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川柳的逍遥 人の世の一家言
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嵐去る迄はグレーのカメレオン  加藤 鰹





          信長光秀因縁の法華寺

   光秀は信長に殴打され恨みを抱いた
信長が武田軍との戦に勝利し、論功行賞や酒宴が行われている席上で、
「これで私も骨を折った甲斐があった」というような光秀の何気ない
一言に信長が激高し、光秀を殴打したのが法華寺である。




       信 長 公 記




『信長公記』は、信長の右筆である太田牛一が、信長が、室町幕府15
代将軍・足利義昭のもとに上洛した1568年(永禄11)から、本能寺
の変で自害を遂げる1582年(天正10)までの15年間の信長一代
をまとめたものである。
歴史学に於いて――、伝記や軍記物語は、書状などの一次史料をもとに
した二次史料と見なされている。
しかし『信長公記』は信長と同時代を生きた太田牛一によって書かれた
もので、一次史料と同等の扱いを受けている。
ここに牛一の信念・決意の言葉がある。
『直にあることを除かず、無き事を添えずもし一点の虚を書するときは 
天道如何(天道を踏み外すこと)に見る人は、ただに一笑をして実を見 
せしめたまえ』 と、嘘偽りなく同書を書いたことを誓っている。
こうした牛一の執筆姿勢が同書の史料的価値を高めている。



あの日の風が奔り抜けてる日記帳  相田みちる



例えば、 本能寺での最期の言葉「是非に及ばず」「信長が自害にいた
る様子」も牛一が現場にて直面した侍女から聞き取り、公記に載せた
ものである。
(是非に及ばず=だからどうした、今さら仕方あるまい」)
また、戦国武将の中でもいち早く鉄砲を合戦に導入し、戦国大名・武田
勝頼との「長篠の戦い」では、3千挺の鉄砲で武田軍を一網打尽にした
と伝えられている。
しかし、『信長公記』には「千挺ばかり」と書かれてはいるものの、
「三千挺」という数字はどこにもでてこない。
(別働隊も鉄砲を備えていた数の5百挺ほどを足しても千五百挺である)
さらに、「比叡山延暦寺の焼き打ち」に関しては、
『根本中堂、山王二十一社を初め奉り、零仏、零社、僧坊、経巻一宇も
 残さず、一時に雲霞のごとく焼き払い』『僧俗、児童、智者、上人一
々に首をきり』
と、信長が世間に公表してほしくないような、凄惨な様子をも淡々と綴
っている。



潔い清く眩しく疎ましい  ただれいな


   出雲・石見への国替えに苦慮する光秀の重臣 (『絵本太閤記』)




家康ー本能寺の変

1582(天正10)5月中旬、明智光秀は安土で徳川家康を接待中に
突然に中国地方へ出陣せよとの命を受けた。
その後、準備のために丹波亀山城へ戻った光秀に、信長から使者が来た。
<何事か…>と訝しむ光秀に、使者は次のように伝えた。
『光秀の丹波・近江の領地は召し上げ、代わりに出雲・石見を宛がう』
                       (『明智軍記』)




淋しさをなぞった様に紙魚奔る  米山明日歌




         亀山城天守古写真(美田村顕教)
光秀が領主として自ら築いた平山城は、領民の暮らしと一体になり、
領民の目線で統治するといった考えから築かれた。




――丹波・近江は、かつて信長のために粉骨砕身した褒美として与えら
れた領地であったはず。
こここそ自分の土地として、今日まで営営と領民を慈しんできた。
それを召し上げ、代わりに、いまだ敵の領地である「出雲・石見に行け」
という
武士を土地から切り離し、全国どこへでも移動を命じようとする。
信長の政策は、これほどまでに容赦のないものであったのか…。
省みれば、四国の長曾我部氏も、まもなく同じ運命に合おうとしている。
光秀の胸中には、様々な想いが過っていた。



知らぬ間に喉に刺さっている小骨  井本健治



四国遠征軍の出発日は、6月2日に迫っていた。
奇しくも同じ6月2日、信長は京の都にいるはずだった。
中国出陣を前にして、何事かを朝廷に言上する予定だったからである
<もはや、信長をこのままにしてはおけない>
光秀の胸中に殺意が固まったのは、この時であった。
これに先立つ5月28日、光秀は、連歌会を坊舎・西坊威徳院で「愛宕
百韻」
を興行した。明智光慶、東行澄、里村紹巴、里村昌叱、里村心前、
猪苗代兼如、宥源、威徳院・行祐と巻いた百韻である。
このとき光秀は、有名な「ときは今 あめが下知る 五月哉」という発句を
詠んだ。続いて脇の行祐「水上まさる 庭の夏山」と、詠み、
第三で里村紹巴「花落つる 池の流を せきとめて」と詠んだ。
深読みすれば、危険で微妙な意味を含んだものと解釈できる。



火遊びの煙ゆらゆら心電図  みつ木もも花



愛宕百韻開催日の翌日、5月29日、信長は都に入り本能寺に到着した。
その時、引き連れていたのは、僅かな供回りだけだった。
6月1日の昼、信長は公家たちの訪問を受けた。
勸修寺晴豊「天正十年夏記」には、この時、信長は2月に要求した暦
の変更を、再び突きつけて強く迫ったとある。
このままでは「いずれ信長の言いなりにならねばならぬ」ことは明らか
だった。
一方、毛利にある秀吉の援軍に向かうべく、丹波亀山城を発った光秀
軍勢は、「討つべき敵は本能寺にある」と、信頼する老臣に本意を告げ、
老ノ坂を下って桂川を渡り、そのまま進路を東にとって、京都の本能寺
に向かった。



過去からの10カウントがまた響く  くんじろう




      『本能寺焼討之図』 歌川延一 (都立中央図書館所蔵)
叛乱に応戦する信長 右方奥で帰蝶も戦っている。
           奮戦する蘭丸




6月1日の夜、信長は茶会や囲碁ですごし深夜に就寝した。
6月2日未明、本能寺に着いた光秀は、全軍突入を下知した……。
宿坊の周辺の物音が騒がしいのに目を覚ました信長は、「何事か!」と、
側近の小姓・蘭丸を呼び寄こし問えば「光秀殿 謀反!」と答えた。
聞くやいなや信長は「是非に及ばず!」と吐き、寝間着のまま…、
「信長は、初めは弓をとり、二つ三つと取り替えて弓矢で防戦したが、
 どの弓も時がたつと弦が切れた。その後は槍で戦ったが、肘に槍傷を
 受けて退いた。それまで傍らに女房衆が付き添っていたが、
 『女たちはもうよい、急いで脱出せよ』と言って退去させた」
                        (『信長公記』)
光秀軍は1万3千、信長配下の戦力は、150人余り、肘に傷を受けた
信長は殿中の中へと退却を余儀なくされた。
寺には火がかけられ、火の手は、信長のすぐ近くにまで迫る勢い。
信長は殿中の奥へ奥へと引き下がり、戦力の乏しいなかで信長は、
それでも、4時間持ちこたえた。
が、天下布武を目の前にした、信長は49歳の生涯を終えた。



夕間暮れ二足歩行は隙だらけ  青砥和子



6月5日、光秀は安土城に入城。
各地に室町時代の古い領主を呼び戻し、室町幕府体制を復活させようと
した。
6月7日、朝廷の勅使が光秀を訪れ、京都の守護を命じると伝えた。
(朝廷は光秀の行動を認めたのである)
そのころ都の公家たちは、<たびたび宴を開き、大酒を飲んでいた>と、
晴豊の日記には記されている。
(信長の死を祝うかのような行動をとっていた…ということである)
そして、信長に追放されていた室町将軍・義昭は、本能寺の変を知るや、
各地の大名に書状(御内書)を送った。



空中にただよう感情の微塵  黒瀧睦子



6月13日付の能美宗勝(毛利家親族)宛の御内書には、
<信長を討ち果たしたうえは、急いで、京の都へ上るための援助をせよ>
とあり、あたかも自ら信長を討ったかのような態度で、上洛援助を要請
している。朝廷・公家・将軍、信長に反対していた勢力のいずれもが、
光秀の行動を支持していて、光秀が構想する「古い時代の秩序と伝統の
復活」は、成し遂げられたかのようにみえた。
しかし、予想だにしなかったことが起こった。
中国地方で毛利氏と戦いの真っ最中で、当分は釘づけになっているはず
秀吉が、軍勢を引き連れて、京の都に迫ろうとしているという知らせ
が入ったのである……。



どうなるのだろう 裏表紙のけむり  大嶋都嗣子



「太田牛一と信長公記」
太田牛一は尾張国(現在の愛知県西部)春日井郡の生まれた。
信長より7歳年長で、元は織田家家臣・柴田勝家に仕えていたが、弓矢の
腕を買われて信長に召し抱えられた。
牛一は、筆まめな性分で、日々の出来事を、日記やメモに書き留めていた
ことが信長の目に留まり、書記官(右筆)を務めた。
そして信長一代記・『信長公記』を執筆することとなった。



間道も本道に変えていく覇者  八木侑子

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