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川柳的逍遥 人の世の一家言
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定年を待っていたのは庭の草  ふじのひろし


  製紙場の女工たち

「女の職場」


明治政府は富国政策の一環として産業への洋式技術の導入を急いだ。

その中で生糸は、日本の主力輸出産業として貴重な存在となったが、

品質水準や生産性に問題があった。

政府は生糸の品質を高め、生産性を向上させるため、

明治5年、群馬県の富岡に「官営製紙場」を開設した。

楫取素彦は絹産業全体の支援のため、

「人材教育」とともに金融や鉄道などの「基盤整備」に力を注いだ。

絹産業が重視される中、富岡製紙場は技術習得を目的とする

模範工場としても位置づけられていた。

たがやして耕して打つ感嘆符  森吉留里恵



富岡製紙場には全国各地の士族の娘たちが、

「工女」として集められた。

製紙場の工女は、一日7時間半労働が基本とされ、

休日は毎週日曜日や年末年始など年間76日が定められた。

給料は月給制で、決められ技術が上がると階級が上がる。

フランスより輸入した器械と、外人技師仕込みの技術を

習得した工女たちのおかげで、生糸の大量生産と品質向上が実現。

「生糸」は明治時代の輸出品1位を誇った。

さらに工女たちは、全国の民間工場へ指導者として赴き、

技術を広めた。

修練へ衿を正して一歩二歩  伊東志乃

工女をはじめ、明治時代になってから新しく生まれた

「女性の職業」は多い。

「女は家に入るべきだ」という考えは強くあったが、

文明開化が始まった明治10年ころから、

徐々に女性の自立、社会的地位の向上を訴える声が生まれていく。

明治18年に創刊された女性向けの雑誌の一つ、

『女学雑誌』では、発刊の趣旨として、
             いかん
「国内婦人の地位如何を見れバ、

       以って其国文明の高下をさとるべしと云えり」

と述べている。

多目的トイレの目的その一  雨森茂喜


神田中猿学町の跡見学校校舎正面 

東京神田に日本初の女学校として開校。
生徒は4,5歳から17、8歳の上流名門の子女で、開校当初の科目は、
国語、漢籍、算術、習字、裁縫、挿花、点茶、絵画、琴であった。

明治30年代に入ると、

女子のための高等教育機関がいくつも設置され、

女性自身が「自分らしい生き方」を模索し始める。

看護婦、医師、教師、女優など新しい女性の職業が次々と誕生した。

例えば、朝ドラでおなじみの広岡浅子、女優第一号・川上貞奴

日本女子教育の先駆者・津田梅子、日本初の女性産科医・楠本いね

日本初の公許女医・荻野吟子、日本初の女性医学博士・保井コノ

などが有り余る才能を発揮し始める。

穴をあければ少し明るくなるだろう 橋倉久美子



「広岡浅子」 〔女実業家のさきがけ〕

嘉永2年(1849)~大正7年(1919)

朝ドラ「あさが来た」で多くの人の知るところとなった広岡浅子

女性ながら炭鉱事業に乗り出したのをはじめ、加島銀行の設立、

大同生命保険の創業など、次々と事業を開拓したことから、

「一代の女傑」と呼ばれた。

幼いころに自身が女性だからという理由で、

満足な教育を受けられなかった経験から、

成瀬仁蔵とともに日本女子大学校(現日本女子大学)の創立に尽力。

多忙な中でも、筆を執り、雑誌や新聞に論説を多数寄稿、

廃娼運動も盛んに行なうなど、女性への啓発と地位向上に努める。

また御殿場の別荘では、

将来有望な女性を集めて夏期勉強会を開き、

市川房枝(政治家)村岡花子(翻訳家)らに大きな影響を与えた。

穴から出て第二ボタンが咲きました  柴本ばっは



「河上貞奴」 〔日本の女優第一号〕

明治4年(1871)昭和21年(1946)

伊藤博文に贔屓にされた、人気芸者だった河上貞奴は、

夫の河上音二郎とともに、アメリカの興行に赴いた際、

代役として出演し日本人女性として、初めて女優デビューを果たす。

パリ万博でも人気を博し、「マダム貞奴」と称され、

国際的な女優として地位を築くが、

女性が人前に顔や体をさらすことは、

はしたないと考えられていた。日本では、

「卑しき稼業」として強い批判を受けた。

貞奴は女優を育成するための育成機関として、

「帝国女優養成所」を開設し、

男しか舞台に立てない伝統芸能に一石を投じ、

女性を表舞台へと導いた。

新難波駅でまつ毛を巻き直す  井上一筒



「津田梅子」 〔日本女子教育の先駆者〕

元治元年(1864)~昭和5年(1929)

満6歳でアメリカ留学した津田梅子は、

最も多感な時期に西洋風の生活、価値観の中で育った。

11年後に帰国すると、

男性に従属する「日本女性の社会的地位の低さ」に愕然とし、

女性への高等教育が急務と考える。

「少人数教育・英語教育・高い専門性と幅広い教養の習得」

を提げて、明治33年「女子英学塾」を設立。

女子の学校としての初めて、

「英語科教員無試験検定取扱許可」を受けるなど、

女性の職業的自立を促した。

卒業生の中には「男女平等条約批准」「男女雇用機会均等法」

設立などに尽力した者もいる。

心配ないと振られた方の意地  竹内いそこ

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