護衛などにあたった。

彼を取り立てたのは三成だったともいわれ、

一説によれば、近江生まれの同郷の仲だったとされる。

年齢も一歳差であり、互いに通じるものがあったのだろう。

二人は秀吉のもとで「賎ヶ岳の戦い」25歳の若き吉継は

7本槍に匹敵する活躍をみせた。


ずっと前から結ばれていた二つの灯  吉川哲矢
                    ぎょうぶのしょう
そして秀吉の関白任官に伴って、刑部少輔に任じられ、それ以後、

「大谷刑部」と呼ばれるようになり、敦賀城主にも命じられた。

しかし慶長3年(1598)に秀吉が死去すると、

五奉行の一人・徳川家康がその遺言を無視し独断専行の政治を行い始める。

これに対して、かたや
五奉行の筆頭・前田利家が、

「一戦を辞さない」という緊張した慶長4年(1599)


吉継は自分の屋敷に兵を集め、家康に味方する姿勢だったという。

家康が上杉討伐のため東征した際には、吉継もそれに従った。

東征先で吉継は、三成が蟄居していた佐和山城へと招かれた。

そこで三成から家康を打倒するため挙兵する決意を聞いたのである。

急ぐことはないと雲にも言いました  立蔵信子

三成は19万石、それに対して家康は250万石の大名である。

家康と戦っても利がない、吉継は三成を諫めたが三成の決意は固い。

ついに負け戦になると知りながらも吉継は、縁起の悪い吉継の名を

吉隆に改名して、三成とともに反旗を翻したのである。

吉継にとって三成は、苦楽を共にしてきた友であった。

決戦当日、西軍の武将が敗走するなか、吉継は最期まで戦い抜いた。

大谷隊の壊滅は戦場の趨勢を一変させ、

西軍諸将に動揺を与え、
西軍潰走の端緒となる。

そして朝もう飾ることない二人  上田 仁

吉継辞世の句

「契りあらば六の巷にしばし待ておくれ先だつ事はありとも」

(共に死ぬ約束があるのだ、あの世〔六道の辻〕で待っていて欲しい)

吉継・三成の「エピソード」

「天正十五年(1587)大坂城で催された秀吉の茶会の席で、

秀吉の諸将が茶碗の茶を回し飲みをした。

しかし大谷が口をつけた後はみな嫌い、病の感染を恐れて、

飲むふりをするのみだったが、三成だけはその茶を飲み干した」

というエピソードが伝わる。


破るため約束をする左指  吉田信哉



「石田三成」

豊臣秀吉がまだ 羽柴秀吉と名乗っていた近江長浜城主時代、

三成はその小姓として仕えたといわれている。

戦場での働きよりも兵站の調達や事務処理で頭角を現した。

天正5年(1577)、秀吉が信長により中国攻めの総司令官に任命されると、

当時17歳で、三成も中国地方への軍に従う。

天正10年6月、信長が本能寺で家臣の明智光秀に殺されると、

秀吉がいち早く畿内にとって返し光秀を討った。

これで秀吉が織田家後継の筆頭に立つと、

三成も秀吉の側近として、一層重要な役目を担うようになってくる。

新しい風が吹き始めたようだ  岡内知香

翌年の「賤ヶ岳の戦い」では、柴田勝家軍の動きを探る役目とともに、

戦いでも一番槍の功名を挙げている。

三成の本領が発揮されたのは、天正15年に秀吉が九州平定のため、

大軍をもって遠征に出た時のことだ。

その前年に堺奉行に任じられ、そこを完全掌握したうえ兵站基地として

整備していた三成は水軍を活用。

堺を基点とし、兵員や物資を載せた船が瀬戸内海を迅速に移動する

手はずを整えたのだ。
           しちょう
兵糧・武具などの輜重が滞りなく行なわれたおかげで、

九州平定戦は比較的短期間で勝利を収めることができた。

池の鯉わたしの手拍子にうねる  古田祐子

しかし天正18年の「小田原征伐」の際は、

秀吉から北条氏の支城の一つ忍城の攻略を任される。

だが城兵の頑強な抵抗に遭い苦戦し、

備中高松城際の水攻めを模して長大な堤防を築いた。

だが逆に城方に堤防の一部を破られ、

自軍に被害が及ぶ失態を演じてしまう。


以後、戦下手のレッテルを貼られた。

その後、朝鮮出兵の際は出征した武将たちとの間に、

大きな確執を生じ、
戦後は亀裂が決定的となる。

このため家康との間で雌雄を決した「関が原の戦い」で敗れてしまう。

絆という粘々洗っても洗っても  高橋謡々

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