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川柳的逍遥 人の世の一家言
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少し汚れた空気の方が生きやすい  宮原せつ




「洛中洛外図屏風」 (信長が見た京の町)
は、平安京の町並みを、郊外も含めてパノラマ風に描いた屏風絵であり、
名高い寺社や名所、四季の移り変わりとともに、上は内裏や公方の御所、
下は町家や農家の住まいまで、そこに生きる様々な人々の風俗が細かく
とらえられている。





            洛中洛外図屏風 右隻
右隻は、鴨川と東山方面を西側から見た景色であり、画面左端には御所、
中央付近には祇園祭の様子が描かれている。

            洛中洛外図屏風 左隻
左隻では、将軍の御所や松永弾正邸など並べて配された市中の町並みの
細かな描写が圧巻である。



脇道を捜せばボクはそこにいる  桑田桂子



「家康」ー 信長と光秀の擦れ違い



足利義昭の求めに応じ、上杉、武田、毛利といった有力な大名が連携し
信長包囲網を形成、数年にわたって、各地で激しい合戦が相次いだ。
信長は組織性と機動力に富む軍団を駆使し、巧みな戦術を用いて、
次々に強敵を撃破していった。
その先兵の1人となったのが、光秀だった。
1579年(天正7)7月、光秀は難攻不落といわれた丹波国を平定し、
その功績は信長から高く評価された。
『明智が丹波に長く出陣し、尽力してたびたびの戦果を挙げたことは、
 比類ない功績である』(「信長公記」)
恩賞として丹波一国を与えられた光秀は、良き領主たらんとして丹波地
方の政治に邁進するようになった。
――手柄を立てて主君から領地をもらい、その地に善政を敷く。
自分が理想とした、武士の秩序と伝統が世の中に戻って来た。
(そのころの光秀の心境は、まさに喜びと希望に溢れたものであった)



若いなあハンカチ出して泣けるって  森光カナエ



一方、琵琶湖のほとりの安土の地に巨大な城の建設を始めていた信長は、
天正7年5月、その天主に移り住んだ。
建設が進むにつれて、それまで家臣たちが思ってもみなかったことを言
い出すようになった。
「家臣たちは、普段は領地を離れて、安土山の周辺に築かれた武家屋敷
に住むように」 と、命令したのである。
武士たちは、それまでは、先祖伝来の領地に館を築いて住むのが当たり
前であった。
彼らにとっては、まさに驚天動地ともいうべき命令だったのである。



政治屋でその日その場で右左  近藤北舟




          安 土 城 全 景




「安土城」信長が、まさに夢を託して築いた城であった。
その天主が聳える安土城の麓に、信長は武家屋敷を建築させた。
そして配下の武士たちに、本国の領地を離れて安土に住むことを命じた
のである。 それは当時の武士たちの常識を覆す命令であった。
鎌倉時代以来、武士たちは「本領」といわれる先祖代々の土地に根付い
て暮らしてきた。
有力な武将に仕えて奉公するのは、この「本領」を安堵してもらうため。
つまりは土地の支配権を保証してもらうためだったのである。
ところが信長の方針は違っていた。
信長は、新たな領地を家臣に与えるのではなく、預けおくだけにしたの
であった。
こうすれば、家臣たちは、その土地の権益に囚われることなく、政治に
励むことになる。



ぼちぼちと自分の色をだしていき  若林くに彦



織田時代までは、経済的に許される範囲において、あらゆる階層が武装
していた。
このたび突如、信長が打ち出したのは、武士の在地性を否定し、城下に
集住させることで、武士と土地との関係を切り離した政策だ。
兵農分離政策である。
中世を通じて、兵と農との身分は、明確に線引きされていなかった。
武士たちの多くは村落に住み、自身も直接農作業に従事し、戦争が起こ
ると出陣していたのが実情だった。
兵農分離は、武士階級とそれ以外の階級との身分的分離政策を指す。
兵の専業化による強化……、武士が農業から離れ、農地の非所有、在地
武士制から城下集住と領主による農民の直接支配への転換、二刀帯刀の
武士・農民の区別、身分固定などの政策が行われた。



一筋の煙シナリオ書き替える  荒井加寿



越前を平定したのちの1575年(天正3)9月、信長柴田勝家など
の武将を配し、支配方針を盛った9か条を定めて「越前国掟」とした。
この掟をもって初めて、分国者(大名)から脱して、それらの上に立つ
という、信長が、統一政権としての自己を明確に位置付けたことを意味
するととらえられている。
「所領の在高にもよるが、給人をつけない土地をいくつかのこしておく
 こと」 (「越前国掟」より)
(給人とはその土地から収入を得る家臣のことで、どの家臣にも任ぜず、
直轄する土地を残しておけというのである)
「将来に功績があった者に与える恩賞のため」
というのが理由だが、領地は家臣のものではなく、信長のものだという
考えを表したものでもあった。




無花果の葉は賞罰に含めない  くんじろう




    安土城麓に建築された重臣屋敷復元図




信長「兵農分離」政策は激しく強引であった。
たとえば、1578年(天正6)には、尾張に妻子を残して単身赴任し
ていた家臣120人を発見して、私宅を焼き払わせて、強制移住させた
こともあった。
ー武士を土地から切り離す。
その方針が、信長の家臣ばかりでなく、戦国大名たちにも適用されよう
としていた。
それが光秀にも思わぬ災厄をもたらすことになった。
(その問題となったのは、四国の支配をどう行うかということだった)



絶縁体として太い眉きりり  酒井かがり




土佐国大名・長宗我部元親が岩倉城主・三好式部少輔宛てに発給した書状




戦国時代四国では、土佐に本拠を置く長宗我部氏と、阿波に本拠を置く
三好氏とが覇権を争っていた。
信長は当初、長宗我部氏と結んで四国に勢力を伸ばそうとしていた。
その仲立ちをしたのが光秀である。
光秀を頼った長宗我部氏は、信長に忠誠を誓うことで、安心して合戦を
続け、四国全土を征服しかねない勢いをみせた。
ところが、1581年(天正9)6月、信長は突如として思いも寄らぬ
命令を発した。
『阿波の支配は、三好氏に任せることにするので、長宗我部氏は三好氏
を援助するように』
と、長宗我部氏の当主・元親の弟・香宗我部親泰への朱印状に記されて
いたのである。



嫌なこと嫌と言っても良いのかな  古本恵子



そもそも、阿波は長宗我部氏が自らの努力で領土とした土地である。
それを一方的に<三好氏のものにせよ>という命令は、承服し難いもの
だった。
――信長に忠誠を誓ったのも、領地を保証してもらえると思ったからこ
そのこと。なのに<ここにきて突然取り上げるとは>元親は反発した。
長宗我部氏が従わないと見るや、四国侵攻の準備を命じた信長、その真
の狙いは、四国全土の征服であることは明白であった。



躓いた石で人生逆転す  柴辻踈星  




     明 智 光 秀




信長
長宗我部氏の仲立ちをした光秀の面目は、丸潰れになった。
長宗我部元親は、光秀の重臣・斎藤利三の妹と縁組していたうえに、
光秀は長宗我部氏に<信長に尽くせば安泰>と説得していたのである。
思わぬ成り行きに驚く光秀。
追い打ちをかけるように、光秀は信長から四国担当を外されてしまう。
――おかしい。信長様はいったい何をやろうとしているのか。
光秀の心には、信長の改革に対する底知れぬ疑念と恐怖が湧き上がっ
ていた。
ここまで良好であった信長と光秀の仲が瓦解しはじめた時でもあった。
本能寺の変まで、針は残り半年を指している。



この辺で心を決める句読点  津田照子

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