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川柳的逍遥 人の世の一家言
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飛ぶ準備完了あとは風になる  上坊幹子




          豪傑奇術競 (長谷川小信画)
伊賀は忍者の郷、野盗も物の怪も棲んでいる。



その日は突然やってっきた。
このとき徳川家康は、長年の同盟関係の労をねぎらう信長の招待を受け、
安土城でもてなしを受けたあと、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊
直政ら家康の四天王のほか石川数正・服部半蔵、穴山梅雪らとともに、
堺見物をし、京都にいる信長にお礼のあいさつに向かう途中だった。
河内の飯盛山の麓まで来たところで、「本能寺の変」茶屋四郎の早便
でもたらされた。



鉛筆の重い日もある句読点  荒井加寿



四郎 「本日未明、信長公がが宿泊されている本能寺が武装した軍団に
    襲撃されました」
数正 「……京の周辺は織田の領内、敵対する勢力は存在しない筈だぞ、
    一体誰が」
康政 「襲撃した軍勢が掲げていた紋様は、桔梗紋。織田家で桔梗紋を
    掲げているのは、明智光秀しかおりません」
四郎 「手前は商人ですので辛くも京を抜け出せましたが、洛中は明智
    の兵で満ち溢れております」
数正 「ここから30㌔と離れていない、ここにいては危ないな」
 供の総勢は猛者揃いの34名だ。「京へ行き信長の弔い合戦をすべし」
という意見も出たが、武装もしていない平伏の格好である。
軍を率いる明智に対抗するには、あまりにも無謀すぎる。



斬り捨てた昨日が風に戻される  小林すみえ



忠勝 「……殿!! どういたしましょうか?」
家康は家臣の意見をききながら沈黙を通していた。が、
家康 「儂はこれより知恩院に入り、上総之助殿の後を追う」
家康の言葉を聞いて家臣は耳を疑った。
あまりの衝撃に、錯乱したのか、発狂したのか、と本気で思った者も少
なくなかった。
忠勝 「殿、殿は、何度こうした難儀を乗り越えられてきましたか!」
勝ち目のない状況に一時、家康は知恩院で自刃することを決意するが、
本多忠勝の説得により、三河岡崎城への帰城を決意する。
そこで家康の一行は、伊賀を越え、伊勢の海から船で三河に渡る最短の
経路を選択した。
堺から南山城へ出て、近江の信楽から伊賀丸柱を経て、鈴鹿の山を越え、
伊勢国へのルートだ。



そうねえと話半分聞いてない  曾根田 夢




家康公伊賀越えの道の出発点とした四条畷神社
家康一行は、茶屋四郎の信長自刃の報に接した飯盛山西麓の四条畷神社
からスタートした。



家康ー伊賀越え




「伊賀越えの厳しさ、むずかしさ」
それでも危険にはかわりない。
未知の土地に何が待っているのかわからないのだ。
当時、伊賀には「総国一揆」といわれる自治組織が存在していた。
一揆の勢力範囲は、伊賀の国を超えるほどだという。
本能寺の変の1年前、信長は、この伊賀惣国一揆を徹底的に攻撃し殲滅
させている。「天正伊賀の乱」といわれる。
本能寺の変が起きたときも、伊賀国では、大規模な一揆が起きていたと
されており、伊賀はまさに危険区域だった。
そんな背景を踏まえての「大脱出劇」であった。




草いきれ生きる権利を主張する  靏田寿子




         草内の渡し立札




「よくぞ御無事で! あの伊賀を越えられてお戻りになられたとは」
この祝福のコトバから「神君伊賀越え」の見出しが生れた。
この感動の言葉からも察せられるように、ともかく武者と言えど、少人
数で伊賀の山を越えることは、危険きわまりないことなのだ。
地侍や土民の一揆の恐れがあり、家康の巻き添えは御免と家康一行から
少し離れ別行動をとった穴山梅雪は、草内の渡しあたりで、土民の一揆
に襲われ落命している。
家康の一行も、途中、地侍や土民に襲われたともある。



韋駄天の友が一番先に逝く  八木幸彦




家康「伊賀越え」について石川忠総(ただふさ)の『石川忠総留書』
の記述が最も信憑性が高いとされている。
石川忠総(ただふさ)は、家康の堺見物に同行していた家康の堺に同行
していた大久保忠隣の長男であり、石川数正の従兄弟・石川康通とは、
親戚筋にあたる。つまり『石川忠総留書』は、現地に行った者からの聞
き取り情報なのである。
そして、その記録には、伊賀越えのルートが記されている。
6月2日 堺―南山城路―山城国宇治田原山口館(泊)13里
6月3日 山口館―南近江路―近江国甲賀郡信楽小川館(泊)6里
6月4日 小川館―北伊賀路―伊勢国長太―舟(泊)17里
6月5日 舟―三河国大浜―三河岡崎城着




切り取り線は常に正しい位置にある  寺川弘一




       伊賀越えールート




家康一行は、道に詳しい長谷川秀一の案内で、山城から近江の甲賀伊賀
を通り、白子浜から伊勢湾を横切り、常滑へ船で渡る最短ルート、後世
<神君伊賀越え>と呼ばれるルートを選択する。
(長谷川秀一=信長の側近で奉公職や検使などを務めた。
家康一行が、信長の本拠地安土を訪れた時。秀一は、接待を命じられ、
上方見物の案内も務めた。しかし、堺滞在中に、信長が本能寺で襲われ
たため、家康らと伊賀越えで熱田まで同一行動をとることになった)




忠義に厚い武士だった服部半蔵




道中には、家康の命を狙う百姓一揆や落武者狩りなどの危険があったが、
同行していた家康の家臣・服部半蔵の父・保長は伊賀出身だった。
そこで半蔵は、父の故郷の土豪や忍のもとに出向いて協力を求め、
2百人を動員して家康を守護させ、険しい間道を通って無事伊勢へ到達
させたといわれる。




武士としても有能だった茶屋四郎



また豪商・茶屋四郎『茶屋由緒紀』によると、茶屋四郎が先回りして
未然に落ち武者狩りを防ぐため、要所要所で金銭をばらまき、通行の安
全を確保し。金には弱い地元の者が道案内をしたという。
これはイエズス会宣教師の記録にも出てくるため、事実の可能性が高い。
どちらにせよ、家康は様々な助けを経て、岡崎城に達したとされている。




四捨五入何も無かったことにする  津田照子



道中の日程は次の通り。
6月2日のうちに家康は、山城国宇治田原に入った。
堺から13里(52㌔)、この地で山口光弘の馳走を受けて一泊。
3日は、近江国甲賀郡信楽の小川村の多羅尾光俊の城館に泊まり、
翌4日には、多羅尾の案内でいよいよ伊賀を通過した。
そして丸柱から石川、河合などを経て伊勢へ入り、関、亀山を経由して
白子から船で三河へ…この危険な道のりを、先々で信長派の城主や土地
に詳しい案内者の協力を得て、3日間の決死の逃避行のあと、無事三河
にある岡崎城に帰城した。



頬杖のはるかに八月の鯨  小川佳恵



「追記 ①」 <事実のあかし>
『乙夜之書物』関屋政春氏は白子の商人・角屋七郎の知人を取材して
「角屋は白子で家康に船を提供して、褒美に舟役の免許をもらった」
記している。
『徳川実紀』にも「家康は角屋七郎次郎の船に乗った」とあり、角屋が
用意した船に乗って、白子から常滑に渡り、陸路で知多半島を横断して
再び船で大浜に着いた」という史実がのこる。




ひょっとしてわたし淀川の牛蛙  井上恵津子



「追記 ②」 <あとのまつり>

伊賀を抜けた6月4日、家康信長の武将である蒲生賢秀・氏郷父子に
「信長の長年の恩が忘れがたいので、是非とも光秀を成敗するつもりだ」
と弔い合戦の決意を述べている。
実際、家康は領内に大規模な動員をかけた。
ただ雨など天候悪化などにより、家康が出立したのは三河に着いてから
10日も経った6月14日になった。
ところが、この前日、「山崎の合戦」で秀吉明智軍を撃破していた。



合掌の中で心を問い直す  柴辻踈星



「追記 ③」 <褒められて…>

伊賀越えの功績が評価され、服部半蔵は、遠江国に8千石を賜った。
さらに、家康を守護した伊賀者は、徳川家の家臣となり、半蔵が与力・
同心である彼らを統轄することになり、伊賀同心たちは四谷に屋敷を
与えられたという。
茶屋四郎もまた、その功績により家康の御用商人として取り立てられ、
徳川家の呉服御用を一任されることになった。
さらに、江戸城下に屋敷を拝領。朝廷や天下人・秀吉との橋渡し役を
担い自由な出入りを許された。



薬だな故郷の大地そして風  堂上泰女



「<家康どうする>でこんな役で出ています」




   
 茶屋四郎次郎     中村勘九郎




「追記 ④」  <困ったときに現れる京の豪商>

茶屋四郎次郎 
ちっぽけな三河の田舎大名・家康に財を預け、出世を見込んで大博打を
打った商魂たくましい陽気な男。
数々のピンチを救い、家康のサクセストーリーとともに国づくりを支え、
日本一への豪商へとのしあがる。



「追記 ⑤」 <風見鶏の元祖>





   




穴山梅雪
武田一門・穴山家の当主。信玄からの信頼厚く、抜群の知略を生かし、
外交戦略のエキスパートとして活躍。武田軍の駿河侵攻においては、
先兵として今川家の切り崩しを行った。
寝返りの巧みな梅雪はのち、裏切り者や卑怯者と武田家中で罵られる。
信長に黄金2千枚、家康に2人の美女を献上して信長陣営に仲間入り。
武田勝頼を滅ぼす道案内までした。勝頼は穴山梅雪の手引きもあって、
信長にに滅ぼされた。

『どうする家康』では、田辺誠一さんが演じる穴山信君
信君の死を見た家康は、木津川の河原で追腹を遂げようとするが、
本多忠勝が「追腹するほどのことではない。ここから宇治・信楽を経て
伊勢に出て、船で三河に帰ろう」と提案し、伊賀越えが始まった。
草内の渡しの位置は不明だが、木津川は飯盛山と宇治田原の間を流れて
いるから、通説のルートとは矛盾はない。



包装紙折り目正しく戻せない  ふじのひろし

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