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川柳的逍遥 人の世の一家言
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手ぶらだと海が話をしてくれる  牧野芳光

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「ジョン万次郎の数奇な人生」

ジョン万次郎が、アメリカ東部”フェアヘブン”の町に上陸したのは、

天保14年(1843)春であった。

当時十六歳になったばかりの、四国土佐出身の漂流漁民・万次郎のことを、

町の人々は、”ジョン・マン”と呼んで親しんだ。

もとより、ジョン万次郎のジョン”とは、

万次郎を救助した捕鯨船・”ジョン・ホーランド号”のジョンから愛称されたものである。

幕末、彼の乗り組んだ小さな漁船が、嵐にあわなかったなら、

おそらく、歴史にこの少年の名は、記録されなかったに違いない。

人生のはてなの釘に引っかかる  森 廣子

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フランクリン・D。ルーズベルト

日本が、国際連盟から脱退した昭和8年の、ある日、

東京田園調布に住む、中浜東一郎という医師のもとに、

一通の手紙が届いた。

その手紙は、ホワイトハウス専用の便箋に記されていた。

その時の大統領・”フランクリン・D。ルーズベルト”からである。

『親愛なる中浜博士・石井(菊次郎)子爵が、ワシントンにおいでのおり、

 私たちはあなたの高名なお父上について語り合いました。

 その時、あなたが東京にお住まいのことをうかがったのです。

 あなたはご存じないと思いますが、

 私は、あなたの父上を”フェアヘブン”にお連れした捕鯨船の株主の一人、

 ワレン・デラノの孫であります。

 あなたの父上は、

 私の祖父の家の、道をはさんだ向かい側のトリップ氏の家に、

 住んでいらっしゃったそうです。

 私のまだ幼かったころ、

 祖父は、日本の少年が、”フェアヘブン”の学校へ通ったことや、

 私の家族と一緒に教会に行ったことを、よく話していました。

 中浜の名前は、私どもの家族に、いつまでも記憶されることでしょう。

 もしあなたかあなたのご家族がアメリカを訪問されることがあれば

 お目にかかれる日を楽しみにしています。          
                              【フランクリン・D。ルーズベルト】

会者定離慕情の酒が沁みてくる  尾上八重

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    万次郎漂流記

ジョン万次郎は、文政10年(1827)、

足摺岬に近い、土佐の幡多(ほた)郡・中浜に、生まれた。

高知城下に近い宇佐浦の漁師・筆之丞の持ち船に乗り込んで、

”5人の仲間”とともに、土佐湾に出漁したのは、

万次郎14歳の天保12年正月であった。

この日を境に、万次郎は、10年10ヶ月にわたる数奇な漂流生活に、

巻き込まれるのである。

流れついた椰子は生まれた国を恋う  有田晴子

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   万次郎漂流船の図

出漁3日目、嵐に巻き込まれた万次郎たちの漁船は、

黒潮に乗って東へ東へと流され、やがて無人島に漂着した。

伊豆南方の”孤島・鳥島”である。

5人の漂流民は、島の洞穴で雨露をしのぎ、

アホウ鳥を食べて命をつなぐこと、40日余り、

たまたま沖を通りかかったアメリカの捕鯨船に、救助されるのである。

生きているだけで強運だと思う  西山春日子

”フェアヘブン”の川をはさんだ対岸に、”ニューベッドフォード”という二つの町がある。

19世紀の中ごろまでは、この二つの町は、

アメリカ東海岸きっての”捕鯨基地”として栄えていた。

盛時には、二つの町の間に流れる川筋に、300隻を越える捕鯨船が、

錨をおろしていたという。

万次郎など日本の漂流漁民を救出した”ジョン・ホーランド号”も、

そうした捕鯨船の一隻である。

夢はまだ覚めてませんという手帳  森田律子

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ホイットフィールド船長

ところで、ジョン・ホーランド号の船長は、

”ウイリアム・H・ホイットフィールド” という人物であった。

ホイットフィールド船長は、救助した5人の日本人漂流民のうち、

もっとも少年であった万次郎の、才能を見抜き、

アメリカに連れ帰って

「一人前の船乗りにしたい」
 と考えるようになった。

彼は、途中の寄港地ハワイで、5人の日本人と相談した結果、

筆之丞はじめ、4人の仲間に別れを告げ、

万次郎一人をアメリカへ連れて行くことにした。

茶目っ気なボスでみんなに慕われる  桑田砂輝守

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 万次郎が通っていた学校

彼が住むことになったフェアヘブンの町には、どんな人たちがいたのだろう。

まず、万次郎が最初に学んだオックスフォード・スクールの先生だった

ミス・ジェーン・アレンは、彼が最も敬愛した女性である。

万次郎は、ミス・ジェーンの家に招かれて食事をご馳走になったり、

靴下を繕ってもらったりしたという。

万次郎は、公立小学校・「オールド・ストーン・スクール」では、

”ザ・スリー・アールズ”といわれる基礎科目・「読み」「書き」「そろばん」を学んだ。

花の名と君の名前をてのひらに  上野多恵子

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   万次郎の英会話本

私立の高等学院「ルイス・バートレット・スクール」では、

海洋航海、造船に必須科目の、船の操縦術、数学、海面測量学を習得した。

孤独な万次郎に、

あたたかい友情を示した友人の一人・ジョブ・トリップは、

当時の万次郎について、

「恥ずかしがり屋で、物静かな少年だったが、

 それでいて、立ち居振る舞いは堂々として、紳士らしく、

 またABCから高等数学まで、クラスの成績はトップだった」 と述べている。

町の有力者、ワレン・デラノ2世(ルーズベルト元・大統領の祖父)らにも、

可愛がられるなど、万次郎のアメリカ生活は、

フェア・ヘブンの人々のあたたかい善意の中ではぐくまれていった。

そこらじゅう善意キラキラ雨あがり  南野耕平

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 若き日の万次郎

万次郎が、アメリカで習い学んだもので、

一番大きなことは、民主主義を知ったことだろう。

いつか万次郎は、23歳の青年になっていた。

今では、捕鯨船の一等航海士として、押しも押されもしない、船乗りであったが、

その彼に、どうしてもあきらめきれないのは、”日本への帰国”であった。

万次郎は、母親を日本に一人残していることが、耐えられなかったのである。

このまま、アメリカにとどまれば、

腕一つで、洋々たる未来を切り開くことも出来たであろうが、

日本に帰ればまた、一介の漁師・万次郎に返らねばならない。

ふるさとはいいな訛りの風が吹く  本田智彦

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それでも、万次郎は、嘉永3年(1850)、帰国のための資金作りに、

ゴールドラッシュに沸き返る、カリフォルニアに向かった。

一攫千金を夢見る荒くれ男に交じって、山奥に分け入った万次郎は、

わずかの間に、600ドルの金をためると、

さっさと山を下り、船便を得てハワイに渡った。

彼は、ハワイにとどまっていた筆之丞、五右衛門などの仲間を誘って、

金山で得た金をもとでに、帰国のチャンスをうかがうのであった。

蛇口から出たがって水ほとばしる  横山きのこ

嘉永4年(1851)10月、24歳、ジョン万次郎は、土佐に戻った。

メリケンに渡ること”10年10ヶ月”、日本を離れていたのだ。

土佐桂浜に立った万次郎は、一躍、時の人になるのだが、

当時の日本人とすれば、貴重な体験を積んできた人材である。

すぐさま土佐藩庁に呼び出されて、

島津斉彬に、海外事情を聴取される。

嘉永5年(1852)には、幕府に召し抱えられ、外国からの書信を翻訳する仕事に就く。

嘉永6年(1853)、26歳、幕府直参となる。

安政2年(1855)、28歳、『亜美理加合衆国航海学書』 を翻訳。

ふるさとが見えて心が走り出す  たむらあきこ

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なにしろ、メリケン帰りの現役バリバリである。

ジョン万次郎は、休む暇などなく、忙しい日々を送った。

安政4年(1857)、30歳、「軍艦操連所」の教授に就き航海術を教える。

そのために、小笠原諸島まで学生を連れて、実地研修に行く。

万延元年(1860)には、

通弁主任の肩書きで”咸臨丸”に乗ってサンフランシスコに入港し、

再びメリケンの地を踏むことになる。

また帰国後も、あっちこっちから声がかかり、席の暖まる暇が無い。

元治元年(1864)には、薩摩藩に招聘されて、英語教授になる。

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       開成学校

明治になってからも、新政府に呼び出されて、開成学校の教授になった。

明治3年(1870)、フェアヘブン再訪。

明治31年(1898)、71歳の生涯を終えるまで、

日々是仕事の人気者であり続け、出世街道を突っ走った人生であった。

鼻水一滴氷河に滴った  井上一筒

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