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川柳的逍遥 人の世の一家言
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地獄絵のなかでときどき昼寝する  笠嶋惠美子

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    祇園祭

祇園祭といえば、京都の三大祭のひとつに数えられる。

7月の京都のメインイベントである。

この祭の起源は、

平安時代前期に始められた「祇園御霊会」にさかのぼり、

かっては、旧暦6月14日に行なわれていた。

今は廃れてしまったが、かって、祇園御霊会の翌15日には、

「祇園臨時祭」という、もうひとつの祭が毎年行なわれていた。 

まつり笛一揆の墓は風ばかり  森中惠美子

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  八坂神社

「祇園社乱闘事件」

清盛30歳、順風満帆に見えた清盛の人生に、

最初の試練が襲いかかったのは、

久安3年(1147)6月15日、

その日は、祇園社の「御霊会」の翌日で、

諸家が社に祈願を行なう日であった。

清盛も宿願成就の祈願で、

祇園社に田楽を奉納しようとしたところ、

警護する配下の武士と、社家の者たちが諍いを起こし、

やがて、清盛の郎党らが放った矢が、

社僧や神人(じにん)、宝殿に命中したのである。

 祇園社=現在の八坂神社

キリストのステンドグラス切り抜いた  井上一筒

これを聞いた忠盛は、

乱闘事件にかかわった清盛の郎等7人を,

検非違使に引き渡し、事件の幕引きを図ろうとした。

当時、祇園社感神院(かんじいん)は、比叡山延暦寺の末寺で、

知らせを聞いた山法師は激昂した。

26日には、神輿を担ぎ出し、

清盛とその父・忠盛の流罪を要求して

「入洛を図る」という大事件に発展する。 

ライオンが檻を囲んで逃がさない  嶋澤喜八郎

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大衆が神輿や神木などの、ご神体を担ぎ出すのは、

宗教的権威によって、強訴を正当化し、

貴族たちを屈服させるためである。

関白・藤原師通が、38歳の若さで急逝して以来、

貴族たちは、神輿や神木の神威に恐れをなして、

なす術をなくしていた。

 ≪藤原師通は嘉保2年(1095)、神輿の入洛を武力で鎮圧した≫

平常心持てど波打つ着信音  淡路 弓

法皇や摂関さえ、怯えさせた強訴の矛先が、

忠盛・清盛父子に向けられたのだ。

裹頭(かとう)で頭部を覆い、

なぎなたを振りかざした僧兵たちは、

神輿を先頭に押し立てて比叡山を下り、

京をめがけて押し寄せた。

大衆は大声を放ちわめいて、

その喚声は洛中にまで響いたという。

ここに清盛は、

人生初めての、政治的危機を迎えたのである。  

※ ≪裹頭=僧の頭を袈裟(けさ)などで包み、目だけを出す装い≫ ≫≫

 

春の宵動きの悪い風居座る  富山やよい

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28日、鳥羽法皇は、

検非違使の源光保源為義、源親康らに、

強訴の入洛阻止を命じた。

もちろん、武力で鎮圧しようというのではない。

強訴といっても、あくまで神威をかさに着ての示威行動であり、

基本的に僧兵たちが朝廷に対して、

武力攻撃を加えることはなかった。 

鶏の骨撒き散らかして僧兵  吉澤久良

 

しかし、京に入られると、大衆は神輿とともに居座ったり、

ときには神輿を置き去りにして、

帰山してしまったりするため、
多くの場合、

朝廷は、大衆の要求をのまなければならなかった。

武士たちの役割は、賀茂川付近に防衛線をしいて、

僧兵と神輿の入洛を防ぐことにあった。

入洛さえ阻止できれば、

神輿が威力を発揮することもないし、

交渉により打開を図る道も開ける。 

あした出す声が届いている机  いとう岬

 

法皇は延暦寺側に使者を送り、

公平に判断して裁許する旨を伝えて

いったん大衆を山に引き返させると、30日、

摂政・藤原忠通、内大臣・藤原頼長以下16人の公卿を、

院御所に招集して善後策を協議させた。

公卿の多くは、 

「忠盛と清盛は事件の発端にはかかわっていないのだから

  罪はなく、下手人だけ罰すればよい」

 

という意見であった。 

共犯者かも知れぬ白線跨ぐ  前中知栄

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しかし、藤原頼長だけは、大義名分論に基づいて、 

「たとえその場に居合わせなくても責任は免れない」

 

と清盛たちの有罪を主張した。 ただし、 

「清盛側の武士も負傷したのだから、

  祇園社側の下手人も捕えて罰すべきである」

 

とも述べている。

 ≪頼長は、左大臣に上り、「悪左府」の異名をとった人物。

    頼長のいうところは確かに正論であるが、人間味に欠けている。

    いつの時代にもこういう人間は、いるものである≫

みみのそばのひとこと 息がつめたひ  荻田飛遊夢

そこで、会議は責任を明確にするために、 

「現場検証が必要である」

 

という結論に達し、その夜のうちに、

使者が祇園社に派遣され、

矢を射立てた宝殿や、流血があった場所の検分、

矢を射た清盛の郎等たちへの、

事情聴取が行われた。 

どの顔も犯人に似る免許証  奥山晴生

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しかし、

鳥羽法皇は、あくまで忠盛たちを守り抜く考えであった。

忠盛・清盛らの処置が決まらないまま、

10日が経ったため、

業を煮やした大衆は、ふたたび入洛する構えを見せた。

またしても武士が、

比叡山の京への降り口である西坂本に派遣され、

半月にわたり、大々的な防御態勢がしかれた。

行軍に際しては、鳥羽法皇自ら閲兵にあたり、

武士たちは家伝の美々しい武具をまとって、

晴れやかに出陣していったという。 

鉤括弧だれか外して下さいな  安土理恵

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鳥羽・崇徳父子はあくまで、

清盛たちを守るつもりであったが、

問題は,一人正論を吐き続ける頼長である。

崇徳天皇は頼長をなだめるため、わざわざ手紙を送ったが、 

「朝廷の大事に理を曲げることはできません。

  それも神慮を恐れるためではなく、

   正しい法を守りたいからです」

 

といってきかなかった。

結局、頼長の意見にも配慮したのか、

清盛たちは,無罪とはならなかった。 

被告人席の眺めはいかがです  筒井祥文

 

法律の専門家に、罪状の答申を行わせた結果、

贖銅三十斤という刑が科せられた。

天台座主をはじめ、延暦寺の首脳たちは、これで納得したが、

おさまらないのは衆徒たちであった。

やがて衆徒の怒りの矛先は、首脳陣に向けられ、

延暦寺内部の抗争に発展したため、

清盛たちは、それ以上追及を受けることはなかった。

 贖銅三十斤=銅を納めて罪を償う罰金刑。

合掌の中で埋もれてゆく罪過  元永宣子

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最終的に軽い罰金刑ですんだものの、

裁定がおりるまでの日々は、

清盛にとって、不安の連続だったに違いない。

そして、

何よりも延暦寺の脅威を身にしみて痛感したはずだ。

後年、清盛は奈良の興福寺や延暦寺と、

対立関係にある園城寺に対しては、強圧的に臨んだが、

延暦寺に対しては、できる限り協調を保とうとした。

その後の清盛の政治姿勢は、

この時の苦い経験に裏打ちされたものだろう。

骨肉の盥は毎日がドラマ  たむらあきこ

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