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川柳的逍遥 人の世の一家言
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薬って効くんだ眠くなってくる  荒井加寿





          阿茶に宛てた家康直筆の手紙 
「義直の病状がますます快方に向かったとの由、めでたくも嬉しくも
思います。疱瘡であっても軽症であると聞いて安心もし、めでたくも
思い、嬉しく思っている」と、疱瘡の病に臥す義直を見舞う。



「英雄色を好む」
------戦国の乱世を勝ち抜いてきた三英傑・信長、秀吉、家康のうち、
女性にあまり関心をもたなかった信長を除き、秀吉は血統書つきの
「ブランド美人」を好み、家康は「後家」を好んだ。
さらにいえば、家康は「出産経験」のある女性を好んだという。
戦国時代、政略結婚により同盟を強化したとはいえ、
「側室」は自分の好みで、選ぶことが多かった。
秀吉は出自のコンプレックスゆえに身分の高い女性、また美少女が好み、
子孫を多く残すという「結果」よりも、その「過程」を重視した。
一方、家康は、晩年を除いては、秀吉と真逆の子孫を多く残す「結果」
だけを求めた。



長寿への薬君とのレモンティー  堂上泰女




細かにいえば、家康の正室は2人、今川義元の姪・築山殿豊臣秀吉
妹・朝日殿。好みではなく、どちらも政略結婚だった。
一方で、側室の数は………というと、定かではない。
好みのタイプを集めて19名とも、それ以上ともいわれている。
丈夫で健康的。生命力に溢れてたくましい女性。
そして、未亡人、敢えていえば、出産経験者。
無事に一度出産した経験があれば、子を産む確率が比較的高いと判断し
たのだろう。そんな中で、家康が理想とした一押しの女性は、飯田直政
の娘・阿茶の局といわれる。



いっこうに古くならないお月さま  新家完司





           あ 茶 の 局 橋本周延画)




家康ー家康の側室ー②




阿茶------武田氏の家臣・飯田直政の娘として誕生。 
父の直政は、武田氏の家臣だったが、武田氏と今川氏の和睦に伴い、
今川氏の家臣へと転じた。
阿茶は初婚ではない。 19歳のときに、神尾忠重に嫁いでおり、
忠重との間には、一男一女をもうけている。
つまり、阿茶局は、「未亡人」「出産経験あり」なのだ。
そのうえ、武芸と馬術に優れていたという。
信長の命によって、正室の築山殿と長男・信康を殺害せざるを得なくな
った年である1579年(天正7)阿茶が25歳の時に、運命の糸が引
き合わせるように家康の目に止まった。
「(家康に)「側室として召し出される」と、『神尾氏旧記』『当院古
記』に記されている。



目の玉の光で分かる好奇心  青木ゆきみ



「家康が最も信頼した阿茶との出会い」
阿茶を見初めた天正7年は、家康にとって最悪の年だった。
家康が、8月築山殿殺害、9月信康切腹を命じた年である。
家康38年の人生の中で、一番辛く厳しい出来事が、彼を襲ったのだ。
子と妻を一気に消去するという悲劇-------皮肉にも、その原因を作った
のは自分である、そして「死」を命じたのも自分なのだ。まさしく、
『人の一生は重き荷を背負いて、遠き道を行くが如し、急ぐべからず』
の心境だった。
この人生最悪の時に、家康は阿茶と出会ったのである。
なにか琴線に触れるものがあったのだろう、家康はあ茶との出会いで、
心に一風の安らぎを感じたようである。
思えば、考え方や価値観が大きく異なった、前正室の「築山殿」。
そのせいで、息子を死なせてしまった自責の念。
そんな悲しみに暮れたときに出会ったのが「阿茶局」だった。




岬までグルコサミンと会話する   水品団石




「そこに名言}
「残された文書に、築山殿が殺害された当時の状況が記されている」
「今日は岡崎から夫に会える」
と、築山殿は、極上の晴れ着を身に着けていたのだとか…。
少しでも綺麗な姿で家康に会いたかったのだろう。
報告を受けた家康は、(一説に)
「なんとか築山殿を逃がせなかったのか」と、介錯人を責めたとも
地獄を見たとは、まさに当時の家康のコトなのかもしれない。
この時、反省と後悔をして家康が残したものなのかどうか。
『己を責めて 人を責めるな』の言葉が胸に刻まれた。



際限のないものと知る黒の濃さ  加藤当白    




「小牧・長久手の戦いに同行して」
腹に子を宿しながら戦場に馬にまたがり同行したあ茶は流産した。
それが理由か分からないが、のちに子どもが産めない身体となったが、
家康の寵愛は変わらずに続いた。
駿府城へ隠居する際も、側室の中で唯一連れて行ったのが、
心より信頼をする「阿茶局」だった。
そこで聡明な阿茶局は、家康から奥向きのことを任され、大奥の統制
尽力した。また、政治の重要な場面でも、大きな力を発揮した。



ずっとずっと平和の音のある蛇口  岡さくら




             大 奥 橋本周延画)




1589年(天正17)、家康が最も愛した於愛の方(西郷局)が死没
したので、生母代として阿茶局秀忠、忠吉の養育を任されることにな
った。 中院通村の日記には、
阿茶局は、秀忠の『母代』と記録されている。
実際に、秀忠の実母・西郷局が亡くなって、家康は阿茶局に秀忠を育て
させた。秀忠の母親代わりだった阿茶局は、和子にとってもまた必要な
存在だったようだ。
その後も阿茶局は、和子の懐胎・出産のたびに上洛し、常に和子の不安
に付き添っている。



なるようになるさと象の鼻ぶらり  宮井元信



「和睦の使者として」
『阿茶局という、女にめずらしき才略ありて、そこ頃出頭し、おほかた
 御陣中にも召具せられ、慶長十九年(一六一四)大坂の御陣にも常高
 院とおなじく城中にいり、淀殿に対面して、御和睦の事ども、すべて
 思召ままになしおほせけるをもて、世にその才覚を感ぜざるものなし』
『徳川実記』
(等高院=若狭小浜藩の藩主・京極高次の正室)



1600年(慶長5))、関ヶ原合戦が勃発すると、小早川秀秋は西軍
を裏切って、家康の東軍に味方した。 一説によると、
両者の仲介を行ったのが、阿茶局であるといわれている。
1614年(慶長19)、大坂冬の陣では、徳川家と豊臣家が和睦を結
ぶことになった。阿茶局は、家康の意向を受け、本多正純とともに大坂
城へ講和の使者として立った。そこで難攻不落の因とする「堀の埋めた
て」淀君に認めさせ纏めたのが、阿茶局である。
その後、板倉重昌とともに大坂城へ向かい、豊臣秀頼・淀殿から誓紙を
受け取った。

「方広寺鐘名事件」---------家康秀頼に梵鐘の4文字・「国家安康」
難癖をつけた事件である。弁明のために駆け付けた豊臣方の家臣・片桐
且元に対面し外交担当を引き受けていたのが、阿茶局であった。



もしかしたらと釘一本を持ち歩く  柴田桂子




    雲 光 院




「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」
家康の辞世である。
1616年(元和2)、家康は鷹狩りに出た先で倒れ、そのまま床に
臥して、持病も悪化させ4月17日に没する。
当時、側室は主が亡くなると慣習にならって落飾したが阿茶局は、
家康の遺言により、落飾することなく、出家しないまま「雲光院」
と号した。
そして家康死後も、2代秀忠、3代家光に仕え、幕府と朝廷の融和政
策を進めるなど手腕を発揮した。
1620年(元和6)、秀忠の五女・和子後水尾天皇に入内する際、
母代わりで入洛し、後水尾天皇より従一位を授けられ、一位局・一位尼
と称された。
1632年(寛永9)、秀忠が亡くなると、阿茶局は正式に落飾した。
1637年(寛永14)、阿茶局は静かに眠るように亡くなった。
享年83であった。墓所は、雲光院にある



点滅が続くヒト科の現在地   樫村日華





           故 老 諸 談



「側室・お梶の方」
「家康が信頼した側室に非常に頭のよいお梶の方という女性もいた」
「大坂の陣」に同行した側室は、阿茶局だけではなく「お梶の方」
という側室も家康は連れていっている。
天下分け目の「関ケ原の戦い」にも同行し、勝利を手にした家康は、
よほど嬉しかったのかお梶に、
「今後は『お勝の方』と名乗るよう」と、命じたという。
お梶の方の聡明さを物語るエピソードが『故老諸談』に所収されている。
家康が、大久保忠世、本多正信、鳥居元忠ら数人の家臣と語らっていた
ときのこと。


微笑みがプリズムになる虹になる  高橋和男


「家康との問答」
「この世で一番美味しいものは何か」
と、家康はその場にいた家臣たちに尋ねた。
それぞれに家臣たちは自分の考えを披露した。
家康は、同席していたお梶の方にも同じ問いを投げかた。
お梶の方は、
「塩にございます」と、答えた。
「塩……?」 怪訝な顔をする家康にお梶の方は
美味いという基準は塩加減にございます。
 どれほど良い料理であれ、塩によらずに味が調うことはございません」
と答えを返した。 [
「なるほど」と、膝を打ちかけた家康だが、
「では、この世で一番不味い食べ物は何か」と、問うた。
これにも家臣たちは夫々さまざまな食べ物あげるが、お梶の方は、
「いちばん不味い物は、塩にございます」と、答えた。



隙のない男の影を踏んづける  高浜広川




「先の答えと同じではないか!」と、言う家康に、お梶の方は、
「食べ物の不味いという基準も塩加減にございます。
 どれほど良い料理であれ、塩を入れ過ぎますと食べることなど、
 かないませぬ」
との答えに家康も家臣一同も、納得し首肯した。
「男だったら、さぞや優秀な大将になったであろう」
と、後々にも家康は言をもらしたのだった。



押しピンをはずすと君は蝶になる  和田洋子



「家康の女中三人衆」
家康の正室は2人だけだったが、正室に近い立場に置かれた側室が複数
いた。 家康が№1に愛した西郷局は別にして。江戸入り後は、英勝院、
養珠院、相応院の3人が、家康の「女中三人衆」と呼ばれ、他の側室と
別格に扱われていたことが『多聞院日記』から窺える。



① 英勝院 (お梶の方)
待望した男児を産まなくとも、阿茶局とお梶の方という極めて聡明な
2人の側室を家康は重用した。
お梶もまた、家康60代のときに生んだ市姫伊達政宗の嫡男と婚約
させるが、わずか4歳で夭折。他に子はできなかった。
だが11男・頼房の実母・お万の方が亡くなると、家康は頼房をお梶
の養子にして教育も指示した。
頼房はのちに御三家の「水戸藩」を創設することになる。
お梶は倹約家で、小袖が洗いざらしでも新調しなかったと伝わる。




        お 万 の 方




② 養珠院 (お万の方)
家康10男頼宣と11男頼房の母である。
お万の方という名の側室は2人いるが、先の次男・秀康の母のお万で
はなく、頼宣と頼房の母の方である。
頼宣は徳川御三家である「紀州徳川家」の初代であり、孫に8代将軍・
吉宗へと血脈を繋ぎ、頼房は、同じく徳川御三家である「水戸徳川家」
の初代である。 頼房の子が水戸黄門様の光圀へと繋がっていく。




     お 亀 の 方
 



③ 相応院 (お亀の方)
1594年(文禄3)家康が53歳の時、給仕に出た女性があった。
その身体の豊かさと美しい容姿に加えて、聡明さに家康は気に入り側室
として仕えさせるようにした。 その女性が当時21歳、お亀である。
お亀は、家康54歳のときに、仙千代を出生するが、6歳で早逝。
そして家康59歳のとき、九男義直を生んだ。
この義直が、徳川御三家の筆頭である「尾張徳川」の初代となる。



泣くことも愛することもまだできる  安井茂樹

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