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川柳的逍遥 人の世の一家言
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両耳で狙って臍で撃ち落す  井上一筒

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えらいやっちゃ”を踊る民衆

江戸幕府が倒れたのは、

政治的には、長州藩・薩摩藩に代表される西南雄藩と、朝廷とが合体し、

その力に押されたことによるが、

より根本的には、

幕府が、”民衆から見離されたから”である。

なぞなぞが解けないままにやがて雨  山本昌乃

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 長州征伐の図

『幕府が民衆から見放されていった契機』

一つの契機となったのは、「長州征伐」である。

「幕長戦争」とも呼ばれ、第一次と第二次の二度にわたった、

幕末の政治史を方向付ける、大きな動きであった。

第一次征伐は、「蛤御門の変」における、

長州軍の皇居への、発砲に対する謝罪を求めて、幕府がしかけたものである。

この時は、ちょうど長州藩が、

4国艦隊(英・米・仏・和蘭)の下関砲撃に敗れたばかりであり、

藩内保守派の台頭によって、幕府へ恭順の意を表したため、

幕府軍は戦わずに、12月、撤兵令を下している。

あやまりに来るなら髭も剃って来い  柴本ばっは

こうして、第一次幕長戦争は終息をしたが、

そのシワ寄せは、重く民衆の肩にのしかかった。

例えば、出兵の最中の9月、大阪に立てられた高札には、

「将軍上洛はいらぬ事、此の後、上洛なれば一文も町人よりハ出銀せず」

とか、

「公儀に用金出す馬鹿はなし」 

などと貼り出されたという。

≪幕府軍の出兵により、「公金」が町人たちに賦課されたのである≫

何事もない日の重み増してくる  山田恵子

ところが、幕府に恭順の意を表した”長州藩内”では、

そうした藩上層部に、反発する動きも出てきた。

例えば、元治元年(1864)12月から翌・慶応元年はじめにかけては、

”奇兵隊”の力を背景として、高杉晋作らが下関で兵をあげ、

藩の実権を奪うことに成功し、

やがて、藩の意向は、倒幕へと固まっていくことになる。

もちろん、幕府はそうした長州藩の動きを、黙って見過ごすことはできず、

再征を決意し、その年の9月、勅許を得た。

ところがこの時は、朝廷内はもちろん、諸藩にも”再征反対”の空気が強く、

とりわけ薩摩藩は、ひそかに長州藩と連絡をとりつつ、

幕府からの出兵命令を、拒絶しているほどだった。

意に沿わぬ訂正印にある滲み  吉田信哉

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将軍・家茂上洛 (二条城より出場の図) 
 

慶応2年、幕府が”第二次長州征伐”の軍事行動をおこしたことにより、

大坂には幕府軍が次々と集結し、大坂の人々は、

その多数の軍勢の、世話や人足負担を、強制されることになった。

軍勢の世話や人足負担は、

まだ、生活そのものを脅かすものではなかったが、

幕府や諸藩が合戦に備えて、大量の米を買い付けたことにより、

大きな混乱がもたらされた。

幕府や諸藩が米を買い付けはじめると、

米商人たちが競って米の買占めに動いた。

そのため、大坂ばかりでなく、江戸の米も、不足するようになった。

戦争が、異常な”米価高騰”を招いてしまったわけである。

≪なお、14代将軍家茂は、この第二次長州征伐で大坂に出陣し、病死する≫

どの角も欠けてはならぬ冷奴  篠原伸廣           

民衆が、幕府を見限るのと、まさに裏腹になるが、

このころから、幕府に変わる”新しい支配勢力”の出現を、民衆たちが求めるようになる。

しかも、それは、幕府によって、まさに攻められようとしている、

長州藩への期待へと結びついていった。

事実として、その年の4月から5月にかけて、播磨の長府で、

「長州に負けなよ、エライヤッチャ」 

と歌いながら踊る稲荷踊りが、大流行したと云われているし、

民衆たちが、幕府政治への期待をまったくなくし、

それに対して、幕府に変わる「何か」の出現を待ち望んでいたことがわかる。

反論する若さに期待かけている  山口ろっぱ

このとき、台所を預かる女房たちが、

まず、「米を安く売って欲しい」 と米屋にかけあった。

「米を売ってくれ」  「米を出せ」 に変わるのに、

大して時間はかからなかった。

そして、ついには手元にあるいろんな道具を持って、米屋を襲い、

力ずくで米を出させる打ちこわしに、発展していった。

目の上のこぶへ一変した態度   片岡加代

この動きは、江戸にも飛び火し、江戸市中は打ちこわしの嵐が吹荒れる状態になる。

江戸の町奉行の門外に、

「御政事売切申候」 という札が貼られたのも、この時のことで、

民衆たちは幕府をすでに、見限っていたのである

≪このころから地方都市、あるいは農村で、

 「世直し大明神」の旗をおしたてた”一揆”が蜂起する≫

窮すれば奇妙な力湧いてくる  竹田りゅうき 

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『龍馬伝』より、踊り狂う民衆

『ええじゃないか』

こうした動きが、日本中を巻き込んで一大ブームに発展していくのが、

「ええじゃないか」 である。

”ええじゃないか” には、各地の事例からみて、かなり決まったパターンがある。

つまり、”お金が降る”という現象である。

当時の人の懐古談や絵などに、空からお金が降ってきて、

それを競って拾い合う、民衆たちの姿が描かれたりしている。

≪「お札が降る」とはいっても、実際には、夜中、何者かが豪農や冨商の家に、

お札を貼っていったのが一般的だったといわれる≫

シュレッダー醜い過去を刻みます  中山おさむ       

お札が降ると、降った家では、その「お札」を祀らなければならない。

しかも、ただ祀るだけでなく、

村人を招待して祝宴をはるというのが、共通している。

そして、「ええじゃないか」 と囃したてながら、

町へ、あるいは村へ、くり出していくのである。

しかも、その踊りの衣装は、

女が男装し、男が女装し、また、老人が若者の姿になり、

逆に若者が老人の格好をするなど、

いわゆる「日常性の否定」という現象がみられる。

おそらく、上下転倒の思いが、そこにこめられていたのだろう。

まあいいかと言うには五体熱すぎる  糸岡アヤ子

なお、そのときに唄われる歌詞は、

即興的なものが多く、これといった定型はない。

例えば、岐阜県下では、

「長州のおかげで 百にお米一升する えいじゃないか えいじゃないか

 おめしちりめん一たんが弐ぶする えいじゃないか えいじゃないか

 追に諸色が安くなる えいじゃないか えいじゃないか」

と唄われている。

諸色というのは、いろいろなものという意味で、

「長州のおかげで物価が安くなった」

と長州をたたえた唄になっている。

長州藩を讃えた歌詞はかなり多く、尾道地方では、

「長州さんお登り えいじゃないか えいじゃないか 長と薩と えいじゃないか」

というのもある。

鰯さく 指から潮騒聞くように  北原照子

また、各地で、

「江戸の横浜石が降る そりゃえいじゃないか 

 ここらあたりは神が降る そりゃえいじゃないか」 

などとうたわれ、

この場合は、”攘夷を唄った歌詞”となっている。

長州への期待、それに攘夷、そして「世直し」あるいは「世直り」 という言葉が、

歌詞の中に、よくみうけられる。

つまり、「えいじゃないか」は、民衆たちの「世直し」願望と結びついていた。

この「えいじゃないか」 の乱舞は、

それまで260年余りにわたり幕藩体制という、

がんじがらめの政治体制によって、

圧迫され続けた、民衆たちのエネルギーが、

一気に爆発したものみることができる。

頂点まで伸びたら空が揺れ出した  たむらあきこ

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Rg
無題
やあやあやあ~~頑張ってますね茶助さん。
楽しみながら見ています。継続は力なり……。
y2010/05/11 23:01z NAME[medaka] WEBLINK[] EDIT[]
忘れてた
タイトル書くの忘れてた、ごめん。
y2010/05/11 23:06z NAME[medaka] WEBLINK[] EDIT[]
無題
有難うございます。
確かに、継続は力です(^▽^笑)

自分史のところどころを虫が喰い 石原伯峯
y2010/05/12 09:54z NAME[茶助@管理人] WEBLINK[] EDIT[]


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