忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[666] [665] [664] [663] [662] [661] [660] [659] [658] [657] [656]
逃げ込んだのはもぐらたたかいの穴だった  森田律子


地震・津波にはお手上げの鎌倉大仏


4月14日に発生した熊本地震は、収束の気配を見せないまま、
16日未明に本震とみられる揺れを観測、マグニチュード(M)は7・3で
1995年の阪神大震災と同規模の「横ずれ断層型」とみられている。
長周期地震動は最も強い「階級4」(立っていることができない)を
熊本県内で観測、被害の規模・範囲はとめどなく広がっている。
この熊本地震や阪神大震災に匹敵する地震は記録史上1300年以上、
延々と我々の列島を揺るがし、またぞろ歴史の大地震を語らせる。

つなぐ手の中に侵入する外気  竹内いそこ


   帰 城 跡

「天正大地震」

戦国時代、人々にとって自然災害は脅威であった。

雪害に悩まされた東北地方、淀川の水害を受けた河内周辺など、

例を上げればキリがない。

そんな中、自然災害により滅亡した大名がいた。

飛騨の内ヶ島氏、かつては上杉家の侵攻も退けた戦国大名である。
                                    うじさと
天正13年(1586)11月29日、内ヶ島当主・内ヶ島氏理は居城である
かえりくも
「帰雲城」にいた。

この11月といえば、徳川の重臣・石川数正が豊臣家に出奔し、

徳川家康が真田昌幸攻めから撤退した年である。

家康も大いに揺れた。三谷幸喜はドラマでも地震の歴史を忠実に描いていましたね)

点景にわたくしがいてうずくまる  嶋沢喜八郎

内ヶ島家では、金森氏との和平が成立したことを祝うために、

重臣らも含め一族全員が城に集結中。

そこを突如大きな地震が襲ったのだ。

城に面した帰雲城は山崩れを起こし、大量の土砂が城に降りかかる。

なす術もなく城は土砂に埋まり、内ヶ島氏は滅亡してしまった。

内ヶ島氏を滅亡させたその地震こそ、

戦国時代最大の大地震・「天正大地震」である。

地震の規模はM 7.8〜8.1、死者多数、負傷者膨大な数に及ぶ。

飛騨・越中などで山崩れ多発、白川郷で民家数百軒が埋まり、

余震が1年以上続いたという。

三河湾と若狭湾という日本海・太平洋両岸での大津波が記録されている。

すれちがいざまに発熱したらしい  徳山みつこ


  流される人・家

内ヶ島氏以外にも多くの大名に甚大な被害を及ぼしたことが記録されており、

越中国では木船城が倒壊し、前田利家の弟・前田秀継とその妻が死亡。

近江国でも長浜城全壊により、城主・山内一豊のひとり娘が死亡している。

戦国時代末期の豊臣秀吉による東日本支配が完了していない時期でもあり、

文献による歴史資料はほとんど残されていない。

ただ、宣教師・「ルイス・フロイスの日本史」には、

「この時、秀吉は琵琶湖沿岸の坂本城にいた。

   突如起きた地震のために各地の城や建物は倒壊。

   激しい揺れに驚いた秀吉は飛ぶように大坂へ逃げた」

と書き記している。

緊張が続くと笑いそうになる 青砥たかこ          

これまたフロイスの報告では、

「長浜地区にあった千戸の集落では、地面が割れて半数の家が倒壊し、

    半数は火事で焼失した」

とあり、また津波についても、フロイスは、


「若狭湾と思われる場所が山ほどの津波に襲われ、

   家が流され多くの死者を出した」 

と記録している。


諸国でこれだけの被害があったのだから、

震源地の岐阜県北西部にほど近い帰雲城が、埋没するのも理解できる。

電動歯ブラシと電動の入れ歯  井上一筒


 元暦京都地震の挿絵
人馬が七転八倒し恐怖を表現している。

「元暦大地震」(方丈記より)
 
『・・・元暦二年(1185)の頃、大地震ふること侍りき。

   その様世の常ならず。
うづみ
   山くずれて川を埋み、海かたぶきて陸をひたせり。
                                                                (転がり落ち)
   土さけて水湧きあがり、いわを割れて谷にまろび入り、

   渚こぐ船は浪にたゞよひ、道いく駒(馬)は足の立處をまどはせり。
                            あたり                                                             無事なものはない
   況んや都の邉には在々所々堂舎塔廟、一として全からず。

   或ひは崩れ、或はたおれぬる間、塵灰立入りて、盛んなる煙のごとし。
                                                              いかづち
   地の震ひ、家の破るる音、雷に異ならず。

   家の中に居れば、忽ちに打ちひしげなむとす。

   走り出づれば、又地割れさく。


   羽なければ空へもあがるべからず、龍ならねば雲にのぼらむこと難し。

(羽がないから空にも逃れず、龍でないから雲に隠れることもできない)

耳鳴りが百デシベルになってもた  河村啓子

   おそれの中に恐るべかりけるは、只地震なりけりとぞ覚え侍りし。

   かくおびただしくふる事は、しばしにてやみにしかども、

   その餘波しばしば絶えず。

   よのつねに驚くほどの地震、二三十度ふらぬ日はなし。
                                                                                          まどお
   十日二十日過ぎにしかば、やうやう間遠になりて、或は四五度、二三度、

   もしは一日まぜ、二三日に一度など、

   大方その餘波三月ばかりや侍りけむ』


(ひどく揺れは暫くして止んだけれどもその余波は絶えなかった。
   びっくりするような余震が二・三十と回起こらない日はなかった。
   十日二十日過ぎて、ようやく間隔があいてきて、
   ある日は四・五度、二・三度
あるいは一日おき二・三日に一度など
   大方その余波は三ヶ月ばかり続いた)


鴨長明が元暦の大地震を経験したのは、方丈記成立の30年程前である。

都に甚大な被害をもたらした地震による災害を切々と臨場感たっぷりに、

「方丈記」の一節に長明は回想している。

当たるという易者しばらくして消える  藤本秋声


慶長伏見地震を題材にした歌舞伎「地震加藤」の錦絵

「慶長伏見大地震」

慶長元年(1596)9月5日、マグニチュード(M)7-7.5程度と

推定される
地震が完成直後の豊臣秀吉の伏見城を襲った。

「慶長伏見大地震」である。

天守や伏見城の天守や石垣が損壊、城内だけでも多くの死者を出し、

また、京都や堺でも1,000人以上の死者が出たという。

嵯峨野では、天龍寺や仁尊院、大覚寺といった寺院が倒壊。

京都南部では東寺が倒壊し、方広寺では大仏が倒壊した。

大阪でも低地の多くの建物が倒壊したが、大阪城に被害はなかった。

そして余震は翌年春まで続いた。

これだけ広範囲にわたる被害がでた地震名に「伏見」が入っているのは、

秀吉絶頂期で時の政権が伏見にあったことが反映されている。

この地震の揺れに秀吉は、

「地震の原因は琵琶湖の大ナマズのせいじゃ!」


と言ったとか言わなかったとか。

あなたは何処で壊れていたんです  山口ろっぱ

また加藤清正の秀吉がかかわる地震逸話がある。

石田三成の讒言で秀吉の怒りを買い閉門中の清正が、

「殿下!殿下!虎之助めが参りました。いずこにおられます」

と叫び、いの一番に、
秀吉のいる伏見城へ駆けつけ、

動けない秀吉をおんぶして救い出し、閉門を許されたという話である。

ユーモラスな秀吉は、いろんな場所でいろんな逸話を提供してくれる。

酸欠をしてます自由をくださいな  美馬りゅうこ

拍手[2回]

PR


Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開