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川柳的逍遥 人の世の一家言
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人間が乗る一枚の磁気カード  猫田千恵子



建永元年(1206)2月、実朝が義時の山荘で催した和歌会。
(この同じ年に公暁が、政子邸で着袴の儀を行っている)


「諫言は苦くても妙薬 甘言は心地よくとも毒薬」
 
奇妙なことに後鳥羽院は将軍・実朝に対して、しきりに官位を薦めた。
権中納言へ推挙(1213)以来、権大納言、兼左対象、内大臣、そして27
歳にして右大臣へと、実朝は異例の出世を遂げるのであった。
朝廷の後鳥羽院一派による「官打」である。
官打とは昇進させて早死に狙う院が謀った呪い…分不相応な官職につけ
ることで相手がそのプレッシャーに負けて、早死にすることを意図した。


してあげるやってあげるという目線  河村啓子
 
 
何とも姑息で陰険な策謀だが、後鳥羽院は実朝だけでなく、執権・義時
に対しても、興福寺や延暦寺に命じて呪詛を行ったといわれている。
それほど後鳥羽院は、鎌倉政権を嫌悪し、全面的に否定していたという
ことだろう。
政子や義時、そして京の事情に通じた大江広元は、実朝の昇進に危惧を
感じていた。広元は、義時と相談し、実朝に諫言するのだが、実朝
「源氏の正統が絶えようとしている今、せめて自分が高官になって名を
 のこすしかない」
と、退けたという。
聡明な実朝は、自身と源氏の嫡流の行く末を予感し、すでに諦めの境地
だったのかもしれない。


あなたへと堕ちる真っ逆さまに点  山本早苗


「鎌倉殿の13人」 実時暗殺ーカウントダウン



「建保職人歌合」 
(国立公文署内閣文庫蔵)
陰陽道は鎌倉でも重要な役割を果たし、陰陽道たちは寺院の僧侶たちと
並んで祈祷をおこなった。


建暦3年(1213)、この年の正月も義時「正月垸飯」を勤仕した。
正月垸飯とは、正月3が日に行われ、有力御家人が日替わりで担当した。
垸飯を担当した者は、その後の「御行始」に同行することができる。
御行始というのは、将軍が有力御家人の邸宅を訪問し、饗応を受ける行
事のことだが、義時は、この頃から「政」に目覚めた将軍・実朝を警戒
し始めていた。
義時にとって、実朝をあくまでも飾り物の将軍であり、政の実権は執権
である自分にある。
考え方の相違は必然的に、2人の良好な関係を悪い方へと進んでゆく。


繋ぐ手は緩い手錠のようでした  真鍋心平太


そんななか5月2日、ついに事件が起った。
実朝の側近であり、最も信頼を置く侍所の長官・和田義盛の軍勢が突如
蜂起し、執権・北条義時の館を襲ったのである。
これは義時の罠だった。
義時は和田一族に謀反があるとして一族の者を捕らえ、和田義盛を挑発
していた。執権・義時に兵を挙げた義盛は、幕府への反逆者とされ、
鎌倉武士団に討ち取られてしまったのである。
(義時は、義盛に代り侍所長官・別当に就任、幕府の軍事力を掌握した)
実朝から軍事力を奪い、将軍の政治力を失わせようと考えたのである。
この事態に実朝は、危機感を抱いた。
<なんとしても北条氏を押さえなければならない。しかし父頼朝以来、
 源氏に忠誠を誓ってきた和田義盛は、もはやいない>
この時、実朝の脳裏に浮かんだのは、和歌によって繋がりを深めていた
朝廷の権威だった。


合点がいかぬとじゅんさいのヌメリ  山本昌乃


「和田の乱」から半年後、実朝のもとに朝廷からの勅命が届いた。
将軍の直轄領から「税を徴収する」というのである。
これに鎌倉武士たちは猛然と反発した。
もし将軍である実朝が、朝廷に税を納めることになれば、それは関東武
士が、朝廷から実力で奪い取った領地の支配権を、ふたたび朝廷に返上
することになりかねない事態となる。
 だが、この時、実朝は意外な行動にでる。
なんと朝廷の納税命令を受け入れたのである。
実朝の狙いは、朝廷との結びつきを強め、自らの官位を上げることだっ
た。源氏の名と将軍の権威を高め、北条氏などの有力武士団を押さえ込
むことが目的だったのである。


移ろいの季節に棒杭をたてる  高橋 蘭



「玉藻前草紙」 常在院蔵
京文化に憧れた実朝は、陰陽道など鎌倉に京風スタイルを取り入れた。


さらに、実朝と鎌倉武士たちとの亀裂を深める事件が起った。
下野国の長沼宗政が幕府に謀反を企てた者を討ち取り、その首を携え、
鎌倉にやってきた時のことである。
反乱を未然に防いだことで「恩賞をもらえる」と思っていた宗政に、
 「なぜ将軍の私が命じる前に勝手にこの者を討ったのか、生きたまま
 捕えれば、本当に謀反の罪があるか確かめることができたであろう。
 お前の粗忽な振る舞いこそ罪である」
と、実朝は激しく叱責した。
これに怒った宗政は、不満を吐いた。
「将軍は、和歌や蹴鞠ばかりを重んじて、武芸を廃されようとしている。
 こんなことでだれが将軍に忠節を尽くすというのか」と。


雨音を集めて耳は不眠症  笠嶋恵美子


「武功」に対し、恩賞を与えようとしなかった実朝に、武士たちの反感
が募っていく。そして決定的な出来事が起こった。
実朝が、和歌や学問の師として都から招いていた公家の源仲章を、幕府
政治の中枢に送り込んだ。
有力な武士たちを押さえるために実朝は、側近の公家を武家政権の中心
に置いたのである。
実朝は、仲章を登用したこのころから、盛んに朝廷に働きかけ、官位を
上げようとしていた。
朝廷と結びつくことで鎌倉幕府を全国政権とし、民のために理想の政治
を行おうとする実朝の夢があった。


助走用カプサイシンを三匙ほど  平井美智子


建保4年(1216)9月20日、実朝の許に側近の大江広元が訪れた。
広元は、官位を上げ続ける実朝に、武士たちが反発していることを告げ、
次のように諫言した。
「父君、頼朝様のように、すべての官位を朝廷に返上なさり、願わくば
 武家の棟梁、征夷大将軍に専心されることが肝要かと存じます」
実朝は応えた。
「お前の言うことはもっともである。しかし、自分は体が弱く世継ぎも
 いない。いずれ源氏の血は絶えるえあろう。自分にできることは高い
 官位を得て、源氏の名を高めることだけなのだ」


口封じされて噂のど真ん中  上田 仁



右大臣・源実朝

世の中は  常にもがもな  渚漕ぐ 海人の小舟の  綱手かなしも
(この社会がずっと普段通りであるといいなぁ。海人が小船の綱を引く、
 そんな普通の光景にも、心動かされるものだよ)


「官打」

建保6年(1218)12月2日、実朝に待ちに待った知らせが届いた。
朝廷が武家としてはじめて「右大臣に任ずる」というのである。
この時、実朝は、右大臣への昇進が、実朝の失脚を狙った朝廷の呪い
「官打」であることを知るよしもなかった。
<征夷大将軍として、武家の頂点にある自分が右大臣となり、朝廷を動
 かすことになれば、幕府の力は全国に及び、父・頼朝の名に恥じない
 将軍となれる>
実朝は希望を抱いた。


うまそうな奴だ溢れる人間味  松浦英夫


しかしこの知らせは、北条義時ら鎌倉武士たちに衝撃を与えた。
<実朝はついに朝廷に取り込まれ、幕府の朝廷支配からの独立を、
 無に帰そうとしている>
それは武家政権の崩壊を意味していた。
2ヵ月後の建保7年1月27日。
その夜、「右大臣就任」を祝賀するため、将軍・実朝は、鶴岡八幡宮に
参拝することになっていた。
夕刻、出発が近づくと側近・大江広元が実朝に注進した。
「今日なぜか私は、涙を止めることがっできません。これは不吉な前触
 れかもしれませぬ。どうか装束の下に、鎧をおつけになってください」


もしもって嫌い自分を信じたい  前中知栄


これに、公家の源仲章が反対した。
「右大臣が晴れの場で鎧をつけるなど、前例がない」
実朝は仲章に従い、鎧を身につけなかった。
そして出発の間際、実朝は一首の歌を詠んだ。

「出で去なば主なき宿と成りぬとも 軒端の梅よ春を忘るな」
(主の私がいなくなっても、庭の梅よ、春を忘れずに咲いておくれ)


覗きみる今どの辺り今何時  中野六助

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右向けば黒ヤギさん左向けば白ヤギさん  酒井かがり



           白 拍 子 図 (東京国立博物館蔵)


後鳥羽上皇「白拍子芸」がことのほか好きで、しばしば、
遊芸の宴を催した。 白拍子を母に持つ皇子も多かったという。
そして、上皇の寵愛を一身に受けた伊賀局亀菊を愛するあまり、
摂津国長江・倉橋の荘園を与えた。
ところが、この両荘の地頭が亀菊とトラブルを起こし、亀菊は上皇に泣
きついたのである。
怒った上皇は、鎌倉幕府にこの地頭を罷免するよう要求した。
幕府としては、創業以来の基本方針を崩すわけにいかないから、
当然、これを拒否する。上皇は幕府への反感をますます強め、
のちに勃発する「承久の乱」の一因となった。


B型で左ツムジで左利き  くんじろう



       『松崎天神縁起』 (山口県防府天満宮蔵)


「鎌倉殿の13人」 後鳥羽上皇と実朝


 頼朝のあとを受けて長男の頼家が鎌倉殿となった。
しかし、3か月もたたないうちに、頼家は裁判権を奪われ、
13人の有力御家人の合議による裁判とされた。
頼家は父のような独裁者となる途を阻まれたのである。
翌正治2年(1200)には梶原景時が殺された。
66人の御家人たちが、讒言魔として知られる梶原を頼家に糾弾し、
梶原は鎌倉を追われ、謀叛を企てて上洛の途中、駿河で討死をした。
(「讒言」の内容は、九条兼実の日記『玉葉』によると、
 「景時は御家人たちが頼家の弟の千幡を立て、頼家を討とうと
 企てているのを頼家に告げたのだ」とある)


目立ちたいおれには不向き黒子役  松浦英夫


鎌倉では、頼家派と千幡(のちの実朝)派が対立しており、頼家は、
景時を庇いきれず、みすみす忠臣を失ってしまったのである。
そして千幡派の中心が、実は、北条時政だった。
時政や政子が頼家を嫌ったのは、頼家の外家・比企氏の台頭を恐れたた
めである。
頼朝の乳母の養子依頼として重用された比企能員は、娘を頼家の妻とし、
その間に長男一幡が生まれ、頼朝時代の北条氏と同様に、鎌倉殿の外戚
の位置を占めようとしていた。

ついに建仁3年(1203)時政は、比企能員をはじめ比企氏を滅ぼし、
一幡を殺し、頼家を伊豆へ退け、翌年に殺害し、千幡を鎌倉殿に立てた。
時政は執権に就任し、ここに執権政治がスタートした。


この線は君がなんとかしなくっちゃ  宮井いずみ
 


後鳥羽上皇


一方、京都では源通親が権勢を振るっていた、が、しだいに後鳥羽上皇
の発言が強まり、建仁2年に通親が没すると、上皇が実権を握った。
その翌年、鎌倉では頼家と実朝の交代が行われ、その後の後鳥羽上皇―
実朝の公武関係は、後鳥羽の主導下に展開され、往年の後白河―頼朝の
それとは異なった相貌を示すに至る。
上皇は、通親時代に逼塞していた九条家を優遇するとともに、
公武融和を図って、親幕的な政策をとった。
(頼朝・九条兼実の間に一時は気まずい時期もあったが、九条家の動き
 は、概して親幕的であった)


物差しの目盛り大きくして暮らす  前岡由美子



後鳥羽上皇に最も長く仕えた坊門局の華麗に舞う姿
上皇の心が亀菊に行っても、坊門局の心は上皇の側にあったという。


幕府が「千幡擁立」を報告すると、後鳥羽上皇は、直ちにこれを承認、
征夷大将軍に任命して「実朝」の名を与えた。
上皇はその閨閥の中に、実朝を組み込もうと考えた。
元久元年(1204)実朝は、上皇の近臣・坊門信清の娘を妻として迎
えた。
(信清の姉・七条院・殖子は上皇の母であり、実朝夫人の姉・坊門局は、
 上皇
の女房である)

この婚姻で上皇と実朝は、義理の兄弟のようになり、実朝自身が、
院の近臣化したのである。
縁談を推進したのは、上皇の乳母として信任の厚い藤原兼子である。
彼女は坊門局を養女とし、坊門局が産んだ上皇の皇子・頼仁親王を養育
していた。
鎌倉側で兼子に応じたのは、北条時政の後妻・牧の方であった。

時政・牧の方夫妻の娘は、実朝夫人の兄弟にあたる坊門忠清に嫁して
 おり、北条氏は坊門家とも、繋がりを持っていた。 実朝擁立で、
 幕府の実権を握ったのは、どうやらこの夫妻のようだ)
 
 
  約束はあじさい色の気がするわ  岡谷 樹


このとき京都の警備、公武の連絡にあたる京都守護として上洛を命ぜら
れたのは、夫妻の娘婿・平賀朝雅である。
朝雅は、上皇によって右衛門佐に任ぜられ、上皇の「笠懸の師」となり、
近臣のように遇されていた。
夫妻は、このように後鳥羽上皇とまでつながりを持っていたが、
夫妻のこのような跳梁に反発する者もいた。
牧の方の継子にあたる政子・義時らである。
元久二年(1205)時政夫妻は、ついに平賀朝雅を将軍に立て、
実朝を殺そうと図った。
が、陰謀は失敗に終わる。
政子・義時によって時政らは、伊豆に流され、朝雅は京都で討たれ、
義時が執権となった。
幕政の実権は、ここに時政から政子・義時に移った。
(幕府の内紛も上皇と実朝との関係に影響をおよぼすことなく親密な
 関係は続いた)


雲梯の二段抜かしよ喫水線  蟹口和枝



     上皇が催す歌会に集う公家たち

「山は裂け海はあせなん世なりとも 君にふた心わがあらめやも」
                        (『金槐和歌集』)
実朝は、この歌で上皇に対する忠誠心を示した。
上皇と実朝とを親密ならしめた和歌である。
上皇は和歌に造詣深く、譲位後はさかんに歌合を主催し、
建仁元年(1201)には、和歌所を置いて『新古今和歌集』の撰定にも
着手し、4年後の元久2年に完成させている。
その後の『勅撰和歌集』は、治世の記念碑としての政治性を帯びたものと
なっている。

「公家政治」において理想の聖世と見られた「延喜の治への回帰」の意識
が、上皇の政治にも文学にも認められるように、上皇の願いであった。
(『新古今和歌集』に頼朝の和歌を採ったのも、幕府も傘下におさめよう
 とする上皇の政治思想によるものである)
 
 
四捨五入してまるい輪のなかにいる  下谷憲子
 

上皇の「公武融和政治」は、やがて障壁に直面する。
頼家幽閉という非常手段によって「執権政治」は成立したが、
それだけに執権政治は、
「故将軍御時拝領の地は、大罪を犯さずば召放つべからず(没収しない)」
という、御家人領保護の方針を強く打ち出すことによって、
御家人の支持を確保していた。

一方、後鳥羽上皇が、実朝を通じて伝える幕府への要求には、
「御家人の権益を否定」し、この「執権政治の基本原則と抵触する」
ものが、含まれていた。
「上皇が熊野詣でをするための課税の障害になる」とか「沿道の和泉・
紀伊の守護をやめさせろ」とか「備後国大田荘の地頭を停止せよ」とか
の類である。
西国の関東御領に「臨時に朝廷から課税」が行われた際、
大江広元が拒否を主張したのに対し、実朝は、
「課税の際にはあらかじめ通知してほしい」
と、緩やかな形に回答を改めさせている。


どっちやろちくわの穴の出入口  古崎徳造


このように実朝幕府官僚との意見の違いが、しばしばみられた。
が、しかし、太田荘の場合には、ついに実朝も、
「頼朝の時に任ぜられた地頭を咎なく改易することはできません」
として拒否したのである。
しだいに後鳥羽上皇は、実朝に対しても不満や焦燥を募らせていく。
実朝は上皇と執権政治との板挟みとなって苦しみ、建保4年(1216)
頃から、実朝の言動には、奇矯さが目立つようになる。
宋に渡ろうとして船を造るが失敗する。
子供が生まれないのに絶望して、官職欲が異常に高まる等である。
上皇との心の隔たりが大きくなり、実朝は和歌を殆ど作らなくなった。


ジャンプの高さはあなたとの親密度  市井美春
 


西園寺公経
 
建保5年、後鳥羽上皇実朝との亀裂を深める事件が起こる。
実朝の遠縁にあたる権大納言・西園寺公経は、上皇の覚えもよく大将の
官職を望んで上皇もこれを約束していた。
一方、藤原兼子の夫の大炊御門頼実も、養子の師経を大将にしようと運動
していた。
ところがある手違いから、公経は、上皇が約束を違えたものと誤解し、
「それなら私は出家でもしましょう。幸い実朝にゆかりがあるから、
 関東に下っても、なんとか生きて行けるでしょう」
と放言した。
これを聞いた上皇は、立腹して公経に謹慎を命じた。
ところが実朝は、これを知って強硬に兼子に抗議したため、
兼子のとりなしで、公経は出仕を許された、といういきさつがある。
これは小さな事件に過ぎないが、上皇と実朝の関係をいよいよ悪化させる
契機となった。


どうなるのだろう裏表紙のけむり  大島都嗣子


翌年政子は、熊野詣でに赴いた帰途、京都で藤原兼子と会った。
目的の一つは、険悪化した公武関係の修復であったが、
もっと重要なのは、実朝の後継者の問題である。
実朝が嗣子に恵まれないため、坊門局が産み、藤原兼子が養育している
後鳥羽上皇の皇子・頼仁親王を鎌倉に迎えようという話が進んだのである。

ところが、翌承久元年(1219)に、このような話し合いを反故にする
大事件が起きた。
「実朝暗殺」である。
 
 
しっかりと覗いたつもり曲がり角  津田照子

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黒ばかり減った戦争のお絵かき  下谷憲子
 
 
 
          頼朝の前に居並ぶ御家人たち
正面頼朝から段差下左に大江広元 右に北条時政、和田義盛、畠山重忠
 
 
鎌倉本流の源実朝が、承久元年(1219)に死亡した時には「鎌倉殿
の13人」の鎌倉幕府に残るメンバーは三善康信・北条義時・大江広元
の3人だけになっていた。実際のところ、13人の合議制は、成立して、
翌年には瓦解し始まり、「頼家の独裁」「比企氏の乱」「牧の方の乱」
で崩壊、そして「和田義盛の乱」で消滅した。


生成りのあれは昨日の紙芝居  高橋 蘭


「鎌倉殿の13人の男たちの蜉蝣」



  梶原景時

 
梶原景時
優れた行政官だが讒言で敵を増やし、駿河への帰路、仲間の御家人らと
清見関にて戦闘になり、3人の息子たちが討死すると、梶原景時は西奈
にて自害。正治2年(1200)2月、60歳だった。
三浦義澄
頼朝の死去の翌年、梶原景時「鎌倉追放」に加担し、梶原氏の終末を
見収めるように、その3日後に病没。正治2年2月、74歳。
安達盛長
頼朝の死後、出家して蓮西と号するも「梶原景時排斥」を主導するなど、
存在感を保った。頼朝の死の翌年、正治2年6月に死去。66歳。
比企能員
比企氏にとって北条氏は脅威でしかなかった。能員頼家と謀り、時政
の追討を画策、これを察知した時政によって騙し討ちにされ一家は全滅。
建仁3年10月(1203)のこと。頼家は伊豆へ流された。
頼家の子・善哉は出家し、公暁の号で八幡宮に入った。


殺陣師から習うこの世の倒れ方  清水すみれ
 

 和田義盛

足立遠元
院の権力と結ぶ足立遠元の人脈や素養は、幕府の対朝廷外交に大きな力
を発揮したが、承元元年(1207)3月3日の「闘鶏会」にまつわる
『吾妻鏡』の記事を最後に、歴史の資料からその名を消している。
中原親能(ちかよし)
頼朝の次女の死後、出家(寂忍)したが、その後も、京に常駐し幕府の
スポークスマンとして陰ながら活躍をつづけた。承元2年(1209)
京都で卒去。66歳。
和田義盛
幕府で最も傑出した武将と称えられた侍所の別当・義盛は、権謀術数を
駆使する北条義時の挑発に乗せられ、建保元年(1213)「和田合戦」
を起こした。その勝負は2日間で決し,義盛そして和田氏は滅亡した。
66歳だった。
八田知家
比企氏に通じ北条時政と対立。頼家により嫌疑をかけられ、阿野全成
誅殺したのも時政の次女・阿波局を妻としていたからか。和田義盛滅亡
の5年後の建保6年(1218)に死去。76歳。


媚びたりしない白い紫陽花  みつ木もも花
 
 
 比企能員

三善康信
「承久の乱」で、大江広元とともに即時出兵を唱えて勝利に貢献、その
直後の承久3年(1221)8月に死去した。82歳。
二階堂行政
3代将軍・実朝の死を悼み出家するも、訴訟や政務を審議する「評定衆」
の一人となり、貞永元年(1232)に「御成敗式目」の制定に参加、
暦仁元年(1238)まで生きた。死去年齢不明。
北条時政
鎌倉幕府初代執権。元久2年(1205)「牧氏の変」により、娘政子
によって牧の方とともに伊豆島へ配流・隠遁生活を強いられ、建保3年
(1215)腫物で死去するまで伊豆の島で暮らした。78歳。
(牧の方は時政の死後、京都へ戻り、15年近く暮らしたという)


キミの名はらっきょだったのか  そうか  高野末次
 
 
  北条義時
元仁元年(1224)6月死去。
大江広元
時に話をはぐらかし、態度を曖昧にすることで政争から巧みに身を躱し、
宿老として常に幕府の中心に位置し、政所を仕切った。
嘉禄元年(1225)6月死去。
北条政子
政子は13人の合議制には入っていないが、ある時は表で、又ある時は
陰で義時を支援し、鎌倉という船の舵をとった。
嘉禄元年(1225)7月死去。
義時・広元・政子の3人は、仲良く自らの役目を終えた様に世を去った。


黄昏色のドアに待ったをかけておく  前岡由美子
 


        大磯ー和田義盛と朝比奈義秀


「鎌倉殿の13人」 和田義盛

 
和田義盛は34歳で「頼朝旗揚げ」に三浦一族として参戦し、その後の
戦さにも加わっている。
その後、鎌倉に本拠を定め、軍事政権として内乱の過程で成立した鎌倉
幕府において、頼朝の御家人として、主従関係で結び付いていた。
治承4年(1180)のことであった。
すると幕府に、御家人たちを統制する機関が必要になった。
それが「侍所」であった。
また「別当」は、最も軍略に優れ武勇の士である者が選ばれた。
その初代長官から実朝時代まで3代に渡って、別当として君臨したのが
和田義盛である。


毎日が等身大の福笑い  北山まみどり


合戦に当たっての義盛の武技は、弓矢に優れていたという。
頼朝が弓馬に優れ、忠節なる御家人22人を選出した際にも、義盛は選
ばれているほどである。まさに義盛は、頼朝に忠実で奉仕し功を重ねた。
さらに頼朝の耳目の役割をも果たした。
頼朝が死亡して、頼家が将軍になると、宿老13人の合議制が生まれた。
この13人に義盛は、当然、名を連ねた。
梶原景時「謀叛事件」には、積極的に動き、景時失脚後、義盛はその
影響力を強めた。


今日もまた一番星をさがしてる  奥山節子


やがて、北条氏の権力の前に立ち塞がる御家人は、比企能員和田義盛
など数人に過ぎなくなった。「比企氏討伐」に関しては義盛は北条時政・
義時父子に加担して「政敵・比企氏」の排除を計った。
だが、北条氏の権力が大きくなり、独裁制を強化するようになると、
北条と和田の対立は避けられなくなった。
この後、「畠山重忠追討」に続く、時政と牧の方による娘婿・平賀朝雅
を将軍に擁立しようとした「牧氏陰謀事件」によって時政が失脚すると
その後の北条氏の権力は、義時に移った。


何事も無い顔をして桜咲く  新家完司
 


        義盛を攻める義時の兵士


「和田合戦」


建保元年(1213)、鎌倉殿の3代・実朝の10年目。
和田義盛は、鎌倉幕府創立以来の功臣であり、御家人の最長老であり、
しかも、御家人に頂点に立つ侍所・別当であり続けた。
一方、2代執権・北条義時は、「権力をより強固なものにするため」に
大きな力を持っている義盛の力を削ぐことを計画した。
義時がきっかけとしたのは、
<実朝を将軍職から引きずり下ろし、代わりに、頼家の遺児を擁立して
 北条氏を倒す>
とする信濃の武士・泉親衡(ちかひら)が謀ったクーデター計画だった。
この泉親衡のクーデターに、和田氏一族が加担していることが発覚した。


お疲れのようだ あちこちから煙  竹内ゆみこ


義盛の甥・和田胤長が捕縛されたまま、義時の被官・金窪行親に連行さ
れて処罰された。和田一族に下げ渡されるはずの、胤長の屋敷地も没収
してしまった。
これは義時が、この一連の事態を利用し、もともと短慮な性格の義盛を
挑発したものだった。
この義時の度重なる挑発に、義盛はぶち切れてしまった。
まんまと挑発に乗ってしまった義盛は、同族の三浦一族の三浦義村を味
方に引き入れて、「北条氏打倒」へ挙兵、将軍御所や義時邸を襲撃した。
「和田合戦」である。


ふーっと息吐いて変身するナイフ  宮井いずみ


ところが、一度は同心した三浦義村の裏切り、また、唯一の頼りにした
3千騎を引連れて、駆け付ける手筈だった横山党の横山時兼が、事前に
予知していた義時側に足止めをくらい、義盛は孤立状態となった。
さらに土尾・山内・土肥・愛甲・逸見氏などの御家人が和田側にいたが
義時の狡猾な戦略に封鎖されていた。そして5月2日、
「君側(くんそく)の奸を討つ」として兵を挙げた義盛軍は、
4日の明け方には壊滅し、和田一族は滅亡した。義盛67歳だった。
(和田義盛が死亡したことで義時が侍所・別当を兼任、北条の執権政治
体制が確立した)


不都合はボタン一つで はい消去  津田照子
 


 北条義時


【付録】 その後、

建保元年 (1213)
1月、実朝、正二位に、義時、正五位になる。
5月、和田合戦。義時、侍所別当4兼任する。
8月、義時、新造御所に移徒の実朝に随従する。
建保4年 (1216)
1月、義時従4位、広元陸奥守となる。
4月、将軍家政所別当9人制となる。
6月、実朝が権中納言となる。陳和卿が実朝に拝謁する。
9月、義時・広元による実朝への諫言・「官職推挙懇願」がされる。
11月、実朝、権中納言の直衣始を行う。
   実朝、唐船建造を命令する。義時これを諫言する。
建保5年 (1217)
1月、義時、右京権大夫に。実朝の唐船、着水失敗に終わる。
6月、公暁が鎌倉に入る。
10月、公暁が鶴岡八幡宮別当となる。
11月、広元が陸奥守を辞任する。
12月、義時が陸奥守を兼任する。
建保6年 (1218)
1月、実朝、権大納言となる。
3月、実朝、左近衛大将となる。
4月、政子、従3位となる。
7月、泰時、侍所別当となる。
10月、実朝、内大臣となる。
12月、実朝、右大臣となる。
この翌年、鎌倉に大事件が勃発する。


さて今日も今日とて並のメニューです  山本昌乃

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アバターの黒いタイツに電線が  河村啓子



       北条政子愛用の手箱の硯箱  (複製)(縦35×横42×高さ33㎝)

手箱は後白河法皇から頼朝に下賜され、政子が主に化粧道具入れとして
使用していたとされる。
明治7年、ウィーン万国博に出品の帰途、伊豆半島沖で船が沈没。
その時、手箱は海の中へ消失した。


ついに建仁3年(1203)9月2日。
2代将軍・頼家の妻・つつじの実家である比企氏と、政子の実家である
北条氏との間で戦闘が起った。
この戦いで、比企氏は北条氏に滅ぼされたが、苦悩した政子はまもなく
一つの決断をした。
<頼家がこのまま将軍を続けていると、幕府の混乱が収まらない>
政子は頼家を出家させることにした。
同年9月末、頼家は、伊豆の修禅寺に幽閉された。
孤独と寂寥に耐えかねた頼家は、
「深い山の中で、何もすることがありません。せめて側に仕える者だけ
 でもよこしてください」
と、鎌倉の政子に訴えた。
しかし、政子はその訴えを許さなかった。
以後、頼家が使いを寄こすことすら禁じた。


廃線は途切れ下弦の月残る  藤本鈴菜


翌元久元年(1204)7月18日。
頼家は幽閉先の修禅寺で殺害された。享年23歳。
その時政子は、48歳。
その肩には、「混乱した幕府の立て直しをはかる」という重い荷物が
課せられることになった。


言い訳は出来ない七月の指紋  山本早苗


「鎌倉殿の13人」 政子と実朝


          
      北条政子            源頼朝

建仁3年10月8日、頼家の跡を継いで二男の実朝が三代将軍になった。
その時、実朝は、まだ12歳。
幼いながらも父・頼朝を彷彿させる心配りの闊達な人柄で、周囲にその
将来を期待させた。
だが12歳で、実際に政務を司るわけもなく、政子を中心に北条時政
大江広元が政所別当という地位で、政治の代行をすることとした。
政子が、政治の表舞台に立つようになったことを示す記述がある。
『尼御台所御計也』
尼御台所とは、政子のことである。
つまり「政子の裁量によって、武士たちに土地が与えられた」と記され
ているものである。
慈円『愚管抄』、「女人入眼の日本国」すなわち
「いまや日本は政子という女性の力で治められている」
と、記したのもこの頃である。


これからを口ぐせにするアホウドリ  富山やよい


ところが、肝腎の三代将軍の実朝は、母・政子の活躍と裏腹に、次第に
政治への関心が薄れていく。
和歌に熱中し、実朝は、朝廷の実力者で優れた歌人でもある後鳥羽上皇
心酔していったのである。
そんな実朝が、18歳の時に詠んだ和歌が、都の高名な歌人・藤原定家
認められ、後鳥羽上皇の前でも、披露されたのである。
実朝は歌人としても、注目を集めるようになった。


歌詠んであとは野となり酒となる  中村幸彦


「京の実朝邸」
藤原定家43歳が、実朝の和歌の指導に来ている。
定家「仙洞50首の御製でございますね。
   下の句のーやや影さむし よもぎふの月 ー
   ここが味わい深くてようございます」
実朝「しかし、これも入れると私の歌だけで、30首を超すね」
定家「お気になさいますな」
そこへ卿の局・藤原兼子50歳がくる。
兼子「また古今和歌集のご相談ですか、毎日、ご熱心なこと」
実朝「そなたもいい歌を詠んだら、採用してやるぞ」
兼子「とんでもない。私の腰折れなど…」
実朝「だろうな…」


苦労性もしもばかりを考えて  荒井加寿


実朝「で、何の用だ?」
兼子「鎌倉から将軍の正室に公卿の姫君を戴きたいと申して参りました」
定家「私には…適当な娘はおりませんが」
兼子「鎌倉が欲しがっているのは、坊門殿の姫君です」
実朝「前大納言は私の叔父御だ、その娘といえば私の従兄弟だよ」
兼子「だからです!坊門殿には5人も姫君がいらっしゃいますし、
   しかも上の姫は、上皇様ご寵愛のその御方。
   その妹君が鎌倉将軍の正室となれば…」
定家「上皇様と将軍は、ご姻戚になられる…!?」
兼子「京と鎌倉はよき関係になりましょう…」
実朝「尼御前だな言い出したのは」
兼子「私も同じ考えです」


たらればの話はすぐに盛り上がる  津田照子



             実朝の使用した硯箱
和歌や政所下文を書くときにつかったのだろう。


「話を戻す」
そしてある時、実朝は運命を変える一冊の書に出会った。
後鳥羽上皇が編纂を命じた『新古今和歌集』である。
その序文には、
「歌は世を治め、民を和らぐる道とせり」 とある。
実朝はこれをきっかけに、民のために政所を行った朝廷政治を学んだ。
そしてそれを将軍としての理想とするようになっていった。


網目から月燦燦とこぼれだす  市井美春



           「政所下文」 
冒頭の文字は将軍・実朝のものである。


「政所下文」とは、実朝が、幕府の命令を武士たちに発する際に出した、
公式文書のことで、末尾には、北条義時をはじめ、有力な武士たちの署名
が並んでいる。
このことは、実朝が合議による政治を行っていたことを示している。
つまりは実朝は、「最終的に自らの手で政治決定を行っていた」
と、いうことになる。
実朝は、政治に積極的に取り組み、武士を束ねようとした。
実際この頃、実朝は、盗賊が増えて民衆が困っていると聞くと、
これを厳しく取り締まるよう通達を全国に発し、 また、
壊れた橋が長く捨て置かれていると聞くと、これもすぐに直させた。
実朝は、和歌を通じて知った古の「朝廷政治を理想」として実践しよう
としたのである。


渋柿と呼ばれてやっと今日  井上一筒


しかし、将軍実朝が朝廷にならった政治を行い始めたことが、
鎌倉の武士たちに、次第に、不信の念を抱かせるようになっていった。
朝廷や公家はもともと、土地の支配権をめぐり、武士と利害の対立する
勢力だった。
実朝の父・頼朝はあるとき、弟・義経が平家を滅ぼした功績によって、
朝廷から官位を賜ると、これに激怒し、義経を死に追いやっている。
官位を受けた義経は、
「朝廷に取り込まれて、武家政権を危うくする裏切り者だ」
としたのである。
ー今、三代将軍・実朝が、和歌を通じて朝廷と結びつき、政所を行おう
としている。このことは鎌倉の武士たち、特に執権・北条義時にとって、
武家政治の危機と映りはじめていた。


助走用カプサイシンを三匙ほど  平井美智子



鎌倉時代の女たち
その後ろでは、男がややこをあやしている。


「政子は悪女ではなかった」

当時の武士階級の女性は、夫が死んだあと、家の中で非常に大きな権限
を握った。つまり、夫亡きあと、後家は家父長権を代行するのを認めら
れており、親子関係でいえば、親権が非常に強かった。
たとえば、母親と息子が違った意見を出したとすると、当時の人たちは
母親の意見に賛同した。
政子の頼家に対する諫めの言葉にしても、常識的でしかも冷静なものだ
から、御家人たちの指示を得られた。
息子だからといって、偏愛をしなかった。


さみどりの対角線にある戦さ  合田瑠美子


頼家が側近だけを大切にしたり、一所懸命の武士たちの土地に対して、
真剣に考えて取扱わなかったりしたのを見、実朝が、後鳥羽上皇と協調
路線を取ろうとするのを見、また聞くにつけ、政子は、生まれながらの
東国の女性だから、息子たちがだんだん違った方向へ行っているという
感は拭えなかっただろう。


親バカのどこかに支障ありますか  清水すみれ

 
新しい社会の建設を亡き夫・頼朝の路線に沿ってすすめていくか、
自分の子どもをとるか、二者択一を迫られたとしたら、
政子は躊躇なく、新しい社会の建設という方向を選んだ。
その決定が多くの御家人たちの支持を得て、鎌倉を北条を育てていった。
とはいえ、根の優しい政子は、期待した息子たちが、
期待どおりにいってくれない、というもどかしさを胸に抑え込んで、
「母の情をおろそかにした」というわけではない。


有刺鉄線越えるかキミと抱き合うか  酒井かがり
 
 
「尼御台所の心配事ー兼子が持ってきた結婚話はうまくいったが…」

尼御台所であり、母である政子にとって、一つの心配事があった。
「いつまで経っても実朝に跡継ぎが生れず、幕府の後継者が定まらない」
ことである。
建保6年(1218)2月4日、政子63歳は、京の都を訪れた。
実朝に子どもが恵まれないので、朝廷にかけあって、皇族の一人を跡継ぎ
に迎えるためであった。皇族を将軍に迎えれば、
<朝廷と幕府のもっとうまくいくようになるに違いない>
と、いう思いもあった。
この時、政子は、朝廷から従三位という高い位を授けられ、後鳥羽上皇
会うことも許された。しかし、政子は、
「辺鄙の老尼、竜眼に咫尺(しせき)するもその益なし」
と、答えて辞退した。
(片田舎の老いた尼が上皇様にお会いしても何もよいことはございません)


お疲れのようだ あちこちから煙  竹内ゆみこ

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圏外の方へまがっていくキュウリ  みつ木もも花



            鎌 倉 武 士 の 館


建仁3年(1202)~元久2年(1205)の3年間鎌倉が揺れた。
揺れは、頼家が征夷大将軍になった建仁3年の5月、頼朝の弟で叔父に
あたる阿野全成が謀反の疑いで討たれた事にはじまった。
7月には、頼家が重病に一時重態となる。
8月、その病いにより頼家は、若狭局との間にもうけた一幡と弟千幡
権限を委譲する。
9月、頼家の命を受け北条氏打倒を企てた比企能員が、誅殺される。
(この能員誅殺の知らせを聞いた比企一族は、一幡を擁して、小御所に
 立てこもり抵抗を試みたが、圧倒的な軍勢の前に脆くも破れ、
 一族のほとんどは若宮一幡と共に自決した)
 
 
どうなるのだろう裏表紙のけむり  大島都嗣子


頼家は武士たちの領地を勝手に奪い、他の者に与えたり、土地をめぐる
武士同士の争いを、不正に裁くという行いが絶えなかった。
ー領地は武士の命。
土地を疎かにする者は、武家の棟梁にふさわしくない。
「頼家追放事件」は、そうした武士たちの怒りが爆発したクーデターだ
ったのである。
頼家追放から8日後の9月15日、第三代将軍が誕生した。
頼朝の血を引く12歳の実朝は、武士たちの結束の象徴として三代将軍
に据えられたのである。
その29日、病の回復した頼家だが、伊豆修善寺に流され幽閉される。


こだわりを捨ててふぬけになったトゲ  上西延子



    政所別当・大江広元


翌月8日、3代将軍・実朝の元服式が執り行われた。
政子にとって、頼朝以来の偉業を継続することのほうが大切であった。
征夷大将軍になった実時は、まだ12歳。当然、実際に政務を司るわけ
もなく、後見人として祖父である北条時政がその役割を得た。
それも大江広元と共に政所別当という地位で堂々と行えるのである。
実朝の元服の儀では時政、広元それぞれの嫡男である義時、親広が雑具
持参の役を受けもっている。
この特別な役割を得たことは、北条・大江両氏の権力の象徴ともいえた。


穏やかな時間に灯す青ランプ  中野六助


しかし、元久2年7月、ふたたび事件が起った。
時政が刺客を放ち、伊豆に幽閉されていた頼家を暗殺したのである。
さらに時政は、こともあろうに、自分の館に住まわせている実の孫・
実朝の命を狙いはじめた。
幼い将軍・実朝を補佐するはずの時政の乱心。
その裏には、時政の若い妻・牧の方の思惑があった。
牧の方は溺愛する娘婿を将軍に据えるよう、時政を唆したのである。
それには源氏直系の血を引く二代将軍・頼家、三代将軍・実朝を亡き
者にする必要があった。


菜箸を削って削って爪楊枝  笠嶋恵美子


密告によってこれを知った実朝の母・政子は愕然とした。
<なんということを>
父時政は我が子・頼家を殺し、その上実朝まで手にかけようとしている。
この源氏への裏切りを、武士たちが許すはずもない。
政子はすぐに行動を起こした。
同年7月19日、政子は父時政の館から実朝を救い出し、
弟・義時の館に匿い住まわせた。
この知らせを聞くと、鎌倉中の武士が実朝のいる館に結集し、
源氏への忠誠を示した。
一方、執権でありながら私利私欲に走り、源氏を裏切ろうとした時政
従う者はなかった。
観念し、出家を余儀なくされた時政は、妻・牧の方とともに伊豆に追放
される。
祖父・時政に命を狙われ、その時政の娘である政子に命を救われた実朝
は、骨肉相争う修羅場の中から、将軍として歩み始めたのである。
(これが建仁元久の鎌倉が揺れた事変である)

 
黄昏色のドアに待ったをかけておく  前岡由美子



       鎌倉の棟梁となった北条義時


「鎌倉殿の13人」 いよいよ義時の時代へ


こうなれば、いよいよ義時「ナンバー1」というわけである、
が…ふしぎなことに、彼はわざとその座に顔をそむけた。
父に代って、執権になったのだからナンバー1であるはずなのに…である。
義時は、姉の政子をその座に据えた。
父親は、後妻に甘い顔を見せたりするから油断がならないが、
政子は母を同じくする姉だし、三十数年、それこそ緊密な連帯感をもって
行動してきた。


花まるを大きく描いて自画自賛  津田照子


以来、政子は幼い将軍の母親として、幕政に隠然たる発言力を持つよう
になる。世間には政子像が誤り伝えられており、最初から権力を振るっ
たように思われがちだが、政子の公的活動はむしろこれからなのである。
いわば政子は、義時によって作られた、幕府のシンボルなのである。
ではなぜ義時は、ナンバー1になることを避けたか。
「ほんとうに権力を弄ぶのには、ナンバー2でいるのにかぎる」
43年の人生を経てきた男の、これが結論だった。
そしてもう一つ、
「親父は本気で、俺の代りに朝雅を推すつもりかもしれぬ」
との考え方も脳裡にあった。
<朝雅が鎌倉の棟梁に…なんてことがあってはならない> のだ。


影武者に日光浴をさせている  月波余生

 
朝雅の家、平賀氏はたしかに源氏の血はひいているが、頼朝一族とは
格が違う。父親の義信は、とっくに頼朝に臣下の礼をとっているし、
まかりまちがっても将軍になれる毛並みではない。
ただ、「将軍の座を狙った」といえば誅殺しやすいから、これを口実に
したにすぎないのだ。
が、執権の座なれば話は別だ。
時政が先妻の息子・義時をさしおいて後妻の娘婿を後継者にする可能性
は大いにある。
それを見ぬいた義時は、本命は朝雅打倒にありながら、
その前段階として、父を引退させ、朝雅の基盤にゆさぶりをかけた。
<謀叛が事実だったかどうか> などは問題外だ。
義時は、牧の方畠山父子を陥れた手をそっくり使い、
平賀朝雅を誅殺してしまったのである。


雲梯の二段抜かしよ喫水線  蟹口和枝
 




「牧の方が畠山父子を陥れた手とは」


元久元年10月14日に、3代将軍源実朝の妻となる坊門信清の息女を
迎えるため、北条政範・結城朝光・千葉常秀・畠山重保らを上洛させ、
牧の方は鎌倉で嫁取りの総指揮官として、腕をふるっていた。
牧の方の娘婿である平賀朝雅は、京都に駐在し鎌倉側の窓口にある。
「都の姫君をお迎えするのですからね、こちらからも、目鼻立ちの整っ
 た若武者をさしむけねば…ごつい田舎者ばかり行ったのでは、笑いも
 のにされます」
という意向で選ばれた若者の中には、もちろん、牧の方が時政との間に
もうけた自慢の息子16歳の政範も入っていた。
政範と朝雅を都で会わせ、<姫君の側近第一号>にしようという魂胆が
見えすいている。


親バカのどこかに支障ありますか  清水すみれ


ところが、はりきって京都へ向った政範が、なんと京で病に侵され、
あっけなく死んでしまう。
涙をこらえて嫁迎えだけは、順調に済ませたものの、牧の方の胸ははれ
ない。怒りの矛先に彼女は、はけ口を探した。
狙われたのは、政範とともに嫁迎えに行った畠山重忠の嫡子・重保である。
この畠山一族と朝雅とは、以前から仲がよくなかった。
都についた重保は、些細な事から朝雅と喧嘩し、あわや大乱闘という
ところまでいってしまった。
その時は周囲の人々に止められて無事におさまったものの、
この噂はたちまち鎌倉に伝えられた。


てのひらの川が氾濫しています  通利一遍


「あの重保めが、婿の朝雅と揉めている…?」
<重保め、政範が死んだのもきっとあいつのせいに違いない>
牧の方は怒りを増幅させ、遂に夫の時政をそそのかし、重保に謀叛の
汚名を着せて虐殺してしまうことを計画する。
――そして、<この際親父の重忠もやっつけてしまったら……>
牧の方はさらに時政を煽りたてた。


この線は君がなんとかしなくっちゃ  宮井いずみ



        馬上の北条時房(時連)


時政としても、強大な畠山がいなくなることは望むところである。
「じゃ、重忠親子が謀叛を企んだということにするか」
そこで時政は、義時とその弟・時房に、秘密の計画をうちあけた。
 時政・牧の方の謀略にはまり、畠山重忠・重保父子は無抵抗のまま
義時・時房に討たれる。元久2年6月22日のことであった。
 
 
移ろいの季節に棒杭をたてる  高橋 蘭

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