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川柳的逍遥 人の世の一家言
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とんでもない結論吐いているしずく  中山おさむ

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    闘う カブトムシ

”加茂川に あたら仇浪 立たせじと 思い定めて 渡る月日か”

これは、京都滞在中の山内容堂が詠った、彼の本音である。

私の幕降ろす人がいる  河村啓子

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長州藩と、これをバックとする”尊皇攘夷派”の、志士や浪士によって、

座巻されいた京都に、

文久3年(1863)1月25日,前土佐藩主・山内容堂が入った.

その世話役を、京都の土佐藩邸で留守居役の平井収二郎に命じた。

あとに思えば、これは、容堂の策略だったのだが。

その抜擢に収二郎は、興奮をかくせなかった。 そして、

「容堂公をいただいて、薩長二藩に遅れを取りがちな、土佐藩の存在意義を一挙に示そう」

と考える・・・。

収二郎の胸に野心の火が燃えたのです。

反面、この収二郎の行動は、半平太にとって、「自分への裏切り」 でもあった。

ますます広くなる頭頂のロビー  浜田さつき

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願ってもない大役に高揚する収二郎

容堂にとって、もっとも頭の痛い存在は、

攘夷ばかりにこだわる、武市半平太「土佐勤皇党」であった。

やることがすべて、容堂の考えと、反対だったためである。

収二郎は勤皇党々員。

収二郎の京都における活躍も、

尊攘派の公家や志士との交流が主なもので、

”半平太の理念”を、京都で実現化していた、勤皇党ナンバー2の存在である。

容堂の腹を読めない収二郎は、

容堂にしばしば、そういう意見を述べていた。

容堂は気にいりません。

そのたびに、容堂は激怒します。

これをきっかけに、”勤王党弾圧”の決意が、容堂の中に増殖していくのである。

遮断機を行き交うたんぽぽの綿毛  中島紀子

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『龍馬伝』・第20回‐「収二郎、無念」 あらすじ

土佐へ帰国した半平太(大森南朋)は、投獄された収二郎(宮迫博之)を助けるため、

容堂(近藤正臣)に、お目通りを願い出る。

だが、現れたのは象二郎(青木崇高)だった。

吉田東洋(田中泯)暗殺をきっかけに、

藩政から退けられていた彼は、容堂により、

再び城へ呼び寄せられたのだ。

古傷を舐め合いながら繋がれる  森 廣子

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収二郎の裁きを取りしきる象二郎に、

半平太は、

「収二郎の仕業は、藩のためを思ってのこと」 と必死で釈明。

だが、収二郎の投獄には、別の目的があった。

「東洋暗殺の真犯人は誰か」、詰問するためでもあったのだ。

その事実を聞かされた半平太の胸は、ざわめく。

収二郎を投獄へ追いやった東洋暗殺。

自分の選択は間違っていたのかー。

半平太は葛藤する。

壷へ入った賢い方のコブラ  井上一筒

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一方、龍馬(福山雅治)は、大坂の専称寺で、航海術の勉強に励んでいた。

収二郎が、投獄されたことを知った龍馬は、

彼は、幼なじみの投獄に、

居てもたってもいられず、京に滞在中の勝(武田鉄矢)のもとへ向かった。

「どうにか収二郎を助ける手だてはないか」 

と焦る龍馬に、勝は、

「東洋暗殺は、見方によって、正しくも、間違いでもある」

と諭す。

だが、大殿様のためを思って尽力してきた収二郎が、

なぜ牢獄へ入れられなければいけないのか、龍馬は納得がいかない。

地を這って厳しい現実に触れる  足立淑子

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京にいる勝のもとへ向かった龍馬と入れ違いに、

兄の権平(杉本哲太)が勝塾にやってきた。

彼は、脱藩を許された龍馬を、土佐に連れ帰ろうとしたのだ。

だが、龍馬はいまや、勝塾のリーダー的存在、

”何とか龍馬の帰国をあきらめてもらえないか” 

と考えた長次郎(大泉洋)は、

「わしらと一緒に学んでみませんか?」 と権平に提案する。

初めての体験に、おろおろするばかりの権平だったが、

徐々に、訓練生の海軍創設にかける思いを知る。

曲者ですなぁ冷や酒の口あたり   西山春日子 

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そうとは知らず、そこで勝から、

「勝塾の資金が、底をつきそうだ」 と聞いた龍馬は、

越前福井藩の前藩主・松平春嶽(夏八木勲)のもとへと向かう。

春嶽に会った龍馬は

「勝塾存続のために、千両かして欲しい」 と頼む。

そして、龍馬は、そこに居合わせた横井小楠(山崎一)と出会い、

西洋のデモクラシーについて話を聞く。

しなやかに右に左に道を持つ  勝山ちゑ子

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さらに続く、投獄された収二郎への、過酷な拷問。

それに耐え、一向に、口を割らない収二郎に、

容堂は、文久3(1863)年6月8日、とうとう切腹を命じた。

「平井収二郎・辞世」

”もゝちたひ いきかへりつゝ うらむと思ふ 心の絶えにけるかな”

踏み切り前にオトコひとりを縫いつける  山口ろっぱ

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その後、

収二郎の最後を聞いた龍馬は、                                      

「収二郎ハ 誠にむごいむごい、いもふと おかおが なげきいか斗(ばかり)か」

と、平井収二郎の死を慟哭し、

平井加尾への想いを、認(したた)めている。

(龍馬の手紙 文久三年六月二十九日、乙女宛)

 平井収二郎、文久3年6月8日に弘瀬健太、間崎哲馬と共に切腹。

介錯人には、

幼少から、同じ道場へ通った幼友達・平田亮吉が務めている。

鯨幕あの世この世の歩道橋  佐藤寿美子

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獄中での爪書きの辞世、『嗚呼悲しき哉』・・・は、藩吏により削り取られたが、

明治維新後に、妹・加尾の手により復刻された。

爪で残したといわれる平井収二郎の辞世の句碑。

嗚呼悲哉 兮 綱常不張
洋夷陸梁 兮 辺城無防
狼臣強倔 兮 憂在蕭牆
憂世患國 兮 忠臣先傷
月諸日居 兮 奈我神皇   と記されている。

ああ哀しいかな、綱常張らず       
≪ああ、なんと悲しいことか ”三綱五常”の主張も叶わず≫

洋夷陸梁して、辺城防ぎ無し    
≪洋夷(異国人)が、好きに暴れ回っても わが国を守る手立てもない≫

狼臣跋扈して、蕭牆(しょうしょう)に憂いあり  
≪佐幕派の浪士が、思うがままに勢力を振るい 寂しく憂いこの上もない≫

世を憤り国を憂い、忠臣まず傷つく  
≪日本の将来を真剣に憂いている 私の心は傷ついたままだ≫

「三綱五常とは」―人として常に踏み行い、重んずべき道のこと。(儒教の教え)

≪「三綱」は、君臣・父子・夫婦の間のー『道徳』

 「五常」は、仁・義・礼・智・信の五つのー『道義』≫

世の中は刀で切れぬものばかり  山添黄葉

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おめでとう
「ロンパリ!考える椅子」ランキング1位やったねえ、万歳~~万歳。それともう一つもいい線いってるよ、瓦版の誇りです。
y2010/05/17 11:22z NAME[medaka] WEBLINK[] EDIT[]
無題
いいメッセージを有難うございます。
ゆで卵綺麗に剥けた気持ちです。

五月かなものみな天をこころざす  前田雀郎
y2010/05/17 15:10z NAME[茶助@管理人] WEBLINK[] EDIT[]


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